●ついに見た、ウワサの「ウォーキング・デッド」を。先日ご紹介したhulu(フールー) で2シーズン13話。はっきり言って、これは傑作。現在のワタシたちが直面しているゾンビ禍を、これほど正面から見すえた作品はかつてなかった。必見すぎる。
●え、「ウォーキング・デッド」なんて、知らないよ。そんなあなたのために言っておくと、これは映画ではなくテレビシリーズである。「ショーシャンクの空に」と「グリーンマイル」の監督であるフランク・ダラボンによる、サバイバル・ドラマ。全米で大ヒット、したのかな? まあ、そんなことはどうでもいい。大切なのは、この現実的なゾンビ設定と、人々の暮らしのあり方だ。
●ここではヤツらはゾンビではなく「ウォーカー」と呼ばれるのだが、実質的に正統派ゾンビである。まず、走らない。ゾンビは走っちゃいけません。動きもややとろい。俊敏なゾンビとか、ゾンビじゃないし。すなわち古典派。もちろん、人をめがけて喰らいつこうと襲ってくる。肉食欲望が本能のすべてで、人のみならず動物も喰う。頭を撃つなり破壊するなりしないと死なない(いや死んでいるんだった。停止しない)。
●物語はすでにヤツらに襲われ、荒廃したアメリカから始まる。しかし、これまでに当連載「ゾンビと私」でも述べてきたように、人はいきなり絶滅したりはしない。数少ないながら生き延びる人たちがいる。彼らは集団を作る。都市にもいる。田舎にもいる。都市部は人口密度が高いだけに危険であり、逆に農村部であればゾンビ密度も低い。先行研究を正しく活用した設定により、ヤツらだらけになったこの地上で人がどうやって生きていくかを描く。
●連載第9回でも述べたように、Zday以後、ゾンビと並んで脅威となるのは、実は人間である。そもそもなぜゾンビ禍に襲われたかといえば、人間が共生能力を失ったからであるのだから。そのときがやってきても、やはり私たちは変わらない。最初は軍隊がヤツらと戦ってくれるかもしれない。ヤツらの死体がうず高く積まれるだろう。それをどうするか。燃やさねばいけない。除ゾンが必要だ。しかしではヤツらの焼却をどこでするかとなるとどの自治体も受け入れようとしない。住民投票をするかもしれない。Noの答えが出る。人々は一方で政府は除ゾンせよと叫び、一方でわが自治体で受け入れはできないと拒む。こうして賞味期限間近だった民主主義は終焉を迎える。悪辣な業者がZカウンターを売り出す。ゾンビに襲われにくい体質を作るための食事法を伝授し始める者も出てくるかもしれない。味噌が効きますよ、化学調味料は摂取しないでください、ヤツらをおびき寄せないために。しかしヤツらはお構いなしに噛み付く。ガブツ、ガブッ! あなたの家の外壁をヤツらが唸り声を上げながら、力いっぱい叩き出した。そんなときに、手近の武器を持って立ち上がることもなく、こう考える。政府はなにをしているのか、あんなのが国の指導者ではどうにもならない、これはゾン災ではなく人災だ、マスコミはなにをしている? 食糧を確保しなければ、アマゾンに発注しよう、クロネコヤマトなら来てくれるはず……。ガブッ。
●おっと、いけない、「ウォーキング・デッド」であった。「ウォーキング・デッド」はこの手のものとしては珍しく、シーズン1よりシーズン2のほうがさらに秀逸である。このゾンビで埋め尽くされた世界にあって、人間にとって人間は脅威であり続ける。一方、人間は共同体を作ることでしか生存できない。この二律背反の中で人はどう生きるのか。利己的であることとは、共同体の利益を考えることとはなにか。ときに人はその邪悪さをあらわにする。そこでふと思うのは、人間に比べゾンビはむしろ純朴である。ヤツらは咬噛欲求だけで生きている(いや、死んでいる)。恐怖も感じず、のびのびと死んでいる。明らかに邪悪なのはわれわれである。それを受け入れた上で、なお、私たちは希望を見出さなければならない。「ウォーキング・デッド」はその希望の実体とはなにかを微かに示唆している点で、他の同種作品群とは一線を画している。
2012年1月アーカイブ
ゾンビと私 その21 「ウォーキング・デッド」
揺れる「悲愴」
