●30日は渋谷区文化総合センター大和田さくらホールにて、国際音楽祭「ヤング・プラハ」スペシャルガラコンサート。「ヤング・プラハ」とは21年にわたって日本とチェコの間で若手音楽家たちの交流と育成に尽力してきた民間団体で、代表の中島良史氏は「音楽を通じた日本とチェコとの文化交流の促進」を理由に今年外務大臣表彰を受賞、加えてチェコ文化省から「チェコ藝術の友」賞を受賞した。氏が今回で退任するということで、今年は節目の公演となり、創立以来チェコに派遣されてきた日本人音楽家から23名が出演した。
●で、3時間を越えるスペシャルガラとなったわけだが、出演は鈴木大介(g)、荒川洋(fl)、安藤赴美子(S)、梯剛之、松本和将、菊池裕介(以上p)、大萩康司(g)、最上峰行(ob)、周防亮介(vn)他、錚々たる顔ぶれ。作曲家としては台信遼さんが参加、「イシス」を丸田悠太(fl)さんが独奏した。鈴木大介さんが司会までこなしていて、しかもそれが巧みすぎて驚愕。全14曲のお腹いっぱいプロ、どれも聴きごたえがありすぎて言い尽くせないが、やはり最後に安藤赴美子さんが歌ったドヴォルザークの「ルサルカ」からのアリア「月に寄せる歌」は、中島良史代表指揮(2vn,va,vc,fl,ob,cl,hpで伴奏)のサプライズもあり、当夜のクライマックスとなった。
●読響新コンサートマスター発表のニュースが。なんと、新コンサートマスターとして、元ウィーン・フィル・コンサートマスターのダニエル・ゲーデと、現ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスターの日下紗矢子が、読響コンサートマスターに就任する。日下さんは現職と兼務。両氏は今年退任した藤原浜雄および来年5月末に退任予定のデヴィッド・ノーランの後任ということで、小森谷巧を含めた3人体制になるとのこと(引き続き客員コンサートマスターに鈴木理恵子)。
2012年10月アーカイブ
国際音楽祭「ヤング・プラハ」スペシャルガラコンサート/読響新コンサートマスター発表
「キャリー」と「死霊のはらわた」。古典の新演出
●右の場面写真、一瞥しただけで何の映画かわかる方も少なくないと思う。スティーヴン・キング原作の映画「キャリー」だ。といっても、1976年にブライアン・デ・パルマ監督が映画化したあの古典的名作ではなく、これは2013年5月に公開される新作「キャリー」の場面写真。監督はキンバリー・ピアーズ、主演はクロエ・グレース・モレッツ。37年ぶりに再映画化される。
●「キャリー」は、内気な高校生キャリーと狂信的に潔癖で厳格な母親、そしてキャリーを疎外するクラスメイトたちの物語だ。クラスメイトたちがキャリーをイジメようと、養豚場で豚を殺してその血を大量にバケツに集め、キャリーのいちばんハッピーな瞬間に上から血をぶっかけるという、まさに青春真っ盛りといった陰湿な嫌がらせをするのであるが、その瞬間にキャリーの内に抑圧されていたパワーが解放され、惨事が起きる。ホラーとサイコ・サスペンスがこのうえもなく似つかわしい舞台とはハイスクールであるとデビュー作で看破したスティーヴン・キングはやはり非凡だった。
●もう一つ、2013年に公開される映画を。フェデ・アルヴァレズ監督、サム・ライミ脚本の「死霊のはらわた」(原題イーヴィル・デッド)。下の場面写真が怖すぎる。これは1981年公開のサム・ライミ監督による記念碑的名作「死霊のはらわた」のリメイクなんである。写真のヒロインの少女はジェーン・レヴィが演じる。
●映画界ではヒット作のリメイクが近年相次いでいる感があるけど、これは新作を生み出すエネルギーが枯渇してきたというんじゃなくて、それだけ歴史が積みあがって、古典を再演出することのほうが価値が高まってきたということなのかも、オペラと同じように。「オペラはハリウッド映画以前の最大のエンタテインメントだった」とするならば、ハリウッド映画は着実にオペラの後を追っている。いずれシネコンも古典の新演出を手がける大スクリーンがいくつも並ぶ脇で、「現代映画」を小スクリーンで上映するようになる、かもしれない。
尾高忠明指揮東響のウォルトン「ベルシャザールの饗宴」
●28日は尾高忠明指揮東京交響楽団へ(サントリーホール)。ローマン・トレーケル(バリトン)と東響コーラスを迎えて、武満徹「波の盆」、マーラー「リュッケルト・リーダー」、ウォルトンのオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」という魅力的なプログラム。
●前半武満徹「波の盆」は日テレの同名テレビドラマの演奏会用編曲版ということで、全6曲が倉本総脚本のストーリーに即した音楽になっているわけなんだけど、その元となった1983年のドラマは知らない。でも、知らないからこそ雄弁な物語性を感じるというか。途中でアイヴズばりに軍楽隊が乱入してくるところなんて、実際の物語以上に意味深長に聞こえる。続くマーラーでは長身痩躯のトレーケルのまろやかボイスを堪能。マーラーのもう一つの「アダージェット」、「私はこの世に捨てられて」が美しすぎる。
