●新国立劇場でベルク作曲「ヴォツェック」を観た。バイエルン国立歌劇場との共同制作による新演出。アンドレアス・クリーゲンブルク演出、ハルトムート・ヘンヒェン指揮。
●平日昼間公演だったので、日の高いうちから狂人だらけのオペラを観てしまった。「ヴォツェック」がどんな物語かってのを一言で説明すると、頭のおかしい貧乏下級兵士が、金欲しさに怪しい医者の人体実験台になったり、内縁の妻を刺し殺したりして、最後は自ら土左衛門になる絶望底辺オペラ。いやー、もう暗い。絶望的に暗い。
●演出的な見どころはたくさんあった。まず、舞台上に水を張ってある。みんな足元をビチャビチャ言わせながら歩くことになる。ヴォツェック家から一歩外に出ると、水たまり。これは第1幕の頭からあって、そのまま第3幕のヴォツェック土左衛門シーンでは沼になるわけだ。マリーを殺したナイフを投げ入れ、血を洗い流し、沼に溺れていく。つまり、これは「沼ガール」ならぬ「沼オヤジ」の話なんである。ヴォツェックが沼に溺れるのと同様、どの登場人物も最初から沼に足を入れているようなもので、いずれだれもが沼に絡み取られていくという絶望を示唆している。
●子役の演技がスゴい。天才かも。この演出では子どもがほとんど舞台上に出ずっぱりになっていて、ヴォツェックがいるそばの壁に「お父さん」とペンキで書いたり、マリーのところに「売女」と書いたりする。最後に「ホップホップ」って言う場面以外は歌もセリフもないんだけど、かなりの達者な演技が必要で、カーテンコールではブラボーが出たほど。ある意味、この子が主人公であり、この子の視点から見た世界を描いているともいえる(演出家はヴォツェック視点で描いたと言っているが、そんなことは気にしない)。
●物語の悪夢的な世界観はかなり強調されており、ヴォツェック一家以外の人間はみな醜い怪物的な姿をしている。仕事を求める失業者たちがいる。黒子たちがみなナイフを持ち、次から次へとヴォツェックに手渡していく。もうどうしたってヴォツェックはマリーを刺さないわけにはいかない。で、最凶に後味の悪いのは、このナイフが、最後に父も母も失った子どもの手に渡されていくところ。子どもは将来のヴォツェックであり、狂気も貧困も暴力もそのまま彼に受け継がれていくであろうという出口なしの絶望。
●このテーマは二通りの受け取り方があると思う。ひとつには、「ヴォツェック」の世界を、そのまま現代のわれわれの社会が抱える問題として受け止めるという方法。仕事がない人間が下級兵士になったり人体実験台になったりするというのは、命とカネを交換するということであり、ある部分では現実そのものだ。フツーの暮らしをする人も、何かの拍子であっさり仕事を失うかもしれない。戦争が始まるかもしれない。ヴォツェックでありマリーであるかもしれない私たち、という見方。
●もうひとつは、これこそがファンタジーという受け止め方だ。オペラはずっと前からいろんなファンタジーを描いてきた。古代エジプトの英雄とか中国の王女様とか神々の没落とか。でもそんな空想にはもう飽きたとする。じゃあとことん豊かで平和でオペラを贅沢に楽しみ尽くす人々にとって、なにが物珍しい絵空事かといえば、貧困とか狂気とか絶望だろう。この両者のタイプのお客さんが共存しているのが現代の劇場。
●音楽的には第3幕がすばらしいっすね。これは本当に感動する。陰惨すぎるけど。
November 27, 2009
ベルク「ヴォツェック」@新国立劇場
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