●本日立ち寄った東京国際フォーラム。ロビーギャラリーのチケットオフィスが設営中。東京の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009」、すでに丸の内周辺エリアでのイベントはスタートしており、東京国際フォーラム内の公演は5月3日から5月5日まで。今年もワタシは公式レポートのお手伝いをさせていただきます。昨年に引き続き、会場内に設置されるOTTAVAさんのブースにもおじゃまします。
●もうひとつ、「ラ・フォル・ジュルネ金沢」、こちらも始まっている。開催期間は4月28日~5月4日で、本公演は5月2日~4日。本公演は、東京より一日早く始まる。金沢は昨年の大成功を受けて、今年は公演数も出演アーティストもずいぶん増えたようだ。キッズプログラムや公開マスタークラスもある。チケットはまだ残っているので、お近くの方は今から参加を決めても吉。あ、テーマは東京と違ってモーツァルトっすよ。
●ワタシは5月2日~3日は金沢へ、3日夜から5日までは東京へと掛け持ちする予定。体調を整えておかねば。
●ラ・フォル・ジュルネ金沢は、去年は全公演を自由席で聴ける「マルチパス」というスゴいチケットがあったんだけど、今年は全席指定席なので東京と同じように1公演1枚ずつチケットを購入する方式になった。最強チケットがなくなって残念という声もあるかもしれないけど、去年の混乱を考えると現実的にはこうするしかないと思う。というか、これが圧倒的にフツー。
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5/1朝刊、北國新聞さんにLFJ金沢関連記事を書いた。
2009年4月アーカイブ
いよいよ「ラ・フォル・ジュルネ」2009、東京と金沢で
ゾンビと私 その5 「イントゥ・ザ・ワイルド」
●CNNとかABCとかのニュース映像で「メキシコから豚インフルエンザが発生し……」と報道されてて、猛烈な既視感。これはまるでゾンビ映画の導入部ではないか。映画ではたいがい事件は最初は小さく発表され、既知の病の新型のように伝えられ、そのうち未知の脅威に格上げされ、しまいには想像を絶した全人類的パニックになる。「人混みを避けましょう」「なるべく外出はしないように」「非常事態宣言が発令されました」……。だが、いくらゾンビ映画が予言的な物語であっても、現実に新型インフルエンザが猛威をふるうのはまっぴらごめんなのであって、事態が沈静化することを願う。
●アラスカの荒野で死体となって発見された青年について取材したジョン・クラカワー著のノンフィクション「荒野へ」。この本の最初の刊行は1997年で、当時これを読んでもワタシはいまいちピンと来なかったのだが、最近、ショーン・ペンが「イントゥ・ザ・ワイルド」として映画化してくれた。これは圧倒的にすばらしい(ゾンビは一切出てきません。実話だし)。裕福な家庭に育った22歳の青年が、ハーバードのロースクールへの進学も決まていたにもかかわらず、2年間の放浪の旅に出かける。親にも黙って出発し、お金もカードも捨てて、アラスカを目指す。現代社会の欺瞞にはもううんざり、オレは大自然と一体になるぜ! 知性にも体力にも恵まれた青年は、アレクサンダー大王にちなみ自らをアレックス・スーパートランプ(超放浪者)と名乗り、人のいないアラスカの広大な大地で、独りで生活を始める……。で、どうなるか。もちろん死ぬ。
●彼の死体は山中に打ち捨てられた廃バスのなかで発見された。餓死である。これはいろいろな解釈が可能な事件ではあるが、狩のスキルをはじめとして自給自足するための知恵や技術を何も身につけずに、人間の居住地を離れてしまえば、人は死ぬのである、いかに勇気ある若者でも。青年は死と直面して悟ったことを手帳に記す。たとえば「幸福は他人と分かち合うことで実体化する」といったように。アレックス・スーパートランプなどというふざけた名前を捨て、孤独の中で本名を再び名乗る。つまり、理想に燃えた若者は大人になる。が、同時に彼は文明社会へと帰る道を見失い、このまさに命がけの跳躍に失敗し、死を迎える。では彼は単なる愚か者なのか? いや、誰がそんなことを言い切れるものか……。
●原作になく、映画にあるのは圧倒的な映像美。アラスカの大地の雄大さに言葉を失う。自然は恐ろしいから美しいのだ。電気も水道もない、誰一人居住していない土地というものが、どんなに神々しく峻烈であることか。そして、閃いた。そうだ! ここだっ! ここなら、町にウィルスが蔓延してみんながゾンビ化しても助かるかもしれないっっ!(←ここ本題)
●そう、たとえ自分以外の全人類がゾンビになっても、人っ子ひとりいない土地なら、そのままゾンビっ子ひとりいない土地になるだけであって、感染する心配は無用である。アレックスは孤独のうちに死んでしまったが、もし生き延びるとしたら何が必要だったのか。狩なのか、農耕なのか、孤独に耐える強靭な魂なのか、仲間なのか。クルマとガソリンなのか、小型自家発電装置とパソコンなのか。もはやゾンビ化することを避けられそうもない社会に生きる者にとって、このアレックスの失踪事件はきわめて示唆的である。果たして人は荒野で生きてゆけるのだろうか?
