●ワタシにとって、「会計」とか「簿記」というものはもっとも縁遠いものであって、これまでに一瞬たりとも興味をひかれたことのない分野である。が、社会の一員たる以上、世のルールにしたがって金勘定もしなきゃならんわけで、とっとと確定申告すれというプレッシャーがかかっており、「フリーランスを代表して 申告と節税について教わってきました。」(きたみりゅうじ著/日本実業出版社)などという実践的な書物を熟読した。
●サラリーマン時代には給与所得控除だの年金だの健康保険だのがほぼ自動的に控除され、昼寝をしていても勝手に課税所得は圧縮されていた。これがいかに楽チン(死語)なことであるかをようやく思い知っており、今や自分で申告をしなければ社会保険も必要経費も控除されない。一方で納税については、仕事ごとに支払い元がまるごと10%を自動的に源泉徴収してくれている、すなわち放っておくと必要経費分も課税されたままになるという仕組みであり、確定申告しない限り払いすぎた分は返ってこない。納税ラブ、いいぜ、どうせたいした額じゃないんだし、税金払いすぎて社会貢献するのもいいかなっ。
●……いいわけない。恥ずかしながら、払いすぎた税金は返していただきたい。そこで必要経費の算出のため領収書を集め、整理することになるのだが、領収書といっても前述の本に出てくる税理士さんによれば大概これはレシートで事足りる、とはいえそれでもときどき手書き領収書をもらう場面というのもあり、これをリクエストすると「お宛名は?」と尋ねられる。ここできちんと伝わるように名前を告げるのがワタシには難しい。「いいおです」と答えると、おおむね相手は「飯野」だの「イイヨ」だの自由奔放に宛名を書いてくるのであり、さらに「伊代」だの「イーノ」だのと書かれることも多く、そのたびにワタシは「オレは松本伊代かよ!」「ブライアン・イーノがこんなとこで文房具買うかよっ!」などと内面で独りツッコミをして戯れることになる。つまり、「い・い・お」といった母音3つから構成される脱力し切った苗字は聞き取りにくいのかもしれん。
●そこでワタシはメンドくさくなった。先日、「お宛名は?」と尋ねられた際、ワタシは「上様で結構です」と答えた。細かいことを言えばアレかもしれんが、事実上これで無問題だろう、上様で。店員さんは怪訝そうな顔をして再確認してきたので、ワタシは再度「上様で結構です」と伝えた。そして受け取った領収書にはしっかりと「う え 様」と書かれており、「い・い・お」の母音3つを超越して「う・え」の母音2つへとさらに弱まって脱力した名前となってしまったのであり、これもひらがなで書かれただけでまちがってはいないと自分を納得させながら、その場で軽くイナバウアー。
2006年2月アーカイブ
脱力しても脱税せず
チェルシーvsバルセロナ@チャンピオンズ・リーグ
●毎晩イナバウアーの特訓して夜更かし癖がついてしまったぜー(ウソ)。すっかりタイミングを逸してオリンピック女子フィギュアを話題にできず。つうかオリンピック終わってるし。
●チェルシーvsバルセロナ第一戦@チャンピオンズ・リーグ。地上波でも日曜の深夜にフジテレビが放映してくれた。見れないよりずっとマシ、でもみんなもう結果知ってるよみたいな今さら感もあってフジテレビに対する心情はビミョー。スカパー入れば一挙解決だが、そのあたりどこかで歯止めかけないとサッカー廃人になる恐れあり。むしろテレビ廃人か。節度って大事。地上波が一節に一試合だけでも生中継してくれればいいのに。
●この試合、もし結果を知らずに見てたら、どれほどおもしろかったか。グチャグチャのピッチで激しい肉弾戦、ホームのチェルシーに不運な退場者が出た。これでバルセロナが有利と思ったら、モッタのオウンゴールで失点。ところがチェルシーもオウンゴールを入れてくれて同点。必死で戦ってたチェルシーだけど終盤さすがに走れなくなって、最後はバルセロナのエトーが逆転ゴール。この日はメッシがすさまじく切れてた。今まででいちばんメッシに驚嘆した試合。そんなこともできちゃうの?
