●LINDEN日記でファビオ・ルイージがイギリス人作家カズオ・イシグロの愛読者だと知って、この指揮者に対する好感度が上昇中。
●「オレは正しい。でもこの世はバカばっか!」。そういう世界観を持つ人にはカズオ・イシグロの小説はまったくおもしろくない。むしろ不快だろう。これまでに当ページでも「わたしを離さないで」「日の名残り」「充たされざる者」をご紹介しているが、基本構造はどれもおおむね同じ。一人称視点で描かれるが、主人公はいわゆる「信頼できない語り手」となっている。最初、世界はとても美しく、しばしばノスタルジックである。読者は無条件に主人公に共感する。ところが読み進めるうちに、どんどんとこの主人公の視点に対して疑問がわいてくる。そして、しまいには人間の呆れるほどの独善性や自己愛の強さが猛烈イジワルに明らかになってくる。ああ、なんてイタい存在なのでしょうか、ワタシは。と心地よく痛感するための一人称小説。
●旧作だが「わたしたちが孤児だったころ」(ハヤカワepi文庫)も、そういう物語だ。前作「充たされざる者」が世界的ピアニストを主人公にした実験的小説で(カズオ・イシグロは音楽に造詣が深い)読者を強く選ぶものだったが、「わたしたちが孤児だったころ」は万人が安心して読める。特に舞台が日中戦争中の上海となれば、日本人にとっても興味深いのでは。
●この「わたしたちが孤児だったころ」の主人公は、上海の租界で少年期を過ごしたイギリス人の探偵(!)という設定。なんと、「信頼できない語り手」の当人が探偵とは。探偵小説へのオマージュなのか。ある出来事を境目にして、終盤から物語の風景が変わって見えてくるのだが、そこからは少々「充たされざる者」風というか、かなり大胆な手法が使われている。主人公の目的であった「少年時代に別れた両親を探すこと」と「世界を救うこと」の境界が曖昧になり、秩序だった世界に急激に混沌が訪れる。主人公は狂っているのか? それともこれが戦時における現実感なのか。カズオ・イシグロは三人称視点で主人公がおかしくなってゆく姿を描かない。代わりに一人称でこれを読者に自分自身のこととして体験させる。だれよりも大切で愛しい自分という者の姿が、こんなに醜く痛々しいものだったなんて! 背筋がゾクゾクとするような真実の描き方だ。やれやれ。なんという傑作。「自分探しの旅」をしてる人には劇薬だな、こりゃ。
●「充たされざる者」にも出てくるんだけど、どうしようもなく鈍感で慇懃無礼な人物を描くのが好きみたいっすよね、カズオ・イシグロは。どす黒い善意っていうかな。この手の人物が出てくる場面は、笑うところ。顔を引き攣らせながら。
May 19, 2009
「わたしたちが孤児だったころ」(カズオ・イシグロ)
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