●またしてもMETライブビューイングでプッチーニ。実に美しい舞台で圧倒された。演出は映画「イングリッシュ・ペイシェント」監督の故アンソニー・ミンゲラ。障子や提灯といった和風アイテムを駆使しながら、メトにしては簡素な舞台に繊細でしかも鮮烈な舞台を作り出していた。日頃、オペラの演出なんてどうでもいいやみたいに思ったりすることもあるが、こういう非凡な才能を目の当たりにすると演出の重要性を痛感しないわけには行かない。センスがいいし、ていねい。都内では4月3日まで上映中。
●「蝶々夫人」を見る日本人はどうしたって似非ジャポニズムと折り合いをつけなければいけない。このアンソニー・ミンゲラもインチキニッポン大盛り満載なんだけど、にもかかわらず物語内世界では真正性を感じさせる。だいたいワタシをはじめ90%以上の日本人は日本の伝統的な美意識や伝統芸能について何も知らないも同然なわけで(少なくともワタシよりアンソニー・ミンゲラのほうがよく知ってると思う)、メトの舞台を見るときは日本人でも「蝶々夫人」をアメリカ人の目から見てぜんぜんおかしくない。へー、あの着物の女性の踊りは日本舞踊か何か?みたいな。
●あとこの演出の切れ味の鋭さを感じるのは、蝶々さんの子どもに子役を使わずにパペットを使ってるところ。黒衣が三人がかりで人形を動かす。つまり文楽みたいな感じなんだけど、実際に受け持っているのはロンドンのブラインド・サミット・シアターのメンバー。これは二重にいいアイディアで、まず本物の子どもだと何をしでかすかわからないから物語と関係ないところでハラハラしなきゃいけなくなるけど、そういう心配から解放される(と歌手は言ってた)。もう一つはパペットは本物の演技ができること。パペットの顔は無表情で、髪もなくてのっぺりしてるんだけど、だからこそ人形遣いがいくらでも「彼」の感情を表現できる。あるときは喜んでるし、あるときは不安そうにしている、あるときは無邪気にきょとんとしている。で、ワタシは感動したんだけど、カメラが「彼」をとらえると、後ろの黒衣たちの表情がかすかに見えるんすよ、頭巾の紗布の向こう側に透けて。黒衣の素顔はまさにパペットと一心同体、喜んだり、不安そうにしたり、無邪気にしたり、筋や音楽と同期して細かくいろんな顔を作っている。まるで彼らの感情がそのままパペットに乗り移るのだといわんばかりに。本物の劇場では絶対見えないものが見えてドキドキした。
●蝶々さんは予定されていたガリャルド=ドマスが降りてパトリシア・ラセットに。ピンカートンはマルチェッロ・ジョルダーニ、シャープレスはドゥウェイン・クロフト、スズキにマリア・ジフチャック。蝶々さんの年齢設定は15歳だ。15歳で盛りを過ぎた女性として嫁ぐんである。蝶々さんは何の疑いもなくピンカートンを夫としてとことん愛するが、海軍士官ピンカートンにしてみれば、これは赴任先の辺境の地で買った現地妻、本当のフィアンセはアメリカにいる。ピンカートンは蝶々さんを捨てる。捨てられても蝶々さんは夫を信じて彼の帰りを待ち続け、3年の月日が流れる……。
●はっ。ここで名作オペラのあらすじを紹介してどうする。えっと何を言おうかと思ったかというと、この純粋な蝶々さん@15歳をオペラでは3倍くらいの年齢の外国人中年女性が演じたりするわけだ。蝶々さんは理不尽に不幸な目にあう話だし、役柄にも無理のある歌手がうたうことが多いから、ワタシはこの作品を敬遠しがちなんだけど、パトリシア・ラセットは途中から本当に蝶々さんに思えた。表情は無垢、でも声は強靭。
●むしろこの物語で歌手の役柄が重要なのはピンカートンかもしれない。ピンカートンの年齢は何歳だろう。調べないけど、かなり若いはず。1幕で「世界中の女をモノにしたい」みたいに歌う。蝶々さんが少女であるように、ピンカートンもきっと20歳とかそれくらいで、イケイケの遊びたい盛りで、外国に行けばハジけちゃうし、自分の行動で相手の女性が深く傷つくとかそんなことなんて考えもしない、ある意味フツーの若者、ありがちな男子だ。だからマルチェッロ・ジョルダーニのほうこそダイエットをしてほしかった……。笑。いや笑い事じゃないんだけどホントは。
●パトリック・サマーズ指揮のオーケストラも期待以上。あっ、そうそう、1幕の終わりでピンカートンが蝶々さんを「お姫さま抱っこ」したところは笑った。スゴい、マルチェッロ・ジョルダーニ。ワタシなら絶対ぎっくり腰。
●というわけで、深い感銘を残した屈指の傑作プロダクションであるが、それでもやっぱり「蝶々夫人」は先日の「カルメル会修道女の対話」と同じ理由で好きになれない。音楽的には最強なんだけど、物語上の結末が受け入れられない。その点、「つばめ」は良いのだなあ、バッドエンドであっても。
2009年3月アーカイブ
プッチーニ「蝶々夫人」@METライブビューイング
天地創造年度末
●「東京・春・音楽祭~東京のオペラの森2009」でハイドンのオラトリオ「天地創造」。レオポルト・ハーガー指揮NHK交響楽団、東京オペラシンガーズ他(東京文化会館 3/27)。ハイドン・イヤーということで、先月のブリュッヘン/新日本フィルに続いてまたも「天地創造」。ワタシは行かなかったけど先月は東京シティ・フィルも「天地創造」をやってたので、東京ではガンガンと世界が創造されている。天地量産、神様繁忙期。
●ブリュッヘンが単にピリオド・アプローチという以上のあまりにも特徴的な「天地創造」を聴かせてくれた直後だから、それに比べると派手な話題にはなりにくいが、どんなスタイルであってもやはり傑作の力は偉大で、この曲を聴けば最後には深い感動が待っている。休憩はなし。2時間近く座りっぱなしなのが辛い一方、途中で緊張が途切れない分、聴き応えは増すという面もあるので難しいところ。3部じゃなくて2部に分けてくれれば問題なかったのに>ハイドン。
