●以前、内田樹著「街場の現代思想」をご紹介した。その後、驚異的なペースで内田氏の著作は増え続けていて、ポツポツとワタシもこれを追いかけてるんだが、毎度毎度似たようなことが書かれているのに、読むたびに目からウロコがボロボロ落ちまくる。今回の「知に働けば蔵が建つ」(内田樹著/文藝春秋)もそうで、「ここはいいなっ!」と感じたページに付箋をはさむと、本が付箋だらけになって付箋の意味がなくなってしまう。
●たとえば、「弱者が負け続ける『リスク社会』」の章、「資本主義の黄昏」における、「仕事」について。ニートについてゼミ生にレポートを書かせたら、「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という正しい見解が返ってきてびっくりしたとある。で、こう来る。
仕事というのは額に汗してするものであり、本質的にオーバーアチーブなのである。このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
賃金と労働がつりあうということは原理的にはありえない。
人間はつねに賃金に対して過剰な労働をする。というよりむしろ、ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向こそが人間性を定義する条件の一つなのである。
(中略)
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。
だが、どうして人間は「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのだろう?
おそらく「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がなかったからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。そしたら「気分がよかった」のである。あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要である以上にものを作ってみたのかもしれない。
●なるほど、そうだったのか! 等価交換ではない、労働のなかにある贈与の喜びだとか、仕事にならない無償贈与をしてしまうときの妙な楽しさについても腑に落ちるし、一方逆に、イヤでたまらない苦しいだけで達成感もなにも得られない仕事はどんなものかということも裏側から説明されている気がする。この論は続いて「ではニートというのは何者か」に移り、彼らは資本主義社会から脱落した存在なのではなく、それを「追い越した」人間であると看破して、これも非常に鮮やかなのだが、それ以前に、怠惰でぐうたら好きなワタシ自身と過去およびこれからの仕事との関係性について、きわめて有益かつ重要な理解を得たように思う……って、おせーよ今頃かよっ!