●昨日、スラットキン指揮NHK交響楽団の演奏会中に地震があった。ペルトの「フラトレス」で始まり、バーバーのヴァイオリン協奏曲(ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ)、休憩をはさんでチャイコフスキーの「悲愴」。「悲愴」終楽章の途中で揺れた。体感的にはそこそこ大きくて、NHKホールの中でミシミシとかカタカタとか何かが軋むような音がした。演奏会中の地震というのは初めてではないんだけど、なにしろ「悲愴」の終楽章なので、なんだか微妙な気分に。天井を見上げて、落ちてくるものがないかと確認してしまった。
●これも一年前なら同じくらい揺れてもたぶん気にしなかった。ホールは耐震構造だから、あわてることはない、と。でも今は恐怖を感じる。客席はざわついたが、演奏は何事もないかのように続いた。気のせいか、むしろ揺れた後のほうが集中度が高まっていたような……。
●近くに座っていたオバちゃんは揺れた直後、携帯の画面を見ていた。電波は届かないよういなっているから、なにもわからないと思うのだが。終演後、確認すると山梨県東部・富士五湖震源で最大震度4。渋谷区は震度2なのでぜんぜん大したことはなかった。
●以前、ネルソンス指揮ウィーン・フィル来日公演の最中に地震があったのを思い出した。場所はミューザ川崎。あのときもみんな平然と弾き続けていたっけ。
●地震履歴。毎日日本のどこかが揺れている。地震のない日はほとんどない。
来月のレイチェル・ポッジャー「トリフォニーホール・バッハ・フェスティバル2012」
●2月18日と19日の週末は、レイチェル・ポッジャー「トリフォニーホール・バッハ・フェスティバル2012」が開かれる。これ、普通のコンサートかと思ってチラシを見たら、2日で7公演もあるんすよね。初日は11:00開演から18:30開演までの4公演、二日目は11:00開演から15:30開演までの3公演。もちろんポッジャー一人で全部弾くわけではなくて、ポッジャーのヴァイオリン・ソロ(+α)、チェンバロのディエゴ・アレスの「ゴルトベルク変奏曲」、ポッジャー+ブレコン・バロックのコンチェルトといろんなパターンがあっての7公演。
●両日とも最後の公演がコンチェルト。曲目はそれぞれ違う。二日目のほうがテレマンが一曲入っていて楽しそうだが、初日の演目も捨てがたい……。ディエゴ・アレスの「ゴルトベルク変奏曲」のみが両日共通プロ。ポッジャーのソロは全部聴けば無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータをコンプリート可。うーん、これはパズルみたいだぞ。両日通すなら悩みはないが、片方だけ行くとすると、どちらのどの公演を選ぶのがベストか……。
●その週末はほかにもたくさんの公演があるから(N響、新国、二期会、イザベル・ファウスト等々)、なんなら別のホールの公演と組み合わせてハシゴするという手もあるわけだ。勝手音楽祭、みたいな。
上岡敏之指揮読響のモーツァルト&マーラー
●昨晩は上岡敏之指揮読響定期へ(サントリーホール、25日)。モーツァルトの交響曲第34番ハ長調とマーラーの交響曲第4番(キルステン・ブランク独唱)。大らかでロマンティックなモーツァルト。指揮は踊るよう。左手で背後のバーをつかんで右手の指揮棒を第一ヴァイオリンに向かって差し出すと、片足がぴょこんと上がる。近くに座っていたおばさまが「あら、おっほっほっほっ」と小声で笑った。いいじゃないすか。
●後半のマーラーは期待通りの?上岡節が炸裂。自在に動くテンポ、頻出するポルタメント、ピアニシモの強調。ほかの誰からも聴けない独自のマーラー。おもしろい。第3楽章の終わり、ゆっくりゆっくり静かに終わって、すぐに第4楽章に入らずに普通の楽章間のように間を置いた。
●現在のスタンダードからはかなり距離があるから「変わっている」と感じるが、マーラー当人がメンゲルベルクによる指揮を高く買っていたのだとすると、なにがオーセンティックでなにが異端なのかはわからない。
●テレビ入っていたので、いずれ日テレで放送するかと。
●マーラーの第4番。真摯で美しい曲だけど、グロテスクで怖い曲でもある。第1楽章冒頭の鈴は「かわいい」じゃなくて、「怖い」。R・シュトラウスは「なんちて」が付く作曲家だけど、マーラーは常に「マジ」。マジな人のユーモアは怖い。R・シュトラウスだったら「ティル」でも「ドン・ファン」でも最初の数小節で愉快な気分になり「ワッハハハハハ」と笑える。「死と変容」みたいにマジメくさっても「ふふふ」と笑える。マーラーが笑うと怖い。泣いたりわめいたりしてくれているほうが安心できるタイプ。