●欧州が夏時間に入っている。ネットラジオ関係、サッカー生中継関係は要注意。サッカーはこの週末が国際試合の週だったので、むしろ次週が要注意か。
●3月から4月へ。年度が替わる。雑誌等いろいろな媒体の紙面も変わる。ということで告知を2点。まず終わるもの。日経パソコンPC Onlineの連載「ネットエイジのクラシックジャンキー」が今年度でひとまず終了、今週が最終回である。当初、月刊とか隔週刊ならともかく、週刊のような速いペースで連載が続けられるものかと非常に心配していたんだが、予想に反して約100回にもわたる長寿連載になった。一度も原稿を落とさずに済んだのは、自由に書かせていただいたおかげ。日経パソコンさんの寛容さに感謝。記事は当分オンラインには残っていると思う。
●で、続いて新たに始まった連載。東急さんが発行するフリーマガジン「SALUS(サルース)」で1ページのコラムを書かせていただいている。オンラインでは記事は読めないが、東急線各駅・東急系列のデパートやストアで無料配布されている。配布部数は約25万部。こちらは月刊。NAXOSさんのご協力により、毎月記事中に取り上げる名曲を「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」で試聴できるという趣向になっている(→NML新着情報)。東急沿線在住・在勤の方はぜひ手にとっていただければ幸い。毎月20日発行。
ニッポンvsバーレーン@ワールドカップ2010最終予選
●またバーレーン戦なのかっ! もうバーレーンと試合するのは飽きた、しかも最近の試合は2勝2敗とかいってて、そんなに負けているのかと驚く。でもこれワールドカップの最終予選だから、勝たなければ。それにこの組の中で、いちばん力が劣るのがバーレーンかもしれないんだし。オーストラリア、カタール、ウズベキスタンと比べれば。
●で、玉田、大久保、田中達也とフォワード3枚使って、松井大輔がベンチというこの試合、ずいぶんと気をもみながら見ていたしフラストレーションもたまったのだが、終わってみれば完璧なゲームだった気がする。つまり、ポゼッションは圧倒的に高いのに、ニッポンはぜんぜんシュートを打たなくて、特に前半なんて枠内シュートあったっけ?というくらいであり、ゴールは中村俊輔のフリーキック、しかも相手に当たって入ったラッキーゴール。それで1-0とは物足りない……。
●と思ってしまいがちだが、裏を返せばニッポンはほとんどリスクを冒さずに無事90分を過ごし、淡々と勝点3を取ったわけで、ワールドカップ予選ではこういう戦い方は理想的とも言える。まあ、前回、ホームでのオーストラリア戦では相手に同じことをやられたわけだ、サッカルーズもほとんどリスクとらないで勝点1をアウェイでゲットした、あれは悔しかった、でもしょうがない、バーレーン人たちも今そんな気分を味わっているんだろうか。
●数日後にある次節、ニッポンはお休みである(奇数チームで一組作るとこうなる)。休みってことは勝点の積み上げはゼロなので、現時点での暫定順位は無意味。次節はライバルたちの戦いぶりを観察するチャンス。
他人の夢を見る
●他人の夢を見るためにはどうしたらいいのだろう。と、一瞬悩んでしまったが、よく考えたら「他人の夢を見る」ことはおそらく難しくはなく、しばしば自然と見ているのであって、問題はつい今しがた見ていた夢が「自分の夢」なのか「他人の夢」なのか、区別する方法が見当たらないことだ。
●ああっ! 星が夜空を動く音がうるさくて眠れないっ!
●「お客さまの中に25歳以下の首都圏在住のハイドン・ファンの方はいらっしゃいますか~」。本日3月27日(金)、レオポルド・ハーガー指揮NHK交響楽団のハイドン:オラトリオ「天地創造」(東京文化会館)、U-25当日券が3000円で販売されるとのこと。詳しくは「東京・春・音楽祭」のサイトへ。
グレン・グールド/ブラームス:間奏曲集
●あえて、挙げる、今さら紹介するのも憚られる、この世でもっとも美しい音楽の一つを。ブラームスのインテルメッツォ(間奏曲)。作品117とか作品118とか、みんな大好きだろうし、ワタシも大好きだ。みなさん、このディスクをウチで聴くときに、あまりの美しさに身悶えしながら聴いていることだろうと思う。ワタシもそうだ。同じくらい悶絶する。で、そのなかでもどれか一曲だけと言われたら、ワタシは以前は迷わず作品117-1を挙げたけど、今ならどうかな、作品118-2じゃないかな。でなければ作品118-6か。こういう好みの移り変わりって微妙に加齢が反映しているのかもしれん。
●このグールドのディスクは存在が奇跡みたいなものだから、もったいなくてめったに聴けない(なんですかそりゃ)。いちばん最近聴いたのは何年前かなあ、それそろまた聴いていいかも。全人類、いや全類人猿くらいまで含めて、いやいや全銀河全宇宙の知的生命体に向かって、割れた腹筋浮かび上がらせながら100%フルパワーでオススメしたい。あ、ウソです、腹筋は割れてません、微塵も。
●なんでこれを思い出したかっていうと、ネットラジオでBayern4を聴いてたら、その作品118-2が知らない演奏で流れてきたんすよ。それがヨロヨロと悲しい演奏で、こりゃ誰が弾いてるんだと思って番組表にアクセスしたら、往年の大巨匠だった……。やれやれ、ま、そんなこともあるか。悠揚迫らぬ大家ならではの風格、と心の中で訂正しておこう。さ、気を取り直してグールド聴くしか!
