文=野口方子(ドイツ文学)
text by Yasuko NOGUCHI
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オペラ『ばらの騎士』で印象的な役割を果たす「銀のばら」は、作者ホーフマンスタールの創った、最も美しい虚構だとよく言われる。貴族が結婚する際に、花婿の代理人である「ばらの騎士」が、いわば結納のようなものとして、この「銀のばら」を届けるという「貴族の作法」を創作したのである。
この美しい虚構は、では一体、どのように創作されたのか。作中でも少なからず重要かつ印象的に扱われているにもかかわらず、この「銀のばら」について、正面から取り組んだ考察にはほとんど出逢ったことがない。「美しい虚構」はそういうものとして、深い省察もなしに甘受してしまってもよいのだろうか。しかしそれでは、ホーフマンスタールとシュトラウスの深謀の一端にすら触れることはかなわない。
「銀のばら」に託された意味
結論から言うと、「銀のばら」とは、「時」のアレゴリーである。ゲーテによれば、アレゴリーとは「普遍的なもののために特殊なものを求める」ことであり、「特殊なものの中に普遍的なものを見る」のが象徴(*1)だと述べている。つまり、『ばらの騎士』では、「時」という普遍的なものを表すために「銀のばら」という特殊な形象を求めている。舞台での銀のばらは、元帥夫人(マルシャリン)の従兄弟であるオックスが、彼の不釣合いな結婚話とともに持ち込むことによって登場する。ここで、マルシャリンとオックスとは対置関係にあり、マルシャリンは舞台の進行に伴って齢を重ねることを受け入れ、「時」が課す試練を充たす。一方のオックスは、さらなるアヴァンチュールに突き進むことによって、その試練から逃避しようとし続ける(B.レッヒ)。このような両者の相関関係と、このオペラのタイトルが、初めに案として出されていた『オックス』でも『マルシャリン』でもなく、この相対する二人を結びつける存在としての「ばらの騎士」が最終的にはそのまま作品名となった(1910年9月10日付シュトラウス宛書簡)ことを考え合わせると、この二人をつなぐ「銀のばら」は、「時」のアレゴリーと解釈できるのである。作品主題が「時のうつろい」であることは明白だが、「銀のばら」を「“時”のアレゴリー」であるとする見解には、現時点(2007年7月)では国内外を問わず未だに目にしたことはなく、したがって筆者独自の解釈ではあるが、このことを念頭に置いて作品を見直すと、さらに興味深い事象が浮き彫りになる。
まず、この「時」のアレゴリーである「銀のばら」を運ぶ使者、つまり「ばらの騎士」は、“時を進める”という役割をも担うということ。つまり、オクタヴィアンとゾフィーとを引き逢わせる契機となり、一方でマルシャリンとオックスという、老いつつある人間から若者を引き離し、それと同時に“加齢”という現実を突きつける、という点においてである。マルシャリンは若いオクタヴィアンと愛し合うことで、また、オックスは若いゾフィーを手に入れることで、加齢をもたらす現実の時間を食い止めようとしているけれども、その運命に逆らった不自然な時間の停滞を、本来あるべき流れに戻すのが、「ばらの騎士」なのだ。
それゆえに、マルシャリンはオクタヴィアンを諦めることになるのだが、そのオクタヴィアンを「時の使者」として指名したのは、他ならぬマルシャリン自身であったことに、時の流れという運命には逆らえないアイロニーを感じさせる。さらに、銀のばらの到来を予告していたはずのオックスの手紙を、マルシャリンから取り上げて破り捨ててしまったのがオクタヴィアンであったのも、二重のひねりを思わせる。
また、「時」のアレゴリーたる「銀のばら」は「現実」というメッセージを運ぶものでもある。ゾフィーに届けられた場面に即して言えば、夢のような騎士・オクタヴィアンがゾフィーの結婚相手なのではなく、「時が進み加齢現象の顕れた」オックスが相手だという「現実」がメッセージということになる。いずれにせよ、結婚という、あらゆる意味での「現実」の先駆けとして届けられるものであり、その先には「老い」が待っている、ということでもある。こう書くと、まるで夢がないようにも思えてしまうが、だからこそ、作者は「夢のよう」な演出をしたのだとも解釈できる。
また、第一幕でマルシャリンに銀のばらを見せようと、ケースを開けようとするオックスをおし留める彼女の行為も象徴的である。
「どうぞ、中に入れたままにしておいて」
また、
「(軽い口調で)それまでは、あそこへ置いておきましょう」
これは、“老い”という現実の訪れを告げるパンドラの箱を、無意識のうちに開けたくないということなのだろうか。あるいは、開けずに、見てみぬふりをしているようにも見える。また、「軽い口調で」というのも、「時の流れ=老いの影」に、軽やかなウィーン風の仮面をつけようとしているのかもしれない。
(M=マルシャリン/O=オクタヴィアン)
O「ビシェット(小鹿ちゃん)、ぼくと愛し合っていた、あの君はどこにいるの?」
M「(静かに)ここにちゃんといるわよ」
O「そう、ちゃんといるんだよね? それなら、もう絶対に離さないよ。
二度と、ぼくから離れていってしまわないようにね!
