●「われわれは作曲家のしもべにすぎません。彼らが楽譜に残したことを忠実に再現するのがわれわれの使命なのです」。あまり耳にしたくない演奏家や指揮者の言葉である。作品の「意味」とはなにか。
「何が意味を決定するのだろうか。われわれは、まるで話し手の意図が意味を決めるかのように、発話の意味はそのひとが意図する意味だと言ったりすることがある。(中略) またときには、コンテクストが意味を決定する。つまり、特定のある発話が何を意味しているのかを知るためには、それが現れる状況や歴史のコンテクストを見なければならないと言ったりもする。批評家の中には、テクストの意味とは読者の経験するもののことだと主張する人もいる。意図、テクスト、コンテクスト、読者--どれが意味を決定するのだろうか」(「言語、意味、解釈」~ 「1冊でわかる 文学理論」 ジョナサン・カラー/岩波書店)
生前のラフマニノフの見事な演奏を聴いたとしても、ラフマニノフ弾きはそのコピーを身につけるために演奏家人生を費やしたりはしない。常に再解釈と再創造が繰り返され、「意味」はコンテクストによって変容し、「意図」に束縛されることはない。しかしなぜ音楽の人々は「意図」から離れることをさも罪であるかのごとく語るのか。と思っていたら、これは音楽ばかりの話ではなく、ジョナサン・カラーがこの入門書でちゃんと読み手を勇気づけてくれている。
「意図が意味を決定するという考え方を弁護する批評家は、もしこれを否定してしまうと、読者を作者の上に置くことになり、解釈においては『何でも通る』という御達示を出すことになるのではないかと恐れているようだ。しかし、ある解釈を見つけても、その妥当性を他の人々に説得しなければならず、それができないのなら、その解釈は捨てられることになる。『何でも通る』とは誰も主張しない。作者にしても、作品の元来の意味だと思われるもののゆえにではなく、果てしない思考を鼓舞し、さまざまの読みを生じさせる創造の力をとらえてたたえられる方がよくはないだろうか」(同上)
それでもなお「意図」を頂点に置くと明言する人々が絶えないのは、受け手の批評能力への不信の表れなのだろうか。これは微妙で、どちらとも言いがたい。「意図」の再現を解釈と述べる人々も実際にはコンテクストから逃れられるわけではなく、言動は一致しないことが多い。少なくとも一つ確かなことがある。意味はコンテクストに縛られるが、コンテクストは無限である。だから、10年前の作品も300年前の古典も、再現されるたびに等しく現代のわれわれの音楽となる。聴衆は博物館の埃まみれの展示品を楽しんでいるわけではない。