♪オーオーッ!栃木~、行け行け栃木~(想像)
●今日、Jリーグあるんすよ……といってもJ1はナビスコカップがあるだけで、リーグ戦があるのはJ2なのだ。国立競技場で、栃木SC対アビスパ福岡。シブい、シブすぎる対戦。そして国立競技場開催という謎。
●栃木SCのほうは去年までJFLにいて、今年J2に昇格。宇都宮のクラブがどうして東京でホームゲームを開催するのかよく知らないのだが、このクラブは名前がいい。変な愛称がなくて、地名+SC(サッカークラブ)。これまでFC東京、FC岐阜、横浜FC、愛媛FCといった正統FC派のクラブ名はあったが、SC派はJリーグでは初めてなんじゃないだろか。
●で、ここしばらくサッカー観戦に飢えていたので観戦したいなと思ってたんだが、天気予報は雨っぽい。国立競技場は基本的に屋根がないので(メインスタンドだけ少しある)、カッパは必需品。さすがに栃木にも福岡にもゆかりがないのにカッパ観戦は辛いので、あきらめておとなしくウチで仕事をすることになりそう。でもこの対戦カードを東京で(しかも平日夜に)やっていったいどれくらい観戦者がいるんだろ。きっと試合はおもしろいと思うんすよ、栃木、なんだか熱そうだし。東京在住在勤の栃木および福岡関係者には激しくオススメ。
●栃木SCって、試合開始前にサポが「栃木県民の歌」をうたうって聞いたんだけど、それってホントなのかなあ。どんな歌なのか、激しく気になる。
●隔月刊誌「ピアノスタイル」2009年4月号。「もっとクラシックを楽しむためのピアノ名曲トリビア10」の原稿を書かせていただいた。カラー4p。拙著「クラシックBOOK」の番外編みたいな雰囲気の記事になっている。楽しんでもらえますように。表紙の写真が一瞬わからなかったんだけど今井美樹だと知って軽く驚愕。同世代なんすけどね。
「会社人生で必要な知恵はすべてマグロ船で学んだ」「働くということ」
●書名のインパクトだけでグワシッとハートを鷲づかみされて衝動買いしてしまった、「会社人生で必要な知恵はすべてマグロ船で学んだ」(齊藤正明著/マイコミ新書)。いまどき、マグロ船っすよ……いやいや、違う、誰かがマグロ船に乗って漁をするからマグロを食することができるんだった。
●著者は会社の業務の一環として、マグロ船に乗ることを命じられる。一度港を出たら、何十日も陸にはもどれない。海にはコンビニもないし、病院もない、ケータイもつながらない。漁師ばかりの閉ざされたマッチョ空間で、船酔いに苦しみながらも著者は漁師たちから多くを学ぶ。
●が、これは微妙にワタシの期待したものとは違っていたかもしれん。著者はマグロ漁船の漁師の知恵から学んだ、「いかに会社でふるまうべきか」等々の処世訓的なものを読者に披露してくれるのだが、どうしても「会社」よりも「マグロ船体験」の強烈さのほうにワタシは惹かれてしまう。赤道直下の洋上の日々、なにを目にし、なにに畏れ、なにに笑い、なにに怒ったのか、そういう一人称視点のマグロ船体験をもっとガッツリ読みたかった、と。でもこれはワタシがちゃんと書名を真に受けてなかったのが悪いんであって、書名に偽りはない。特に社会に出てから数年の若者であれば(当面)必要な知恵を得られると思う。
●で、なんとなくバランスを取るためにもう一冊、古いけれどもぜんぜん古びてない労働本を続けて読む、「働くということ 実社会との出会い」(黒井千次著/講談社現代新書)。1982年に一刷で、2009年に39刷(!)。良書。これは本来、学生生活を終えて社会に出ようとする若者たちに向けて書かれている。労働とはなにか、人はなぜ働くのかという根源的な問いかけが延々と続く。著者は作家になる前に会社員生活を15年間送っているのだが、1970年に退社しているというからその体験は今から見ればかなり古い話だ。ところが、その内容は現代の視点から見ても驚くほど古びていない。働くことの本質は数十年くらいじゃ変わらないんだろう。もちろん「なぜ働くのか」ってのは生計のためとかいう次元の話ではない。たとえば、すごく仕事嫌いで怠惰な人間でも、報酬とは無関係にとことん働きすぎてしまうことってしばしばあるじゃないっすか。
●労働とはなにか、人はなぜ働くのか。この問いは社会に入って何年経っても立ち上ってくるものだし、一度は体にすんなり入ってなじんでしまったとしても、なにかのきっかけで繰り返し再浮上して前景化したりする。新社会人だけじゃなく、まだ社会人数年目で「ケッ、会社なんてくだらん。オレってなんのために働いてるんだろう」って思ってる方であっても、あるいはどっぷり実社会に浸りきっているけど「なんのために働いているんだろう」的な疑問から逃れない方でも、さらには「これから会社辞めようかな~」とか迷ってる方でさえ、十分な手ごたえを感じながら読めると思う。社会的成熟度の高い方にとって、ここに書いてあることの多くはわかりきったことであるとしても。
キス特集
●このページの右下からも直リンクしてるネットラジオ局 france vivace をなんとなく聞いていると、ヴォーン・ウィリアムズの The Poisoned Kiss というオペラが流れてきた。この曲は知らないなあ。ヒコックスが指揮したChandosのCDだ。このオペラ、なんと訳せばいいんだろ。「毒入りキス」それとも「毒の口づけ」? 重厚な感じで「毒の接吻」でもいいか。いや、それだとなんだか30年位前の翻訳ミステリみたいだ。日本語的には「毒の~」ってのはぎこちないから避けたいところ。「毒キノコ」とか「毒婦」という言葉はあるが、「毒のキノコ」「毒の婦人」とは言わない。じゃあ、「毒キッス」か(笑)。
●で、このオペラに続いて、ストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」が流れた。そうか、この番組は「キス特集」なのか! なかなか冴えた選曲ではないか。そしてもう一曲続いたのだが、何が来たか。