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不定期連載「ゾンビと私」
新日本フィルライブ更新
●前回の更新から思い切り間が空いてしまったのだが、日経BP「ネットで楽しむオーケストラ 新日本フィルライブ」を更新。今回は音楽監督アルミンクではなく、ヴォルフ=ディーター・ハウシルト指揮で、ベートーヴェンの交響曲第1番を映像&音声で提供。登録も何も不要でクリックするだけで視聴できるので、お楽しみいただければ幸い。同日に演奏された同じくベートーヴェンの第7番も後日公開予定。
●フットボール成分ゼロの週末、土曜日は横河武蔵野FCのホームゲームがあったのに。雨と仕事をいいわけにサボってしまったら、SAGAWA SHIGA FCに0-2で負けてしまった。観衆281名という寂しさは雨のため。まあこれはしょうがない。J1やJ2以上に雨だと困ることがいろいろあるので、むしろ雨でも足を運ぶファンが281人いることがスゴい。
●次の試合もラ・フォル・ジュルネと重なるので観戦できず。武蔵野陸上競技場に新スタジアムグルメ「武蔵野地粉うどん」が登場したというニュースが激しく気になる。
ゴーティエ・カピュソンのヴィクター・ハーバート
●1981年生まれってことは、まだ28歳なのか。いやー、このジャケといい、ジャケの表4の写真といい、ホントに男前だなー。ゴーティエ・カピュソン(カプソン)。チェリスト史上最強のカッコよさかもしれん。
●超名曲ドヴォルザークのチェロ協奏曲と、知ってる人は知っている、知らない人は知らないヴィクター・ハーバートのチェロ協奏曲第2番が収録されている。で、ワタシはその知らないほうの人だったんだけど、これは名曲っすね。ヴィクター・ハーバート(1859-1924)はアイルランドに生まれ、ドイツに移住し、その後アメリカに渡った作曲家、チェリストということなんだけど、これ、何も知らずに両方聴くと、ドヴォルザークのチェロ協奏曲が先にあって、ヴィクター・ハーバートはその影響を受けた作品だと早とちりすると思う。
●逆なんすよね。先にヴィクター・ハーバートのほうがこの曲を書いて、そのニューヨークでの初演(1894)を聴いて感銘を受けたドヴォルザークが、すぐにチェロ協奏曲の作曲に取りかかった、と。ドヴォルザーク並に人気が出るとはいわないが、堂々たる傑作。第2楽章のチェロ独奏なんてホントに美しい。新鮮な気分で聴けるロマン派チェロ協奏曲は貴重だ。
●チェロが上手くて若くてイケメンで、この演奏家に惜しいことがひとつあるとしたら、日本語表記がカピュソンとカプソンで分かれてしまったことだな(笑)。グーグルはもちろん、アマゾンもカピュソンとカプソンを別人扱いしている。これを大きな不利と感じてしまうのは、グーグル的世界観に毒されすぎなのか?
WindowsXP軽量化メモ
●古くなってきたノートPCをチューンナップ。もう本当は買い替え時なんだが、最近流行のネットブックのあと一歩の進化を待ちながらズルズルと使い続ける作戦。WindowsXPでPentiumM、1.6GHz、メモリは512MBしかない。
●起動に異様に時間がかかっているので、まずレジストリ関連をすっきりさせようということで、不要アプリをコンパネからアンインストールして、さらにCCleanerで不要レジストリを一括削除。意味レスな関連付けとかいつの間にかたくさんできていた。
●画面描画の負荷を減らすために、コンパネから「パフォーマンスとメンテナンス」→「視覚効果を調整する」で、不要と思われる視覚効果をどんどんオフにして極力簡素化。XP特有のウィンドウデザインとかがなくなって、Windows2000の頃みたいなシンプルな画面になる。最初は寂しいというか懐かしい感じがするが、慣れるとむしろこの簡潔さが美しく思えてくる。背景もなしにしてベタ塗りに。デスクトップから不要なアイコンを削除(どういうタイミングかよくわからないけど、ときどき勝手に再描画してるみたいだし)。
●続いて、不要なサービスをオフに。このあたりの記事を参考にして、Error Reporting ServiceとかNetMeeting Remote Desktop Sharingとか、確実になくても困らないと思われるものを無効に。なぜか入っているApple Mobile Deviceとかもワタシには不要だから切る。要らない常駐ソフトも削る。
●とかやってて、再起動に失敗してマシンが動かなくなったりすると猛烈に悲しくなって夕日に向かって駆け出すしかなくなるのだが、無事に動いてくれた、以前よりも明らかにキビキビと。いや、キビキビは言いすぎだな。体感モッサリ度20%減くらい。
ゾンビと私 その4 「ショーン・オブ・ザ・デッド」
●最近、続けて演奏会で怖い場面に遭遇したんすよ。どちらもかなり年配の方なんだけど、大声で他のお客さんに怒鳴っている。ある人は、ロビーの本来なら腰掛けるべき場所に荷物を置いた若者に対して、「そこは荷物を置く場所ではない!」と激昂していた。ある人は、他のお客の座席の足元にカバンか何かが置いてあったのに足を取られたのか、「荷物はクロークに預けろ!」と怒鳴りつけていた。怖い。相手に小さな非があるとここぞとばかりに怒りを爆発させ、大声を発しながら襲いかかる。ワタシは気づいた、あ、これはレイジ・ウィルスだ。ワタシも感染すると憤怒のみに衝き動かされるにちがいない。
●ホントはゾンビ映画を見たいわけじゃないんすよ。そうじゃなくて、このゾンビ化せずには済みそうもない社会の中で、どうやって生き抜けばいいのか、それを考えるためのゾンビ映画。ぜんぜんダメかもしれないけど、もしかしたら予習が有効かもしれない。隣人がゾンビになったらどうするのか。街がゾンビであふれたらどうするのか。「砂漠に行けば助かるかもしれない。ただしガソリンスタンドの場所は事前に要チェック」とか先に知っておくと、少しは安心かもしれないし。いや、クルマ持ってないけど。あと、「窓のそばに立ってると死亡フラグが立つ」とか、知っておいたほうが知らないよりはマシなんじゃないか。
●基本的に登場人物が全滅しがちなゾンビ映画の中で、唯一、明るい結末が待っているのはどれだろうと考えると、やはりこれしかない。「ショーン・オブ・ザ・デッド」(エドガー・ライト監督)。「ホット・ファズ~俺たちスーパーポリスメン!」の人と同じ監督&役者なんだけど、こんなに可笑しいゾンビ映画はない。だって、これ、大人になりきれないダメ男がゾンビとの戦いを通して、真の大人の男になるという物語なんすよ。
●で、はっと気づいた。ゾンビと戦うためには何が必要か。「お前ら、全員ぶったぎる」とか言ってチェーンソーとか振り回すと、即座に死亡フラグが立って、そのチェーンソーが自分に向かってくることはこれまでのゾンビ映画の傾向から明らか。言うじゃないですか、「怪物と対決するものは自ら怪物になる」って。それが字義通りの意味で適用されてしまう。これは方法論としてまちがっているのだ。それに対して、「ショーン・オブ・ザ・デッド」が教えてくれるのは「大人になれ」ということ。これは生易しい戦いではない。だが怪物にならないために、演奏会に出かける前に鑑賞しておくべきゾンビ映画というと、今のところこれしか思いつかない。
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不定期連載「ゾンビと私」
「夢遊病の娘」@METライブビューイング
●もう先週だけど、METライブビューイングでベッリーニ「夢遊病の娘」(夢遊病の女)。ナタリー・デセイとフアン・ディエゴ・フローレスのコンビ。エヴェリーノ・ピド指揮、メアリー・ジマーマン演出。舞台はスイスの山村……ではなくて、現代のニューヨークの稽古場。つまり、これから「夢遊病の娘」を上演するためにリハーサルしているという設定の「夢遊病の娘」なんである。メタ「夢遊病の娘」。おお、なるほど!