●後半はウォルトンの一大スペクタクル「ベルシャザールの饗宴」。P席に陣取る180名くらいの大合唱団に、LR両サイドにバンダも配置されてデラックス感満載(合唱は暗譜)。これでもかというくらいに何度もクライマックスが築かれる壮麗な音楽なんだけど、力づくになることなく、むしろ清澄さが際立っていた。
●これ、ウォルトン29歳の作品なんすね。若い。字幕があれば最高だったけど、三浦淳史先生訳の対訳がプログラムに載っていたのは吉。
●ダニエル書第5章。ベルシャザールの饗宴の最中に、突然人の手の指が現れて壁に「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」を書く。王はバビロンの知者たちを集めて、読み解いた者を国の第三のつかさとするというんだけど、だれも読めない。しかしユダからの捕虜ダニエルが、これを読む。「神はあなたの治世を数えて、これをその終りに至らせた。あなたははかりで量られて、その量の足りないことがわかった。あなたの国は分かたれて、メデアとペルシャの人々に与えられる」。ベルシャザールはダニエルを国の第三のつかさであると命ずる。その夜のうちに王ベルシャザールは殺される……。ああ、なるほどそういう話だったのねとこれ読んでわかる。気になるダニエルの運命の行方は第6章へと続く。次回、獅子の穴が大活躍、この次もサービス、サービス。
ナクソス創業25周年記者懇談会。NMLへのメジャーレーベル参加は続く!?
●25日はナクソス創業25周年記者懇談会&パーティーへ(渋谷・セルリアンタワー東急ホテル)。25周年を機にナクソスのビジネス戦略について、クラウス・ハイマン経営最高責任者が欧州、米国各地に続いて東京でも会見を行なうというツアーの一環として、記者懇談会が開かれた。
●まずハイマン氏からは現状のナクソスのビジネスの全貌について、一通りの案内があった。ナクソスは相変わらず多数のタイトルのレコーディングを行なう活発なレコード会社ではあるけど、それ以上にNMLをはじめとする音楽配信のプラットフォームを担うIT企業でもあり、また他のレーベル(時にはメジャーを含む)の商品のロジスティックスやディストリビューションを担う流通企業でもありと、ユニークで多角的な企業に成長しているということが改めて感じられた。ウェブサービスのメンテナンスやメタデータの作成をする部門は以前は香港にあったけど現在はマニラに置いてるとか(メタデータの作成に音楽学者も雇ってるんだとか)、米ナッシュヴィルに12名のIT部隊を置いて開発をやってるとか、音楽CDのリリースは香港とロンドンで14名でやってるとか。ナクソスの企業カルチャー同様、会見の雰囲気も「レコード会社」というのとはぜんぜん違うイメージ。
●会見後の質問で、NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)について「先般ワーナーミュージックが参加したが、他のメジャー、ユニバーサルやソニーも参加する可能性はあるのか。またEMIはすでに海外版NMLでは参加しているのに、日本国内のNMLからは聴けない。この状況は今後解決されるのか」と尋ねたところ、ハイマン氏は「ユニバーサルとソニーは今後6ヶ月以内に参加するだろうと展望している。EMIは日本市場に限って条件面で合意できていないが、しかしインターナショナルな販売からはEMIは満足していると伝えられているので、今後状況は改善されていくのではないか」という返答だった。前者は具体的な展望、後者は目標といったところか。
●他に印象に残ったのは音質面かな。配信の音質向上については「WAVファイルはすでにあるので、配信しようと思えば可能。回線コストが折り合えば。ダウンロード販売のClassicsOnlineではすでにFLAC配信も始めている」と。基本的に、需要があってなおかつコストが折り合えばやるし、そうじゃなきゃやらないと明快なんすよね、ハイマン氏は。ちなみに、NMLを利用する米国の教育機関は64kbpsで契約するところが大半で、128kbpsを選ぶのは非常に少数なんだとか。
●もともとNMLは教育機関、図書館、音楽団体、音楽家向けにデザインされているサービスなんだけど、日本では例外的に大勢の個人ユーザーが利用しているわけで(と以前の取材でうかがった)、四大メジャー全部が聴けるようになったらますますその傾向は強まるかも。
●最後にもう一つメモ。NAXOSレーベルの米国でのフィジカル(CDなどパッケージ商品)対デジタルの販売比率は昨年が50対50。今年は40対60でデジタルが優勢。ハイマン氏の予想では5年後には25対75くらいになるんじゃないか、と。
ついにKindleが発売開始!