●次の曲は、サティの Valse du "Mystérieux baiser dans l'oeil"だった、といってもフランス語はさっぱりなのでよくわからん、何のワルツだろう、カッコの中を英語に機械翻訳すると Mysterious kiss in the eye と出た。これはどう訳すんだろうなー。国内盤のCDなどを軽く検索してみると、「眼の中の神秘的な接吻」のワルツというのがあった。が、「眼の中の」というのが日本語には聞こえないし、意味がわからない。日本語の語句を正直になぞると、目の中にキスが見えるというのだから、たとえば自分が相手にキスをしようとして顔を近づけたら、相手の瞳の中に自分のキスが映っていたということだろうか? それならたしかに神秘的だ。でも考えすぎという気もする。
●別の訳で、「目に意味ありげにするキス」のワルツ、という題も見つけた。これはスッキリと意味が通る。キスが Mysterious というのは、どう考えても「神秘的」というような大げさなニュアンスではなく、「いわくありげな」「意味深な」程度のものだろう。ただ、「目に」というのは、まぶたのあたりにキスをするということでいいのかな、いいような気もするけど、自信はないな。
●にしても、どういう光景だろう。サティの時代のフランス人が日常的にどれくらいキスをしていたかわからないが、まあ、親しい人同士の挨拶としてはしたんじゃないか、フランス人だし。たとえば友達連中がみんなで会って、「こんにちは」か「さようなら」の場面で、ある男女が挨拶のキスをするときに、普通なら頬を右に左にと何回か寄せ合うところを、ささっとそのうちの一回を目にキスをした、とか。前に二人だけで親しい時間を過ごしたことを示していて、ほどよく「意味ありげ」な感じ。違うかなあ。仮に合っているとして、目にキスをしてくるほうは女性だろうか、男性だろうか。曲は男性視点で書かれているだろうから、それによっても微妙にニュアンスが異なる。自分でしたのか、されたのか、あるいは第三者として他人のキスを見たのか。よくわからん。いずれにせよ、どういう光景かぜんぜんイメージできてないのに日本語の訳を作るのはムリだよな~。
●はっ、いや別にワタシが考えなくてもいいのだった。こんど誰かフランス方面に強い人に尋ねてみよう。
無勝街道まっしぐら
●どよーん。久々にBSでテレビ中継があったので見た、マリノスvs柏レイソル。開始2分で先制して、18分で2点差をつけたホームゲームで、終わってみたら3-3って……。ありえない。試合終了後のブーイングも当然か。
●「誰それ?」って言われそうだが、マリノスのメンバーを書いておこう。GK:榎本哲也-DF:栗原、松田、中澤-MF:小椋、清水(→田中裕介)、小宮山、兵藤、山瀬(→長谷川アーリアジャスール)-FW:狩野、渡邉千真(→水沼ジュニア)。3バック。渡邉千真は大卒ルーキーながら背番号9を背負って開幕スタメンゲットしたという(ウチでは)珍しい選手。実は兵藤と渡邉は国見高→早稲田大学→マリノスとずっとチームメイトなのである。だからどうということは何もないのだが、ともあれ新人渡邉千真はワタシの予想に反して、よくやっている。ゴールも決めてる。
●しかし後半途中までは問題なく勝てそうな試合だったんである。が、どういう理由があってか、木村監督が早々と山瀬を下げて、長谷川アーリアジャスール(イラン系日本人なのです)を投入すると、チームは猛然と逆噴射。中盤でまったくボールが持てなくなってしまった。おそらく前目にポジションを取った兵藤はすっかり画面から消えてしまうし、長谷川の役割もよくわからず、狩野への負担が異様に大きくなって、気がついたら防戦一方、ただボールを跳ね返すだけではフランサとポポの攻撃に耐えられるはずもなく、ボロボロと失点して3-3。あれだけ理想的な前半があって、この後半。
●今シーズン3試合を終えて無勝。目標はずばりJ1残留。日本人若手中心、助っ人レス路線、昨年途中から就任した現監督はチームの元統括本部長であって、プロでの監督経験ゼロ。ここに夏になって中村俊輔が加わる光景というのがどうも想像できないんだが……。
「ラインの黄金」
●やっと見れた、「ロード・オブ・ザ・リング」序夜。じゃない、「ラインの黄金」@新国立劇場。満喫。自分はまったくワグネリアンではないのだが、いざこうして目の前にすると完全に圧倒されてしまう。とにかくその日は「これから毎日、朝から晩までワーグナーを聴いて過ごしたい」という気分にはなる。
●キース・ウォーナーの演出は猛烈に饒舌なのがいい。至るところでいろんな仕掛けやアイディアが込められてて、新鮮で飽きないし、でも理屈っぽくはない、たぶん。もうワタシゃどうでもいい、問題提起とか今日的意義とか新解釈とか。いいじゃん、ワーグナーそのものは聴けるんだから。そんなことより、隙間なく埋め尽くされている画面(いや舞台か)を期待したい、多彩で複雑で愉快か可笑しいかバカバカしいか陰鬱か凄惨か、どっちの方向でもいいから劇場の外と強烈なコントラストを成すものを見たい。だからクールでポップな神話世界は大歓迎。大蛇もカエルもかわいいし。あと、日頃の舞台だと、1幕から2幕になっても3幕になっても、ぜんぜん舞台が変わらないし動かないっていうか、もうどうしてこんなに低予算でうら寂しいんだろうって思うこともままあるわけで、そういう意味でも溜飲を下げた。苦笑。
●ユッカ・ラジライネン(ヴォータン)、エレナ・ツィトコーワ(フリッカ)、トーマス・ズンネガルド(ローゲ)、ユルゲン・リン(アルベリヒ)、高橋淳(ミーメ)、稲垣俊也(ドンナー)、ダン・エッティンガー指揮東京フィル。アルベリヒの最凶ぶりが最強。ミーメ、ドンナーの日本勢も吉。「あれがこうだったら」「もう少しあれはどうにかならんのかな」的な惜しさがあちこちあったとしても、全体としては鳥肌立ったから大満足。