●と一瞬思ったが、そういうメタフィクショナルな仕掛けで筋が通っているかというとそうでもなさげ。「もしかして、これは劇中劇として見ても筋が通るし、一方、内側の劇としても筋が通っているのでは」的な二重構造を期待をしたが、ワタシにはそういう整合性のある物語は見つけられず。でもまあ、このほとんど究極の「他愛もない話」に、ムリヤリあれこれ意味づけしてくれなくてもいいか。最後の最後になって、やっとみんなチロリアンな衣装を着て登場してくれて、踊ったり笑ったり歌ったりしてるのを見て溜飲を下げるワタシは、宇宙一フツーなオペラ観客。最初からそれでやれよ~とか(おいおい)。でもこの場面の音楽の愉快さって、ホントに突き抜けている。こんな筋書きなのに時代を超えて愛される作品を書いたんだから、ベッリーニは猛烈に天才。
●音楽はひたすら美しい。フアン・ディエゴ・フローレスの声だけでも充足できる。
●なんにも調べずに書くけど、きっと作曲当時、「夢遊病」っていうのがスゴくホットな話題だったんすかね。伯爵が本を読みながら「夢遊病」の説明をする場面なんて、台本作家のはしゃぎぶりが感じられる。アミーナのお母さんが前もって「娘がそこで疲れて眠っているので、みなさん静かにしてください」ってお願いする場面が脱力。それ伏線って言うよりネタバレだし。
●オペラ世界の中で人生を送らなければいけないとしたら、「夢遊病の娘」の村人になりたい。エルヴィーノがアミーナと結婚すると聞いたら、わー、おめでたい~と祝福し、やっぱりエルヴィーノはリーザと結婚すると聞いても、それでもおめでたい~と祝福する。村のほのぼのライフを満喫したい。
●「夢遊病の娘」にオチをつけるとしたら、こうするのが王道だと思う、すなわちアミーナは夢遊病の娘だったんじゃなくて、本当の正体は幽霊(笑)。夜な夜な幽霊が村を歩いているという村のウワサは、正しかったのであって、アミーナは幕が開く前にもう死んでいる。お母さんは娘の死が受け入れられなくて、霊魂を現実のアミーナだと思っている。本を読んで「あれは夢遊病だ」と言い張る伯爵は、霊的存在を認めない頑固な現実主義者。エルヴィーノは命を落とすことでアミーナと結ばれる……。M・ナイト・シャマランに演出させると、きっとそんな話になる(笑)。
●METライブビューイング、今シーズンは残すところロッシーニ「チェネレントラ」のみ。5月30日(土)~6月5日(金)。詳細は公式サイトで。
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●J.G.バラード死去。享年78。2つ前のエントリーで「楽園への疾走」のことを書いたばかりだったのに。哀悼。
YouTubeシンフォニーオーケストラ本番映像
●YouTubeシンフォニーオーケストラ本番の模様がアップロードされていたので、ざっと見てみた。こんなに盛りだくさんのプログラムが用意されていたとは。動画はpart1とpart2に分かれていて、全部で2時間半くらい。一度には見切れない。タン・ドゥンのインターネット交響曲「エロイカ」は全体の中のほんの1曲にすぎなくて、演目はバラエティ豊か。最初、ブラームス4番の第3楽章ではじまったと思ったら、次はもうルー・ハリソンだもんなあ。ドヴォルザーク、ガブリエーリ、バッハ、ヴィラ=ロボス……。モーツァルトもあればジョン・ケージもある。最強に盛り上がってた。
●やっぱりこういう企画は選曲が大切だと痛感。もしこれが「視聴者にはクラシックになじみの薄い人が多いだろうから、なるべく誰でも知っている有名曲を並べましょう」的な考え方のもとに選曲されてたら、恐ろしく退屈なイベントになっていたかもしれない。曲目リストはおかかさんの記事を参照。
●世界中から集まってきたオケのプレーヤーに加えて、指揮者にティルソン・トーマス、タン・ドゥン、さらにソリストとしてギル・シャハム、ユジャ・ワン他も登場。豪勢。ティルソン・トーマスは猛烈にしゃべりがうまい(しかもチャーミングだ)。コンサートの進行のしかた、ステージ上のスクリーンの使い方などもスマート。企画の斬新さだけじゃなくて、実務的なところも優れていて、仕事できる人がやってます感全開。
●舞台上も客席もみんな楽しそうなのがいい。最近、演奏会で怒ってる人をよく見かけるんだよなー。
「楽園への疾走」(J.G.バラード著)
●「敵意」を生きがいにしている人っているじゃないですか。いつも見えない敵と戦ってる人。
●J.G.バラードの「楽園への疾走」(創元SF文庫)のドクター・バーバラもそんな人だ。40代の元医師で、ホノルルでたった一人の環境保護運動を始める。タヒチ沖のサン・エスプリ島から消えつつあるアホウドリを救え、そしてフランスは島での核実験を中止せよと叫び続ける。16歳の主人公ニールは彼女にひきつけられ、確固たる意思もないままに環境保護運動に加わる。全世界にあらんかぎりの憎悪をぶつけるようなドクター・バーバラの姿は、やがて賛同者を集め、メディアの注目を浴びながら、ニールたちとサン・エスプリ島にたどり着く……。
