CLASSICA3周年記念投稿企画 |
「虚構を語れっ!」というわけで、みなさまからご応募いただいたこのページ、そのテーマは「架空であること」。存在しないCDのレビュー、ニセ書評、夢の中の音楽作品について等々、なんでもあり。ご協力いただいたみなさまには大感謝。氏名欄のリンクはそれぞれの方のウェブページへ。 |
マーラーは断じて音楽家ではない。彼は画家(maler)だ。それも斧(h)を持った画家なのだ。黄金の斧によって切り出された音は、かつてエルンストが言ったように既存のもの、既知のものの置換と変容によって未知の世界に達している。コラージュ・・・・異なるイマージュの接近を受信する者、宇宙の響きを受け止める者、理性による夢への抑圧に刃向かう者。 彼が作り出した音は色となって戯れ、偶然に出会う。形式的な制約から解き放たれた構造のなかでの自由な結合。これこそがポリフォニーの秘密なのだ。この、複数的な色のみがあらゆる肯定から隔たったまま肯定するような多数的空間。これは、複数性に新たな意味を与えながら、そのお返しについに体験された死という沈黙の可能性を受け取るのだ。
ショパンが作曲した全4曲の即興曲の中で、なぜゴドフスキーはこの曲だけを編曲したのであろうか。それには様々な説があるが、最も有名なのは彼がこの曲を特に好んだという説である。確かに、ゴドフスキーはこの曲を「世界で最も偉大な即興曲」と呼んでいたことからも分かるように、大いに好んでいたようである。 原曲は、主部における右手と左手のリズムの違いから生み出される幻想的な雰囲気が特徴であったが、この曲では右手の拍の頭のみに伴奏がつくような形になっている。また、旋律が一オクターブ下がっている。主部の後半、半音階による下降の箇所が3度の下降となっているのが、演奏の難易度を高いものにしている。中間部には伴奏形までも再現しようとすることが伺える。原曲の演奏速度であるAllegro agitatoを再現するには演奏上困難が生じるが、原曲の持つ主部の幻想的な雰囲気と、中間部の優雅で、かつ優しい雰囲気が、左手のみでも美しく再現されていることが分かるであろう。
ウィーン国立歌劇場は、さる4月1日に来シーズンのスケジュール発表を行ったが、その際、フーゴー・ヴォルフのオペラ「悪代官様」の補筆完成版を上演すると発表し、注目を集めた。この作品は、オペラ「お代官様」と対をなす作品としてヴォルフが書き進めていたが、当時ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督だったG・マーラーが「お代官様」の上演を拒否したために作曲を中断し、その後、ヴォルフが精神疾患となったため、未完に終わったという経緯を持っている。 この作品の最大の特徴は、当時流行のジャポニズムを取り入れ、舞台を日本に設定してるところにある。ストーリーは、悪代官「ヤマバト」により無実の罪で投獄された夫の「クラノスケ」を助け出すため、男装して地下牢に乗り込む「オキヨサン」を中心に展開する。フィナーレは、そこへ偶然居合わせた副大統領の「コウモンサマ」(第一幕では、身分を隠している)が処刑寸前の二人を助け、悪代官を懲らしめるというもので、夫婦愛をたたえる村人の最後の壮大な合唱がどう補筆完成されるかが、最大の注目点とされている。 この作品は、台本の拙劣さが常に批判されているが、国立歌劇場のフリーゲンデ・ホーレンダー総監督は、次のように熱っぽくこの作品を弁護し、上演への強い熱意を露にした。 「勿論、この作品の台本には問題があります。何故、日本の副大統領が身分を隠したまま、しかもボディ・ガードを2人伴なっただけで日本各地を放浪しているのか、私にも理解できない。しかし、この作品に直接影響を与えたと思われる「フィデリオ」や、或いは、「魔笛」や「運命の力」のような偉大なオペラ作品を思い起こしていただきたい。偉大な音楽の力は、台本の拙劣さや矛盾をも魅力に変えるものです。そしてこのヴォルフの半ば埋もれた作品も、そのような偉大なオペラの一つであると、我々歌劇場のスタッフは確信しているのです。」(クーリエ紙よりの記事抜粋)