●なにかと因縁のある両チームだけど、今年はぜひともバルセロナに勝ってほしい。今、こんなにすばらしいサッカーをしているチームが早々と敗退してしまうのは惜しすぎる。あと、やっぱりチェルシーってどんなにいい選手がいてもワタシは苦手。ひとえにモウリーニョ監督のせいだろうが、なんか見てると殺伐とした気分になってくる。バルセロナ見てると、夢があって楽しいっすよ。「ブハハッ!」って試合中に笑える瞬間がある、ロナウジーニョやメッシのプレイに。ユーモアっていうか。あ、もしチェルシーにもそれがあるんならワタシが知らないだけだからスマソ。
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追記:スイスのFCバーゼルに移籍した中田浩二、デビュー戦でゴール。SF Videosにアクセスして 26.02.2006 Sport aktuell の下にある三角形から FC Basel vs Yverdon を選んでアクセスするとReal Playerでたっぷり5分間ほどのハイライトを視聴可。中田コのゴール・シーンはもちろん、キーパーと一対一をはずした場面も。
君のチャクラは開いたか。スクリャービン/「プロメテウス」@アシュケナージ/N響
●ありえないようなプログラムだったのでNHKホールへ(アシュケナージ指揮NHK交響楽団。本日もう一公演あり)。曲はスクリャービンの交響曲第1番と交響曲第5番「プロメテウス」。後者はあの「色光ピアノ」を本当に再現しちゃおうというトンデモ系快挙。これまでにも同様の試みは行われているが、キーボードからMIDIデータをPCに取り込み、ステージ上のLEDスクリーンにCG(?)を上映、これに会場の照明が加わって、スクリャービンの求めた神秘体験を追体験できるかもしれないという、画期的な本格オカルト企画である(余談。神秘学というのはオカルティズムの訳語だ。でも神秘学とか神智学という用語はオッケーでも、オカルトはNGっていうことになってる気がする)。
●この交響曲第5番「プロメテウス」に限らず、スクリャービンの管弦楽作品が描いていることはいつも同じで、魂と肉体、物質と精神を揚棄して、至高なる存在(神)との合一に至るというもので、いずれもが究極的にはインドに大寺院を建ててそこで観客参加型の儀式的舞台作品である未完の自作「神秘劇」を上演するという終着点へとまっすぐに向かっていたように思える。神秘体験のためには聴覚だけでなく同時に視覚にも訴えかけなければいけない。共感覚の持ち主だったと言われるスクリャービンでなくてもそう考えるのは自然だ。
●そこで色光ピアノである。色光ピアノによる光や映像を舞台上にどう再現するかというのは作曲者によって具体的に指定されているものではないので、実際の上演には解釈が必要になってくる。今回の照明は成瀬一裕氏。で、具体的に舞台上でどんな映像が繰り広げられたか。パンフレットに「CG」なんて書いてあるからうっかりするとミスリードされるのだが、そこにあったのはわれわれがハリウッド映画などで知るCGではない。原色の光、抽象的な模様を重ねたもので、たとえばキューブリックの映画「2001年宇宙の旅」終盤に出てくるサイケデリックで啓示的な場面のようであり、あるいはWindowsのために無数に作られている幾何パターンによる一昔前のスクリーンセーバーのようなものでもある。つまり、何も知らずに見れば「ちょっとショボい」。でもスクリャービンの意図を忠実に汲み取ろうとしたらそうなるのは必然だろう。20世紀初頭のロシア人が想像した視覚効果なんだから。
●今、ワタシたちは想像しうるものならどんなものでも映像体験できると知っている。それを思い知ったのが、先日のピーター・ジャクソン監督による「キングコング」。ここでは人類が誰一人見たことのないもの、ブロントザウルスの群れが暴走して将棋倒しになるなどというシーンが描かれていた。並みの人間では「そんな場面があるかもしれない」と想像することすら不可能な場面だろう。ワタシたちはもっとも豊かな想像力を持った人間が創造した映像を、チケット一枚で自分の体験であるかのごとく簡単に楽しむことができる。
●一方、スクリャービンが期待した神秘主義的映像では、おそらく何ひとつ具象は想像されていなかったと思う。なぜなら最終目的は神との合一なんである。ハリウッドではあるものを描くことによって目的が成されるが、神との合一はなにかを描かないことによってしかその到達を示唆することができない。神秘体験のためにはなにが必要だろうと考える。それは壮大なものだから、大編成のオーケストラが必要だろうな、ピアノもあったほうがいいだろう、合唱も置いておこうかな、色光ピアノを使おう、インドに寺院を建てよう……そうやってありとあらゆる必要と思われるものを用意しても、絶対に再現することのできないものが神秘体験であるはずで、神との合一に十分条件があってはならない。自然科学では再現性が必要だけど、神秘体験に再現性があったらそれはインチキである。あれも必要、これも必要、それを全部そろえた、でも到達しない、それは神との合一にはなにかがまだ欠けているから。といったロジックが必要であり、色光ピアノがサイケデリックな抽象映像を表現することで、まだ描けてない何かを示唆するのは正しいはずだ。