●読みはじめて、怪しげな「環境保護運動」を揶揄するような話なのかと一瞬思ったが、バラードがそんな平凡な話を書くわけがない。彼の旧作において度々登場するモチーフとして、外界から孤絶した閉ざされた社会の中で人々はその本性をあらわにして狂気に蝕まれていくというものがあるが、この物語もそのひとつ(その社会が高級リゾート地なら「コカイン・ナイト」だし、高層マンションなら「ハイ・ライズ」だ)。当初、希少種の保護を掲げていた南国の楽園の環境運動家たちは、次第にその姿を変容させ、意外なものをある意味で保護しようとしていたのだということがわかる。戦慄させられる。島で孤立した集団生活を営むという点では、大人版ゴールディング「蝿の王」と言えなくもない。
●倒錯したグロテスクな強迫観念をすくすくと育てる舞台として、南国の楽園ほどふさわしい場所はないだろう。16歳の少年と40代の元女医という設定も実にうまい。ドクター・バーバラへの被支配的関係を求める少年の欲望や愛、憎悪というのも、案外常識的な人ほど共感できるんじゃないだろうか。バラードは「クラッシュ」の序文の中で、現代の人々があらゆる虚構(大量消費、広告、テレビなど)に支配されていると指摘した上で、「われわれは巨大な小説の中に住んでいる。作家は小説の中で虚構を作り出す必要はなくなりつつある。虚構はすでにあるのだから、作家の仕事は現実を作り出すことだ」と言っている。その回答ともいうべき「現実」が、この歪んだ楽園にある。
まだまだラジオ
●最近みつけたネットラジオ局。CD音源のみ。かなりお世話になりそう。
Musica Religiosa [wma]。
宗教音楽専門局。オランダのプロテスタント系公共放送IKONの一チャンネル。Windows Media Playerのプレイビュー内にプレイリストを表示してくれるタイプ。夜中に無性に聴きたくなったりする。
Ancient FM [mp3(.pls)/wmp]。
中世・ルネッサンス音楽専門局。個人パトロンによるボランティア運営で、所在地はカナダ。曲名アナウンスなし。CD使用のライセンス料やサーバー等の配信コストがどれくらいのものなのかぜんぜんわからないんだけど、CMも入らなければサイト上に広告もない。
●ともにクラシックのネットラジオと音楽配信リンクに掲載済み。
●さっきYouTubeシンフォニーオーケストラのページをのぞいてみたら、タン・ドゥンの「インターネット・シンフォニー」のマッシュアップが掲載されていた。リハーサル・シーンの映像を見るとチャイコフスキーの交響曲第4番の終楽章を演奏したりしてる。本番はどういうものになるのやら。楽しみ。
もうすぐYouTubeシンフォニーオーケストラ本番
●そうえいばもうすぐYouTubeシンフォニーオーケストラの本番ではないか。4月15日にカーネギーホールでの演奏会、4月16日からYouTube上で公開。日本からの参加者はこちらの3名。当初マリンバとオーボエのお二人が発表されていたが、その後さらにトイピアノの演奏者兼Vloggerとして須藤英子さんが加わっている。須藤さんは現代音楽の分野で活躍中のピアニストで、トイピアノ演奏で知られるマーガレット・レン・タンにも師事している。というか、以前まだ彼女が学生だった頃に仕事でご一緒させていただいたことがあって、まさかその後こんな展開が待ち受けていたとはなー。
●オーボエのoboeblaeserさんは自己紹介にもあるように、音大ではなく一般大学出身で、IT企業にお勤めのアマチュア奏者の方。オーボエは応募数が多かっただろうから、かなりの難関だったはず。ニッポン代表として応援したい。
ゾンビと私 その3 「バイオハザード」
●読者の方よりお便りをいただきました。「拝啓、iio様。先日貴サイトにて『ゾンビと私』の記事を読み、さっそく「ドーン・オブ・ザ・デッド」のDVDを鑑賞することにいたしました。ですが、どうしてもゾンビの恐ろしさに耐えられず最後まで見ることができません。「28週後……」も借りてみたのですが、やはり気分が悪くなってしまい、目を開けていられませんでした。一緒に見ていて主人もこんな気味の悪い映画を見るなと申しております。わが家でも楽しく鑑賞できるゾンビ映画はないのでしょうか?」
●ありますっ! そう、ワタシも同感なのです。ゾンビは好きだけど、ゾンビ映画は怖いから見てられない。近年次々ゾンビ映画が製作されてるけど、到底見る気になれない。でも、そんな臆病なゾンビ・ファンにも安心してオススメできるのが、こちらの「バイオハザード三部作」。もともとカプコンのゲームソフトを原案としてできた映画なので、ユルさという点ではゾンビ映画界でも抜群(たぶん)。そして意外にも三部作になってるほど、人気が高い。
●もちろん本質的にゾンビなので、人がどんどん襲われるゾンビ大盛り映画なんだけど、他のシリアス路線と違うのはあくまでホラー・アクションなので、「もう人類どうしたらいいの!」的な絶望に襲われずに済む。普通、「絶望」を基調とするゾンビ映画に「ご都合主義」は不要なんだけど、このシリーズではそれが立派に生きているのが救い。
●あと、目を見張るべきは、「バイオハザードIII」の舞台。まるで「マッドマックス2」みたいに、砂漠の中で生き残った人類たちが殺伐とした共同体を作りながら暮らしている。これは実に示唆的なのであって、いくら人類の大半がゾンビ化したところで、ゾンビそのものは増殖しない。つまり、人類が密集して暮らしていない場所は、ゾンビ化した世界でもやはり人口(いやゾンビ口か)が少ないままだから、都市部よりは生き残れるチャンスがずっと大きい。ラスヴェガスなんて街を少し出れば荒涼たる砂漠が広がっているんだろう、そんな砂漠ではゾンビが群れを成すほど大勢棲息している可能性はかなり低い。
