1) Strauss, Richard/ Hofmannsthal, Hugo von: Briefwechsel. Hrsg. von Willi Schuh. 5.Aufl. Zuerich(Atlantis) 1952 〔以下、SHと略記する〕,S.113.
2) この二組のペアのうちコメディア・デラルテのペアが染物師バラクとその妻に変わった経緯は、1919年にホーフマンスタール自身が書いた『《影のない女》の成立史について』中で明らかにされている。 Vgl. Hofmannsthal, Hugo von: Entstehungsgeschichte der "Frau ohneSchatten" . Gesammelte Werke in Einzelausgaben. Hrsg. von Herbert Steiner. Fraukfurt a.M.(S.Fischer) 1969, Prosa III〔以下、このシリーズはProsa III, Dramen IIIなどのように略記する〕, S.451f.
3) Vgl. Curtius, Ernst Robert: Hofmannsthal und Calderon. In: Hugovon Hofmannsthal (Wege der Forschung Bd.183). Hrsg. von Sibylle Bauer.Darmstadt (Wissenschaftliche Buchgesellschaft) 1968, S.3.
4) クラウディオ・マグリス(鈴木隆雄他訳):オーストリア文学とハプスブルク神話(風の薔薇)1990, 310頁。
5) この試練−浄化のモチーフは言うまでもなく『魔笛』を思わせるが、『魔笛』では二組のペアのヒエラルキーがより明確になって幕切れとなるのに対して、『影のない女』のペアは四人が共に浄化され、いわば同心円上へ揚げられて幕が降りる。このことからも、ホーフマンスタールがより高い次元の調和を志向していたことが窺える。尚、アッティラ・チャンパイ(畔上司訳):『魔笛』の秘密、あるいは啓蒙主義の帰結:『名曲オペラブックス5 モーツァルト〈魔笛〉』所収(音楽之友社)1987, 25〜26頁参照。
6) Dramen III, S.481.
7) 新約聖書: マタイによる福音書5章3〜12節、ルカによる福音書6章20〜23節参照。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである(…)」
8) 岩淵達治他訳: フーゴー・フォン・ホーフマンスタール選集4(河出書房新社)1973年, 442頁。
9) Vgl. Kuckartz, Wilfried: Hugo von Hofmannsthal als Erzieher. Fellbach Oeffingen (Adolf Bonz) 1981, S.162.
10) カイコバートという存在はC.ゴッツィに拠っていることもあり(Vgl.Kuckartz, ebd., S.126)、これをキリスト教的な意味の神と見做すことには確かに慎重でなければならないであろうが、物語版のなかで彼の12番目の使者が彼のことを“Schoepfer”と言っている(Erzaehlungen, S.255)ことを考えてみても、カイコバートにキリスト教的な意味での「神」の反映を見ることもできるのではないか。
11) Hofmannsthal, Hugo von: Saemtliche Werke Kritische Ausgabe. Hrsg. von Ellen Ritter. Frankfurt a.M. (S.Fischer) 1975, Bd.28, S.295.
12) Erzaehlungen, S.292.
13) Ebd., S.324, S.329 und S.340.
14) Knaus, Jakob: Hofmannsthals Weg zur Oper 'Die Frau ohne Schatten'. Berlin (Walter de Gruyter) 1971, S.135.
15) Strauss, Richard: Die Frau ohne Schatten. Oper in drei Akten von Hugo von Hofmannsthal. Orcheter-Partitur. London (Boosy & Hauks) 1946,S.111f.
16) SH. S.265. また、Vgl. Knaus, a.a.O., S.90f.
17) Erzaehlungen, S.301.
18) アト・ド・フリース(山下主一郎主幹): イメージ・シンボル事典(大修館書店)1984, 113頁, “cave”の項。
19) Vgl. SH. S.285.
20) 皇帝の山の内奥への旅は、自分の内奥への旅だとするM.E.Schmidの説(Vgl. Schmid, Martin Erich: Symbol und Funktion der Musik im Werk Hugovon Hofmannsthals. Heidelberg. 〈Carl Winter Universitaetsverlag〉1968,S.150ff.)を更に考慮に入れると、この洞窟は皇后の内であり、また皇帝の内でもあり、そしてそこに二人の子らもいるということになる。皇后は下界へ、皇帝はカイコバートの勢力圏たる天上界へと上下に分かれて旅をしているにも拘らず、両者が一つ所へ収斂されてゆくイメージを持っているというところも、二人の因縁的な結びつきを強く思わせるものである。
21) Erzaehlungen, S.303.
22) Ebd. S.316.
23) Ebd. S.318.
24) 山中康子: ホーフマンスタールの物語『影のない女』―― 他者を求めて ――〔獨協大学創立二十周年記念事業規格委員会『創立二十周年記念論文集』, 1984, 22〜55頁〕, 41頁参照。
25) マタイによる福音書, 26章51〜52節。
26) 例えば、ルカによる福音書10章25〜37節の『善きサマリア人』参照。
27) 妖精界に固執している乳母の目から見た皇后が、「見るに耐えない顔」(Erzaehlungen, S.348)になっていったのも、このように人間としての暗さをも理解し受け入れていったためと思われる。
28) Dramen III, S.483.
29) Mann, William: Richard Strauss. A critical study of the operas. London. (Cassel & Company) 1964, p.186. Vgl. Del Mar, Norman: Richard Strauss. A critical commentary on hislife and works. London. (Faber and Faber) 1986, vol.2, p.197.
30) 新約聖書: ローマの信徒への手紙, 12章19〜20節参照。
31) ルカによる福音書, 5章1〜11節。また、Del Marの以下の記述参照。"It was demonstrably part of Hofmannsthal's intention that thisstrange figure (who does not appear in the opera at all) shouldarouse associatioins in the reader's mind with the Fisher King, and hence, viaAmfortas, with Christ."(Del Mar, a.a.O.,p.199.)
32) Erzaehlungen, S.355f.
33) ヨハネによる福音書, 15章12〜17節。
34) SH. S.245.
35) Ebd. S.253f.
36) Ebd. S.242.
37) Dahlhaus, Carl: Musikaesthetik. Laaber. (Laaber-Verlag) 1986.S,100f.
38) Vgl. SH. S.353の1916年7月28日付けのシュトラウスの手紙。また、Vgl.Knaus, a.a.O., S.129.
39) そもそも、《影のない女》の皇帝と皇后の歩みは、ホーフマンスタールの歩みと似ている(Praeexistenz状態にいた寵児ホーフマンスタールが言語危機に陥り、作家として試練の道を歩むようになる)。運命のなかで結ばれている皇帝と皇后がそれぞれ一方のみでは半人前である(Vgl. Kuckarz, a.a.O., S.130)という関係は、ホーフマンスタールの考える文学と音楽の関係ではなかったか。
"Doch darf (...) nicht uebersehen werden, dass das eigentliche Thema nicht die Praeexistenz als solche, sondern die Ueberwindung der Praeexistenz durch die Existenz ist (...)"
つまり、音楽に「文学の救済者」としての役割を求め、音楽による言語乖離の超克を ホーフマンスタールは期待していたのである。だからこそ彼は、小説でも戯曲でもない オペラという形態での共同作業を続けたのではないだろうか。