March 14, 2011

地震が起きた日のこと

●信じられないほどのスピードで記憶が薄れていくので、書いておく。2011年3月11日(金)、午後3時より前だったと思う。仕事部屋でPCに向かっているときに最初の揺れが来た。たまたまTwitterを開いていたので「揺れた」と一言つぶやきかけて、やっぱり止めた。揺れが大きくなり、背の高い棚から本などが落ち始め、すぐにこれは普通の地震ではないかもしれないと思った。仕事部屋を出て、背の高い棚がない部屋に移った。ぐわんぐわんと異様に周期の長い強い揺れがやってきて、椅子に座りながら両手でテーブルにつかまるような姿勢を無意識にとって耐えた。テレビをつけて、震源が東北のほうだとわかった。東北なのに東京でこれだけ揺れるのはどういうことなんだろうか。これまでの地震常識とは違う。
●しばらくしてまた強い揺れが来た。バサバサとあちこちから物が落ちる音がする。さっきの余震と呼ぶにはあまりに揺れが強い。今度は四つんばいの姿勢を取った。気のせいなのか、サッシの窓が長方形から平行四辺形に歪んだように見えた。これはさすがに目の錯覚だったと思うが(後で確かめたら無傷だったし)、そのときは建物が倒壊するかもしれないと恐怖し、身の危険を強烈に感じた。冷静に思考することは不可能だった。このときは茨城県沖が震源だったのかもしれないが、よく覚えていない。
●東京で本当に大きな揺れはここまでだったと思うが、その後も執拗に余震が続き、さらにテレビは東北地方の言葉にできない惨状を映し出しており、緊張を解く余裕はまったくなかった。少し落ち着いたら断水時に備えて風呂に水をためようと思うのだが、余震がやまずそのきっかけもなかなかつかめない。ローカルテレビで都知事の記者会見が始まったのだが、しばらく見て唖然としてチャンネルを変えた。津波の映像はどれも怖いが、衝撃だったのは津波とは言ってもあちこちで炎を上げながら濁流が流れてきて、家や車や田畑をどんどん飲み込んでいくことだった。大規模な火災の映像にもショックを受けた。外から聞こえるサイレンの音に神経質になる。窓を体が通る程度に少し開けておいたが、だんだん寒くなり暗くなる頃にはまた閉めたと思う。風呂に水をためた。近所で電柱が傾いていたようだ。電話は家電も携帯もつながりにくく、携帯メールも届かない、PCメールやTwitterは大丈夫だった。電車はすべてストップ。しかしバスが動いていたのは救いだった。平日だったので職場から帰宅できない人が大量に出たが、何時間も歩いて帰宅する人も多かった。夜、〆切があったので、「この〆切は今でも有効なのかな?」と思いつつも、ノートPCでしばらく仕事をした。
●余震が続き、その夜はほとんど眠れなかった。深夜に新潟県中越地方を震源とする地震があったのには驚いた。それはぜんぜん違うメカニズムで発生する地震のはずではないか。震源があちこちに分散している。日本列島はどうなるのか。小松左京の「日本沈没」を(読んでないのに)連想した。緊急地震速報がひっきりなしにやってきて揺れが続くので、だんだん感覚が麻痺しそうになる。
●長かった夜が明けて、外に出たら犬の散歩をしている人とすれ違って、日常的な光景に意表をつかれ、安堵した。あれだけ揺れたのに木造建築も含めてどこも倒壊していない。コンビニに行ってみると、弁当やお結びのコーナーは空っぽだったが、他の食べ物はあった。たまたまそこに弁当類が搬入されてきたので買って帰った。
●深刻な被害を受けた東北から北関東の救援活動や復旧作業が少しでも早く進みますように。そして原発も含め、現場で命懸けの仕事をしている人々が大勢いるということを忘れないようにしたい。

トラックバック(1)

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.classicajapan.com/mtmt/m--toraba.cgi/1661

(前回の続き) 次に自分に出来ることは、 断水に備えること。 続きを読む

このブログ記事について

ひとつ前の記事は「ダニエル・ハーディング Music Partner of NJP就任記者発表会」です。

次の記事は「その翌日から3日間」です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。

ショップ