雪の上を歩く
●雪である。東京にしては珍しく雪が(少しだけ)積もった。今日はまた一段と寒くなって、雪がなかなか融けてくれない。道のあちこちがところどころ凍っていて、歩くのに苦労する。滑ってはいけない。こういうときはゆっくり歩くべき。ザクッ、ザクッ……ザクッザクッ。一歩一歩ゆっくりと雪を踏みしめながらのろのろ歩く。これ、なんかに似てると思ったら、ゾンビ歩きではないか。あまりだらだらと歩いていると、ヤツらとまちがえられたりしないだろうか。
●huluの「ウォーキング・デッド」、おもしろすぎてヤバい。まだ途中なので、今度改めてご紹介したい。
●マリノスから渡邉千真と長谷川アーリアジャスールがともにFC東京に移籍。なぜなんだろう。いつも才能のある若い選手が入ってくるとしばらく使われた後、よそのクラブに移籍する(そして大活躍する)。攻撃陣の補強のために35歳のマルキニョースを獲得した。大黒将志や中村俊輔もいる。昨年世代交代を促進するために大量に選手を放出したのかと思いきや、いつの間にか逆流している謎。来季は大雪の予感。
オペラ「高野聖」
●昨日は新国立劇場中劇場で池辺晋一郎作曲の新作オペラ「高野聖」(日本オペラ協会主催、大勝秀也指揮オーケストラ・アンサンブル金沢、日本オペラ協会合唱団)。東京での二日目、全席完売。お隣の大劇場は同じ時刻に「ボエーム」だったようで、いつにもましてホワイエがにぎわってた。
●原作の泉鏡花「高野聖」って今どれくらい読まれているんすかね。1900年の作だっていうから、100年以上経っている。R・シュトラウスでいえば「英雄の生涯」より新しいけど「家庭交響曲」や「サロメ」より古い(←どんな比較だ?)。でも意外と古びてないといえば古びていない。若い坊主が山奥で妖女に出会い心を通わせるという幻想譚。設定はマスネの「タイス」を連想させるけど、筋立ては違う。オペラになると山奥という閉塞空間の中での坊主(中鉢聡)と女(川越塔子)の対話が目立ち、むしろ男女逆転版のバルトーク「青ひげ公の城」の趣。女が川の水を浴びる場面に「サロメ」を思い出す。
●第1幕後半、秘密の谷川の場面からが秀逸。精彩に富んだオーケストレーションで坊主と女の心の動きを雄弁に描く。よく考えると舞台上では女に背中を流してもらったついでに体がくっついたくらいのことして起きていないわけだが、音楽の力で坊主の抗うことのできない高揚と恍惚とを鮮烈に伝える。一方でコミカルな部分も多い(原作もそうなってるはず)。客席はやや遠慮がちだったけど、笑える場面はたくさんあった。
●日本語歌唱は聴き取りやすく(でも字幕は読む)、そもそもの日本語が美しい。原作でも駅のことを「ステイション」ってカタカナ語で言ってるんすよね。ただ、基本的に原作を忠実に追ったためか、オペラとしてはやや説明過剰かも。特に2幕に入ってからなんだけど、すでに視覚で説明がされていることを、重ねて登場人物の口から歌うことになる(あの馬は富山の薬売りだったんだよ……等)。動物は小道具。猿を猿のぬいぐるみ的なもので表現するのはありなんだろうか。
●テーマに普遍性があるから、今後再演を重ねる内にぜんぜん別の演出の「高野聖」が生まれてくるかもしれない。明治の日本ではなく、平成でも、西洋でも、あるいはいつのどこでもない舞台設定でもまったく問題なくオペラとして成立しそう。
huluが日本上陸
●これは宣伝以外の何ものでもないのだが、ついに日本に上陸したhulu(フールー) が現在一ヶ月の無料お試しキャンペーンを実施中なんである。hulu(フールー)? なんだっけ、なんかアメリカで人気の動画配信サービスがどうとかこうとか言っていたあれか! ということで日本版サービスを眺めてみると、ユニバーサル、ソニーピクチャーズ、20世紀フォックス、ディズニー、ワーナーだのといった超メジャーどころのコンテンツがずらっと並んでいる。主に映画とテレビ・シリーズっすね。「24-TWENTY FOUR-」とか「デス妻」とか「プリズン・ブレイク」とか。で、それが見放題で月額1,480円。一ヶ月だけなら無料。