●Amazonから電子書籍リーダーKindleが発売。出る出ると言いながらも、一向に出てこなかった電子書籍の本命がついに。正直言ってこれまでの電子書籍リーダーにはまったく関心が向かなかったが、それというのもKindleが出ないと実質なにも始まらないだろうと思っていたから。とはいえ、喜び半分、がっかり半分というのが今の気分。
●発売されたKindleは四種類。電子書籍リーダーとしては、3G回線付きのKindle Paperwhite 3Gと、Wi-Fi環境で使うKindle Paperwhiteがある。前者の3G回線付きというのは、月額支払いが生じないというのがミソで、通信費も端末に込みになっている。重量200g強。バッテリーも8週間もつというのなら(話半分でも4週間だ)日々の充電という儀式にこれ以上煩わされることもなく、すばらしい。
●一方、Kindle Fireのほうは7インチディスプレイを搭載するタブレット端末。メールやFacebookやTwitterもできるし、Amazonコンテンツはクラウド上に無制限に保存できる……といっても、これは3G回線は使えないのでWi-Fi環境が必要。外出するとなると、公衆無線LANなりテザリング用端末なりモバイルルータなりがないとどうにもならない。だったらスマホを使っている人がさらに別途これを持つ理由はあんまりなさそうな気もするけどどうなんすかね。バッテリーも連続8.5~11時間で、充電がメンドくさそう。重量も400g程度ある。ただ、他のタブレット端末よりずっと安価なので、行動範囲におおむねWi-Fi環境があるならありうる選択肢か。
●が、最大の問題はこれ。C-NET Japanによれば「日本語の電子書籍は1万5000を超えるコミックと名作などの無料タイトル1万以上を含む、総計5万以上の規模」という。えーと、つまりコミックでもなく、青空文庫でもないものは2万5千冊あるかどうかということ?(ちなみに洋書は140万冊だ)。欲しい本が探してもほとんど見つからないということもありうる、というか既存の電子書籍サイトと同じタイトルがあるだけなのかも。
●ただ、Kindleが実際に発売されたことで、急激に出版界が動き出すっていう可能性はあるかもしれない(し、ないかもしれない)。なんともいえないが、目の離せない状況にはなった。持ち歩くカバンを軽くするために。本棚を少しでも身軽にするために。
「ポリーニ・パースペクティブ2012」開幕
●全6公演からなる「ポリーニ・パースペクティブ2012」が開幕。今回のポリーニ祭りはサントリーホール(大)の4公演が「現代音楽+ベートーヴェンのピアノ・ソナタ」、ブルーローズ(小ホール)での2公演が現代音楽のみ(こちらはポリーニは出演せず)という構成になっている。ベートーヴェン以外にとり上げられる作曲家はマンゾーニ、シュトックハウゼン、ラッヘンマン、シャリーノ。
●昨夜23日はマンゾーニのIl Rumore del tempo(ヴィオラ、クラリネット、打楽器、ソプラノ、ピアノのための)と、ベートーヴェンのソナタ第21番「ワルトシュタイン」、第22番、第23番「熱情」。休憩中にマンゾーニにサインを求めるお客さん多数。ポリーニの出番は後半から。さすがにポリーニも老いて無瑕とは到底いかないんだけど、その向こう側に息づく音楽を聴きに来た人が集ったというべきか、最後はほとんど客席総立ちに近い大喝采が送られた。テンポは終始速め、なおかつ慣習的にテンポを落として歌いがちなフレーズをむしろ加速するように足早に通り過ぎて、一息の推進力で前へ前へと進む。でもそんななかで白眉はニュアンスに富んだ「熱情」第2楽章か。NHKの収録あり。
「オーケストラは未来をつくる~マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦」(潮博恵著/アルテスパブリッシング)
●一昔前(いや二昔前くらいか)まではアメリカのオーケストラの勢力地図というと、「ビッグ5」だか「ビッグ6」みたいに西海岸は無視みたいな構図ができあがってたけど、その後のLAフィル(ロス・フィル)とサンフランシスコ交響楽団の躍進ですっかり事情が変わったじゃないすか、いやー、ホントに時代は変わるよねえ……っていう話になると、「そうだねそうだね」と来る人と「え?」ってなる人がいる。かつてのメジャー・レーベル中心のレコード・ジャーナリズムを引きずってると「ビッグ5」の残像が残るんだけど、その後、もうアメリカのどこの楽団もメジャーとの継続的なレコーディング活動はなくなって、みんな自主レーベルの時代に入ってしまった。で、米国オケでその自主レーベルによるレコーディング活動の先鞭をつけたのが、サンフランシスコ交響楽団。ティルソン・トーマスとのマーラーは日本でもCDリスナー層には評判になったと思うんだけど、ようやく11月にこのコンビで来日してくれることになって、その充実ぶりが広く伝わることになるはず(ああ、でもユジャ・ワンの曲目変更が痛恨すぎる、ショスタコ聴きたかった……)。