くるんで仕舞ってしまうよ(packen)。君を仕舞っておくんだ」
M「ねえ、カンカン。私、こんな風に思うのよ。
時のうつろいは、きちんと感じなければならない、って。
自分自身で納得できるまで、きちんとね。」
ここでマルシャリンは、仮にオクタヴィアンが自分のことを仕舞ってしまうことができたとしても、時の流れ、すなわち老いまで一緒に仕舞い込むことはできない、と言っているとも受け取れる。「時」のアレゴリーである「銀のばら」のケースを開けず、仕舞ったままにしようとした、その一見些細な行為も、こう見ると意味を持っているのだ。
「銀のばら」が登場する前の場面は、マルシャリンと年若いオクタヴィアンの逢引きであり、それは前稿「あまりに美しい音楽」で指摘したように、マルシャリンの娘時代の幻影であるレジが繰り広げる虚構である。しかも、「いつかだって…… Einmal
------ 」と思わず洩らし、オクタヴィアン以前にも、似たようなアヴァンチュールの相手がいたことを示唆している。ということは、ここに至るまでに、「時」の流れが課す「加齢」から逃れるための虚構が繰り返されていたということであり、第一幕では、マルシャリンは(オクタヴィアンとともに)「前存在
Praeexistenz」状態に留まっていると言える(*2)。「きみはいったい、こんな僕のどこがいいの?」とオクタヴィアンが陶酔しながらも思わず尋ねるように、若くさえあれば誰でも良い、とまでは言わずとも、マルシャリンにとっては、まず何よりも「若さ」をその恋人に求めていることは確かであろう。
マルシャリンは、夜中に起きて時計を止めてみたりもするが、そうしながらも「時も神のみわざなのだから、恐れなくてもいいのね」と自分に言い聞かせ、心の内ではオクタヴィアンを手放す決意を密かにするのである。そして、オクタヴィアンは「風のように」去って行ってしまう。つまり、後悔してみても、いったん流れ出した「時」を止めることはできない、ということだ(*3)。
第一幕の終わりで、マルシャリンが小姓のモハメッドを呼び、「伯爵様は、ご存知のはずだから」と銀のばらをオクタヴィアンに届けるように言いつける場面がある。これは、「銀のばらの件は、マリアンデルとして、マルシャリンやオックスと一緒にいたオクタヴィアンは知っているはず」という額面通りの意味にも受け取れるが、「銀のばら」という「現実の時の流れ」を止めることはできない、ということを知っているはず、という深い意味をほのめかしているようにも取れるのである。
「銀のばら」が象徴するもの
ここまで見たように、「銀のばら」とは「時」のアレゴリーであるという解釈に無理はない。それでは、「銀のばら」という形象は、何を象徴しているのであろうか。
ホーフマンスタールは、ヴァルター・ベンヤミンが著した『ドイツ悲劇の根源』の中から、次の箇所を1925年にメモしている。
「アレゴリーとは、過去と永遠性とが、最も間近に接するところに、最も永く留まっている」
また、1911年の『“ばらの騎士”への後書き』の中には、「瞬間的かつ永遠的なるもの」「現在に含まれた過去」という記述がある。これは、書き留めた年代の差こそあれ、上で引用したベンヤミンが述べているアレゴリーの概念に通じるものがあるのではないだろうか。
さらに、銀のばらはオックスがもたらしたものだが、それを実際に持って現れたのは、オックスの庶子である。庶子ということは、オックスの「虚構」の関係から生まれた人物であり、虚構そのものを体現しているとも考えうる。となると、マルシャリンの虚構がオックスの虚構を呼び寄せたわけであり、それがやがて第三幕終わりの「おとぎ話(前稿『新国立劇場《ばらの騎士》上演批評』参照)」に行き着いたということになる。つまり、「銀のばら」は、「現在に含まれた過去」の象徴でもあるのだ。さらに言えば、つくりものの造花である銀のばらが、そのような象徴として変容(メタモルフォーゼ)した姿が、作品の幕切れで印象的に使われているハンカチなのだという解釈も成り立つ。