ベートーベンの交響曲第10番は存在する。だが、この曲の譜面も録音も存在
しない。なぜか?実はこの曲、大バッハが即興で作った主題に基づいているの
だが、大バッハは後世の音楽家のソルフェージュ力と自由な発想を育てんがた
め、「この主題の改変・再配布は自由、しかし譜面にすることは認めない。聞
きとって覚え、演奏せよ。」と言い残したのだ。こうしてベートーベンの交響
曲第10番は、長いこと演奏と聞き取りによってのみ伝承されてきた。時は流
れ、偉大なる発明がおきた。蓄音機だ。譜面にしてはならない曲を録音するこ
との是非についての議論に決着がつかぬまま、この曲を録音しようという試み
は幾度も繰り返された。だが、不思議なことに、録音は全て失敗した。この曲
を再生すると、レコードプレーヤーが共鳴震動を起こし、破壊されてしまうの
だ。あらゆる録音媒体、再生機器が試され、そして壊れた。日本の技術をもっ
てすら、この問題は解決しなかった。再生可能なプレーヤーは存在しないのか? 最近、この問題に新たな展望が開けた。最新の量子宇宙理論によると、この曲を 再生可能なプレーヤーが存在するための必要十分条件は、宇宙の大きさが無限 であることに等しいということが、東大の研究グループにより明らかにされた のだ。いま、東大ではNASAと共同して、宇宙の果てを観測するための人工 衛星を開発している。宇宙の果てを見つけることで、この曲の録音不可能性を 証明しようというのだ。
未完と思われていた「フーガの技法」が、実はバッハ自身の手で完成されており、その完成版「技法」のバッハの自筆楽譜の存在が音楽界に衝撃を与えたのは記憶に新しいところだが、グレン・グールドによる完成版「技法」のオルガンでの録音が発見され、「フーガの技法第2集」として発売されることが明らかになった。グールドの17回忌に当たる1998年10月4日に、SONY CLASSICALから全世界同時発売が予定されている。 ライナーノートによると、グールドが完成版「技法」の楽譜を入手したのは、その死の年である1982年の初頭。その楽譜は、グールド晩年の愛読書である夏目漱石の「草枕」の中に挟まれていたのが発見されており、グールド自身による実に詳細な書き込みがなされている。録音は1982年の9月26日に行なわれたと書かれているが、場所は明らかにされていない。Contrapunctus 10以降の全曲が録音されており、1962年録音の第1集との重複はないことから、グールドはこの録音を第1集の続編として考えていたと思われる。なお、Contrapunctus 18は完成版楽譜によっている。 グールドの演奏は、録音当時の健康状態の悪さを微塵も感じさせないすばらしいもので、 とくにContrapunctus 18の演奏は感動的だ。B-A-C-Hの主題を提示するとき、グールドの唸り声はオルガンの音をもかき消すほどであるが、少しも鑑賞の邪魔とは感ぜられない。なおCDの余白には、これも世界初出であるグールドの「じゃあ、フーガをかきたいの?」の主題によるバッハの「音楽の捧げ物2」のグールド自身による演奏が収められている。
あのヴォルフガンクの子で、リヒャルトの曾孫である、ゴットフリートが現在のバイロイトのやり方に反して残した逸品。曾祖父リヒャルトの「リング」のパロディに始まるこの曲は、ナチスに迎合した祝祭の風刺や、現在の仮面をかぶった父ヴォルフガンクを揶揄する曲となっている。最初はオペレッタで構想されていたのが、台本作家とのいさかいにより、管弦曲に落ち着いた。 ライプチッヒでこの曲を聴いたが、単なるパロディにとどまらず、21世紀の音楽に向けた指標となっているのでは。噂では、アバドがベルリンを離れる前に収録する予定があるとか。