●で、ワタシはさっそく試している。画質のクォリティも十分。オススメである。なぜこれに飛びつくかといえば理由は一つだ。ウワサのゾンビTVシリーズ「ウォーキング・デッド」を見るため。これ、評判いいからずっと気になってたんすよ~。これ以外に見るべきものがあるのかどうかはよくわからないのだが、ともあれゾンビまっしぐら。いや、ゾンビじゃなかった、この作品では「ウォーカー」って呼ぶんだった。ゾンビって言うと大人の事情でまずいんすかね。どう見てもゾンビなんだけど登場人物は誰も「ゾンビ」って言わない(笑)。「あっ、ウォーカーだ!」とかって。いやそれゾンビだから。ゾンビって言おうよ、ねーねー、どうしてみんなゾンビって言わないの? とツッコミを入れつつ、見るしか。
今週足を運んだコンサートから
●昨日19日(金)はスラットキン指揮N響へ(サントリーホール)。ジャン=ギアン・ケラスがルトスワフスキのチェロ協奏曲を弾いてくれた。この日のプログラムはすばらしい。ロッシーニの「どろぼうかささぎ」序曲、ルトスワフスキのチェロ協奏曲、ショスタコーヴィチの交響曲第10番。一見、ロッシーニだけが作品的に浮いているようにも見えるが、「どろぼうかささぎ」が「小間使いが盗みの濡れ衣を着せられて死刑宣告を受けるが救われる」という権力者による抑圧を描いた作品とすれば、政治的色彩の濃いルトスワフスキ作品、スターリンの死去の後に久々に発表されたショスタコーヴィチの交響曲へときれいに流れは通っている。冒頭両サイドに配置された小太鼓は死刑執行の合図なんだろうから(←といいつつこのオペラは見たことないんだけど)。
●ケラスは先日のアルカント・クァルテットのときに続いて、アンコールで「どうもありがとうございます」と日本語で甲高く発声して、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番のサラバンドを弾いてくれた。
●こういったプログラムだと、客席は熱狂的に喜ぶ人とそうでない人に分かれやすい。盛大なブラボーにはこのプログラムを組んでくれたことへの感謝の意が込められていたと思う。
●17日(火)はオペラシティの〈コンポージアム2011〉サルヴァトーレ・シャリーノの音楽。2011というのは本来昨年に予定されていたのが、地震で延期されたから。シャリーノの「オーケストラのための子守歌」、フルートとオーケストラのための「声による夜の書」、「電話の考古学─13楽器のためのコンチェルタンテ」、「海の音調への練習曲─カウンターテナー、フルート四重奏、サクソフォン四重奏、パーカッション、100本のフルート、100本のサクソフォンによる」が演奏された。客層がスゴく若い。大半が自分より若いので、普段のクラシックのコンサートと雰囲気がまったく異なる。既存の楽器から想像外の響きが次々と聞こえてくるバラエティ企画。たとえば「寝息」とか「電話の着信音」とか。最後の曲は本当に100人ずつはいなかったとは思うが、舞台が大量のフルート奏者とサクソフォン奏者で埋め尽くされるのは壮観だった。彼らのキーノイズでザーッと「雨」が降る。畏れつつ、へんなりと笑う。
「都市と都市」(チャイナ・ミエヴィル著)
●気になっていた「都市と都市」(チャイナ・ミエヴィル著/ハヤカワ文庫)を読了。世界幻想文学大賞、ヒューゴー賞、ローカス賞等々を総なめにした上に、帯に「カズオ・イシグロ絶賛!」の惹句。そりゃ読むしか。
●舞台設定のアイディアが秀逸。ヨーロッパ(おそらくバルカン半島)に位置する架空の都市国家ベジェルとウル・コーマが舞台となるのだが、この両都市は物理的には同じ領土を共有しているんである。というと東ベルリンと西ベルリンみたいな感じかと思うが、壁で分断されているのではなく、モザイク状に土地を共有しているのだ。同じストリートのこの建物はベジェルに属するけど、こっちの建物はウル・コーマに属するとか、複雑に入り組む。
●で、ベジェルの住民はウル・コーマに属する建物や人を「見ない」ように法律で義務付けされ、見てはいけないものは「見ない」ように子供の頃から訓練付けられている(ウル・コーマ側も同じようにベジェルを「見ない」)。ウル・コーマ側でにぎわっている繁華街に出かけても、そこがベジェル側でさびれた街であれば、ベジェル人は「ああ、さびれているなあ」と感じるわけだ。ウル・コーマ側で人が倒れていても、ベジェル人はそれに気がついてはいけないし、事実気がつかない。相手側の国家を「見てしまう」ことは重大犯罪であり、この罪に対する監視機関は絶大な権力を持つ。両国家間にはうっすらとした緊張関係がある。