●かつてオウム真理教団がサリンを撒く前、まだ危険なカルト集団ではなく珍奇な新興宗教とみなされていた頃、ワタシはそれと知らずにオウム真理教経営の定食屋さんに通っていた。安くておいしく、繁盛していた。だが、メニューをはじめあちこちに教団色が滲み出ていて、ワタシはこれがオウムの店であることを知った(それでも食べてたけど)。たとえば、「アストラル・ドリンク」みたいなのがメニューに載っている。既存のオカルティズムからの借り物の概念をホイと300円くらいで提供してしまうところが、新興宗教だなと思った。これを飲んでアストラル界を体験しよう、というのならうさん臭い。これを飲んであれを食べてあんな修行をして、それでもやっぱり神との合一は遠いよ、といわれたら本格オカルト(どっちにしろインチキだろう、なんていう視点はこの際忘れる)。
●だから、このNHK交響楽団定期演奏会でも、たぶん聴衆はだれも神秘体験に至らなかったと思う。ワタシもダメだった。これは正当な結果である。神との合一がチケット一枚で実現してはいけない。あ、また須栗屋敏先生のコーナー作ろうかな♪
雨の歌
●そう、たしかに一瞬、春っぽくなった。雨も降った。そんなときには都会にいてもでっかいヒキガエルを見かけることがある。地面という地面を執拗にアスファルトで固めた東京でさえ、たまに見かける。ヒキガエル、それともガマガエル? 違うのか。Wikipediaで調べたら、同じことのようだ。とにかく一昨日ワタシはでっかいヒキガエルを道のど真ん中に発見したんである。
●が、正確にはそれはヒキガエルというよりは、元ヒキガエル、現ヒカレガエルと呼ぶべき物体であった。哀れ、モータリゼーションの犠牲者よ。ヒカレガエルは轢死体となってアスファルトと半一体化していた。ワタシは近づいて、一言声をかけた。「大丈夫か、ピョン吉!」。……大丈夫なわけない。アスファルトとTシャツは違う。
●「宝ずし」の梅さんこと梅三郎が25歳という設定をたった今知っておののく。
ニッポンvsインド@アジア・カップ予選初戦
●演奏会があったので、帰宅してから深夜に録画観戦。それまでメール受信をしない、Yahoo!につなげない、人と不用意に話さないなど、試合結果に関する情報を一切シャットアウトして観戦するのであるが、前半緊張感を欠いてピリッとせず1-0で終わった時点では「これはもしやひょっとするとひょっとするのでは」という逆期待を抱いてしまった。
●が、いくらなんでもひょっとしない。アジアカップ2007予選のホーム、相手はインド。巻、長谷部、佐藤寿人ら鮮度の高いメンバーによる小野入り国内組ニッポンは後半に5点追加、終わってみりゃ6-0の大勝。インドは終盤、気持ちが萎えてて、もう走れてなかった。
●平日のアジア・カップ予選じゃ日産スタジアムは全然埋まらない。ガラガラ。ここしばらくニッポンはチャンピオンとしてアジア・カップ予選を免除されていた。でもW杯同様、チャンピオンも予選から参加することになった。みんな頭はワールドカップのことでいっぱいで、アジア・カップ予選なんて忘れてる。だからこそ生観戦のチャンスでもあるのだが、それが日産スタジアムじゃあねえ……。国立競技場で十分じゃないの。あっちが聖地、サッカーの神様宿ってるよ。日産スタジアムには集金の神様しかいないと思うぞ。
●ブラジルやアメリカなど強い相手にはとことんたくましくなれる加地亮が、美容院で魂でも抜かれてきたのかと思うような凡ミスを連発、弱い相手にはどこまでも油断するナイスガイである。前半何度かブーイングが起きたように、果汁20%くらいの密度の薄いゲームであった。でもそりゃしょうがない。巻、長谷部、佐藤寿人はがんばってた。このレベルの相手なら無敵。
イヌ科向けネコ科着衣
●公園で散歩していた犬がPUMAを着用していた。よい犬である。ワタシのジャージもPUMAだ。キミはPUMA犬、ボクはPUMA人。
●メールの真贋を議論してるときにFROM欄が塗りつぶされたプリントアウトが出てくるのって、かなりブラックジョークっぽい。Received:フィールドとか詳細ヘッダがどうなってるかってのはだれも気にしないのかっ!
●DHCのFROM 40にて「オトナのためのクラシック音楽入門」第13回掲載中。よろしければどうぞ。
メダル・コレクターの方はあちらへ
●あー、メダルがない、メダルメダルメダル、メダルがありません~、誰かメダルを~。って、小さなメダル探してメダル王の城に持っていくのですかっ! カモン、不思議なボレロ。一マスごとに便利ボタンでメダル絶対ゲット、即ルーラすれっ!