「みなさまいかがお過ごしでしょうか。実況パワフルオーケストラの時間がやってまいりました。本日の演奏は大阪ズボラ管弦楽団によるマーラーの《巨人》。大阪のオーケストラならではの粘りのあるナニワ節が期待されるところです。 さて聴衆の拍手もやみ、緊張がホールを支配すると、静かに第1楽章が始まりました。弦楽器の美しいオクターブがホールのすみずみにまで染み渡ります。しかしどうしたことでしょうか。いくつかのプルトで空席が目立っていますねぇ〜。ひょっとすると指揮者の解釈に賛同できない幾人かの団員がサボタージュをはたらいたのかもしれません。 いや、今コンサートマスターが舞台上手から登場したぁ〜!? 遅刻です、遅刻です!なんとコンサートマスター、本番に遅刻しました! 団員からブーの声が上がっています! 序盤から一触即発の危険なプレイだぁ〜…… さぁここから金管の爆発的なコラール。大いに盛り上がりが期待されるところです。おっと、音量が意外に小さいぞ〜? 指揮者が懸命に鞭をふるっても、一向に音量が大きくならなぁ〜い。あーーっ、なんとトロンボーン休んでいる! この重要な場面でトロンボーン、全員休んでいます! ちょっと息抜きならぬ、ちょっとツバ抜きだっ! みんなでツバ抜きゃ怖くないってか〜っ!…… さていよいよ演奏も終盤を迎えました。ここが《巨人》の中で一番の勝負どころ、ホルンが全員総立ちになる場面です。さぁ、ここから……いやっ、ホルン立ち上がらない! ホルン立ち上がらない! どうしたことかっ、ホルンのメンバーが誰も立ち上がらないばかりか、楽器をしまいこんでいます! あああっ、1番ホルンがプラカードを掲げている! 『おれらはアンチ巨人や』 これぞ大阪ズボラ管弦楽団の真骨頂だあ〜っ!」
【推薦】 昨年8月に発見されたベルク初期の力作が、アバド指揮ベルリン・フィルによって録音された。ホルンは名手デニス・ブレインの孫にあたるウイリアム・ブレイン。若干16歳の彼のデビュー録音である。ソプラノのマクガイアはブレインの遠縁にあたるそうである。 ベルク20歳前後の作品と推定されている新発見のホルン協奏曲は、保守的な3楽章の構成によっており、まだ調性を採用しているが、増5度の扱いに特徴がある。ソナタ形式による第一楽章は、弦楽器と木管楽器の不協和音のさざなみの上に、独奏ホルンが3オクターブにわたって駆け上がる音型で始まる。難しい部分をブレインはすぐれたリズム感で、さわやかにさばいている。 第二楽章のセレナーデは、この曲の最も魅力的な部分であろう。「さざなみ」の音型を拡大したピッチカートとハープ、チェレスタが明滅するなか、ホルンが低音の断片的なメロディで、うごめく。楽章後半、舞台裏の鐘と独奏ホルンが、鐘の音型をかけあい始めたところで、ソプラノ独唱がヘルダーリンの「鐘」を歌う。マクガイアはビブラートをおさえめにして、ホルンのオブリガートといいアンサンブルを作っている。ベルリン・フィルの管楽器が美しくそれに絡む。アタッカで第三楽章に続く。 第三楽章はロンド-ソナタ。舞曲風の2つの主題が交代であらわれる。展開部のストレッタからカデンツァに移る場面がスリリングである。カデンツァではウェーバーの協奏曲にもある重音が使われているが、それが大変見事なのに驚いた。低音のセレナード主題の上に重音のオブリガートが乗り、それに打楽器とハープが絡む形だが、実演ではバランスの難しい部分だろう。 もともとイギリスの金管奏者はバランス感覚のすぐれた人が多いが、ブレインはそれにあわせて、スタミナがありそうなタイプである。モーツァルトやブリテンもすでに録音済みと聞く。今後の楽しみな奏者である。