●今後、ワタシたちの世界がゾンビ化した場合のことを考えると、これは重要なヒントになる。ただ、砂漠のように人口密度が極端に低い場所というのは、人間にとって生存の容易な場所ではない。自力で移動は困難なため、クルマなりバイクが必要になる。となれば、欠かせないのはガソリン。都市が放棄された終末的世界ではいかにガソリンを確保するかが己の生存確率を大きく左右することになる以上、「バイオハザードIII」が「マッドマックス2」に似てくるのは必然だ。1981年の「マッドマックス2」において世界を荒廃させたのが核戦争であったのに対し、2000年代の「バイオハザード」では「T-ウイルス」の感染拡大が原因であった。Tはtyrant(暴君)のT。「28日後……」&「28週後……」における「レイジ(憤怒)ウィルス」もそうだが、現代において世界を破滅させるのは人間の感情の暴発なのだ。
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不定期連載「ゾンビと私」
春の上野
●まるで初夏のような暖かさで、あっという間に桜は散ってゆく。週末、横河武蔵野FCvs町田ゼルビア(JFL新昇格)の多摩ダービーをあきらめて、上野の文化会館へ。「東京・春・音楽祭」で「小倉喜久子~ピアノの歴史レクチャー・コンサート」。小ホールのステージ上にクリストフォリ、ワルター、エラールのフォルテピアノとスタインウェイの4台を置いて、弾き比べるという企画。アーティスト本人が一人でしゃべるとなると自分で「進行」もしなきゃいけないので、大変な負担だと思う。メモもノートもなしにスムーズにレクチャーできるなんてすごい。ひとつのコンサートにあれだけ盛りだくさんの内容ならお客さんも大満足では。
●昼間だったので、上野は大勢の人でにぎわっていた。本当に気候がいい。夜の公演だとよくわからなかったが、天気の良い昼間に上野に来ると、「東京」と「春」と「音楽祭」がつながるのはこういうことなんだと実感できる。終演後、ベンチで日光浴しながらソフトクリームをなめて春を満喫。
●最近複数の演奏会で同じことを感じたんだけど、トークとか司会とか付いてるコンサートの場合、「必ず最初に一曲弾くまでは誰もしゃべらない」というふうにしたほうがいい気がする。最初に舞台に誰かが登場する瞬間っていうのが、もっともお客さんが集中して音楽を聴きたがっている時間帯だし、この瞬間は無条件でアーティストはオーラをまとうことができる。でも、そこでアーティストであれ司会者であれなにかをしゃべり始めると、驚くほど短時間のうちにサーッとお客さんが集中力を失っていくのがわかる。みんな待つのが苦手(ワタシも)。腹を空かした肉食獣が群れをなしているときは、まず彼らの大好物を投げ与えておくのが安全かと。
●上野の演奏会の間に、武蔵野陸上競技場では横河武蔵野FCが町田ゼルビアに2-1で勝利した。観衆1300人以上の大入り、さすがダービー。今週はマリノスがようやく今季初勝利してくれた。勝点3の重みを感じる。
「ワルキューレ」@新国立劇場
●ふう、充足。またしてもワーグナーの音楽に圧倒されてしまった。なんて美しい音楽なんだろうか。そして、激しく愉快な「ワルキューレ」だった。再演でもあるし遠慮なくネタバレしちゃうので、これから初めて見る方は以降スルーを。予備知識なしのほうが断然楽しいので。
●前回の「ラインの黄金」と同様に、今回も神々の長ヴォータンは映写機を回している。映画監督が映画というフィルム内に完結したミニチュア世界を創り出すように、神様も「世界」を箱庭のように自在に創造する……が、この映画の編集は一筋縄では行かず、綻びだらけ。ヴォータンが片手に持つものは権力のシンボルたる長槍。その先端は矢印記号となって舞台の至るところに登場する。
●このヴォータン(ユッカ・ラジライネン)は神というよりは悩める父親、さらに言えば少しヲタっぽいお父さんっすよね。オタクは箱庭を作るのが大好き。映画制作とか鉄道模型とか同人誌とか。ウジウジしながら映写機を回してる感じのヴォータン。
●キース・ウォーナー演出は今回も饒舌。ブリュンヒルデ(ユディット・ネーメット)は子供用の揺り木馬に乗って登場。客席から笑いが漏れる。揺り木馬が奇抜っていうよりも、あの木馬にはブリュンヒルデ重すぎ。木馬は第3幕の岩山のシーンでも巨大化して出現する。こんなに大仕掛けで何事かと思うんだけど、巨大木馬はほんの少ししか使われない。あれは木馬(グラーネって書いてある。笑)が大きくなったというよりは、ブリュンヒルデが小さくなった、彼女の少女性、幼児性の表現と受け取ればいいんだろうか。
●最強に盛り上がるのは第3幕冒頭。おなじみ「ワルキューレの騎行」が鳴り響く。舞台はERっていうのかな、緊急救命室みたいな場所で、おそらく手術室でつながるであろうたくさんの扉から、次々とワルキューレたちが天馬ではなくストレッチャー(!)を転がしてやってくる。「ホヨトホー!」って歌いながら扉をガツンと蹴飛ばして出て行ったり、ストレッチャーに乗っかって滑ってみたりして無邪気。乙女たちはエプロンをつけた看護士さんなのだ。前幕でブリュンヒルデの持っていた赤い盾が十字形をしていたが、その盾はここでストレッチャーにくくりつけられて赤十字になっている。冴えてる!
