●小説のほうはほとんど読んでいないのに、なぜかインタビュー集のほうを夢中になって読んでしまった。「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」。すごくおもしろい。創作にどんな姿勢で臨むのかといった事柄からライフスタイルまで、率直に答えられていて、ますます作家への敬意が深まった(じゃあ小説も読めよって話だが)。これだけ世の中に自分の作品が浸透していて、熱狂的なファンもいればその逆のアンチもいるし、見当違いな批評を書かれたり、嫉妬されたりする創作者が、自作の受け入れられ方をどんな風に見ているのか、という点でポコン!と膝を打ったのが以下のくだり(p.323)。
小説に関しても、他のことに関してもそうだけど、「誤解の総体が本当の理解なんだ」と僕は考えるようになりました。『海辺のカフカ』に関して読者からたくさんメールをもらって実感したことは、そこにはずいぶんいろんな種類の誤解やら曲解やらがあるし、やたらほめてくれるものもあれば理不尽にけなすものもあるんだけど、そういうものが数としてたくさん集まると、全体像としてはものすごく正当な理解になるんだな、ということでした。そこには、ちょっと大げさにいえば、感動的なものがありました。だから逆にいえば、僕らは個々の誤解をむしろ積極的に求めるべきなのかもしれない。そう考えると、いろんなことがずいぶんラクになるんですね。他人に正しく理解してもらおうと思わなければ、人間ラクになれます。誰かに誤解されるたびに、見当違いな評が出るたびに、「そうだ。これでいいんだ。ものごとは総合的な理解へと一歩ずつ近づいているんだ」と思えばいいんです。逆にいえば、小説家というのは、あるいは小説というのは、そんなに簡単に正確にぴっと外から理解されてしまっては、むしろ困るんじゃないかと。そんなことになったら、僕らはもうメシを食っていけなくなるんじゃないかと。
●これって小説を音楽に置き換えてもたぶん成立する話なんじゃないか……というか、昔から言う「聴衆ひとりひとりはトンチンカンなことを言ってても、集合体(=客席)としては神の声になる」っていうウェーバーだったかのロジックとほぼ同じでもある。あと、もうひとつ連想するのは即物的で恐縮なんだけど、確率論の「ベイズの定理」を用いたスパムメールのフィルタリング技術。まあ違うかもしれないんだけど、可笑しな連想としてつい。