●で、ここまでが前置きだ(長いよ)。じゃあ、サンフランシスコ響がいったいどうやってこんなに最強に強まったのよ?ってのを明らかにするのが「オーケストラは未来をつくる~マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦」(潮博恵著/アルテスパブリッシング)。これを読むとオーケストラはいい指揮者がいていいプレーヤーがいさえすればそれでこと足りる、なんてことはぜんぜんないのだということがよく伝わってくる。そのオケにはどんなタイプの音楽監督が必要なのか、その土地にはどんなプログラム戦略が適しているのか、教育活動はどうする、資金集め事情はどうなっているのか。客席から眺める「コンサート」の外側にも広大な世界があって、音楽家も事務局も理事会もオケにかかわる人々が本物の熱意を持って知恵を絞っている。本書後半のインタビュー集を読むと、彼らが心底まぶしく見える。一般のファンが読んでももちろんおもしろいし、オケ関係者、音楽マネージメント関係者には相当刺激になるのでは。
●印象に残ったところはいくつもあるんだけど、一つ挙げると、プレジデント(理事会の議長)のジョン・D・ゴールドマンのインタビュー。理事会のメンバーは無給のボランティアなんだけど、彼は仕事の時間の8~9割をサンフランシスコ響の活動に費やしている。元保険会社経営者。で、オケ創立100周年の資金調達キャンペーンで1億2500万ドル集めたって言うんすよ。えっ、1億2500万円じゃなくて1億2500万ドル!!! 「多くの人が、できっこない、寄付者に多くの額を頼みすぎていると思っていました。でも蓋を開けてみれば、私たちが予想したよりもかなり多くのお金を集めることができたのです」。これはもう絶句。あと、エグゼクティブ・ディレクターの「キーピング・スコア」の企画に関する話で、当初テレビの音楽ショーをやりたいと地元財団に話をもちかけたら、「もっと大きく考えませんか? 私たちはサンフランシスコ交響楽団にもっとインパクトのあることをやってほしいのです」と返答されたというのも強烈だ。今ワタシらが普段目にするのって、話が進むにつれて最初に広げた風呂敷より「もっと小さく」ってなる話が大半だから、財団から「もっと大きくしよう」って言われるなんて、スゴくない?
●「そんなの今の日本じゃありえない」と思われるかもしれないんだけど、それはもっともなことで、たぶんアメリカ国内でだってベイエリアならこれでよかったけど、じゃあフィラデルフィアやクリーヴランドでも同じ方法論が通用するかといえばそんなものじゃないはず。強気の資金調達や先進的なプログラミングよりも、その正反対の戦略が成功する土地もあるかもしれない。むしろ、オケのあり方はその土地柄次第ということこそが本書の主題。もっとローカルに。都市圏にあって、いかに地域との結びつきを深めるか、という点だけをとっても、限りなく示唆に富む。
ラザレフ指揮日フィルのプロコフィエフ
●20日はサントリーホールでラザレフ指揮日フィルで、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(川久保賜紀)、プロコフィエフの交響曲第6番。本来なら2011年6月に終わる予定だった「プロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクト」の最終回。前半の流麗なチャイコフスキーもよかったんだけど、めったに聴けないプロコフィエフの6番を聴けたのがなによりうれしい。ラザレフと日フィルは準備万端、磨きをかけた演奏に熱風を吹き込み、晦渋さを感じさせない雄弁なプロコフィエフを聴かせてくれた。
●この曲って、意外と好きな人が多いみたいなんすね。第2楽章は圧倒される。でも終楽章の唐突さ、投げやりな軽快さはかなり謎。カッコ悪さを装うのはマーラー第7番「夜の歌」終楽章と同様のノリなのか。
●ラザレフって「ドヤ顔」を見せてくれるじゃないですか。曲が終わると同時にクルッと客席を向くおなじみの「ドヤフィニッシュ」のみならず、演奏中も完全に客席に体を向けて指揮しながら「どうですか~お客さん、この音楽、最高でしょう~」みたいな表情を見せて、盛り上げてくれる。以前リハを見学させていただいたときに、やっぱり曲の途中で客席側(関係者しかいない)に向かってグワッて体を向けてこちらを見るので何事かと驚いたんだけど、あれはまさにリハーサルだったのだと本番で気づいた。
●最近知った言葉。ドヤリング。ラザレフとはなんの関係もない。ノマドな人を指すっぽい。
カンブルラン&読響のラヴェル、マゼール&N響のワーグナー