本書は、日本で人気を博している作曲家ショパンの、「今まであまりに神話化されすぎていた虚像を否定し、一人の人間としてのショパンの真の姿に迫る」ものである。そのため、本書はショパンの音楽と言うよりは、むしろショパンその人及びその行動や考え方に脚光が当てられている。たとえば本書には、著者の長年の研究と妄想による、次のような新エピソードが紹介されている。 (1)ショパンは寝起きがとても悪く、1週間のうち5日はジョルジュ・サンドにシーツを引っ剥がされて、はじめて目を覚ましていた。また、このときジョルジュにヘッドロックをかけられるのを、密かな楽しみにしていた。 (2)ショパンは、リストの長髪をうっとうしく思っており、一度でいいから角刈りか三つ編みにしてみたいと思っていた。しかし、その反面自分も一度でいいから、長髪を振り乱してピアノを弾き、若い女性の喝采を浴びてみたいとも思っていた。 (3)ショパンは実は日本通であり、都はるみを好んで聴いていた。また、ジョルジュ・サンドとの仲が悪くなってからは、しばしば日本酒を出す居酒屋に出かけ、あぶったイカを肴にぬる燗をあおっていた。 これらのエピソードは、いずれも従来のショパン研究に一石を投じる内容のものであり、今後の研究の発展が待ち望まれる。特に(3)のエピソードは、我が国にショパンを好む人が多い理由の一つを解明するものとして、我が国の音楽学界で大いに注目されている。
《概説》:この曲の初演がロンドンで行われていた時、聴衆はいつものように気持ち良くうたたねを始めていた。すると第2楽章の途中で突然外からズドーン!という大きな大砲の音がし、ホール内は一時パニック状態に陥る。大砲はその後も2度3度と打ち鳴らされたが、そのあまりの音楽的効果のすばらしさに場内はたちまち興奮の坩堝と化した。 「ハイドンは天才だ!外に控える大砲をこれほどタイミングよく、しかも効果的に打たせるとは!」 翌日の紙面では、この105番を「驚愕Part2」として大絶賛したが、一部の音楽関係者たちの間では「いや、これは "大砲連打" と呼ぶほうがふさわしい!」という声が上がり、いつしかこの曲はこの愛称で親しまれるようになった。 ところが後日、ハイドンにこの大砲という思いきったアイディアの由来を尋ねたところ、本人は「私は大砲を打たせるなどという野蛮な指示は出した覚えがない」と言う。慌てた地元関係者たちが調べたところ、ちょうどその時ホール近くの公園で軍隊が空砲を打ち鳴らしていたことが明らかになったが、せっかくの聴衆の興奮を冷まさぬようにという配慮から事実はしばらく伏せられたままとなった。ただ、困ったことにこの105番は大砲の音がないとこれといった特徴のない曲であったため、その後二度と演奏されることはなかった。 ベートーヴェンの「戦争交響曲」やチャイコフスキーの「1812年」が、この「大砲連打」の伝説をヒントに作曲されたことはあまりにも有名な話である。
クラシックファンのみなさま、もうお馴染みになりました「飛び出すCD」。しかし、フォログラフの大きさにお困りではないでしょうか? 四畳半一間に空き空間一畳。なのに50%縮小のカルテットは出せない。ピアノなんてもってのほか,オケなんて恐怖でしかない。 と、お思いのあなた! 我がAdvanced Technology社が開発しました『ちビッツ』。これを接続するだけで、縮小は自由自在。フル編成のオーケストラもバッチリ。手乗りサイズのナカリャコフ君だってお楽しみできます。これで、あなたのクラシック音楽ライフも笑点、いや失礼、昇天モード間違い無し。さあ、今すぐ秋葉にLet's Go!! 今なら、キャンペーン中につき、“素敵なあなたも二頭身”ゲオルグ・ショルティもズビン・メータも、ほ〜ら、恐くない。お笑いヴァージョン『ちビッツくん』プレゼント!
