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October 8, 2008

サッカー戦術クロニクル(西部謙司著)

●今年、オーストリアでEURO2008(サッカー欧州選手権)が開かれたじゃないっすか。そのときに「音楽とはちがって、サッカーでオーストリアがヨーロッパ中からこれほど注目を浴びることなんかなかった!」みたいなことを書いたと思うんだけど、それはホントはウソなのでした。実はオーストリアが「ヴンダーチーム」と恐れられ、世界最強だった時代があったんである。それどころか、当時のオーストリアを「トータルフットボールの起源」とする見方がある。……といっても30年代のことだから、ほとんど誰もリアルタイムで見ていないし、テレビ中継もなかったわけだけど。
サッカー戦術クロニクル●一般に何かある分野に親しむためには、いま自分が目にしているもの、耳にしているものを、マッピングすることが必要になってくると思う。これってこの世界の中でどんな位置づけにあるの? どういう流れから生まれてきて、どこに向かおうとしているの? で、このマッピング能力を装備するために、人は「歴史」を知りたくなる。そのとき、点で事実を押さえるんじゃなくて、事実と事実を結びつけるのにはどうしたって物語が欲しい。記録が消失した部分も含めて、上手に紡ぎだされた物語っていうのは、ずっと語り継がれる。どんなに正確で厳密でも、無味乾燥で羅列的なものは忘れ去られる。
●で、新たに見事な戦術の物語が書かれたんである。「サッカー戦術クロニクル」(西部謙司著/カンゼン)。副題に「トータルフットボールとは何か?」ってあるように、30年代のオーストリアを起源に、クライフやサッキ、モウリーニョらといった戦術家を追いながら、トータルフットボールの歴史、戦術の変遷を紐解いてゆく。でもフツーなら決してトータルフットボールとは呼ばれないような戦術、たとえばマラドーナのアルゼンチン代表とか、銀河系軍団と呼ばれたレアル・マドリッド(あのチームに戦術なんかあったの?)にも章が割かれていて、現代サッカーで何が起きているかというのをきちんと一通り語ってくれる。
●よく考えてみれば、ワタシらが毎週毎週世界の最前線のサッカーをテレビ観戦できるようになったのは、ついこの数年とかそれくらい最近の話だ。今は何だって見れる。でもクライフとかベッケンバウアーの普段の試合を毎週見ていた人は(ほぼ)いない。ましてや30年代の最強時代のオーストリア代表なんて。これって音楽とも似ている。フルトヴェングラーやトスカニーニが偉大だって言っても、ほとんどだれも当時聴いていない(というか、それを言えばモーツァルトやバッハを同時代に聴いた人も一人も残っていない)。でも実際に見ても聴いてもいないものを、あたかもそこに居合わせて体験したかのように語るってのは、本能的にはとても大事なことなんじゃないかって感じがする。アルゼンチンのガキが20年も昔の「マラドーナの5人抜き」を自分の記憶として語る、みたいなのとか。場合によっては事後的に捏造された記憶のほうが、どんな現実より雄弁だったりする。で、そのための歴史であり物語。この本には個々のポジションがどう動くかみたいな現場のコーチ向けの解説はほとんどなくて、大きな歴史の流れが語られている。あちこちに綻びみたいに残っていた自分の頭のなかの空白が、次々と埋められていく快適さ。いやむしろ知っていることを改めて読んで、再定着させることが気持ちいいのかも。これは現代の「サッカーの教科書」になる、かもしれない。

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