●8年前だっけ、前回は。見てない。その頃は演奏会そのものにうんざりしてたから。ラインの乙女たちは映画館の座席で戯れていた。半神ローゲは引越し屋の段ボール箱の中から現れた安っぽい手品師だった(縦縞のハンカチを一瞬にして横縞にする日本的な手品を教えてあげたい)。ネオンのWALHALLは一瞬意味がわかんなかったが(笑)ワルハラ城のことだった。地底王国にもデカデカとNIBELHEIMって書いてあったが文字が逆さま。指環を得たアルベリヒは娼婦を侍らせていた。指環の呪いで愛を失ったが娼婦は買える。なるほど、これでハーゲンが誕生するわけか。ていうかこの娼婦がグリムヒルデその人なのか。だとするとハーゲンは文字通りの「サノバビッチ」だ。カエルになったアルベリヒはスーツケースに捕らえられる。ニーベルハイムからの宝の山もみんなスーツケース入り。巨人族の一人(どっちだっけ)はフライアに本気で惚れていて、案外優しそうなヤツっぽい。ヴォータンはアルベリヒから指環を奪う際に、合口で指ごと切り落とす(この合口はもともとアルベリヒが持っていたもので、その後、ローゲが喧嘩中の巨人族に手渡して巨人兄弟殺害事件の凶器となる)。最後のワルハラ城グランド・オープンのシーンは、BRAVIAのCMみたいにカラフルな風船がいっぱいで、明るくて真っ白。入り口でローゲがチケットもぎり係りになってて異界の神々を賓客として招いている。WALHALLの看板はWAL - HALLに左右に別れてて、ここはHALLなんである。1,2,3,4,5....と番号札が立ってるのは、通路番号なのかクロークなのか。やれやれ、神々、こんなものを欲したばかりに。ローゲがリュクスで抜け作な強欲神々ライフに付き合ってられんわと倦厭するのもよくわかる。
代替わり
●N響アワーの司会者、池辺晋一郎氏から西村朗氏へ。4月から。仕事の引継ぎでは、ダジャレの極意が伝授されたりしたのだろうか。
●FIFAの公式サイトにカズJリーグ最年長ゴールのニュースが。'King Kazu' Miura still scoring at 42. さすが、キング・カズ。Timeless football player ってカッコいい。以前、「還暦くらいまでは現役でやりたい」って言ってたっけ。3点ある写真の真ん中が、マリノスの栗原とバルセロナのトゥーレ・ヤヤが競り合っている場面で、どう考えてもキング・カズと関係ないのが謎。
煎り上手
●最近、コーヒーを焙煎するときはもっぱらこれを使う。「煎り上手」という猛烈にわかりやすいネーミングなんだが、たしかに簡単かつ上手に焼ける。焼きムラが少ない。技術もほとんど要らないし、焼いている間にチャフ(豆の皮)が飛び散らないのでガスコンロが汚れない(これ大事)。唯一の短所は一度に焼ける量が少ないこと。しかしそれを手軽さが上回っている。
●これがコーヒーの生豆。基本的に薄いグリーンで、コーヒーの香りはしない。この状態なら何ヶ月でも保存可能。で、これを焼くと下のようなよく見るフツーのコーヒー豆になる。
●自分で焙煎すれば、いつでも鮮度の高い、おいしいコーヒーを飲める。煎り具合も深め浅め、好きにできて吉。自分で飲む分を100%自家焙煎するとメンドくさくて大変なので、市販の豆と適宜使い分けている。自分で焼いたものであれ、買ってきたものであれ、コーヒーは焙煎から日が経つにつれて確実に味も香りも落ちる。焼いた翌日の味は至福。
プーランク「カルメル会修道女の対話」
●しまった、これ殉教モノだった。と気づいた、先週末のプーランク「カルメル会修道女の対話」、新国立劇場のオペラ研修所公演で。日頃、オペラのヒーローとヒロインって、若者のロマンスのはずなのに、おおむね中年以上の男女が取っ組み合いをするみたいな感じになるのがフツーであって、内心あれはヤだなと思うワタシがさらに正直なことを言えば、いまやネトレプコですら若い女性の役は厳しいとか思うんである、いやそれは舞台じゃなくてメトライブビューイングとかDVDみたいにアップになるからなんだけど。その点、ともかくこのオペラ研修所公演ではリアル若者たちが歌うのでハッピー、そう思っていた、事実手渡されるパンフレットで歌手たちの写真を見よ、この人たち、本当にオペラ歌うんすか、ありえないほど美男美女ばかり、まぶしいぜ。だがなんという己の寝ぼすけぶりか、修道女が殉教するオペラにロマンスなど存在しない! するわけないっ! 幕が開けてから気が付いたワタシ、自分への怒りのあまりに、中劇場のイスをベリリと引き剥がし両手で持ち上げてピットめがけて投げ込んだ、ジャイアントスウィングしながら。そんな光景を幻視する不敬者、スマソ、舞台上の祭壇に向かって懺悔するしか。
●でもそんなに若くて美しいのに、どうして修道女に! と物語内部と外部からダブルで問いかけたい。
●が、良い公演であった、そしてこの舞台は見ておいてよかった。自分は修道女たちの論理に決して共感しないということがよくわかった。老齢のマダム・ド・クロワッシーが現実の死を目前にして苦悶する場面が優れている。
●最後の一人一人と歌いながら断頭台へ向かう感動的なシーンを、断頭台なしでその場で倒れるという形で演出するんだけど、何もないところでバタリと倒れるのって難しいっすよね。たぶんどんな演技より難しくて、倒れるほうも見るほうも時代劇の「斬られ役」が身についてて、監修福本清三みたいになりがち。思わず自動的に頭の中でセリフをそっとアテレコしちゃうんすよ。「ぐふっ、と、殿、お許しを……」「む、無念でござる……」「ぐはっ! わが人生にー、いっぺんの悔いなーしー!」「ジオン公国に、栄光あれ!」「ひでぶ!」とか。じゃあどう倒れればいいのかは謎。
「ヤバい社会学」(スディール・ヴェンカテッシュ著)