●と意味レスに昂ぶったところでトリノ五輪。いつも冬季五輪ってあんまり見ないんだけど、今回のトリノはかなりおもしろい。冬季ってこんなに見るもの多かったっけ? 新競技スノーボード・クロスが強烈だった。4人で併走するレースになってて、猛スピードで滑降する。コーナリングのライン取りとか、接触してクラッシュする感じとか、F1見てるみたい。それにしても冬季は命知らず系のスリリングな競技が多いっすね。ジャンプだろうが滑降だろうがスノーボードだろうがリュージュだろうが、ワタシだったらコンマ1秒だってあんな恐怖に耐えられない。
●そんななかで異彩を放ってるのがカーリングで、これがいちばんおもしろかったりする。主にニッポンの試合を少しずつ見てる。一つのスーパーショットでいきなり形勢逆転したりする快感もすばらしいんだが、一方ジリジリとした接戦をずっと凌いでいたのに終盤のミス一つでいきなり絶望的な苦境に立たされたりするという、ちょっぴりイジワルでカタストロフな競技性が与えてくれる被虐の喜びこそ醍醐味って気がする。選手にアスリート感が全然なくて、みんな北国なムードも吉(なんだそりゃ)。
●ラヴリー作曲家占いが大ウケでワタシは嬉しい。ヨソのサーバーなので、たまに落ちてるみたいだけど手出しできず。
ニッポンvsフィンランド、必然の完勝
●小野が加わったニッポン代表国内組バージョン、アウェイの米国戦では散々だったが、静岡でのフィンランド戦は2-0の完勝。一安心ではあるんだけど、それにしても相手がなあ。フィンランドの選手たちの所属クラブ一覧がみつからなかったんだけど、ニッポン同様欧州主要リーグの選手たちは参加できなかっただろうし、そもそもフィンランドはW杯出場権を逃しているからこの時期に彼らが見ているのは少し未来。フィジカル・コンディションも良くなく、サッカーの質もアメリカに比べると相当低かった。本来のフィンランドは全然あんなもんじゃないだろう。
●なので、久保の復活ゴールも小笠原の自陣からの伝説級スーパー・ロングシュートも、もう一つワクワク度が低かった。アメリカにコテンパ(死語)にされたショックのほうがまだ鮮烈に残ってる。フィンランド戦は明日には忘れているが、アメリカ戦は本大会に負けた後でも思い出せそうだ。
●左アウトサイドはアレックスじゃなくて村井でもまったく問題なさそう。右の加地も相変わらずいい。しかし中央は本大会じゃどうなるのか。3-5-2だと内側は3人。俊輔、小野、稲本、ナカタのうち少なくとも一人はベンチってことになる(福西がベンチとしても)。そして小笠原はまたふてくされることになるのだろうか。
二番目に大切
●調子に乗って昨日の「ラヴリー作曲家占い」を常設コーナーとしてトップページに掲げてみた。これ、インスタント占いツクレ~ルっていう既存のサービスを利用してるので、サーバーはヨソだし、CLASSICAへの戻りボタンを付けられなかったりするんだけど、無料なんだからしょうがない。というか、このサービスを考案した人はすっごく鋭いと思った。
●占いの設問、「人生で二番目に大切なものは?」はワタシのその場の思いつきだが、たしかなにか元ネタがあった。二番目っていいっすよね。一番大切なものは、ごく常識的に考えて○○とか○、でなきゃ○○くらいしかない。ヘンなものを書くのはロクな人間じゃないみたいで憚られるし、一番についてあれこれ書いたり話したりするのは慎み深さに欠ける。でも二番目ならオッケーでしょ。マックス欲望&煩悩全開にしてても、「二番」にすぎないんだから(笑)。二番目なら軽いよ。「ああ~、君の瞳はなんて美しいんだ。僕は君のことが世界中で二番目に大好きさっ!」とか。
●Sheet Music Plusにて Music Minus Oneセール開催中。3月2日まで20%off。ピアノだとかヴァイオリン、ヴォーカルあたりはともかく、コントラバスとかリコーダーでも商品が成り立つのだなと感心。
ラヴリー作曲家占い
●「ラヴリー作曲家占い」というものを作ってみた。設問はたった一つ。ぜひお試しを。超お手軽制作なのだが、どのヘンがお手軽かっていうのはナイショだ。
●ちなみにワタシが今やってみたら、「iioさんはメンデルスゾーンです!」と来て、「ワタシを見守る神様は上様」、運勢ランキングは第一位で「おならで月まで行けそう」ってことである。ラッキー♪
※ 占いに直接リンクを張るときは以下のURLにしてくれると吉。
http://www.classicajapan.com/wn/archives/001045.html
カールしてカーリング
●たまたまテレビつけたらカーリング女子 ニッポンvsロシア。これもなじみのないスポーツなんだけど、見てるとおもしろい。意外と試合が長くて、集中力の持続が求められる競技で重厚。ちょっとしたミスで負けるっぽい。この試合、前半ニッポンがリード、固唾を飲んで見守っていたのだが、終盤であっけなくロシアに逆転されてしまった。えー、こんなにじっくり見てたのに。なんかやたら悔しいと感じるってことは、つまりおもしろいってことか。ルール等はYahoo!のカーリング競技紹介のページへ。ビリヤードみたいだなあ。
●バレンタインデーについて。その1:特定菓子贈与禁止法案可決。その2:バレンタインデー研究所が中止を発表。Sonnenfleckさんのところ経由でみつけた。
●「メンズノンノ」3月号にて「クラシック音楽が面白い!」小特集。ちょこっと当サイトをご紹介いただきました。感謝。
みかん食しながらほっこりトリノ五輪
●そういえば冬季五輪が開幕しているのであった。トリノ・オリンピック2006。スピードスケート男子500mをテレビ観戦。やっぱり、いいっすね、オリンピック。日頃全然見てないスポーツを楽しめて。日常的にはサッカー追いかけるだけで十分っていうかもう精一杯だから、こういうお祭り限定で違うものを見るってのが吉。
●スピードスケートでコーナーを猛速全力滑走する姿っていうのは、どうしてあんなにカッコいいのか。太ももまわりの発達ぶりが進化した人類っていう感じで、エヴァンゲリオンに出てきてたっぽい体型でグレート。その大腿四頭筋はダイヤモンドの硬さ(意味レス)。
●今年はチョコ・インフルエンザが猛威をふるっているので、バレンタインデーは中止となりました。ウソです。あー、去年のチョコがまだこんなにあるのに。しょうがないからお菓子の家でも建てようかなっ!
