●予約して発売日にゲット、すぐ読んだ。カズオ・イシグロの最新刊「夜想曲集~音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」(早川書房)。短篇集だが、それぞれ題材はある程度共通している。副題にあるように「音楽」と「夕暮れ」をめぐるわけだが、言い換えれば「ミュージシャン」と「(夕暮れを迎えた)夫婦」がテーマ。あとドロップアウトした(しつつある)若者/元若者。
●「美しく切ない物語」みたいな意匠の中に、可笑しくて苦い真実を描くという点では、カズオ・イシグロのほかの長編と同じ。5つの作品の内、特に感銘を受けたのが「モールバンヒルズ」と「チェリスト」。別に「ネタバレ」を気にするような話じゃないけど、これから読もうという方は以下は読後に目を通したほうがいいかも。
●「モールバンヒルズ」の題からエルガーを連想する方は鋭い。ギタリスト志望の若い主人公が、ロンドンを離れてモールバンヒルズのカフェで働いていると、スイスからの観光客の夫婦に出会う。ダンナのほうは上機嫌だ。
「エルガーについてのいいドキュメンタリ映画を見ましてね、それからずっと来たいと思っていました。エルガーはモールバンヒルズが大好きだったのでしょう? 隅から隅まで自転車で走り回った、とありました。そして、私たちもついにここに来た」
ダンナは休暇を楽しむ観光客にふさわしい快活な態度で「イギリスはすばらしい国」「みんな親切」と喜んでいる。でも奥さんのほうはずっと不機嫌。ひょんなことから、二人は実は音楽家だとわかる。といっても、コンサートホールの舞台に立つ音楽家ではなく、観光地のレストランで民族衣装を着て演奏して、お客を喜ばせるような仕事だ。主人公から「どんな音楽をやるんですか」と問われて、ダンナは「一番やりたいのはスイス民謡で、これを現代風にアレンジしてやる。時には過激にアレンジする。ヤナーチェクとかヴォーン・ウィリアムズからインスピレーションを受けることが多い」みたいなことをいうが、奥さんは「でもいまはあまりそういう音楽は、やらないわね」という。実際にはビートルズやカーペンターズとかABBAをやってるわけだ。口では尖がったオリジナルの音楽をやりたいとかいってても、レストランで演奏できるのはみんながよく知ってるヒット曲。そう、それが仕事というものの現実だろう。
●ダンナはなんだって物事をポジティブに捉えて喜ぶ。人生、物事は万事喜びを持って向き合えば喜ばしいものになるし、つまらないと思えば本当につまらなくなる、そういう価値観。これはまあ本当にその通りなわけだ。ワタシのような根っからネガティブな人間ですら、実はそう思っていて、さほどぱっとしないレストランでも「おいしいねえ」と言えば本当においしくなるし、ありきたりの観光地の風景でも「これは見事だ!」と言えば本当に見事になると知っている。そうせずにどうやって生きろと? おそらく奥さんのほうもそうやってダンナと喜びを共有してきたのだろう。でも「夕暮れ」を迎えて、もうそのダンナの「僕はラッキーだ」についていけなくなった。だって、そうしていっしょに暮らしてきたら、若い頃の志はどこへやら、あちこちの観光地のレストランでビートルズやABBAを演奏するばかりだし、たまに休暇をとっても冴えないカフェとかみすぼらしい民宿に甘んじてるわけで、それでもダンナは「僕はラッキーだ」って言い張ってる。はぁ、あたし、もう人生に疲れてきたわ……。
●カズオ・イシグロが巧いと思うのは、この夫婦を若い主人公の視点から描いているところ。この主人公は才能も野心もあるし、カバーバンドなんかやる気はなくてオリジナルの曲を作ってる。でもまちがいなく大人になったら、このダンナと同じになるよ、っていう話なわけだ。真実すぎる……。
●「チェリスト」も傑作。音楽家志望の若者は必読(笑)。若いチェリストが謎の女教師に出会い個人レッスンを受ける。女の批評は恐ろしく辛辣だが的確で、若者はレッスンにのめり込み、「生涯でこれほどうまく演奏できたことはない」と思うほど、成長する。で、どうなったかというと、不機嫌で凡庸なオヤジになったという話。イジワルだが、かなりコミカル。女教師に爆笑。