●たしかにこれはヤバい。「ヤバい社会学」(スディール・ヴェンカテッシュ著/東洋経済新報社)。早く寝なきゃいけないのに寝床で読み出すと止まらない。郊外の中流家庭に生まれシカゴで社会学を学ぶ当時大学院生の著者が、研究のために大学のすぐそばにある貧困地区に足を向ける。そこは学生が「あのあたりには決して立ち入らないように」と注意されるような「アメリカ最悪のゲットー」。ギャングと自治会がコミュニティを取り仕切っていて、中で何かが起きても警察も救急車もやってこない。というか警察が来るときはギャングよりも怖いことになるという無法地帯。が、本当は無法地帯じゃなくて、ギャングの世界にはその世界なりの法や秩序があって、社会は成り立っている。それを著者は自らギャングのリーダーと「つるんで」明らかにしてゆく。原題は「一日だけのギャング・リーダー」。
●出てくる若い男はみなギャング、若い女はみなシングルマザーの売春婦。そんな印象を受けるほど想像を絶した社会なんだけど、ここで著者は自分の立ち位置を見つけて定着してしまうところがスゴい。地下経済ノンフィクションでもあり、インテリとギャングの妙に落ち着かない友情物語?にもなっている。著者がインド系ベジタリアンというのも、なんだか不思議な対照を成していて吉。
アイネク
イタリアに総デフェオ軍団誕生
●選手もスタッフも同姓ばかりのチーム結成 イタリア(CNN)。元セリエAの選手マウリツィオ・デフェオが結成した「デフェオ」は、選手のみならずコーチや担当医、スポンサーも含め、関係者全員をデフェオさんばかりで固めた、と。
●ニッポンも至急、総田中軍団を再編する必要があるな。いなくなった選手もいるが、それ以上に新しい人材が出てきている気がするし。「田中監督」は何人も候補がいるから無問題。スポンサーは田中貴金属さんにぜひ。
そのCDは持っている
●ネットラジオを聴いてると、しばしばウチに所有しているCDを聴くっていう状況が訪れる。目の前の棚に入ってるディスクを、地球の反対側から圧縮データで送ってもらってPCで再生する。スゴくヘンな気もするが、デジタルデータを各戸がわざわざディスクに焼いて所有している状況もよく考えたらヘンかもしれない。1と0のビット列を運搬するために化石燃料を消尽しているわけだから。
●でもまあバックアップとしては完璧か、各戸でディスクを所有するのは。人類全体でバックアップ保持、みたいな。
開幕サマータイム
●この週末にJリーグ開幕。スタジアムでもテレビでも一試合も見れなかったのだが(ら抜き)、その結果は恐ろしく憂鬱なものだった。マリノス 2-4 広島。2部から昇格してきたチームを相手にホームでの開幕戦で4失点。今の体制では降格もありうると覚悟してはいたが、いきなりこんな結果が出てしまうとは。やはり昇格した山形に2-6でホームで敗れた磐田と双璧をなす、心は土砂降りフットボール地獄。逃避したい。逃避しよう。いや待て待て、これが逃避先じゃないのか。
●今日、少し珍しいサロンコンサートを聴きにでかけ、ピアノのあるサロンという存在に軽く羨望を覚えたのだが、しかし仮に理想的な空間と優秀なピアニストを自由にできると空想して、そこでホストになるのとゲストになるのはどちらがより楽しいのかと考えたら意外とどちらも大変なような気がしてきた。空想なので、演目は小さな場所にふさわしいものを選ぶ。ハイドン、モーツァルト、スカルラッティ、ヘンデル、バッハ。ラモーとかクープランでもいい。空想上のホストであるワタシは、自分で焙煎したコーヒー豆を持参し、近所の最高にうまいケーキ屋の菓子といっしょにゲストにふるまう。すばらしい音楽を聴いていい気分に浸っていると、ゲストの中に気難しいクラヲタがいて災厄をもたらす。たとえば……そうだなあ、「前回のピアニストのAには満足したが、今回のBはつまらない」と言い出し演奏者を面前罵倒、そのつまらなさについてまったく理不尽で不当な理由を並べた挙句、入場料を返せとか別のヤツに弾かせろとかオレが持ってきた名盤評論家荒栗紺鰤雄先生ご推薦のこのCDをみんなで聴けとか、とにかく無理難題を並べる。空想上のワタシは、もうこんなヤツの相手をするのはヤだといって、ホストを辞める。ホストの場合、そんな苦労が想像できる。ではゲストになるとどうなるかと言うと、その空想上のサロンではもちろんワタシが厄介なクラヲタになって思う存分暴れまくるのだ。
●マリノスのディフェンスが崩壊すると白昼夢が活性化する。
●欧州より一足先に、3月8日から米国は夏時間に移行してるんすよ。ネットラジオ関係は要注意。ていうか、そもそも「サマータイム」っていう言葉がどうなんすかね。実際には一年の内、過半が夏時間じゃないですか。まだ冬なのに「サマータイム」だし。だったら「サマータイム」のほうを標準時に変更して、冬のみ「ウィンタータイム」を採用することにしたらどうなんだろ。いやそれもわけわからんか。
●エアコンが普及した現在、「夏時間を採用するとエネルギー消費量は逆に増える」という説。
ベルリン・フィル、ワセオケ、YouTubeオケ
●ベルリン・フィルのネット生中継 Digital Concert Hall、今週末は7日20:00(現地)にドゥダメル登場っすよ。ラフマニノフの「死の島」、ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲(ムローヴァvn)、プロコフィエフの交響曲第5番。例によって日本時間午前4時開演の欧州ゴールデンタイムなので生中継はあきらめると思うけど、後日のアーカイブが楽しみ。
●で、もう一公演あるんすよ、Digital Concert Hall。続く8日11:00(現地)に、なんと、ワセオケが登場するんすよ! 日本から早稲田大学交響楽団がゲスト出演。スゴすぎる。フツーにDigital Concert Hallの生中継メニューの中に Waseda Symphony Orchestra Tokyo って載ってて、ちゃんと料金も5ユーロ取る。ベルリン・フィルの半額だ(笑)。このシリーズにベルリン・フィル以外が登場するとは思わなかったが、しかもそれがワセオケとは。全世界に生中継。R・シュトラウス「英雄の生涯」、バッハ~シェーンベルクの「前奏曲とフーガ」、石井眞木「モノプリズム」他。これは日本時間で19時だから生中継にもアクセスしやすい。