「コジ・ファン・トゥッテ」@新国立劇場~ビミョーにモーツァルトイヤーその2
●せっかくのモーツァルト・イヤーなんだからと先日の「魔笛」に続いて新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」。演出はコルネリア・レプシュレーガー、05年の再演。「魔笛」は起承転結のない非物語的でハチャメチャな筋だから、オペラであってもストーリーを追う気になれるんだけど、「コジ・ファン・トゥッテ」などダ・ポンテ三部作はちゃんとしたストーリーがあるからこそ物語的な関心は持ちにくい(音楽は最高だけど……ってヤツ)。
●が、舞台で見ちゃうとやっぱり筋を追ってしまう。「コジ・ファン・トゥッテ」っていうのは、(ダ・ポンテだってのを無視して)現代の視点から見ると、かなり冴えない話である。「女の貞節なんてこんなもんだ(=でも男は違うのさ)」っていう男の一方的で身勝手なジェンダー観が物語の骨子となっているのだが、じゃあテメエはどれほどの男であるかというと、老獪なジジイに手玉に取られちゃうあんまり賢くない軍人であって、これがまた変装するにあたって異国の貴族を選択してしまうあたりが、どうにもカッコ悪い。男なんてホントは一皮剥けばどいつもこいつもこんなようなものだとはしても、それにしても言動の一から十までがとことん冴えない男のそれ。よくいるでしょ、電車の中とかで、パッとしない男が己のこれまたパッとしない恋愛観や女性観を得意げに友達に披瀝してたりする光景。あれがフェッランドとグリエルモ。ダサダサなくせに傲慢。「電車男」の対極に位置している。
●で、彼らに負けずにヤな感じの女がいて、その名はデスピーナ。この女は自分の手は汚さないみたいなところがヤであって、人に放埓を勧めるのであればまずお前が思い切り良く遊べよといいたくなるわけで、ったく小人閑居して不善をなすってヤツである。小ずるいってヤだね、悪党より感じ悪いよ。
●この話で唯一感じがいいのはドン・アルフォンソ。さすが老哲学者である。カモになる若者を見つけると容赦しない。一日で大金を巻きあげる逆結婚詐欺ともいえる鮮やかな手口を披露、しかも若者に知らずにいれば幸せだったかもしれない世の条理をわざわざ教えてあげる。辛辣である。一本筋の通ったイジワルなジジイで、若い頃はブイブイ言わせてたんだろうなあって感じがする。こいつが真のモテ男だってことに、いつかフィオルディリージもドラベッラも気づいて欲しいもんである。
●そんなわけで(どんなわけだ)、「コジ・ファン・トゥッテ」は音楽が最高だから演出はまあ特に珍奇なものでもなけりゃそれで十分だろうと思って見ていたのだ、やっぱり音楽が主役なんだからさ、あんまり演出家ががんばりすぎてるオペラってどうかと思うよね、と。……が、聴衆ってのは無限にわがままなので、オーソドックスで親切な舞台を見ていると、だんだんとそんなにわかりきった長広舌をふるわんでもいいだろうってな気分になってきて、うっかり先日テレビで見たドリス・デリエ演出のベルリン国立歌劇場を思い出してしまう。あれ、可笑しかったよね、冒頭場面が空港でフェッランドとグリエルモがスーツを着たビジネスマンっていう設定になってて、剣の代わりに傘を持ってるのとかホントよくできてる、出征するんじゃなくて異国に赴任するんだろうけどある意味ビジネスも戦争だし、ビジネスマンから変装して60年代ヒッピーになるっていうアイディアも秀逸。あー、いかんいかん、隣の芝がすごく青く見えてるぞ。ペーター・コンヴィチュニー演出の「皇帝ティトの慈悲」@二期会、見ておくか?