●この設定は、「本当は見えるはずのものを見てはいけないものとして過ごし、なかったものとする」という点で、とても寓意的だ。でもこんな設定を用意しておきつつも、ストーリーは完全に警察小説の意匠をとる。一人称の警官が犯人を追いかけるんである。ベジェルからウル・コーマへと。
●たとえばベジェルの住民がご近所のウル・コーマの家を訪ねるとしたら、それは海外旅行になるんすよ。「国境」の役割をする施設に出向いて、いったん出国手続きを経てウル・コーマに入国し、よく知っている街を知らない街として歩き直して、ウル・コーマの家にたどり着く。その際に、物理的には隣にあるわが家は「見えない」ものとして視界に入らないわけ(笑)。スゴいすよね、このアイディアは。
J2とJFLの入れ替え戦がついに開始
●いよいよJ2とJFL(3部リーグ)の入れ替え戦が始まることが発表された。入れ替え戦の大会方式はなかなかややこしいことになっているんだが、これはJFL側の都合でJ2から降格するチーム数が決められるから。JFLにはJリーグを目指していない純粋なアマチュアや、Jリーグを目指しているが条件が整わないチームもあるので(というかほとんどがそうなので)、J1とJ2の入れ替えのようにはいかない。
●ルールとしてはこうだ。JFLのなかでJ準加盟クラブが1位になった場合はJ2へ自動昇格(J2最下位が降格)。J準加盟クラブが2位になった場合はJ2の下から2番目のチームと入れ替え戦(ホーム&アウェイ)。1位にも2位にもなれなければ、入れ替えはしない。
●じゃあJFLのなかで昇格の対象となる「J準加盟クラブ」はいくつあるのかというと、今のところカマタマーレ讃岐とV・ファーレン長崎の2チームだけだ。今季までにJリーグを目指していたチームはだいたいJ2昇格に成功しているので。そう考えると、入れ替え戦はどちらかが2位に入らないと行われないので、実施されない可能性も十分ある(1位の自動昇格のみがもっともありそうなパターンと予想)。
●これでついにJ2の下位も活性化することになる。今まではどんなに負け続けても降格がなかったので、最下位近くの順位に張り付いたときに士気の上げようがないという問題があった。で、最大の課題はJ2からJFLに降格したときにそのクラブが運営継続可能かどうかってことっすよね。プロリーグから落ちたときにどうやって続けるかは未知の領域。先日、アルテ高崎がJFLから退会することになってしまったが、JFLはこれからが正念場という気がする。
上岡敏之指揮読響、アルカント・クァルテット
●16日(月)は上岡敏之指揮読響のR・シュトラウス・プロ(オペラシティ)。「死と変容」、四つの最後の歌(アンナ=カタリーナ・ベーンケ)、「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という演目で楽しみにしていたのだが、期待通りのすばらしさ。「ティル」や「ドン・ファン」の豪快さに胸がすく。個人的に鳥肌度の高いのは「死と変容」。
●前にシュトラウスは「なんちて」が付くっていう話をしたけど、「死と変容」もまさに「死と変容、なんちて」なんすよね。死に瀕して抗いながらも打ち破れ、肉体は朽ちるが魂は天界にて浄化される、なんていう深遠なテーマをエンタテインメント性の豊かな管弦楽作品に仕立てる25歳の若者。いかがわしいものほど真摯さを必要とする(そしてマジメなものほど笑いがほしくなる)。上岡シュトラウスは真摯で饒舌だった。「死と変容」はこうでなくては!(←誰?)
●「死と変容」を「使徒変容」に変換したがるウチの新世紀MS-IME。
●15日(日)はトッパンホールでアルカント・クァルテット。バルトークの弦楽四重奏曲第6番、ハイドンの弦楽四重奏曲ロ短調Op.64-2、ドビュッシーの弦楽四重奏曲。異次元のうまさ。ヴィオラのタベア・ツィンマーマンの存在感がすさまじい。アンティエ・ヴァイトハース第1vn、ダニエル・ゼペック第2vn、ジャン=ギアン・ケラスvcの豪華メンバー。後半がドビュッシーだけでやや短いなと思ったが、アンコールで3曲。クルタークのカプリッチョ、ブラームスの弦楽四重奏曲第3番第3楽章、バッハ「フーガの技法」からコントラプンクトゥス1。アンコールの曲名をケラスが甲高い声の日本語で告げて、軽く萌える。