●以前ご紹介したYouTubeシンフォニーオーケストラ、ついに動画オーディションを終えて、カーネギーホールに招待されるメンバーが決定した。日本からはオーボエとマリンバの2名が通過。お二人のことはニッポン代表とお呼びしたい(笑)。詳しくは日経PCオンライン「クラシックジャンキー」連載にて。
レッツゴー!クラヲくん2009 団欒編
●連続不条理ドラマ「レッツゴー!クラヲくん」第13回 団欒編
「連中のヴィヴァルディはライヴでも聴いたことあるんだけどさー、ヴァイオリンがヴィヴィッドじゃないし、ヴェテランのレヴェルに達してないんだよね、雑誌のインタヴュー読んだけど、ヴェネツィア的なヴィルトゥオジティを欠くって言うかさ~、あっ、テレヴィつけてよ、ヴァーグナーやってるから、『ヴァルキューレ』、これメットだね、METライヴヴューイングでもやってたかな、えっ、チャネル変えるの? なんだよヴァレーボール見るのかよ、ヴイシックス出てるから? しょうがねえなあ、じゃあ世界ヴァレー見るか、ニッポン、弱いんだよねー、特にサーヴ」
J、移籍金撤廃へ
●Jリーグ、選手の移籍金が10年シーズンから撤廃の見通し。今までは年齢別係数を年俸に掛け算してたので、若い選手を獲得するためには高額の移籍金が必要になったけど、これからは違う。契約が切れた選手に移籍金を払う必要はない。
●国際的にはずっと前からこのルールが標準化されているので、やっとJリーグもフツーになった。朗報。選手はこれまでよりずっと移籍しやすくなる。被雇用者(選手)側から見れば、「雇用契約が満了してヨソに移るのに、どうして先方が元の所属先にお金を払わなきゃいけないのか」という疑問があったわけで、もともとこの問題を欧州で提訴したのは、ベルギーリーグ2部の無名の選手ジャン=マルク・ボスマン。欧州司法裁判所に訴えを起こして勝訴したことがきっかけで、このルールがいわゆる「ボスマン・ルール」として広く採用されることになった。ボスマンくらい名前はよく知られるけど顔は知られていない選手はいないだろう。
●ただ移籍金がかからないのは契約満了しているからであって、契約途中なら違約金という形で実質的な移籍金が発生している。クラブはスター選手の契約期間が残り少なくなると、再度新たに長期の契約を結びなおすこともできる。一方選手は「もうここはヤだ」と思えば、契約を更新しないこともできる。契約が切れるとクラブは選手をただで持っていかれることになるので、だったら契約期間の内に選手を希望通り移籍させたほうが得という判断も働く。
●これまで若手の移籍金で経営を成り立たせていた中小クラブにとっては大問題じゃないかっていう指摘もあるけど、クラブ側にもメリットはあるはず。「一度契約すると簡単には抜けられない」状況がなくなったので、有望新人選手と契約を結びやすくなる。売るのは難しくなったけど、取るのは楽になる。たぶん。
映画「マリア・カラスの真実」
●音楽家には本人が亡くなるととたんに話題にならなくなる人と、死後何十年でも語り続けられる人がいる。数えたわけじゃないけど、出版された書籍の数でいうと、マリア・カラスとグレン・グールドが双璧なんじゃないだろか。カラヤンだってこの二人には及ばない。この二人のスゴいところは、基本的に生前の生演奏を体験していない人々によって語られ続けるところ。いや違うな、逆だ、生演奏なんてみんな聴いていないほうが伝説になりやすいのか。
●で、映画である。「マリア・カラスの真実」試写を拝見。タイトルだけ見るとなんか飛び道具でもあるのかなと身構えるけど、中身は純然たるドキュメンタリー映画。淡々とカラスの生涯を追いかけ、奇説や異説を掲げる気などさらさらなく、それどころかカラスの神格化にすら興味がなさそう。一人の女性として描く。で、フィリップ・コーリー監督が思い切ったのは、「往時のカラスを知る人が過去を振り返って証言する」といった取材場面を一切入れなかったこと。音楽家のドキュメンタリーとしては定番の手法だけど、こういう後付けで他人がカラスの人物像を作るのがヤだったんだろう。カラスと同時代のフィルムのなかでなら、ヴィスコンティなりオナシスなりいろんな人が出てくるけど、「その後どうなるか」を知った人の証言はない。おかげで使える映像素材というのが極端に限られていて編集は大変だったと思う。でも題材の力が圧倒的に大きいから、それでも十分映画になる。誰が聞いても興味深いストーリーだから。
●それにしても若い頃のぽっちゃりした冴えない田舎娘カラスと、40キロのダイエットに成功したセレブなカラスのコントラストは強烈っすね。もしこれが順番が逆で、若いほっそりした娘が、40キロ太ってオペラ歌手として成功したという話だったら、その後の展開もなかったわけで。
●「マリア・カラスの真実」は3月28日(土)より渋谷・ユーロスペース他全国順次公開(配給:セテラ/マクザム)。各地の上映予定は公式サイトでご確認を。
「充たされざる者」(カズオ・イシグロ)
●昨日が執事小説に続いて今日は同じくカズオ・イシグロのピアニスト小説を。「充たされざる者」(ハヤカワepi文庫)。現代三大ピアニスト小説のひとつには確実で入るであろう問題作。何が問題かといえば、この文庫、分厚すぎる……ってのはウソ、いや中身はよっぽど問題作だ。
