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CLASSICA DISC WOW!


[LD]歌手語れり。やっぱ思い入れってのはあるもんだ

 「マイ・フェイバリット・オペラ」と名付けられたLDシリーズ、歌手が自分とゆかりのある劇場で、特別に思い入れのある作品について語るって内容なんだけど、これがなかなか。1巻がバーバラ・ヘンドリクスのドニゼッティ/「ドン・パスクワーレ」(エクサンプロヴァンス音楽祭)、2巻がライモンディのモーツァルト/「ドン・ジョヴァンニ」(ボローニャ)、3巻がリッチャレッリのベッリーニ/「カプレーティ家とモンテッキ家」(フェニーチェ。この前焼けてしまった)、4巻がアルフレード・クラウスのマスネ/「ウェルテル」(ポルトガルのサン・カルロ)。(以上1,2が2/25、3,4が3/25)

 で、これがただ歌手の語りと舞台のハイライトが映像になっただけ、なんていう芸のない映像じゃなくて、いろんな段階でのリハーサルの映像、裏方の様子などなど「オペラはいかにして作られるか」ってのも描かれているのが大吉。ライモンディの巻では指揮者のシャイーと歌手陣との合わせのシーンがあるんだけど、いやー、若い指揮者は大物歌手と稽古するには気を遣いますなってのを実感。クラウスの「ウェルテル」でおもしろかったのは、プロンプター・ボックス(プロンプターってのは、お客からは見えないところから歌手に節ごとに出だしの言葉を与える人です、念のため)の中の映像があって、なんとそのおっさんが歌詞を呟きながら、腕を振ってバリバリに指揮をしているではないですか。ディープだ。なんて具合にそれぞれオマケの部分の楽しみが大きい。街並みの映像もあるんだけど、どこもゴミゴミした大都会とは違って、ストレートに美しい。

 ま、もちろん主役は歌手。やたらとマジメなヘンドリクス、教えだしたら止まらなそうなライモンディ(いい意味で俗)、カメラ視線が気になる自意識過剰気味かつ自己耽溺なクラウス。キャラクターがなんとも滲み出てるのがおかしい。個人的にオモシロイ順を挙げると、クラウス、ライモンディ、ヘンドリクス、リッチャレッリ。当然贔屓の歌手に走るのが正解だけど、オペラってどんなものなんだって興味から見てもいいっすよ。 (96/02/28)

「マイ・フェイバリット・オペラ」1〜4 パイオニアLDC PILC1191〜4  各5500円(約1時間)


[CD]老け顔がナニである。ピーター・ゼルキンの見た現代

 小沢健二が最初は「あの小澤征爾の甥」と言われていたのに(たぶん)今じゃ小澤征爾が「あの小沢健二の叔父」と形容されるようになったように(ってホントかよ)、ピーター・ゼルキンも今や「あのルドルフ・ゼルキンの息子」と言われる必要もなくなった。で、久々にメジャー・レーベルに復帰、新録音登場で、「イン・リアル・タイム」と名付けられた現代曲の1枚を。60年代にヒッピー・スタイルで髭をはやし髪を束ねたピーターも、今やジャケットのごとく風貌はフツーのオッサンである。

 並べられた作品は、P・リーバーソンを中心に、ナッセン、武満、ベリオ、ゲール(表題作)等。ピーター・ゼルキンのために書かれた作品で固められている。無調で書かれ、数理的な仕掛けがあったり古い音楽の形(変奏曲とか前奏曲とかパッサカリアとか)を借りたりして、構成に強まって意味付けを求められる20世紀「現代音楽」のメインストリーム。つまり、風貌は一変していても、音楽の価値観はインドを放浪していた60年代と変わらず一貫しているわけ。ということで「現代音楽」(カギ括弧付きの)にある程度親しんでいる人だったら、安心して聴ける緊張感高まり系かつ集中のピアニズムなり。でも、待てよ、これって「イン・リアルタイム」って言えるのか? 作品の作曲年代は新しいけど、同時代性ぢゃマイケル・ナイマンとか吹き飛ばせないぞ。じゃあ、「リアルタイム」でなければ、これは何だ。

 答えは明快。100年古まれば「古典」だけど、ン十年前なら、ずばり「懐メロ」。そうか、だからこんなに心地いいのか、と勝手に納得。 (96/02/14)

「イン・リアル・タイム」 P・ゼルキン(p)/ BMGビクター(RCA)BVCC725


[CD]今、時代はファリャ(大ウソ)