●そういえばアルカントのドビュッシーは前にCDを買ったきり、ずっと積んだままになっているのだった。聴かねば、聴きたい、聴こう。なぜか得した気分になるという謎。
フライブルク・バロック・オーケストラ来日公演
●今回が初来日(!)となるフライブルク・バロック・オーケストラを聴いてきた(11日オペラシティ、14日三鷹市芸術文化センター)。演目はバッハの管弦楽組曲全曲。3番、2番、休憩をはさんで1番、4番と、にぎやかな曲を両端に。2番のみ弦楽器各一名の最小編成。至福のバッハ。弦も管も太鼓もみんな本当にうまい。生気と躍動感に富んでいるけど、ぜんぜん過剰でもアグレッシブでもない。饒舌なバロック・アンサンブルも大好きだが、節度が保たれたバッハももちろん吉、圧倒的に。
●音楽監督はヴァイオリンのゴットフリード・フォン・デア・ゴルツ。体の向き、動き、視線、いろんな手段を使って盛んに意思疎通を図りながらアンサンブルを統率する。こんなにリーダーシップをとってるんだ。でもリーダー以外も演奏中のメンバー間コミュニケーションが多い。顔を見合わせて「ニコッ」とか、まるでおしゃべりしながら演奏してるみたいな感じが伝わってくる。
●フライブルク・バロック・オーケストラって、今までヘンゲルブロック時代の録音をもっぱら聴いてたんすよね。だからヘンゲルブロックの印象が強いんだけど、もうそれってすっかり過去っぽい。だってオフィシャルなプロフィールを見てもヘンゲルブロックの名前が載ってない。公式サイトにもない。まるで黒歴史だったみたいな扱いで、それもなんだか落ち着かないんだけど。
ニューヨーク・フィルのマーラー9番携帯電話事件
●11日(水)はオペラシティでフライブルク・バロック・オーケストラ公演へ。この公演についてはまた日を改めて書くつもりだけど、すばらしい演奏会だった。バッハの管弦楽組曲を4曲全部。聴衆の集中度も高くて、熱心な人たちばかりが来てるんだなあという実感があった。でもいつもこんなふうにはいかない。
●火曜夜ニューヨークで開かれたアラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルのマーラー/交響曲第9番の公演で起きた携帯電話事件が波紋を呼んでいる。よりによってマーラー9番の終楽章終盤で、ケータイの着信音が鳴り出した(iPhoneのマリンバ)。アラン・ギルバートは演奏を止めて客席に向かって着信音を止めるように言ったという。
●その場にいた人たちのブログやTwitterなどをざっと見た限りでは、事態の展開はこんな感じだった模様。着信音は最前列のあたりから鳴り出した。鳴った瞬間はまだオーケストラの音量の大きな部分だったので、すぐに音が止めば被害は最小限で済むと思われた。ところが、着信音が鳴っているのにそのiPhoneの持ち主は音を止めようとしない。延々と鳴り続けた。オーケストラの静かな部分に入ってもまだ鳴っている。その間、2分とも5分とも言われているのだが、これは相当に異様だ。アラン・ギルバートはついに指揮を止めた。そして振り返って客席に向かった。それでも音は止まない。指揮者は「着信音を切るように」と言った。でもまだしばらく鳴り続けている。最前列の音の出所と思われるお客は「自分じゃないよ」といった顔をしている。客席から「出て行け!」「罰金1000ドルだ!」「そいつをつまみ出せ!」と殺気立った声がかかる。その後しばらくして、ついについに着信音が止まった。アラン・ギルバートは客席に向かって「通常ならこのようなことで演奏を止めたりはしないが、今回は異常事態なので止めるしかなかった。申し訳ない」とコメントして大喝采を浴び、楽章の途中から再度演奏した。
●しかしずいぶんこれは不思議な話じゃなかろうか。なぜ持ち主は自分のiPhoneの音を止めない。うっかり音が鳴るのは誰にでもありうることだ(どんなに慎重に注意していても、絶対にミスしない人間などいない)。でも鳴ったら止めればいいじゃないの。アラン・ギルバートに睨まれても、まだシラを切り通して、どうやってピンチを逃れようとしたのか??