●主人公は世界的な名声を獲得したピアニスト、ライダー。この人、誰からも「ライダー様」と呼ばれるばかりで、ファーストネームがない。「日の名残り」や「わたしを離さないで」と同じく、主人公の一人称視点で物語は始まり、いわゆる「信頼できない語り手」の形をとる。ライダーはどこかヨーロッパの片田舎に招かれて、これからピアノを弾かなければならないらしい、しかもそれは単なるリサイタルではなく、住人にとっては町の命運がかかった重大イベントのようだ。町のあらゆる名士たちが「ライダー様」を待ち構えており、歓迎行事をはじめこれから凄まじくタイトなスケジュールをこなさなければならない、しかしマネージャーはどこだ、ライダーはスケジュールがまったく見えないまま、町の人々の丁重すぎる歓待を受ける……。
●で、読み始めてすぐに気づくのだが、主人公の一人称視点で書かれているはずなのに、あっさりと三人称視点でなければ見えないはずの情景が描写されて混乱させられる。なんと、これは前衛的なスタイルで書かれた小説なのだ。次から次へと町の人々があらわれ、「ライダー様」をあちこちに連れまわすのだが、その間に小説中の設定が変化していたり、町の中の地理関係が無茶苦茶になっていたりする。
●あれれ、この町はライダーが始めて来た町のはずだが、いつの間にか生まれ故郷のようになっていて、同窓生とばったり出会ったりするじゃないか。この女性と子供、他人のはずなのに、なんだかライダーの妻と子という設定にすり替わっているぞ。町の中をクルマで移動しているはずなのに、建物の中の扉を開けたら最初の出発点につながっているとか、なんだこれは。そうだ、これは夢ではないか。まるで夢の中のように、ここの「現実」は不安定で脆い。
●何百ページも悪夢世界を漂流させられながら徐々に見えてくるのだが、どうやらこの世界の登場人物たちには、「ライダー様」自身の若き日の分身や老年期の分身などがいるらしい。あるいは分身ではなくともある程度は「ライダー様」の一部を体現したような存在のようだ。そして、誰も彼もが世界的名ピアニストである「ライダー様」に対してへりくだった態度をとっているのだが、むしろ慇懃無礼というべきか、町の文化的芸術的成功のための催しがどうのこうのと立派な題目を並べてはいるが、一皮向けば失礼千万な連中ばかり。みなウジウジと自分の過去の失敗を悔やんでいるくせに妙に自己肯定的で、次から次へと「ライダー様」に厚かましい頼みごとばかりしてくる。ライダーは大人物らしく皆の要望に応えようとするが、そのうちどんどん手が回らなくなって破綻をきたす。つまりみんなヤなヤツ。町のみんながどれくらいヤなヤツかといえば、すなわち自分自身「ライダー様」と同じくらいヤなヤツだったという、これまたイジワル小説なのだった。やれやれ。猛烈に可笑しいぞ!
●読み始めて実験的な手法で書かれていると気づいたときには、正直裏切られた気分だったが、耐えて読み進めるとすばらしく傑作であったと気づく。この小説世界には一流のピアニストがレパートリーにすべき現代の作曲家として、マレリー、ヤマナカ、カザンといった人がいるようだ。ヤマナカはタケミツだろうか、マレリーはなんとなくブーレーズに置き換えて読んだが……、いやいや、そういう読み方はなんか違うな。
●文庫で全948ページという分厚さ。フツーなら二分冊にするだろうがなぜ? 上下巻だとみんな上巻で投げ出しちゃうから? この厚さに匹敵する文庫は島田荘司の「アトポス」以来。
執事小説
●少し前に、フジテレビのドラマ「メイちゃんの執事」(見てません)のおかげで、執事カフェの人気が再燃中みたいなニュースを目にしたんだけど、ここでいう執事ってイケメン必須なのはともかくとして、基本若者なんすよね、おそらく。なんか執事カフェの給仕っていうと、どっちかって言うとホストみたいな人がやってて、藤村俊二みたいな人は見当たらない気がする。
●執事といえば、執事小説の傑作として忘れられないのがカズオ・イシグロの「日の名残り」。第二次世界大戦直後のイギリスを舞台に、名家の執事スティーブンスが古きよき時代を回想しながら、独白を綴る。仕えるべき屋敷の主人が英国貴族からアメリカ人富豪に変わったように、時代は大きな変わり目を迎えている。執事スティーブンスは主人から与えられた休暇に、美しいイギリスの田園地帯を旅しながら、かつての栄光の日々や来るべき時代に思いを馳せ、執事の品格とは何か、あるべき理想の執事の姿とはどのようなものかと静かに思索する。
●で、もう古典に近い名作だからスジを少し割るけど、これほどイジワルな小説もないんである。というのも、さんざん読者に名家の執事ライフに共感させておいて(でもときどき「あれ?」と思わせながら)、終盤、主人公がある懐かしい人に再会することをきっかけとして、世界ががらりと変わって見える。そこで描かれるのは、人というものがいかに自己肯定的で独善的なものか、ということ。偉そうに立派に執事の職務を遂行して人生を振り返っているかと思えば、裏を返すと、人情の機微ひとつもわからないで人生を棒に振った愚か者でもあり、しかもその仕事の本質も到底世のためになったとはいいがたいものだという醜く残酷な現実が見えてくる。
●しかし人は自分が送ってきた人生を否定などできないものだ。うすうす何かに感づいていても、リタイアする年齢になれば「オレはこんなふうによくやってきたのだ」と考えることしかできないのがフツー。ある一瞬にその強固な自己肯定の鎧が破れ、執事スティーブンスの中から人間スティーブンスが見えるのだが、最後にはまたその鎧に帰ってゆく。その皮肉な寂しさといったらない。でもこれが世の真実。
●人によっては前半の美しい世界に魅了され、肝心の終盤の出来事が「ピンと来ない」かもしれない。身の回りのあの人もこの人もスティーブンスだし、未来の自分も確実にスティーブンスと同じ罠に落ちるだろうというところに共感できるかどうか。タイトルなった「日の名残り」という言葉が使われる場面の底意地の悪さと来たら、もう全身掻き毟りたくなるほど見事。主人公をこんな目に遭わせておいて、「日の名残り」が、つまりこれからの人生がいちばんすばらしいだとぉ? どの口が言うかっ!