アメリカvsニッポン、野球場の芝でスッテンコロリン
●く、悔しいぞ。よりによってアメリカ(しかも国内組)に負けるとは。いや、近年のアメリカがヤバいくらい強くなっているっていう認識はあった。実はアメリカはワールドカップ決勝まで目指せるんじゃないかと心配している。あー、価値がない。あんなにドメスティックなスポーツで盛り上がる人たちにワールドカップ本大会活躍の栄誉を与えてしまうなんて。ていうか実際前回ベスト8だし。というアメリカに関する憂鬱な通奏低音があった上で、この試合を見たのである。われらがニッポン代表がアメリカに手も足も出ないという試合を。
●最初10分未満かな、ニッポンは押していた。あとはほとんど耐えていた。仮想オーストラリアってのはそれなりに正解だと思うけど、ドイツとでも対戦してるんじゃないかって気になった。アメリカは組織的でパワフルで、しかもJEF千葉並によく走って、何より攻撃がシンプルなのがいい。ゴールって簡単じゃん?って言われてるような。一方、ニッポンはシュートすら打てない。
●後半、相手がバテてきてから日本が攻めだしたけど、もう0-3になってたわけだから。巻と中澤のゴールで2-3になってといっても、実感は一点差にほど遠く、試合中は4点、5点と奪われたらどうしようビクビクとキツネに追われる子ウサギのことく恐怖していたのであって、これが相手がブラジルならともかくなんとアメリカである。屈辱なり。この日をジーコ・ジャパン最悪の日として記憶する。前回ワールドカップでメヒコがアメリカに敗れたとの同じくらい、重い敗北感に打ちひしがれている。サッカーでまで負けちゃうのかよ。牛肉ならいくらでも食うぞ。だがサッカーは。
偉大なるジャンルカの訃報
「僕は海老ドリアも好きなんですがサンプドリアも好きで……」
「ブランコはブランコだけに左右に動いてますね」
「果報は寝てマテラッツィ」
「ミドあることは三度ある」
●信じられないニュースなのだが、ジャンルカ富樫氏がアフリカで急死した(nikkansports.com)。享年54。エジプトでのサッカー・アフリカ選手権を取材中、就寝中に痰を詰まらせて窒息したという。
●ジャンルカ・トト富樫(本名は富樫洋一)氏って誰だって言われると、サッカー解説者っていえばいいのか評論家っていえばいいのかライターっていえばいいのか、それともCALCIO2002の編集者が本業なのか、よくわからないんだけど、本質的には「愛すべきサッカー好きのオヤジ」ってことだったんだと思う。イタリアやアフリカ事情に通じていて知識や体験の量と質も高かった。でもそれがジャンルカ富樫の偉大さかっていうとそうじゃない。過剰に連発されるダジャレに代表されるサービス精神と、イタリア・サッカーからJリーグまで分け隔てのない全肯定的な愛、これがジャンルカの偉大さじゃないだろうか。
●テレビでも活字でも、ジャンルカ富樫が出てくると、「ああ、サッカー、すばらしい、大好きだぁ」っていう気持ちをメディアを挟んだ向こうとこっちとで共有できた。目からウロコが落ちるようなサッカー観を披瀝したり、素人目にはわからないピッチ上のできごとを鋭く観察してとらえたりとか、そういうことを一切しなくても、ワタシたちを喜ばせることができた。だからジャンルカはスゴい。つまらないヒエラルキーをサッカーに持ち込まない。お前らはわからないだろうがオレにはわかるといった傲慢さとも無縁。ジャンルカは「セリエAの解説をしている自分」を第三者の視点で眺めたときに、自分は本当に幸福である、こんな仕事できて嬉しいなあと感じていたにちがいない。だからワタシたちもいっしょに楽しい気分になれた。
●謹んでご冥福をお祈りいたします。
告白(町田康)
●新聞やニュースで伝えられることや身の回りに起きる大小さまざまな出来事、そしてそれについて巷の人々が語る言葉。その多くにうんざりさせられることがあると、こう思う。ああ、世間とワタシとにあるこの深い溝はなんだろう、彼らがなにを言っているかよくわからないし、彼らと同じようにふるまうことがどうしてワタシにゃこんなに難しいんだろうか……。
●てなぐあいに1ミリセコンドでも苦悩した経験がある者は直ちに読むべし、「告白」(町田康/中央公論新社)。去年話題になった本を今頃恐縮なんだけど、まさかこれほどとは。今まで「町田康はエッセイなら死にそうにおもしろいんだけど、小説のほうはそれほどでもないかな~」などとたわけたことを思ってたバカ者は要反省(←ワタシのことだ)。