●と思っていたら、ノーマン・レブレヒトによれば、事件の主役はiPhoneを買ったばかりの年配男性で、アラーム(着信音ではない)が鳴っているのにそれが自分のiPhoneだとは本当に気づかなかったのだという。それで指揮者に睨まれ、客席から罵声を浴びせられたわけだ。
●自分のiPhoneが鳴っても自分でわからないというのは、どこか悲哀を感じさせるものがある。別に譫妄状態になっているわけでもなく、高齢になればそれくらいのことはありうるだろうなと思うから、自分にも誰にでも。いや、下手をしたら老いていなくてもありうるかも。
●アラン・ギルバート本人は翌日Twitterで「マーラーがマリンバのために作曲しなかった理由がわかった」とつぶやいている。100RT以上をゲット。
映画「ピアノマニア」
●まもなく公開される映画「ピアノマニア」を一足先に見せていただいた。調律師とピアニストを巡るドキュメンタリー。題材も大変おもしろく、カメラワークも優れていて、見ごたえ大。1月21日~新宿シネマート他、各地で公開。
●主役となるのはスタインウェイ(ハンブルク)の技術主任を務める調律師シュテファン・クニュップファー(いいキャラの持ち主だ)。そして彼とともに理想の音を求めるピアニストたち、ピエール=ロラン・エマール、ラン・ラン、ティル・フェルナー、アルフレート・ブレンデル他が登場する。
●で、このドキュメンタリーの中心となっているのが、調律師シュテファンとエマールが二人三脚でバッハ「フーガの技法」(DG)のレコーディングに挑む部分。早くも録音の1年前からエマールとシュテファンの打ち合わせが始まる(エマールは忙しい)。妥協を知らないエマールは完璧なピアノを求めて、次々とシュテファンにリクエストを出す。「広がる音と密な音の両方」「クラヴィコードのような音、チェンバロのような音、オルガンの音……」。一台のピアノに多様な音色を求める。シュテファンは難題にぶつかりながらも、エマールの要求を少しずつ満たしてゆく。エマールとシュテファンの関係はF1ドライバーとエンジニアの関係を連想させる。
●これ、ゴールは知ってるんすよね、ワタシたちは。エマールが弾いたバッハの「フーガの技法」はすでにCDがリリースされている。エマールはついに最後に求める音に出会って、シュテファンを讃える。「響きが最初から最後まで表情豊かで、しかも控え目だ。私はこの音を夢見てたんだよ」。そう……それがあの録音に入っているわけだ。ところどころクラヴィコードのような音がしたり、オルガンのような音がしたりするだろうか。それともふくよかなモダンピアノの音しか聞こえないだろうか(笑)。
●エマールのフレーズはいいすよね。汎用性高そう。「ん、このラーメンうまい! スープが最初から最後まで表情豊かで、しかも控え目。私はこの味を夢見てたんだよ」とか。
「ラテンアメリカ五人集」「砂の本」(ラテンアメリカの文学/集英社文庫)
●昨年集英社文庫で「ラテンアメリカの文学」として何冊か新装されたので。
●短編集「ラテンアメリカ五人集」。パチェーコ、バルガス=リョサ、カルロス・フエンテス、オクタビオ・パス、アストゥリアスの5人の作品が収録されている。パチェーコとバルガス=リョサがすばらしすぎて、この2作だけのために買っても損はない。
●パチェーコの「砂漠の戦い」は、40年代末のメキシコを舞台に、友達の母親に恋をした少年を描く。子供が友達の家に遊びに行ったら、そこのお母さんがステキな人でときめいたという他愛のない話のはずなんだけど、当時のメキシコ社会の背景や、後になって知る事の顛末が物語に奥行きを与えている。いたく切ない。年老いた主人公の回想として語られるという点も秀逸。そんな話の題が「砂漠の戦い」なんだから、もうこれは。
●バルガス=リョサの「小犬たち」も名作。これはクソガキたちの世界、最初は。ガキどもの中に転校生がやってきた。勉強ができる。クソガキたちはサッカーが好きだ。転校生は努力家で、一生懸命練習してサッカーでもエースストライカーになった。そんな人気者のカッコをつけたガキが、ある悲しい事件を境に「ちんこ」って呼ばれるようになる(笑)。「ちんこ」すよ、「ちんこ」。どうやってもカッコよくない。で、クソガキ時代は「ちんこ」なんてカッコ悪い名前がついてしまったよー、てへ、くらいの凋落で済んでいたんだけど、だんだん思春期を迎えると彼の苦悩はそんなものじゃ済まなくなる。大人になるとともに彼の傷口は開き、人生から輝きが失われ、そしてエネルギーのぶつけどころを見失ってしまう。複眼的な文体もすばらしいし、あと、話の閉じ方が最高にうまい。これもどうしようもなく切ないんだな。
●ついでに同じシリーズからもう一冊。ボルヘスの短編集「砂の本」。いろんな作品が収録されているけど、「書物」というのが基調テーマになっている。大半は(もしかすると全部)以前に読んだことのあるものだったが、改めて読むと結構わけのわからない話も多い。表題作「砂の本」、「円盤」みたいなそっけない奇譚も味わい深いが、好みで選ぶなら「鏡と仮面」か。アイルランド大王と宮廷詩人の話。王は詩人に頌歌を求める。詩人は見事な詩句を披露し、王はそれを玩味し称賛するが、さらに一段の彫琢を期待する。詩作のやり取りを経て、ついに二人は禁断の美を知ってしまい、その罪を分かち合う。言葉の力をこんなにも美しく信じた物語はない。