●18日はカンブルラン&読響へ(サントリーホール)。ラヴェルのバレエ「マ・メール・ロワ」と「ダフニスとクロエ」全曲というプログラム。輪郭のくっきりした明晰なラヴェルを満喫、すばらしかった。強奏時の響きの美しさと白熱する高揚感との間で、絶妙なバランスを取りながら細い尾根道を歩んでいたという印象。同じオーケストラから先月のスクロヴァチェフスキとはまったく違った響きが引き出されていた。合唱に新国立劇場合唱団を得たのも吉。「ダフクロ」は全曲版が断然楽しい。本日20日に東京芸術劇場で同一プロもう一公演あり。
●19日はマゼール&N響定期Cプロ、ワーグナー「言葉のない指環」(NHKホール)。マゼール自身がかつて編曲して(といってもマゼールの創作成分はゼロ)ベルリン・フィルと録音した、「ニーベルングの指環」オケのみハイライト集。これ一曲で休憩なし。スクロヴァチェフスキ&読響のデ・フリーヘル編「トリスタンとイゾルデ」のときも書いたけど、「ワーグナーのオペラをどうやったらオペラ抜きで聴けるか」という矛盾した欲求を持ってる人は少なくないはずで、この編曲もこれを満たす回答のひとつ。これって「言葉のない指環」なんて題名になってるけど、「声楽のない指環」なんすよね。わざわざ四管編成の大オーケストラを狭苦しいピットに押し込んで、なおかつ歌手の声をマスクしないように鳴らす、などというしち面倒くさいことなんかしないで、ドバーンと全員ステージに乗って鳴らしまくればいいじゃないの、というノリでもあるわけで、マゼールは壮麗な一大スペクタクルを聴かせてくれた。前半はやや淡々と進んだ感もあったんだけど、進むにつれてぐいぐいと引き込まれた。心持ちテンポを落とした「ジークフリートのラインの旅」は圧巻、鳥肌モノ。やはり怪人。こちらも本日20日に同一プロもう一公演あり。
引分けの甘美な夢
●先日、ニッポン代表はフランスやらブラジルやらとやたら華やかな親善試合を満喫していたわけだが、うっかりするとこの週がなんのためにリーグ戦が休みになっていたかを忘れてしまいそうだ。本来、この週末はワールドカップ予選にあてられていたんである、ヨーロッパであれ、アジアであれ。たまたまニッポンはお休みだったわけで(奇数国で同一グループを戦っているから)、ちゃんと他の国は試合をしている。ニッポンの属するグループBは、オマーン2-1ヨルダン、イラク1-2オーストラリアという結果だった。
●さて、この結果はどうだろう。すべての国が4試合を戦い終えた折り返し地点で、ニッポンは相変わらず勝点10で1位を独走中。これに勝点5のオーストラリアとオマーンが続く。安泰? そうかもしれない。でも、この週末は少し残念な結果だった。
●オマーン対ヨルダンもイラク対オーストラリアも決着が付いたのが惜しい。できれば引き分けてほしかった。そもそもサッカー・ファンは自分が応援するチームと無関係の試合に関しては、すべての試合が引き分けに終わることを夢見ている。かつて、あらゆるサッカーの試合は等しく勝点2の価値を持っていた。勝ったほうが勝点2、引き分ければ両者で勝点1を分け合う。しかし、ある頃から攻撃的な試合を増やすために、勝ったほうに勝点3、引き分ければ両者勝点1に制度が変わった。つまり、勝敗の決着が付いた試合には勝点3の価値があるのに、引き分けた試合には勝点2の価値しか与えないという、「エネルギー保存の法則」ならぬ「勝点保存の法則」に反するような制度が生まれた。
●であれば、自分のチーム以外の試合の価値は低くなればなるほどよい。自分のチームが出場しないゲームはすべてが引き分けに終わりますように。できることなら(順位付けの総得点優先ルールまで考慮して)0対0の退屈な試合に終わりますように。これが正しいサッカー・ファンが抱く甘美な夢だ。
ニッポンvsブラジル@親善試合
●どういうわけか、ポーランドで開催されることになったニッポンvsブラジルの親善試合。ブラジルはブラジルで試合をやるより欧州で試合をしたほうが選手を集めやすいわけだけど、今やニッポンもそうなったというところに感慨。でもなんでポーランド?
●この試合、0-4と大敗してしまったわけだけど、いろんな見方があると思う。ワタシの気分だと、1-0で勝ったフランス戦より、断然このブラジル戦のほうが好き。負けたのは悔しいし、線審のミスがなかったり、ポストが活躍しなかったら、もっと点を取られていてもおかしくないんだけど、なんていうか、これってブラジル相手(かつ親善試合)でもなきゃ実現しないようなノーガードの打ち合いじゃないすか。いまどきこんなオープンな攻め合い、なかなかない。