●白粉を全身に塗った患者さんが次々運ばれてくる。彼らは地上で弊えた人間の英雄たちだ。英雄たちを手術室に送るとハイ、一丁アガリ。英雄はすっくり立ち上がって舞台奥への扉へと歩く。ドアの上の赤いランプにはWALHALL(ワルハラ)の白文字。来るべきラグナロクに備えて集められた戦士たちだ。ワルキューレたちのコスチュームがかわいい。
●この後、ヴォータンとブリュンヒルデの父娘涙の勘当シーンもすばらしい。これはキース・ウォーナー演出にぜんぜん限らないんだけど、「ラインの黄金」では天上界から地底界までの「世界の成り立ち」が描かれ説明されていたけど、一方「ワルキューレ」は家族の物語なんすよね。お父さんヴォータンがいて、お母さんフリッカがいて、娘ブリュンヒルデがいる3人家族なんだけど、ブリュンヒルデはヴォータンと地母神エルダの間の子なので、娘視点で見るとフリッカはイジワルな継母だ。「あたし、パパが本当はどうしたいか知ってるの、だから大好きなパパのためにあんなことしたのに。それなのにどうしてパパはあたしを罰するの!? そんなにあの人(フリッカね)のいうことが大事なの?」みたいな。お父さんは葛藤する。妻のいうことには逆らえないが、この娘は何よりも大切。
●しかもこのお父さん、人間女性との間にも子供を儲けてて、それが双子のジークムントとジークリンデだ。この双子兄妹が契りを結ぶんだから、神じゃなくても頭が痛い。次作以降、この兄妹の間に生まれた子ジークフリートが、父母の異母姉妹であるブリュンヒルデと結ばれるわけで、なんか叔父・叔母・従兄妹・祖父母あらゆる親戚用語フル活用しても家系図がよくわかんない罰当たり大家族が誕生している。もうお母さん知りませんから、お父さんどうにかしてください! で、神代は終焉するわけだが、それは来シーズン。
●最後の場面、ヴォータンのモノローグの間にいったん幕を閉じて巨大木馬はしまわれ、次に開くとブリュンヒルデはベッドの上に横たわっている。傍らに大きなめざまし時計、揺り木馬も再登場。またもブリュンヒルデは幼女なのか。ベッドの四辺から本物の炎が燃え上がる(おおっ)。娘は次にここを通った男にくれてやる。この炎はその男を勇者に限るための親心。神よりも自由な男がお前に求婚するのだ……。泣ける。
●「ラインの黄金」に続き劇場の大掛かりな舞台装置がフル活用されていて楽しかった。これだけできるんなら普段から……いやまあいいか。ジークリンデはマルティーナ・セラフィン。もっとも好評。フンディングはクルト・リドル。ベテランの貫禄。ジークムントはバイロイトでも同役を歌っているエンドリック・ヴォトリッヒ。声が出ず苦しそうだったが、あの筋肉ムキムキな体型はすごい。本物の戦士になれそうな歌手がいるなんて。ダン・エッティンガー指揮東京フィル。好演。「ラインの黄金」のときよりも強まっており、次作では最強に強まる予感と期待。
ボリビア 6-1 アルゼンチン
●先日のワールドカップ南米予選でボリビア 6-1 アルゼンチン。マラドーナ率いるアルゼンチンが歴史的大敗を喫してしまった。試合会場はいつも高度が問題になるラパス。標高3600メートルの高地なので、富士山の山頂でサッカーするみたいなもので、アウェイチームがまともに走れるはずがない。90分走るどころか、スタンドで観戦するだけでも高山病になりそう。ゴールシーンをYouTubeで見たけど、もしかして空気が薄くて豪快なミドルシュートが決まりやすいんだろうか?
●Google Mapで見たラパスのスタジアム。どんどんカメラを引いていくと、山の上のすり鉢状の土地に街があるのがよくわかる。こんな空気の薄い土地でも走り回ってサッカーしなきゃ気がすまないワタシら人類。
大きな地図で見る
ゾンビと私 その2 「ドーン・オブ・ザ・デッド」
●最近、海外のネットラジオを聴いてるとやたらと受難曲だのオラトリオだのにぶつかるなあと思ったら、もうすぐ復活祭じゃないっすか。えーと、今年は4月12日か。復活するかなあ、死者が……ウジャウジャと。ってわけで、本日もゾンビについて語りたい。
●ゾンビ映画における21世紀の新しいスタンダードはどれかと問われたら、迷わず挙げたいのがこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」(ザック・スナイダー監督)だ。なんて偉そうに言ってみたくて言ってみたが、ホントはそんなことをいう資格はワタシにはないのだ、なぜならばこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」、ジョージ・A・ロメロの歴史的傑作「ゾンビ」のリメイクとして作られたというのだが、ワタシはその肝心のオリジナルのほうを見ていない。ていうか、見はじめたんだけど、怖くて見てられなくて序盤で脱落したんすよ、ホント気持ち悪いし。そんな根性なしがどうしてこの「ドーン・オブ・ザ・デッド」を最後のエンディングまで見れたのか、今にして思うと謎すぎるのだが、この新「ゾンビ」のほうも相当に怖い。怖いといってもホラー的な、あるいはスプラッター的な恐怖ではない。とにかく「感じが悪い」。見てるとどんどんイヤ~な気分になる傑作なのだ。ここに予告編があるから見たい方はどうぞ。この映像はそんなに怖くないので比較的安心、たぶん。
●で、このゾンビも「28週後……」と同じく、走るんすよ。全力疾走するゾンビ。「疾走する悲しみ」といえば、これほど悲しい状況はないだろってくらい。で、これはオリジナルの設定を引き継いでいるようなんだけど、みんなでショッピングモールに立てこもるんすよ。何でもモノがそろってるから立てこもるにはいい場所でもあり、また人間のエゴとエゴが醜くぶつかり合う場所として消費社会のシンボルであるショッピングモールほどふさわしいところもない。とことん絶望的な状況である一方で、全般にかなりブラックなユーモアが散りばめられており、どんよりした気分で歪んだ笑いで引き攣りながら鑑賞するには最適な映画である。オリジナルとは別物と批判されることも多いようだが、この過剰なバッドテイストはゾンビ映画の王道なんじゃないだろうか。
●暗闇で出会って怖いものといったら、そりゃ幽霊も怖いし、野生動物とかも怖いし、虫とかも怖い、場合によっちゃ鳥も怖い、でもいちばん怖いのは人間だよね、すなわちゾンビ。
●DVDについているオマケ映像「番組の途中ですが緊急特別番組をお送りします」(ニコ動なので要登録でスマソ)がまたエグい。ホント、ヤになるね、ひどいね、ゾンビは。でもまだまだ不定期に続きます、「ゾンビと私」。
