●音楽における「自然への回帰」ってどんなものかという話。
●ポーランドの作家スタニスワフ・レムといえば、「ソラリス」が映画化されていることで知られていると思うのだが、しかしタルコフスキーの「惑星ソラリス」はなにも起きていない時間が長すぎて最後まで通して見ることができたためしがなく(バッハの「主イエス・キリストよ,われ汝に呼ばわる」が流れる)、近年ソダーバーグがリメイクした「ソラリス」は完璧にハリウッド流に洗練されてしまい、スタニスワフ・レム的なものがどこにも見当たらない。
●で、そのレムの「虚数」(国書刊行会刊/文学の冒険シリーズ)だ。この前篇ともいえる「完全な真空」は存在しない架空の書物を論じた書評集だった。そして「虚数」はこれまた架空の書物に対する序文集である。「ありもしない本を述べる本などなんの意味があるのか」と思われてしまうだろうが、ではその架空の本とはなんだろう。「虚数」でいえば、たとえば2009年パリで刊行される「ビット文学の歴史」全5編である。ビット文学とは人間の手によらない文学を指す。あるいは2011年にヴェストランド・ブックスより刊行される「ヴェストランド・エクステロペディア」、すなわち未来予測コンピュータによる未来言語の百科事典だったりする。「虚数」でレムが執筆しているのは、これらの書への序文である。
●そして、序文を集めたこの本そのものへの序文もある。メタ序文である。このレムのメタ序文では「自然への回帰」というテーマが俎上に載せられ、音楽を例としてなにが自然への回帰かが論じられている。コンサート・ホールの聴衆は文化的なように見えても、実はせいぜい音楽に集中してみえるだけのことであると鋭く看破し、どんな聴衆も身を委ねてしまうような身体的な音楽を待望する、このように。
百のマイクロフォンによって盗聴されるこのシンフォニーは、内臓に特有の、暗く単調な楽器編成を持つだろう。なぜならば、その音響的な背景となるのは、増幅された空腸的低音(バス)、すなわち避けがたい腹痛に我を忘れた人々の腹鳴だからである。それは、ごろごろと落ち着きはらい、ぶくぶくと正確で、絶望的な消化の表情に満ちた腹痛だ。この内臓の声こそは、肉体(オルガン)の発するものであってピアノの発する音ではない以上、本物であり、生命の声なのだ! 私はまた信じている。示導動機(ライトモチーフ)は座席に腰を据えた打楽器の拍子に従って展開するだろう、と。そして、その打楽器は、椅子の軋む音でめりはりを付けられ、強く発作的に鼻をかむ音の挿入や、素晴らしいコロラトゥーラの咳の和音を伴うものに違いない。気管支炎が演奏を始める……そして、私には予感がする。まさにここで数多くのソロが、喘息持ち老人の名人芸によって演奏されることだろう。正真正銘のメメント・モリ・ヴィヴァーチェ・マ・ノン・トロッポ、断末魔の苦しみに喘ぐピッコロ。……(後略)
●マラン・マレは「膀胱切開手術図」という描写的で恐ろしげなヴィオール曲を書いたが、スタニスワフ・レムの吐く猛毒ユーモアも負けていない。「虚数」の日本での刊行は98年だが原著は73年。ちなみに「ソラリス」は61年。レムは約半世紀も昔から一貫して遠い未来に向かって絶望し続け、わたしたちはこれを読んで痙攣しながら哄笑する。