●フランス戦では全力メンバー本気印の前半45分、ニッポンはまったくサッカーをさせてもらえなかった。後半に勝ったとはいっても、ああいう親善試合の後半は勝敗にカウントされないもの。勝ったけど、敗者の烙印を押されていた。でもブラジル戦は90分、ニッポンも攻めてたし、ガンガンと相手のディフェンスを崩してた。前線の選手たちの華麗なボール捌きなんて、見ててため息が出る。ブラジル相手にニッポン、こんなことできちゃうの? 本田も香川も乾も清武も中村憲剛も遠藤もみんな絶対楽しかったはず。悔しい、でも楽しい! 結果主義で戦術にがんじがらめになったサッカーがつまらないとは言わないけど、せめてブラジル相手にやるんだったらこれくらいの花火を打ち上げないと。ゴールはパウリーニョ、ネイマール、ネイマール、カカ。へえ、ブラジル、カウンターアタックが上手じゃないの(と言ってみたかった!)。
●日本の出場選手。GK:川島-DF:内田(→酒井宏樹)、吉田(→栗原)、今野、長友-MF:遠藤、長谷部(→細貝)、中村憲剛(→乾)-FW:清武(→宮市)、香川、本田。トップに本田を置いた。前田がいないなら他の選手より本田を置くほうがいいというか、ノートップ・スタイルというか。しかし本田のフィジカルの強さを見ると、前に置く気持ちがわかる。本田、香川はやはり一段図抜けた感じ。乾が生き生きとプレイしていて、ブラジル代表と試合できる喜びが伝わってきた。ブラジル相手に物怖じせずに仕掛ける若者たち。時代は変わった。
バッハ・コレギウム・ジャパン「パウルス」
●14日、東京オペラシティでバッハ・コレギウム・ジャパンのメンデルスゾーン「パウルス」。合唱と管弦楽をあわせて約70人という編成はBCJ史上最大なんだとか(鈴木雅明さん談)。普段ならオペラシティの舞台に70人が並んだところで大編成でもなんでもないところだが、BCJの公演でこの編成は壮観。ホルン4本、トロンボーン3本にオフィクレイドやコントラファゴットも。さらにオルガンに鈴木優人さん。コンサートマスターは寺神戸亮さん。ゴージャス。しかしメンデルスゾーン本人はこの曲に数百人規模の合唱を用いたというのだからスゴい。なぜそんなに人数が必要になるのだろう? 「一万人の第九」みたいな企画は現代的というより、もしかしたら19世紀的なノリなのかも(笑)。
●冒頭第一曲からすばらしく柔らかな響きで始まり、力強く壮麗な高揚感にあふれた演奏が繰り広げられた。「サウロの回心」や「目から鱗が落ちる」場面など、物語的なクライマックスは第1部にあるけど、第2部も音楽的には起伏に富んでいて、陰影も豊か。
●しかしこれくらい音楽として感動的でありながら、物語的に疎外感を感じる作品もない。熱心なユダヤ教徒であるサウロはイエスからの呼びかけで失明するが、イエスの弟子により目から鱗が落ちて、ふたたび目が見えるようになる。サウロは回心し、キリスト教徒としてパウルス(パウロ)を名乗る。パウルスは異邦人の宣教へ向かい、多神教を戒め、一なる神への帰依を説く。パウルスは迫害にもひるむことなく、最後には死を覚悟の上、エルサレムへと旅立つ……。非キリスト者の私たち異教徒にとって、パウルスはなんと独善的で乱暴な男に映るのか。パウルスには言いたい。八百万の神、いいよー。万物に神様、宿ってね? 君の言ってる神への帰依は、個人と神との対話ではなく、集団的な利益を求めるためのイデオロギーでは。ノーモア石打ち、ビバ寛容。そして命を粗末にしてほしくない。
●パウルスが足の不自由な男を治す場面があって、異教徒たちは驚いてパウルスを拝みだすんだけど、そんな現世利益に目がくらむ異教徒もどうかと思う。ていうか「病気を治して信者獲得」は不滅なのか!?
マゼール&N響定期Aプロ
●時の流れが止まっているかのように老いを感じさせない人がまれにいるけど、この人もその一人かも。13日夜、マゼール&N響へ(NHKホール)。定期公演Aプロ。とても82歳とは思えない。といっても、さすがにフィジカルには老いている。今回歩く姿に初めてそれを感じたけど、それでも姿勢をまっすぐに保って毅然としてオーラを発しながら、精神の溌剌さを棒に託しているのがスゴい。下向きに握った指揮棒を細かく振る姿は健在で、N響からまぎれもないマゼール・サウンドを引き出していた。キリッとアンシャープ・マスクをかけてさらに彩度30%増にしたみたいな鮮やかな響き。
●チャイコフスキーの組曲第3番って40分くらいあるんすよね。交響曲並みの長さなのに、中身は組曲。これが退屈せずに聴けるという喜び。休憩後にライナー・キュッヒルがソロをつとめたグラズノフのヴァイオリン協奏曲、そしてスクリャービンの「法悦の詩」。妖しさ全開。多くのマゼール・ファンが期待する意表をついたヘンタイ・ルバートはなかったかもしれないんだけど、曲がもともと怪異なので無問題。終演後は盛大なブラボー。一曲目のチャイコフスキーの組曲からブラボーが出てたくらいで、どれだけ期待された客演だったがよくわかる。老巨匠から拝聴するありがた~い音楽っていうんじゃなくて、サービス満点のエンタテインメント性がすばらしい。ぜんぜん枯れてないし。N響初登場だったとは。この後のCプロ、Bプロも盛り上がりそう。
フランスvsニッポン@親善試合
