●「アムステルダム」(イアン・マキューアン著/新潮Crest books)を読んだ。99年に出た本なのでいまさらだが、今年読んだフィクションのなかで最高におもしろく、エレガントな一冊。主人公の一人が現代イギリスを代表する保守系作曲家という設定で、音楽ファンにも強くオススメしたい。
●音楽面と小説面でそれぞれご紹介したいところがあるのだが、先に音楽面を。奔放で魅力的な女性が、退行性の病気がもとで40代にして亡くなる。彼女の若き日の元恋人たち(にして現在の友人たち)と夫が登場人物。元恋人に有名作曲家、高級紙の編集長、英国外務大臣の3人。みな社会的に成功した人たちばかりで、年齢と経験、成功を重ね、人生の収穫期にある。この作曲家、名前をクライヴ・リンリーというのだが、西暦2000年を記念する交響曲を国から委嘱されるほど著名で、しかも調性と機能和声に基づく明快な作風を特徴としている。
●イアン・マキューアンはかなり音楽に造詣が深いらしく、この作曲家の描写におかしいと思うようなところが一つもない。クライヴ・リンリーが自作について、こんなふうに自問する場面がある。
自分は若い世代の批評家がいうような飼い馴らされた才能、グレツキをインテリ向けにしたような作曲家なのだろうか?
イギリスでのグレツキの位置付けがちょっと垣間見えるわけだが、それにしても「飼い馴らされた才能」とは実に便利な批評言語かもしれない。これは安易に使うとタチの悪いコトバだ。
●クライヴ・リンリーは西暦2000年記念の交響曲を書くにあたって、自分のメロディ作家としての才能を最高に発揮しようと考える。サッカーにおける(プッチーニの)「だれも寝てはならぬ」のような、公式行事に組み込めるような名曲を書こうとしている。
クライヴは自分をヴォーン・ウィリアムズの後継者とみなし、「保守的」といった評語は政治用語を盗用した不適切なものと考えていた。だいたい、クライヴが注目されだした70年代には、無調音楽、偶然音楽、音列、電子音楽、ピッチをサウンドに解体する手法、ありとあらゆるモダニスト的企てが大学で教えられる正統なものとなっていた。 (中略) がちがちのモダニストたちが音楽を学界に閉じこめ、そこで音楽はひとにぎりの専門化のものとされ、孤立・不毛化させられたのであって、大衆との不可欠なつながりは傲慢にも断ち切られてしまったのだ。 (中略) 狂信者の狭い心にとって、大衆的成功というものはいかなる形であれいかに小規模であれ美の妥協と失敗のあかしになるのだ、とクライヴは主張した。20世紀西洋音楽の決定的な歴史が記されるあかつきには、栄冠はブルース、ジャズ、ロック、そして絶えず進化しつづける民族音楽の伝統に与えられるだろう。
●ね。この作曲家に共感できる人もできない人も、小説の舞台設定、登場人物の造詣が非常にしっかりしていることはわかるでしょ。このクライヴ・リンリーって、現実にはだれに似てるんだろう。英国で国家行事に委嘱される人でクラシック畑、でも保守といってもたとえばピーター・マクスウェル・デイヴィスとかよりもっと保守ってことになる。うーん、だれだろ。日本なら特定できる。調性と機能和声による明快な作風、国家行事に委嘱されるくらい偉い、一般向けにも有名ときたら、そりゃ團伊玖磨だ。
●亡くなった女性の葬儀のために、この作曲家や新聞の編集長、外務大臣らが集まったところから小説は始まる。 (この項、明後日に続く)