●大作曲家の伝記でいいな!と思うのは、このバジャーノフの「伝記 ラフマニノフ」(小林久枝訳/音楽之友社)みたいなタイプ。まるで著者がその現場に居合わせたかのように、ラフマニノフ視点で書いている。青年期のラフマニノフが偉大なる先輩チャイコフスキーに会って、そのにじみ出るオーラに感激する場面とか、絶対にそれ実際には目にしてないっていうシーンを、さも見てきたかのように書く。すばらしい。伝記作家は、事実を積み上げなきゃならないのは当然として、さらにその人物をどう描くか、対象となる人生からどのような物語を紡ぎ出すかが腕の見せどころなんだと思う。
●というのも、フツーの人でも人生は長くて複雑で、一言で形容できるものではない。あなたの人生をどう描くか。視点をどこに置くかで、愉快な生涯を送ったとも苦労だらけの人生だったとも書けるかもしれない。富める者だったとも貧しい者だったとも書けるかもしれない。快活な人物だったか気難しい人物だったか。そんなの本人にすらわからなかったりする。これを確認するために「事実」を詳細に積み上げると、ますますわからなくなる。20代は気難しかったけど、30代は快活だった、でも40代は東京にいた頃は気難しかったけど、沖縄に移住したら快活な人になった、仕事仲間には快活だったが家族には気難しかった……さあ、では本当はこの人は快活な人だったのでしょうか、気難しい人だったのでしょうか。人は複雑だから、だれだってそう簡単には割り切れない。だから「事実」だけを果てしなく並べても伝記にはならず、そこには「物語」が必要になってくる。優れた伝記作家の功績はその人物に物語を与えた点にある。たまに、新たな見つかった「事実」によって既存の「物語」が否定されることがある。それはそれでしょうがないのだが、物語を剥奪した者は、代わりとなる新たな物語を与えてやってほしい。シントラーがベートーヴェンについて書いたことはウソ八百だったんだろう。にもかかわらずシントラーの書いたことがずっと残ったのは、それだけ彼が優れた伝記作家であったということを意味している。
●ある作曲家を忘却の彼方へと葬りたいなら、彼についての物語を単なる事実によって徹底的に否定するのが近道なんじゃないか。逆にある作曲家を売り出すなら、シントラーを、それが今の時代に許されないなら、せめてバジャーノフを雇うのが良いかもしれない。
March 11, 2008