December 11, 2006

ベートーヴェン「フィデリオ」@新国立劇場

新国立劇場●新国立劇場でベートーヴェン「フィデリオ」(9日)。この一ヶ月くらい、忙しくて自主的自宅軟禁状態になってたのだが、あらかじめ「この時期なら余裕だろう」と思ってチケットを取っておいたら、やっぱり進行が押して余裕どころではない。なんかこっちが疲れていたせいか、音楽にも疲労感を感じ取ってしまった上に、手際はよいにしても、フィナーレだけ突如としてリアリズムを捨てて集団結婚式に走るマレッリ演出には付いてゆけず。あと、序曲の間のレオノーレ→フィデリオの着替えシーンは歌手を選ぶなと。歌は秀逸だけど、着替えても差し支えない人が本気で着替えないと、昔のユニクロのCMを思い出してしまう。オバチャンがレジで服脱いで返品するバージョン。でもワタシは満喫した、完璧に。「あー、楽しかった」って言って帰宅できる。
●ベートーヴェンの書いた唯一のオペラ「フィデリオ」は、よく言われるように音楽がすばらしいのであって、オペラとしてはかなり不思議な構成だ。もし音楽の価値を無視して台本だけ見たら、一から十までうまく行っていないって感じるかもしれない。人物像とストーリーが噛み合っていないし、ハッピーエンドに向かうまでのプロットがあまりに弱い。
●主役レオノーレ=フィデリオ。夫を助けるために力を尽くす高潔な女性である。男装し、危険を冒して刑務所に潜入、最後の悪漢との対決場面では体を張って夫を守る。「この人を刺すんなら、まずアタシを刺してからにしなっ!」。ガバッ(と男装解除)。カッコいい。ていうか、カッコよくあってくれ。でも女性が男性のふりをするとか、女性が男性のふりをするとかってのは、コメディ、ブッファなら容易に受け入れられるけど、無実の罪で囚われて凄惨な死を迎えようとしている政治犯救出劇に使うアイディアなんだろか。
●ロッコ。この人が本当なら物語のキーパーソンになっててもおかしくなかった。1幕のなにかと評判の悪い「お金のアリア」も、理想論ばかり掲げているヒロインと違って、世間ってものを知っているフツーの大人、娘を育て上げた親の率直な心情を歌っているともいえる。人殺しをするほど悪人にもなれないけど、仕事を失う危険を冒して人道主義を全うするほど善人でもない、弱いどこにでもいる庶民……のはずなのに、「フィデリオ」を見てロッコに共感する人はいないと思う。ワタシたち自身と同じなのに。「オレ、こんな仕事やりたくてやってるんじゃないよー」っていう嘆きがないからか。
●フロレスタン。2幕から出てきて、唐突に「気高き人物」とか言われてもねえ。フロレスタンとドン・ピツァロとの前史が劇中に描かれていないのに加えて、大臣ドン・フェルナンドが来るといきなり「わが友」扱い。あんた、何者なのさ。こういう英雄を無条件に信頼しては危険だとワタシのなかで警鐘が鳴る。だいたいこれってドン・フェルナンドが「デウス・エクス・マキナ」をやってるわけで、「正義が勝つ」ためのいちばん大事なプロセスが抜け落ちている気がする。
●マルツェリーネ。気の毒にも「フィデリオ」に恋してしまう若い娘。こんなチャーミングな登場人物を配しておきながら、フィナーレに突入すると忘れ去られる人物。なぜそこでヤキーノとハッピーにくっつく愛の二重唱がないのか。
●ドン・ピツァロ。絶対的な悪役でなければいけないのに、劇中ではふんぞり返っているだけで、大した犯罪行為は見当たらない。フィデリオに向かって一瞬ナイフは持つけど、相手がピストルを持ってたから逃げたとか、大臣が来たらもう降参とか、お前には冷酷無比な悪の美学というものはないのかと問い詰めたい。
●どうしてこんな台本を受け入れちゃったんだろ。現状だと、レオノーレとフロレスタンが狂信的な電波夫婦で、ドン・ピツァロとロッコが社会秩序を守る市民の味方っていう解釈もありうる。と、ぐだぐだ言ってるが、このカオスな台本も含めてというか、そうだからこそ「フィデリオ」はおもしろいのかもしれん、ラブ「フィデリオ」。

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