●18日、新国立劇場でウェーバーの「魔弾の射手」を観てきた。ダン・エッティンガー指揮東フィル、マティアス・フォン・シュテークマン演出。序曲の前にセリフだけで一芝居あり。隠者のところにアガーテ(エディット・ハッラー)が食糧を運んであげて会話するんすよ。で、「なんか不吉だから」とかなんとか言って、隠者がアガーテに白いバラを与える。なるほどー。これで3幕の運命の射撃シーンにきちんと伏線が張られてわかりやすい。序曲の前ならダラダラする心配もないので、とても良かったのではないかと。以降、演出はト書きに忠実なタイプ。安心できる一方、狼谷のシーンとか学芸会っぽくなるワナもあって微妙。悪魔ザミエルの衣装にはのけぞった。たとえるなら、現代の仮面ライダーキバに初代ライダーのショッカー戦闘員が出てくるくらいのインパクト(←なにそれ)。
●「魔弾の射手」って、終幕が長々と説教くさくてダレるというか、セリフ配分の手際がイマイチみたいな印象があって、音楽のすばらしさに比べると劇としてはどうかなと思わなくもないけど、テーマは文句なしに共感できるいい話だと思う。主人公の若い猟師マックスは、森林保護官の娘アガーテと結婚したい。でも、そのためには射撃の腕試しに合格しなきゃならない。人生を賭けた「絶対に外せない的がある」状態で力を問われる。
●でもそれって根本的におかしいわけっすよ。無謬性を最優先で求める社会で生き残れる人間は、何もしない人間だけであって(誰もがミスをする。何かをやればやるほどミスは増える。ミスしないのは何もしない人間だけ)、そんな社会からはいずれ果敢さや活力は失われるに決まっている。射撃のスランプに悩んだマックスは、悪魔と取引をして百発百中の魔弾を手に入れる。マックスの弱さを非難できる人間はいない。人は過ちを犯す、だが悪魔の弾なら百発百中だ……。
●ところが実は悪魔だってミスをする。予定では7発の弾丸の内、最後の1発はアガーテの命を奪うはずだった。だが、その一発は隠者の花冠の持つ聖性ゆえか、アガーテを逸れて己の走狗たるカスパールに当たってしまう。
●最後に隠者が登場して領主を諭す。このような無謬性を礎とした社会制度は止めよ、と。となれば、猟師マックスの過ちに対しても寛容な裁きが下されるのは当然だ。百発百中を求めるな。完全無欠な者などいない。あなたも私も誰もがミスをする。だから、このオペラを見終わって、「肝心のところでホルンが外した」とか言ってる人には、ぜんぜん物語のテーマが伝わっていない。
April 22, 2008