故山田一雄氏を記念して開催される「転落指揮者コンクール」だが、昨年は予想外の沢山の応募があり、本選に残るのはかなりの難関となっている。指揮者が壇上から転げ落ちる姿を競うこのコンクールは、なんといっても派手さが肝要。しかし、わざとらしさは禁物で、あくまでも指揮に熱中するあまり足を踏み外すところを強調しなくてはならない。また、落ちてなお指揮を続け、その際ハンカチなどの小道具を用いた者には得点が加算されることも考慮する必要がある。前回優勝者は、ピアニッシモの場面で指揮棒を3階席に飛ばした意外性と、直後に譜面台ごと転げ落ちる姿が高得点に繋がっており、今回はそれを凌ぐ荒業を審査員にアピールする必要がある。
2度目の三大テナー東京公演を来年1月に控え、前回以上に日本のファンに喜んでもらおうと意気込むパヴァロッティは、知ってる日本語が「ドモ、ドーモ」だけでは足りないと判断、現在、複合流行語大賞『不適切だっちゅーの』を特訓中。余りの猛練習ぶりに、今回も「川の流れのように」の歌詞は最後まで覚えきれないだろうと関係者は早くも諦めている。
世のグールド好きの人気盤は何でしょうか。バッハの他には、バード&ギボンズやブラームスの間奏曲集といった所でしょうか。私はベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が気にいってます。割とストレートな演奏ですが、独特なドライブ感がナイス。上記の組み合わせは,ひょっとしたら現実になっていたかも知れない物です(フリードリック著グレン・グールドの生涯による)。実際二人は会って打ち合わせをし,何とピアノを先に録音して、それにあわせて後でオケを録音するという、逆カラオケ方式で合意したとか。その後グールドは若いピアニストを雇って自分で第2協奏曲を指揮し(これは録音が残ってるそうな)、自身のピアノ演奏をそこに填め込むつもりだったようです。今グールドが生きていたら共演者は誰が面白いでしょう。知的で少しエキセントリックという条件から、クレーメル、ラトルといった名前が浮かんできますが。
この曲は、アマデウスが、5歳ぐらいの時に作曲されたと推測される。楽譜の端書きに残されたメモから、アマデウスは、この曲で、カスタネットを担当してくれるソリストを、探していたが、身近に気に入ったソリストがいなかったため、演奏されずに、未発表の
ままになっていたようである。 形式的には、3楽章。特に、第一楽章冒頭の壮大なファンファーレの後から続くカスタネット連打のリズムは、まさに、きつつきのようであり、純粋な森の世界を感じさせてくれる。全体的に、5歳らしい曲想であり、大人よりは、幼稚園児や小学生向けの曲として、演奏される方がふさわしい感がある。カスタネットの定番曲になるに違いない絶品。
http://www.asahi-net.or.jp/~CV2M-HSB/essay14.htmlをご覧ください。Nifty某部屋ですでに発表済みですが。^^;
ありそうでない。 誰でも思い付きそうなんですけど、くだらないので投稿してみました。
ある日女名前のメールを貰った。「私のサロンでちょっとした演奏会を開きますので、ぜひお聞きになって、CLASSICAに書いて頂けませんか。優雅な空間で、あなたのお好きなプリンス・オブ・ウェールズもサーヴいたします。」といったことが、ごく丁寧な文章で書かれている。つまるところ、招待状である。 よほど裕福なご婦人らしく、当日はお車の迎えまで出してくれた。到着すると、なんと、大きなお屋敷である。玄関のチャイムを鳴らすと、きれいな年配の女のひとがにこやかに迎えてくれた。お待ちしていましたのよ、と、広間に案内される。 シャンデリアの下にずらりと並べられた椅子、その上には楽器が置いてあった。ちょっとしたオーケストラくらいの規模である。演奏者はしかし、ひとりもいなかった。それを質すと、婦人はコロコロと笑い、あと5分で演奏会が始まりますから、と答えて紅茶を出してくれた。