●この本を読んで、美術界がうらやましくなった。「私はフェルメール~20世紀最大の贋作事件」(フランク・ウイン著/ランダムハウス講談社)。これはなにかといえば、フェルメールの贋作者であるハン・ファン・メーヘレンの伝記である。フェルメールのことはろくに知らないのに、贋作者のことには詳しくなってしまった(笑)。
●ファン・メーヘレンの代表作は、当時オランダ絵画界最高額の値段がついたという贋フェルメールの「エマオのキリスト」。贋作がバレたのは、ナチスのゲーリングの所有物としてフェルメールの贋作「姦通の女」が押収されたから。売買ルートからファン・メーヘレンの名が挙がり、オランダの至宝を敵国に売り渡した罪で起訴される。で、ファン・メーヘレンは告白したのだ。「いや、それフェルメールじゃなくて、実はワタシが描いたんです」と。これがきっかけでいくつかのフェルメール作品が贋作であったことがわかるのだが、その反響がおもしろい。これまで散々傑作として「エマオのキリスト」を称賛してきた専門家はどうすりゃいいのか。で、なかにはファン・メーヘレンが自白したのにまだ自分の誤りを認められなくて、「エマオのキリスト」真作説を唱える専門家がいたりする。贋作能力を証明するために、ファン・メーヘレンは法廷で衆人環視のもとでフェルメール風作品を描かされる。大変なスキャンダルであるが、部外者から見れば痛快でもある。
●絵画の門外漢のワタシはわかっていなかったのだが、ファン・メーヘレン級の贋作というのは、ただ絵が描ければいいってものじゃないんである。絵の才能はもちろん必須、しかし並外れた情熱もいる。たとえば、フェルメールは17世紀の画家だから、画材店で絵の具を買ってきて描いているわけではない。顔料は自前で調合するわけだ。ファン・メーヘレンも17世紀絵画への造詣の深さを活かして、当時と同じ方法で顔料を作った。フェルメールの青は天然ウルトラマリンで、ラピスラズリという貴重な鉱石をすりつぶして生成する。ファン・メーヘレンはそれも再現している。キャンバスだって、別の本物の17世紀絵画を購入して、そこから絵の具を剥ぎ落として調達した。そこまでやって、そして専門家や批評家が感嘆するような見事な「エマオのキリスト」を描いたんだから、もうこれはファン・メーヘレンその人が偉大な才能の持ち主だったってことでいいんじゃないのか(笑)。
●で、そんな美術の世界にどう羨望を感じたかといえば、音楽にはちっとも優れた贋作者が出てこないってことだ(笑)。斯界の権威が真作と認める、未発見のベートーヴェンの交響曲を作曲しようと情熱を燃やす人はいない。バッハの未発見のミサ曲とか、モーツァルトの未発見のピアノ協奏曲とか、そんなものを書いてくれる贋作者がいるならワタシは諸手を挙げて歓迎する。ありがとう、こんなすばらしい曲を書いてくれて、と。
●これに近い路線としては、クライスラーの事件が有名だ。当初、バロック期の古い作品を図書館から発掘して、それを編曲したものとして自作を発表していたのだが、30年も経ってから本当は自身のオリジナル作品だったことを打ち明けた。でも、これは全然本質的にはファン・メーヘレンのやってることとはちがう。ワタシが聴きたいのは、どこからどう聴いても真作としか思えないバッハやモーツァルトの新しい名曲だ。「エマオのキリスト」がそうであったように、多くの人を感動させる大作がいい。
●でもわかってる、これはムリな話なのだ。だれもモーツァルトの交響曲第42番を書かない。決してバッハの(資料からの復元ではなく「本物」の完成品としての)「ルカ受難曲」は書かれない。騙せるほどの天才はいないから? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ一つ確実なのは、ファン・メーヘレンは贋フェルメールを売ることによって、どれほど遊蕩しても使い切れないほどの大金を手に入れたが、贋バッハはいかに優れた作品を書いても、それがバッハの真作と信じられる以上、1円も手にすることができないということだ。
October 4, 2007
「私はフェルメール」(フランク・ウイン著)
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