このような解釈に則って、いまいちど作品を見てみると、従来のどのような解釈を適用するよりも、「時のうつろい」という作品主題がくっきりと浮かび上がり、「瞬間と永遠」、「現在に含まれた過去」、さらには“現在が孕む未来”までをも看取することができる。「銀のばら」が、あれほどまでに観る者に深い印象を与えるのは、このような深遠なテーゼが含まれているからなのであり、そしてこれら委細を承知の上で作曲されたシュトラウスの「銀のばら」のライトモチーフが、聴衆の心に刻まれるからである。
『ばらの騎士』の“真の”夢とは……
オペラ『ばらの騎士』は、「時の使者・ばらの騎士」であるオクタヴィアンが、マルシャリンとの愛の交歓に陶酔している場面で始まり、終幕ではゾフィーとの新しい恋に恍惚としたまま幕を降ろす。
お互いに深い省察なしに、たちまち恋に陥ってしまったオクタヴィアンとゾフィーが「前存在 Praeexistenz 」状態のままで幕が降りてしまうのではないか、という疑問が当然そこには残るが、それに続くストーリーは聴衆に委ねられている。もちろん、この身分違いの二人が本当に上手くいくとは誰も思わないし、何よりホーフマンスタール自身が、この二人の結婚には懐疑的なのである。
「カンカンが、この互いに行き違った二重のアヴァンチュールを経て、さしあたり最善ではあるが、行き当たりばったりで手当たり次第の若い女性に行き着いた、というところが洒落
Witzなのです(1910年7月12日付のシュトラウス宛書簡)。」(*4)
『ナクソス島のアリアドネ』や『気難しい男』、そして『アラベラ』では、アロマーティッシュ(*5)で深い出逢いがあるが、『ばらの騎士』でのオクタヴィアンとゾフィーの出逢いには、そのような深い省察はない(B.レッヒ)。第三幕も終わりに近づいた場面では、ファーニナルが「若い人というのは、こういうものですかな」とつぶやき、それに応えてマルシャリンが「ええ、そうですとも」と言う。つまり、「こういうもの」とは、大した思慮もないままに恋愛初期の忘我状態に浸ることができる、ということであり、マルシャリンは「ええ、若いということは、そんなものですよ」と応じているのである。
マルシャリンとファーニナルが退場した後の音楽は、それこそ若い二人の台詞の通りに「夢のよう」である。マルシャリンとファーニナルが登場する前と後では、旋律は同じなのだが、大人二人が退場した後の音楽には、背後に「銀のばらのモチーフ」が印象的に散りばめられており、そのえも言われぬ美しさには、儚さすらも漂っている。作品が、タイトル・ロールの「ばらの騎士」であるオクタヴィアンの恋の陶酔に始まり陶酔に終わる、ということは、聴衆もオクタヴィアンの視点に立って夢見ることが許される、そのようにしつらえられた作品だということだ。
オクタヴィアンとゾフィーの「その後(の現実)」を何ら暗示することなく幕が降りる、ということは、物語が美しいままの、その美しい時点で敢えて幕を落とすことで、永遠性を獲得することになった、ということを意味する。ドイツ啓蒙主義の代表的な劇作家・批評家であるゴットホルト・エフライム・レッシングは、著書『ラオコオン(1766年)』の中で、ラオコオン像が苦痛に堪え、絶叫を抑え、激烈な苦痛の荒々しい表現を避けているのは、もし絶叫の瞬間を表現したならば、それはラオコオン像を醜くしただけだからだ、と指摘している。つまり、ある行為が行われる、ただ一つの瞬間を定着して表現しなければならない造形芸術において、ラオコオン像の作者は、むしろそのような、いわば劇的瞬間を避けたことによって、最も意義深く、最も美しい瞬間を選び取ったのだ、と述べているのである。『ばらの騎士』の幕切れの美学も、これと同質のものなのだ。
つまり、本当の意味での『ばらの騎士』の夢とは、劇場を出ればたちまち消えてしまうような類のものではなく、いつまでも聴衆の心に留まる“美”なのであり、それはまさにホーフマンスタールが『“ばらの騎士”への後書き』で言及しているような、「瞬間的かつ永遠的なるもの」であり「現在に含まれた過去」である、つまり“久遠”ということなのだ。だからこそ、先に述べたように、幕切れに出てくるハンカチは、その永遠性の象徴なのである。第一幕の終わりで、銀のばら(=時のアレゴリー)を届けるように言いつけられたモハメッドが、最後にこの永遠性のシンボルであるハンカチを拾いに登場するのは、決して偶然ではないのである(*6)。
(2007/08/30) |