ウィーン・リング・アンサンブルのニューイヤー・コンサート
●サントリーホールでウィーン・リング・アンサンブルのニューイヤー・コンサート(6日)。年末年始はずっとバタバタだったが、ようやくお正月成分を音楽で補充。ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートに出演後、すぐに日本に駆けつけるというライナー・キュッヒルを中心とする9人編成のアンサンブル。91年以来、なんと22回目の来日というがお客さんはしっかり入っていて、年末の「第九」と正月の「ウィンナワルツ」最強と改めて思う。
●メンバーはライナー・キュッヒル、エクハルト・ザイフェルト(vn)、ハインリヒ・コル(va)、ゲアハルト・イーベラー(vc)、ミヒャエル・ブラデラー(cb)、ヴォルフガング・シュルツ(fl)、ペーター・シュミードル(cl)、シュテファン・ノイバウアー(cl)、ギュンター・ヘーグナー(hrn)。年季が入っている。コントラバスとクラリネットが当初発表から変更。
●プログラムでおもしろいなと思ったのはドビュッシーの「ファンタジー」として「月の光」「ゴリウォーグのケークウォーク」を使った編曲作品が入っていたこと。ドビュッシーの生誕150周年を記念してというんだけど、ドビュッシーという意外な選択でしかも「150周年」。やはり今年は記念年の作曲家が不足していて、消去法的に「ドビュッシー150」になってしまうのか。まあ、ウィーン・リング・アンサンブルがジョン・ケージやナンカロウの生誕100周年を祝うとは誰も思わんけど。
●ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「水彩画」がいい。ヨーゼフ、実はスゴいヤツ。おなじみの曲としてはヨハン・シュトラウス2世の「騎士パスマン」の「チャールダーシュ」が好き。あと、ヨハン1世の「狂乱のギャロップ」という曲があって(ワタシは知らなかった)、聴いてみるとリストの「半音階的大ギャロップ」が出てきてびっくり。「ん、これはどっちがオリジナルだ?」と思い、プログラムをめくってリストのほうがオリジナルだと確認。逆のパターンが多いすよね、リストは。
ナンカロウを忘れてた
●天を仰ぎながらオマイガッ!「2012 音楽家の記念年」の欄にコンロン・ナンカロウ(1912-1997)を入れるのを忘れていたという失態。スマソ。ナンデダロウ、ナンカロウ。こっそりと追記しておく。どうして落としたかを調べてある原因に気づいたんだけど、これはまずかったなあと反省。ナンデダロウ。ナンカロウってナンダロウ。ナンデダロウ、ナンカロウ、ナンダロウ……。
東響のUSTREAMライブ配信
●1月7日(土)17時45分~ サントリーホールでの飯森範親指揮東京交響楽団定期演奏会がUSTREAMでライブ配信される。演目はレスピーギの「ローマ三部作」。NIKKEI CHANNELでの配信。これはなかなかの快挙かも。
●で、これが有料なのだ。視聴チケットは525円(税込)。クラシック・ファンにとってUSTREAMでチケットを購入するというハードルが高いのか低いのか微妙なところだと思うが、有料配信自体は歓迎。こういうのは「有料、ただしごく安価」のほうが無料よりうまくいく気がする。今は無料で見たり聴いたりできるすぐれたものがあまりにも多いので、有料じゃないと埋没してしまうというか。「なーんだ、無料なのね」みたいな。
●ニコニコ生放送でも配信される。こちらも価格は525ニコニコポイントで、実質的には同じ525円(だと思う)。
●カメラワークも含めて、どれくらいのクォリティなんすかね。興味津々。
謹賀新年2012
●あけましておめでとうございます。2012年が明るい一年になりますように。
●しかし元日早々にイヤな地震があったのだった。やれやれ。東京で割と高い階にいたこともあって、かなり揺れを感じた。しかも長くて不規則。平和なお正月気分からさっと非常時モードがよみがえる。震度4。震源はどこだろうと思ったら鳥島近海で深さ370kmというものすごい深さ。M7.0。深いところだったので広範囲に揺れたけど、局所的な被害が出るようなものではなくひとまず安堵する。こんな深い場所が震源ということがあるのかなあと思ったら、Wikipedia「深発地震」によるとそれほど珍しいものでもないようだ。
●ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートの録画を忘れていたので、再放送を予約。このコンサートの賞味期限は元日からいつ頃までかなあと思いつつも、やはり見ないわけにも。
●天皇杯はFC東京が優勝。京都とのJ2対決が実現したのも、マリノスが準決勝の京都戦に不甲斐ない負け方をしたから。マリノスは木村和司監督の解任あり、渡邉千真の移籍ありでこのオフも迷走している。でもまだお正月だから。ネガティブなことばかり言っていてはいけない。来季はぶっちぎりで優勝する!(←唐突すぎ)
●まだ初詣に行っていない。オンライン初詣じゃダメか。ダメだろう、検索してもなんかうさんくさいところばかりヒットするし。信頼できそうなオンライン初詣はないのか。もっと大手でやってないかなあとか思うが、じゃあamazonなら信頼できるのかというと神事関係はそうもいかない気がする。そもそもショッピングサイトがそこで出てくるのがおかしいわけで。