●ニッポン代表が日本でワールドカップ予選を戦うときは、その直前に一試合親善試合を組んで調整する(協会にとっては資金集めでもあるはず)。同じようにフランスも試合を組んだわけだ。相手はニッポン。ニッポンにとっては、本物のアウェイで強豪国と戦えるまたとないチャンス。そして今や日本より欧州で試合をするほうが、選手たちが長距離移動しなくて済むという恐るべき現実。先発の大半が欧州組になってしまった。
●で、サンドゥニでのフランス戦といえば、思い出すのは11年前の屈辱。あれは親善試合じゃなくて、コンフェデ杯だから公式戦だったんすよね。代表にとって後にも先にもあれほど惨めな試合はなかったと思う。0-5という大差も屈辱ながら、中田ヒデ以外はだれもボールを持てない、まるで大人と子供の試合みたいで、ホントに恥ずかしかった。雨で下が濡れてて、みんな足元が踏んばれなくてボールを失ってしまうのに、ナカタだけが唯一相手と同レベルのプレイをしていた。
●で、今回のフランスvsニッポン。前半は11年前の再現になってもおかしくないくらい、一方的な展開だった。手も足も出ない。ひたすら相手の攻撃を耐え続けた。ところが後半、相手が大きくメンバーを入れ替えると、ニッポンも徐々にチャンスを作れるようになり、前線でボールが回りだした。香川は相手のプレッシャーを受けてもボールを失わず、頼もしい限り。長友は後半からサイドを何度も突破して気持ちよいくらい。後半43分に、フランスのコーナーキックから、どカウンターが発動、なんと今野がドリブルで独走し、右サイドを駆け上がった長友に見事なスルーパス、そして長友のクロスを香川が蹴り込んでニッポンがゴール! これが決勝点となって、強豪相手に歴史的な勝利を収めることになった。
●おっと選手の名前。GK:川島-DF:酒井(→内田)、吉田、今野、長友-MF:遠藤、中村憲剛(→乾)、長谷部(→細貝)-FW:香川、清武、ハーフナー・マイク(→高橋秀人)。本田はケガでベンチ。前田もケガで帰国。中村憲剛とハーフナー・マイクの代役はどうかと思ったが、結果を出したのは立派。
●とはいえ、実力差は明白。この種の親善試合は本当に試合になるのは前半まで。後半は(本番の試合にそなえて)選手を入れ替えてテスト・モードになる。フランスはどんどん入れ替えたけど、ニッポンは後半頭の選手交代なしで、続けて「試合」をさせてもらった。ベストメンバーの強豪国とアウェイで戦うと前半みたいになるが、選手を入れ替えてチームの完成度が一段下がると、たとえアウェイでもニッポンは勝つこともできるのだ、という力関係がはっきりしたというべきか。11年前は箸にも棒にもかからなかったのが、今はこんな風に相手との距離を図れるところまで近づいたのだと思うと感慨深い。
●フランスは前半、サイドバックのドビュッシーの攻め上がりが効いていた。たゆたうような夢幻的な攻め上がりから、形式にとらわれない動的で柔軟なクロスを繰り出し、ピッチ上に繊細なテクスチャーを描いていた。
借フラ
●昨日の東響記者会見のジョナサン・ノットの写真なんだけど、たぶんヨソのサイトの写真とぜんぜん違う雰囲気になってるっぽい。基本、氏はマジメな顔をされてて、フォトセッションで一瞬だけおどけて「ハ~イ!」みたな感じで手を振ってくれたんすよ。別にワタシがリクエストしたんじゃなくて(ちゃんとしたカメラマンの方々は目線とか姿勢などをリクエストする)、たまたまこっちのほうを向いて手を振ってくれたときに、たまたまワタシがシャッターを押した、と。
●で、しかもそのとき、たまたま他人のフラッシュが重なって明るく撮れた。ワタシが日頃持ち歩いているカメラではフラッシュは常時使わないようにしてるんだけど(ちなみにカメラは旧石器時代の安物コンデジだ)、自分が撮った瞬間に偶然だれかちゃんとしたカメラマンの人が本物のフラッシュを焚いて、それで明るく撮れるっていうことがある。めったにないことのようでいて、実はこのパターンは意外と多い。この現象になにか名前があるような気がするんだけどなんていうのかよくわからない。借フラッシュ? 借光?
●ところで予定調和ならずで札幌で開催されることになってしまった10月10日の天皇杯、横河武蔵野FCvs長野パルセイロであるが、延長戦でも0対0で決着が付かず、PK戦の末に横河武蔵野FCが勝ち進むことになった。すげえ、武蔵野。グルージャ岩手、FC東京、長野パルセイロを撃破して4回戦進出。ちなみにPK戦はサドンデスで11人目で決着が付いた。つまり、全員がPKを蹴ったわけだ。最後はお互いにゴールキーパーが蹴りあって、キーパー対決を武蔵野が制した。
●観客は312人。札幌で開催された武蔵野と長野の試合にしてはよく入ったというべきか。控えも含めると選手が両チーム合計で36名に対し、客312人の濃密空間。サドンデスのPK戦は客にまで順番が回ってきてもおかしくない(いや、おかしい)。
東京交響楽団次期音楽監督発表記者会見。ジョナサン・ノットが次期音楽監督に!