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不定期連載「ゾンビと私」
春にさえずる者
●桜の花が咲く瞬間をこの目で見ようとジッと蕾を見ていたがちっとも開かない。ふとヨソ見をした瞬間に、パッと咲きやがった、この桜。
●ようやく春らしくなった。これから梅雨に入るまでが、東京でもっとも良い季節である。しばらく前から小鳥たちが盛んにさえずって一足早く春を告げていた。近所の学校にこんな見事な桜の木があったのかと知った本日。散歩していると、すぐ近くで「キュイッ、キュイッ、キュキュキュ……」と鳴き声がする。これはどんな小鳥だろうか。鳴き声のほうを見たが、姿が見えない。しばらくすると、また「キュイッ、キュイッ、キュキュキュ……」。そこで気がついた、この鳴き声は小鳥ではなく、前をのろのろと走るオッサンの自転車のブレーキが軋む音だった。
ゾンビと私 その1 「28週後……」
●どうしてこんなにもゾンビにひきつけられるだろうか、そしてなぜゾンビはこんなにも恐ろしいのだろうか。ゾンビ、見たい、すごく見たい。でも怖い、すごく怖い。ワタシは怖い映画が苦手なのだ。昨夜、意を決してWOWOWで録画しておいた「28週後……」(ファン・カルロス・フレナディージョ監督/ダニー・ボイル製作総指揮)を見はじめた。いきなりゾンビ映画ならではの「イヤ~な感じ」が満載で、20分ほど見たらもう怖くて見てられなくなった。「怖さ」が「怖いもの見たさ」を超えてしまいギブアップ。もう忘れよう、前作の「28日後……」も怖かったが、この続編「28週後……」はそれを超えるバッド・テイスト。この映画はもう見ない。
●翌日、太陽が天高くまで昇ると、昨夜「見ない」と決めたばかりの「28週後……」の続きがどうしても気になった。今なら明るいからきっと大丈夫。ふたたび再生すると、そこには予想通りの、いや予想以上のイヤ~な展開が繰り広げられる。
●舞台は前作と同じくロンドン。ダニー・ボイル監督の前作「28日後……」では、霊長類を凶暴化させるレイジ・ウィルスが猛威をふるって、イギリスから人が死に絶えるという話だった。これは「ゾンビ」とは名乗ってないんだけど、ルール的にはゾンビと同様。レイジ・ウィルスの感染者はあっという間に凶暴化して、人間を襲ったり食ったりする。襲われた人間はすぐに感染して、自分もゾンビ化する。血液とか唾液でも感染するけど空気感染はしない。感染者は知性も言語も失う。これは最近のゾンビ映画の潮流みたいなんだけど、こいつら、走るんすよ。全力で疾走するゾンビ。これが怖い。太陽と緑に輝く美しい田園地帯を、人間が死に物狂いで走って逃げ、それを血まみれになったゾンビの集団が大またで走りながら追いかける。怖すぎる。もうイヤです、かんべんしてください……。
●で、前作でロンドンはゾンビの街になるんだけど、爆発的なゾンビ人口の増大によって食糧難になり、ゾンビは餓死したという設定で、28週後、アメリカ軍の管理のもとでロンドン復興がはじまっている。もちろん、復興するどころか、またウィルスが大暴れするわけだ。人としての正しい行為、勇気、愛、自己犠牲、そういうものが一切報われない容赦のない悪夢的世界が描かれる。怖いだけじゃなくて、嫌なもの、醜いものをたくさん見せつけられる。前作同様、物語を支配するのは「絶望」だ。
●「ゾンビ」ではなく「レイジ・ウィルス」っていうふうに名づけたところが秀逸。「憤怒ウィルス」ってことだろうけど、まさにこれに感染したとしか思えないように突然怒り出す人って、今の世の中たくさん見かけるじゃないっすか。突然キレる。で、たしかにこれは猛烈な感染性があって、誰かがキレると、他の人もキレる。電車の中とか、恐ろしいことにコンサート会場とかでも見かけるんだな……。なにかささやかな不快がきっかけとなって、「レイジ・ウィルス」に感染しちゃう。これは大都市が憤怒のパンデミックにより滅ぶという予言的な物語なんすよね。感染者も怖いし、自分が感染したらと思うともっと怖い。
●これ、さらなる続編として「28ヵ月後」ってのが作られるんだろうなあ、あの結末の場面からすると。あそこだけは少し笑った。辟易しつつも。
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不定期連載「ゾンビと私」
週末フットボール・ラビリンス~続くよ無勝街道編
●ま、また負けたのかっ! アルビレックス新潟 2-1 マリノス。もうどうするのよ、マリノス。いまだ勝利なし。エースストライカーである大島を新潟に売ってしまった時点で、今日の日の結果はある程度見えていたという気がする。大島と矢野はそのままニッポン代表の2トップになってもおかしくない能力を持ってると思うので、さらにブレイクしていただきたい。負けた記念に食う柿の種。「勝ちの種」ってのはまだやってるのかなあ、新潟。
●で、ワールドカップ予選もちらちらとセルフ・ハイライトで見たですよ、ニッポン以外の試合を録画で。ニッポンがバーレーンに勝った日、もう一方の試合はウズベキスタン 4 - 0 カタールという結果になって、ウズベキスタンにも可能性が出てきた。この日はカタールに退場者が出たこともあるけど、ウズベキスタンに3ゴールを決めたタジエフという新星が誕生したのが大きくて、おそらくニッポン代表の次の試合でも脅威になるはず。
●で、ニッポンが試合のなかったウィークデイは、オーストラリア 2 - 0 ウズベキスタン。どこもオーストラリアの強固な守備を崩せない。ウズベキスタンも高くてパワフルなチームだけど、それでもオーストラリアは高さで勝負して来る。やはり強い。ニッポンがアウェイのオーストラリア戦といういちばん厄介な試合を最終戦に設定できているというのはどう考えても有利だ(その時点では少なくともオーストラリアにとっては消化試合になってる)。しかしオーストラリアのサポーターにはすごく違和感がある。ファウルを受けて倒れる相手選手にすぐブーイングする。行儀が悪いと思うな。
●もう一方の試合は、バーレーン 1 - 0 カタールという結果で、カタールは前の試合の大敗で「終わった」感が漂っていたかもしれない。セバスチャンはじめ超アジア・レベルの選手が何人かいるのに(というか実際アジアの選手じゃないのだが)、劣勢に立たされるととたんに気力が萎える傾向があって、あの気質は東アジアにはなかなか見られない。バーレーンは智将マチャラ監督の3位狙い戦略がうまくいったみたい。おそらくニッポン戦で温存したフレッシュな選手を使ったんじゃないだろうか。中三日でニッポンから帰国して戦うという厳しい日程だったから。