●「告白」は明治26年に起きた「河内十人斬り」を題材としている、といったことは一切知らずに読んでもオッケー。なぜ人はわかりあえないのか、そしてなぜ人は人を殺すのか。それは人は知性ゆえに思弁的になり、近代的自我を持ってしまったから。元パンク歌手のステキすぎる文体に気持ちよく惑わされながら読み、そして知る、「告白」が人の本質に迫った堂々たる傑作であることを。しかもそんな重いテーマを扱いながら、見開きあたり一回はクヒクヒと痙攣しつつ爆笑してしまうという奇跡のような小説なんである。主人公城戸熊太郎にあなたは自己を投影して共感できただろうか。できたはずだ。できないなら、あなたとワタシはなにも分かり合えない。
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●伊福部昭、逝く(asahi.com)。謹んでご冥福をお祈りいたします。
「英雄の生涯」に広告枠があったら
●せっかくモーツァルト・イヤーなんだから、モーツァルトのことも書かなきゃなあ。クラシック音楽サイトなんだし。モーツァルト、すごく好きなんだから、お気に入りの曲とかディスクの話だけでも延々やってられそうな気がする……と言いながら、明後日の方向へビバ逸脱。
●昨日、フジテレビのR・シュトラウス「英雄の生涯」にCMは入っていなかったって書いてたけど、これって入れようと思えば巧妙に音楽に即した形でCMを入れることだって可能なんじゃないだろか。音楽は中断できないから、ラトルとベルリン・フィルが演奏している画面の下3分の1とかに文字やら絵のレイヤーをCGで重ねるみたいな、P.K.ディックの小説に出てきそうな光景。英雄の主題がはじまるとトヨタのレクサスが走ったりとか、独奏ヴァイオリンが「英雄の伴侶」のテーマを奏でると結婚情報サービスのCMが流れて、「戦場の英雄」で警備保障会社、「英雄の引退」で保険会社の個人年金とか葬儀屋とか。一曲聴いたら先走って人生逆追体験、バーチャル・ハッピー・リタイアメント。
●ちなみにR・シュトラウスが自伝的交響詩「英雄の生涯」を書いたのは34歳のこと。34歳っすよ。早すぎねえか、これから人生どうなるかわかんないのに。今でいうなら、35歳で自伝を書いた爆笑問題の太田光みたいなものか。
春を待ちながらpingすれ
●なんだか今年は冬が長い気がする。また雪なのか。
●右欄のMyBlogList、しばらく前からブツブツ言ってるけど、渋々ながらDrecomRSSに切り替えた。従来のMyBlogListのままじゃ新規追加できないんだから、もうしょうがない。それにしてもDrecomRSS、リストに新規サイトを加える操作一つとっても実にわかりにくい。更新されても拾ってくれないサイトが増えた気がするし、サービスの質はかなり低下したという印象。市場原理の働きでいつかどこかがより安定したサービスを提供してくれるのを待望し、それまではこのまま耐えよう。あとはブログ側のping送信に期待。
●正月頃にフジテレビで放映されていたラトル/ベルリン・フィルの録画を今頃になって再生。R・シュトラウスの「英雄の生涯」。さすがに曲の途中でコマーシャルは入らなかった(ていうか切れ目ないし。入ったらスゴいよ)。しかし早朝の放送だったため画面左上にずーっと時刻が表示されてて、これがどうもソワソワしてしまって気になる。あっ、でもこんなの気にするのって偏狭なヲタ属性なんじゃないか。軽く戦慄しつつ反省。
フーリガンの社会学(ドミニック・ボダン著)
●フーリガンの社会学(ドミニック・ボダン著/白水社 文庫クセジュ)を読んでいる。薄い新書なのでフーリガニズムに対する基本的な見取り図となってくれるもので、メディアが伝えるステレオタイプのフーリガン像への冷静な反論を社会学の立場から述べている。でもそういう本筋の部分より、フランスの学者が書いているってところで新鮮味があって、前提としてアングロ・サクソンは他者で、それに対してフランスはどうかという視点がある。そもそもステレオタイプのフーリガン像っていうのが、ワタシらには定着してないと思うがこんな感じだ。
ジャーナリストたちは、アングロ・サクソンのフーリガン現象についての解釈を大量に、かつ反復して報道し、フーリガンの集団像を作り上げることに広く貢献してしまったのである。つまり、フーリガンというのは、若く、社会に適合できず、日常生活でも軽犯罪を犯していて、アルコール漬けのイギリス人、という像に結実したのである。
そういう島国の問題だと思ってたけど、フランスでも近年は深刻な暴力問題が起きてるし、だいたいフーリガンは低階層の飲んだくれ失業者ってわけでもないって話。これ読むと、日本のJリーグのスタジアム(ゴール裏)とヨーロッパのフーリガニズムは全然つながってないのを実感する。そもそも出発点が違ってるから。幸いなことである。
おもしろかったのは時代の感性によって暴力をどこまで許容できるかは違ってるという見方。例として50年代のダンス・ホールが挙げられている。