 孤高の完全主義者ファリャの音楽を3枚セットにしてくれたリーズナブルなCDを見つけた。Harmonia Mundi Franceより従来から出ていたポンス指揮リウレ室内管のシリーズをまとめたもの。なんと言っても目玉は「恋は魔術師」(学校教育用の教材なんかにされちゃってホント不幸な曲)の初版世界初録音。オーケストラではなく十数名の室内楽編成ってことで、イントロダクションのトランペットの響きも超鋭く浮かび上がって目鱗。他には、ドン・キホーテを題材に取りつつも現実と虚構の境界線が崩れていくというP・K・ディックもびっくりの(ちょっとウソ)劇中劇「ペドロ親方の人形芝居」、擬古バロック調のチェンバロ協奏曲、ロス・アンヘルスのソプラノで「スペインの7つの歌」他、まさに楽しむべきオモチャ箱。

 スペイン音楽って括りがあるのはもちろんだけど、ラヴェルやストラヴィンスキーが好きって人にも強まってお薦め。ファリャはアンダルシアの作曲家だけど、「ペドロ親方」を委嘱するためにファリャを訪れたパトロネスであるポリニャック公爵夫人は、同時にドビュッシー、ラヴェル、サティ、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキーらを援助した人でもあるってことで、なんとなくラインが浮き彫り。

"MANUEL DE FALLA" / Josep Pons&Orquestra de Cambra Teatre Lliure / Harmonia Mundi France 290820.22


[CD]箱庭宇宙の悦楽と嘆息。ピリスのバッハ

 バッハのパルティータ第1番、イギリス組曲第3番、フランス組曲第2番と来たら、曲的にはピアノ学習してるお子様とか学生さんなんかにはポピュラーめ。パルティータの1番なんてピアノピースでも出ております。でも、音楽的には大人向けなわけで、○○ピアノ教室の発表会系演奏会なんかでやられるとのっぺりした悲惨な音楽になりがちってヤツですね。

 で、そこに大人の国、宿命論の国ポルトガルからマリア・ジョアン・ピリスが登場。エラート時代の録音からいくつか聴いてはいるものの今ひとつ苦手系のピアニストながら、今回その巧さに衝撃かつ反省の降伏宣言。「一本調子」の逆の意味の言葉って何だっけか、とにかく小さなフレーズひとつひとつが歌いまくり、あっ、そうその「歌」ってやつでしょーか、これは。お稽古ごとピアニズムの世界で一番欠けがちなものかも。とりあえずピリスのバッハがどんなものか手っ取り早く聴くにはパルティータとイギリス組曲の各々の「サラバンド」がおススめ。耽美ながらも昔の人がやってた気持ち悪いロマンティシズムとは全然違うのではないかと。パルティータのジーグみたいにパキパキと調子いい音楽弾いても、なお熟した感じがするところが感動。グールドにあるのが孤高の天才だけが持つ永遠の新鮮さとすれば、ここにあるのは永年の時の堆積物からのみ生まれる自然な息づかいなんじゃないでしょうかと胡散臭いことを言いつつおしまい。

J.S.Bach: Partita No.1, English Suite No.3, French Suite No.2 / Mario Joao Pires / Deutsche Grammophon 447 894-2 (国内はポリドール)


[CD]凝るタイプと見たり。ツァハリアスのスカルラッティ

 スカルラッティのソナタ集となると、チェンバロでの演奏に比べ最近はピアノ派はやや分が悪いかも。それにピアノでとなると、ホロヴィッツの呪縛が、ってなことでなかなか手が出ないところに、クリスツィアン・ツァハリアスのソナタ集第2巻。第1巻は2枚組ということでハズレの恐さもあって手が出なかったが、今回は1枚のみ、さっそくゲット。で、これが期待以上にカッコいい。軽くてかなり硬質な音で、歯切れ良く弾いてます。スカルラッティのソナタにギターやカスタネットの響きをピアノによって見出したとは英文解説の弁。

 ツァハリアスという人は、かつてモーツァルトの戴冠式協奏曲のカデンツァで「魔笛」との近似性を示唆するために、小さな鐘を加えるなど、歴史的な正当性よりも自分のアイディアのおもしろさを優先するというピアニスト。現代のグランドピアノを弾く以上、スカルラッティやらモーツァルトでいくら作曲家本来の意図云々を言っても、躍進するオリジナル楽器系の演奏を前にしては説得力弱まりまくり。だったら知的エンタテインメントなりパリパリに乾いた爽快感なりを提供してくれるほうが吉。ということで絶賛のスカルラッティ。DGのポゴレリッチよりずっとおもしろい(と私ゃ思うんだがなあ。異論必至かも)。