広間には時計がなかったので、自分の腕時計を見ると、あと5分でちょうど4時である。1分経ち、2分経ち、しかしまだ人影はない。広間はしいんと静まり返っている。腕時計の長針が、12のところに合った。 楽器が鳴り始めた。それぞれがそれぞれのメロディを奏でて見事な交響曲になっている。仰天している私を見て、婦人はそっと耳打ちした。ねえ、わかります? この楽器は全部時計なんですのよ。4時になったら、それぞれの時報を打ち鳴らし始めますの。1分1秒たりとも狂ったら音楽にならないんですわ。ですから、私、毎日、時間を合わせています。大変でしょうって? いいえ、そんなことないんです。だって…… 婦人はぱかっと面を外すように顔を外してしまった。中には文字盤があり、振り子が揺れながら婦人の声でしゃべった。私だって、時計なんですもの。 紅茶茶碗を落っことし、麗しい交響曲の間にけたたましい音を加えたあと、一目散に広間を駆け出ようとすると、後ろから婦人の声が追いかけて来た。あなただって、時計なんですよ。この世のものは全て時を刻む時計なんですからね。ねえ、ちゃんとCLASSICAに書いてくださいね! そんなわけで、時計の演奏会の報告をするために書いているわけだが、どうしたことか、頭の中で、カチコチカチコチという音が止まらないのである。しかもなんだかだんだん遅くなるみたいなのだ。……ちょっと、誰か私の背中のぜんまいを巻いてくれませんか? おやおや、あなたの背中にもぜんまいがついてますよ。
70年代後半のカラヤンとウィーン・フィルによる「フィガロの結婚」の前後の録音である。カラヤンはデニス・ブレインおよびゲルト・ザイフェルトというイギリス・ドイツのトップレベルのホルン奏者とモーツァルトの録音を残してきたが、これがいわば決定版とも言うべき演奏である。ベルガーのホルンはもちろんF管ウィンナホルンであり、コクのある深い音色で極めて格調の高い演奏を聴かせる。テクニック的にもこの楽器の扱いにくさをほとんど感じさせず、ほぼ完璧に近いほれぼれする仕上がりとなっている。オーケストラはさすがにウィーン・フィルで上質な柔らかい響きで秀演。全曲にわたって第一・二楽章はやや遅目の、終楽章は軽快なテンポで一貫し、カデンツァはベルガー自作。録音も美しい。
先日120歳を迎えた朝比奈の新譜である。 何度目の全集だろうか。
作曲:ジェルジ・リゲティ 初演:エサ・ペッカ=サロネン指揮CLASSICA祝祭管弦楽団 1998.9.7(mon.) 於NHKホール 音楽はこの作曲家には極めて珍しく、保守的な作風。金管によるファンファーレの後、ニ長調を基調としたアレグロの主題が提示され、殆ど反動的ともいえる常識的な展開が為される。トーン・クラスターによるエピソードなどが若干挿入されるが、最後はファンファーレが回帰し、CLASSICAの今後の発展を祈念して華やかに終わる。
●ビバ・フランス!―ジダン、フランス歌曲を歌う(曲目詳細は巻末新譜一覧表参照)/ジダン(vo, p) ジャン・フィリップ=コラール(p)(RCA) 先日のサッカーW杯フランス大会で地元チームを優勝に導いた英雄のひとり、ジダンによるフランス近代歌曲のアルバムが発売になったが、意外な美声に驚いた。フォーレ、ドビュッシー、シャブリエ、ラヴェルの14曲。伴奏はジャン・フィリップ=コラール。 フォーレの「夢のあとに」は、なんだか楽しそうにきこえる。きっとブラジルのロナウドのほうがこの曲を味わい深く歌うはずだ。その意味では、ラストのラヴェル「ドゥルシネア姫に思いをよせるドン・キホーテ」が、快活な歌唱で、楽しめた。 アルバムの最後には、付録のような形でジダン自身のピアノによるサン=サーンス「アルジェリア組曲」よりの「フランス軍隊行進曲」が収められている。たどたどしいタッチだが、ユーモラスに聞かせる。
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本ページの記事はすべてフィクションです。(98/09/09)