●そんなわけで現時点では、こんな順位。
13点 オーストラリア
11点 ニッポン
7点 バーレーン
4点 ウズベキスタン
4点 カタール
オーストラリアとニッポンは1試合少ない。つまりこの両国はあと3試合あるのに、他の国はあと2試合しかない。ある意味カタールがウズベキスタン戦で自滅してくれたおかげという気がするのだが、ニッポンはかなり有利な立場になった。でも何が起きるかわからないのがサッカーなので、安心するのはまだ早い。次の試合は少し先で6月6日なり。
ネットラジオ・リンク更新
●しばらくずっと整理を続けていた「クラシックのネットラジオと音楽配信リンク」、ひとまずこれで一段落しそう。ある程度取捨選択してネットラジオの局を載せたつもりなんだが、それでも今数えてみたら36局にもなってしまってた。これだけあれば十分だろう、と思いつつも「どこかにまだ知らないステキ局があるんではないか」とついついあれこれ探してしまう。宝探しみたいなものっすね。
●ラジオはスキマ時間にもささっと聞けるのが吉。寝る前に少しだけ、とか。
●「♪恋は野の鳥~、あたしがあんたを好きになったら、せいぜい用心するが吉~」。(歌劇「カメルン」より)
横河武蔵野FCvs琉球FC@西が丘、トルシエ遭遇編
●オーマイガッ! 昨日は4月1日だったんじゃないですかっ! ぜ、ぜんぜん気づかずに記事を上げてしまった……。次回のエイプリルフールにはこれ書こうと一年前から決めていたネタがあったのに。ああ、惜しいことをした。忘れよう、今年のエイプリルフールはなかった、と。(悔しいから過去記事リンク:昨年、一昨年)
●今年もまた入会したんである、横河武蔵野FC後援会。J1、J2の下、JFLすなわち日本の三部リーグ。遠くのセリエAより近くのJFL。先週末のFC琉球戦で、ようやく今季初観戦。会場はなぜか西が丘サッカー場(きれいだった)。
●FC琉球って、あのトルシエが総監督をやっているという謎のチームで、しかもプロを標榜してるんすよ、JFLにあって。将来は沖縄初のJリーグ入りを目指している。にもかかわらず昨季は18チーム中16位。JFLはプロ、アマ、企業チーム、学生チーム入り混じってるんだけど、FC琉球は予算規模が大きいみたいで、トルシエ総監督はじめ元Jリーグの選手がいたりとか、JFL離れした豪華さ。
●で、これはしょうがないのだが、横河武蔵野FCから二人、主力選手がFC琉球に引き抜かれたんである。特に個人的にMVPと思っていたキーパー金子の移籍が痛い。この日、二人とも相手チームの先発として出てきた。武蔵野は昨季アマチュアながら一時優勝争いをしていたわけで順位的には琉球よりも上位であるが、選手の出入りとなると、出す側が武蔵野で獲得する側が琉球になる。他にも選手の入れ替わりが激しくて、ずいぶん顔ぶれが変わっていた。
●そんなこともありつつも試合のほうは4-1で武蔵野が圧勝。得点者、岩田2、小山、村山。かつてのチームメイトが守るゴールマウスに次々と見事なシュートを叩き込んでくれた。新加入の遠藤真仁(元ロッソ熊本)が効いていた。
●で、意外にも来てたんすよ、懐かしのトルシエが! 観客1000人未満の西が丘だけど、トルシエはさすがに人気者で、握手する人サインをねだる人さまざま。対戦相手とはいえ、元ニッポン代表監督なので、ワタシも間近に近寄ってしまった(近寄ってどうするってものでもないが)。いやあ、代表監督時代ならこんな近づくことなんてできなかっただろう。トルシエは日韓W杯後、一時フランス代表監督候補にもなったし、名門マルセイユを率いたりもしてたわけで、まさか西が丘で出会うことになるとは想像外。総監督ではなく、監督として現場復帰してほしいものである。
●なんだか無性にフラットスリーが懐かしくなってきた。いっそマリノスに来てもらって、夏に中村俊輔と再会するってのはどうだろう。
CD棚メランコリー
●数年前の引越しの際、棚のCDの並びが少し狂ってしまった。梱包から開梱まで全部業者にお任せして、で、その際に彼らはCD棚の中身をきちんと復元しようとしてくれたのだが、棚の位置までは正確だったものの惜しいことに順序をまちがえた。つまり、棚Aの1段目にあるディスクは、引越し先でも正しく棚Aの1段目に落ち着いたが、その1段の中での順番までは再現できなかったんである。無理もない。
●でも前々回の引越しの際は(同じ業者なのに)まちがえなかった。担当者次第なのか。まあ、これを正しくやれというほうが気の毒だ。特に彼らが混乱する原因となったのは、CDのどちらが背中でどちらが腹(?)か区別が付かなかったからで、かなりの量のCDが逆向きに収まってしまった。帯のない輸入盤が圧倒的に多いのでしょうがない。そもそも普段CDを聴かない人なら、背と腹のどちらが外を向いてようが気にならないだろう。だんだん「CDなんて聴かない」という人が増えてきているようだから、今後ますますそうなるかも。
●ということを言いわけにして、以来、CDを一定の秩序に従って並べる努力をほとんど放棄してしまった。今日、ビゼーの交響曲を探し出す必要があったが、見つけ出せない。ビゼーのあるべき場所にはなかった。その付近にあるのか。ウチのCDなんて大した量じゃないのにこうなる。みんなどうしてるんだろう。棚を探すのはストレスがたまるので、あっさりあきらめてネットで探すことにした。演奏を選ばなければ、試聴できるところはいくらでもあるし、まるごと聴く方法もなくはないからそちらが早い。事実、この曲は先日オランダのRadio4が無料配布していたじゃないか。問題解決。
●もし気のいい小人たちが現れて、夜ワタシが眠っている間に働こうと言ってくれたら、ぜひ彼らには靴を作るのではなく、CDの順番を直してもらおう。いや、違うな。ウチのCD全部をPCのハードディスクにコピーしてもらうのがいいだろう。mp3でもワタシは気にならないが、一応念のために劣化のないロスレス圧縮でリッピングしてもらう。ディスクとプラケースは捨てて(棚も要らなくなって部屋がすっきりする)、ジャケットとブックレットは別途大切に保管する。ハードディスクはバックアップが複数必要だ。音源をデータにしてしまえば検索性も高いので、もうCD棚の前で首を横にしながら背中の小さな欧文を追いかける必要がなくなる。すばらしい。
●まず最初に小人たちにWindows Vistaの使い方を教えておかなくては。OSの仕様が気に食わないといってヘソを曲げたりしないだろうか、少し心配だ。気を悪くして代わりに靴を作ってくれるのなら、それはそれで結構なことでもあるが。