D.Scarlatti:16 Sonaten / Chiristian Zacharias(p) /EMI 5 55343 2


[CD]続報! エレニ・カラインドルーのことがちょっぴりわかったぞ

 さて、下で「教えて」と呼びかけたカラインドルーのことが判明。って言ってもCDの宣伝資料もらったんだけど(笑) やっぱりギリシャの人でした。山村の生まれでアテネで学び、その後67年の独裁政権誕生によりパリに移住、音楽人類学を修めたそうで。で、母国民主化後帰国、82年にテサロニキ映画祭で最優秀作曲賞に選ばれたのが、その時審査委員長を務めていたアンゲロプロスとの縁の始まり。今回の映画の訳題は「ユリシーズの瞳」だそうです。アコーディオンとフルートが使われていたけど、アンゲロプロスによれば、これはバルカン半島の音楽では非常にポピュラーな編成だという話。ううん、一つ賢くなりました。


[CD]こいつは何者だ? 誰か教えて、エレニ・カラインドルーのことを

 ヴィオラ奏者キム・カシュカシアンが、ECMレーベルから新譜を出した。タイトルはUlysses' Gaze、作曲者はEleni Karaindrouって人。この人、どういう人なんでしょうか、教えてください。テオ・アンゲロプロス監督の(「旅芸人の記録」の人だよね、ギリシャの)同名の映画の音楽のようである。ジャケットにも解説にも、ヨーロッパな雰囲気溢れる映画のシーンが使われている。で、その音楽! 基本的に一つのゆったりしたメロディの反復とヴァリエーションで単純なんだけど、最強に抒情的で、とにかくかっちょいいのだ。ヴィオラのソロの他、オーボエ、トランペット、アコーディオン他のソロと弦楽オーケストラ。ポスト・ミニマル系シンプル系なのか。しかし、この作曲家の名前も知らないし、この映画のことも門外漢なので全然分からない。解説にはシブいカラー写真はあっても、文字情報はまったくない。美しすぎる音楽、でも何者によるのか、どんな映画なのか。ああ、すごく気になるぞ。

Eleni Karaindrou:Ulysses' Gaze/film by Theo Angelopoulos/Kim Kashukashian(va) Chalkiadakis&String Orchestra/ ECM 449 153-2


[LD]失われた頑固オヤジを求めて。クレンペラーの「第9」

 年末が「第9」祭りになっちゃうのもなんだか悲しいものがあるが、年の瀬というものが日本人にとって特別な行事であるのだとすればしかたがないのかもしれない。さて、特別な行事といえば、これほど「第9」がふさわしい場もあるまい。ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団はその設立者にして名プロデューサーであるウォルター・レッグにより一度は解散を宣告された。しかし、名称をニュー・フィルハーモニア管弦楽団と変え、自主運営のオーケストラとして新たなスタートを切ることになった。1964年、団の精神的支柱でもあった音楽監督オットー・クレンペラーは、この新たな出発に際して、ベートーヴェンの「第9」を振った。まさにその演奏会のライヴがLDとしてよみがえったのである。

 この映像ではすでにクレンペラーは指揮棒を使わない。表情一つ変えず指揮し、その音楽は極めて遅い。演奏自体は粗いし、センスそのものが古い、しかもモノクロ・モノラルと、クールな要素は一つもないが、間違いなく今の人間にとっては異質なものとの出会いを保証してくれる。もし、クレンペラーのファンであれば興味深いのは当然。しかしそうでなくても、この30年の間にこれほど人の感覚は変わったのかと思わせる訴えかけがある。場所が巨大なロイヤル・アルバート・ホールのためもあるだろうが、終楽章でのナイトリンガーやヘフリガー(若いぞ)は、ソロでの登場の場面で、異様に力みまくって歌い出す。ヒストリカルな分野に興味がないと、ちょっと買うのは辛いが、店頭でもちらっと見てほしい。堪え難い演奏かもしれないんだけど、無愛想極まりないクレンペラーの顔を見ていると、何かがこの時代から失われたのかもしれないという気になってくるから。

ベートーヴェン/交響曲第9番「合唱」 クレンペラー指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団&合唱団、ギーベル(S),ヘフゲン(A),ナイトリンガー(Br),ヘフリガー(T) 東芝EMI(EMI)TOLW3737


各項の末尾にこの書体で書かれた部分はそのディスクに関するインフォメーションです。国内発売されているものについてはレコード会社名、モノによってはディスク番号と発売日を添えています。社名の後の括弧内はレーベル名。輸入盤を探すときはレーベル名で探してください。
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