ダンス・ホールはどれも最終的に乱闘騒ぎでお開きになるのが「普通」であって、それは十分に予想可能なことに思えた。しかしこんにちでは、同様のことが毎土曜日のディスコで起これば、なにか信じがたいことのように思われる。
そりゃそんな「普通」はそりゃ受け入れられんよなあ、今は。暴力の意味は時代と場所によって変わるから、ありふれた騒乱と暴力事件を区別して定量的に扱うのが難しいという学者の立場からの記述。身体感覚ゼロの本なので、現場感覚100%の「フーリガン 最悪の自叙伝」(ミッキー・フランシス著)あたりを併読するといいかもしれない。
○と3m
「もしもし、もしもし」
「はい、ハッピーレコード社です」
「あのぅ、ウチの息子に頼まれたんですけどね」
「はい」
「○と3mっていう曲のCDがそちらから出てるって聞いたんですけど」
「えっ? なんていう曲ですか」
「○と3m」
「丸と3メートルですか?」
「ええ、おたく様から発売されてるので買いたいんです」
「いやあ、そんな曲あったかなあ。ウチはクラシックなんですよ」
「クラシックです。ゲンダイオンガクって言ってましたけど」
「みんなの歌かなんかじゃないですか、そんな曲ありませんねえ」
「いや、息子は有名な曲だって言ってましたよ」
「作曲家はだれかわかりますか」
「だれだったかなあ。ピエールとか言ってたような気がしますが」
「ピエールの○と3mですか」
「そうそう」
「それ、ウチと違うと思いますよ。NHKにでも聞いてみてください」
「そうですかぁ、じゃあまた調べてみます、すんませんどうも」
「はいはい、どうも~」
ガチャ。
「おーい、山田ぁー、ピエールの○と3mって曲、知ってるか?」
「はぁ? それピエール・ブーレーズのル・マルトー・サン・メートルですよ、部長」
「ブーレーズか。......知らんなあ、誰それ?」
進めテクテク、数えよカシャカシャ
●ウォーーーーーーク! 進むべき道はない、だが進まねばならない、ノー、ノー、いやそんなことはない、道はある、だから毎朝装着するのだそのベルトに! ステキひきこもりライフを夢見てちゃいけない、今こそ外に出よ、力と光の波のように歩み、記録するのだ、その両足の軌跡を。そして驚愕せよ、ガーター亭亭主殿の歩数計記録に。平均9737歩。最大値なら一万だって二万だってワタシも歩く、しかし平均値リアルほぼ万歩は偉大なり。近頃不要なる脂肪の蓄積に困惑する年頃、ワタシもオムロン機を装着し歩く、たとえ用事がなくても歩く、道は探すのだ、断ち切られた歌をうたいながら、未来のユートピア的ノスタルジー的遠方に向かって歩行する。だがしばしばデイリー5000歩、うっかり終日PC前でカチャカチャしてると人体省エネ1500歩、おのれ、悪いのはこのマウスかそれともリモコンか(いや無関係)。進まなければならない……夢みながら。
ADSLを導入した……はぁ?
●いやー、速いなあ、快適だ、ADSLは。冗談でもなんでもなくてホントの話なのだが、ようやくわが家にADSL導入。「えっ、じゃあ今まではなんだったんだ?」と思われるかもしれない。はい、フレッツISDNでした(爆)。ン年前、人に先駆けてISDNを導入したのはいいが、その後ADSLに乗り換えるタイミングを逸して、今の今まで化石みたいなISDNルータを酷使しながら64kbpsでネットにつないでいたのだ……。ここで「ネットラジオを聞いた」とか「Skypeした」とか言ってたの、全部ISDNでつないでたから。ビバ、ど根性ネットワーキング!
●しかし世間は「光」だっていうのに、今どきISDNはなかったよなあ。はるかにスピード遅いのに料金はADSLと同等、っていうかNTT以外と比較したらISDNのほうが高い(笑)。ここまでISDNを引っ張り続けたのは単に「いろいろ乗り換える手続きがメンドくさかった」から。末期状態まで虫歯を放置してた気分。
●PC2台でネットワークを組んでいるので、ADSLモデムに加えてルータが必要だったのだが、両方ともNTTからレンタルするとあまりリーズナブルとはいえない価格になるので、実質製品寿命の短そうなADSLモデムのみNTTからレンタル、ルータ(有線)は簡単なものを購入した。ISDNルータの記憶があるので、漠然とルータって2万円弱くらいするのかなあと思ってたら、驚くことに3000円代からある。巷の評判も調べて、BUFFALO BBR-4MG を購入した。
●はっ。いかんいかん、ワタシはISDNからADSLに乗り換えるときのノウハウを書こうとしているぞ。そんなのだれも必要としてないっての!
●ちなみにADSLはどれくらいの速度が出ているのかと思って、goo スピードテスト で測定。ウチはNTT収容局からやや遠いので契約は8Mにしたのだが、5.2Mbpsくらい出ている。十分。ちなみにワタシがはじめて購入したモデムは1200bpsだった。