●東京交響楽団の音楽監督ユベール・スダーンの任期が2014年8月に終了するにあたり、次期音楽監督が発表されるということで、10日、ミューザ川崎の市民交流室へ。記者会見では次期音楽監督本人が登場すると案内されていたが、だれに決まるかは事前に聞いておらず、ネット上でもいろんな憶測が流れていた。で、会見場に入ると、普通はまず当日配布資料が手渡されるものなんだけど、この日は「資料は発表の後で」という周到さ(資料でわかっちゃうとだれかがツイートしちゃうからねえ)。会見の模様はUSTREAMでもライブ配信され、記者も一般聴衆もまったく同じタイミングで、新音楽監督の名前を聞いたわけだ。ジョナサン・ノットである、と! 発表と同時に本人が入室して、少し会見場がざわめいた。
●すばらしいすよね、今の時代の会見のあり方として。ノットと契約できたということといい、広報の鮮やかな手並みといい、仕事できる感が満載。
●で、ジョナサン・ノット。イギリス人ではあるけどバンベルク交響楽団とのコンビが知られていると思う。昨年に東響と一度共演した際に楽団員から熱烈な支持を受けて、今回の契約に至ったという。東響の大野楽団長は「2、3年前にスダーンからどんなに関係がうまく行っていても10年以上音楽監督を務めるつもりはないと言われ、以来、次期監督を探すため、いろいろな指揮者と共演してきた。スダーンはオーケストラを基礎から鍛えてくれた。次の音楽監督はまた同じように基礎からというのではなく、スダーンが培ったものの上に、自由に花開かせてほしい思い、『もうこの人しかいない』ということになった」と話してくれた。
●ノットは「はじめて東響を指揮した際には、このオーケストラが音楽監督を探しているとはまったく知らなかった。交渉には半年以上の時間がかかったが、今、自分にとって新しい旅を始めるにあたってぴったりのタイミングだと考えるに至った。よい旅とは必ず冒険である。どこにたどり着くか、わからないもの。指揮者に必要な条件はいくつもあるが、もっとも重要なのは指揮者がいなければ決してとれないリスクをとること。このどこに続くかわからない旅でもリスクをとって、みなさんと楽しい時を過ごせれば思う」と抱負を述べてくれた。
●「リスクをとる」というのはノットがたびたび口にしたフレーズ。指揮者としてのフィロソフィは「本番でリハーサルを繰り返さないこと」。「リハーサルは枠組みでしかない。本番ではそのときの雰囲気などさまざまな要因で演奏は変わる。本番はなにが起きるかわからない。リスクをとらなければならない」といったように。
●東響のノット次期音楽監督特設ページはこちら。契約は2014年9月から3年間で、1シーズンに4回来日し、計8週間、東響を指揮する。また、就任前に来年10月、R. シュトラウスの「4つの最後の歌」と「アルプス交響曲」を披露してくれる(新潟定期でも同プロあり)。
●これで東京のオーケストラの指揮者陣の名前がますます魅力的なものになった。パーヴォ・ヤルヴィ(N響)、シルヴァン・カンブルラン(読響)、インゴ・メッツマッハー&ダニエル・ハーディング(新日本フィル)、エリアフ・インバル(都響)、アレクサンドル・ラザレフ(日フィル)、ダン・エッティンガー(東フィル)……さらにジョナサン・ノット(東響)。なんという音楽都市。
フランクフルト国際空港税関連続ヴァイオリン差し押さえ事件メモ
●フランクフルト国際空港での税関当局による連続ヴァイオリン差し押さえ事件の件。この話題はTwitterとかfacebookで一巡りした感もあるんだけど、後日用にメモしておこう。堀米ゆず子さんがガルネリの輸入申告を怠ったとして楽器を差し押さえられたという報道が8月22日。税関当局はヴァイオリンの評価額を100万ユーロ(1億円)と判断し、19%にあたる19万ユーロ(1900万円)の関税支払いを要求した。
●その後、9月25日になって堀米さんによる手記が所属事務所のサイトで公開された。楽器は無事堀米さんのもとに戻ったものの、そこに至るまでの経緯と気持ちの推移が生々しく書かれている。1900万円に加え罰金1900万円、計3800万円が必要とされ、「一時はもう楽器はあきらめてドイツ側に渡そうとも思いました」とも書かれ、その後楽器を取り戻そうと「銀行保証に踏み切る覚悟を決め、資産状況も報告することにした」と記されている。結果的に無償で返還されることになり安堵したが、事件は続く。
●9月28日、今度は同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんがストラディヴァリウスを差し押さえられた。ヤンケさんの場合はドイツ在住で国籍もドイツのようなのだが、ヴァイオリンの保険対象額6億3000万円につき関税約1億2千万円(!)を請求される。で、ここからがなにがなんだかという話だが、ドイツの財務省が税関当局に楽器を返還するよう指示したところ、税関側が反発して、財務相が脱税行為を手助けしているとして職員が検察当局に告発したという。このバトルがどうなるんだかわからないが、ともあれ楽器の行方については決着が付いたようで、ストラディヴァリウスは無事本人の手許に返還されることとなった。
●で、じゃあ税関のルールを厳密に守ったら、ヴァイオリンどころかパソコンやスマホを持ってても申告が必要になるんじゃないの?といった話がやり取りされているのが今。
●なんかこの手の話って、人のエネルギーを吸い取るような話でイヤっすよね。わけがわからないっていう以上に、追いかける元気が出ない。そこで、最後に元気が出る映像へのリンクを張っておく。ワタシの好みは12番箱ネタ。5番の頭からアップも秀逸。
ブリテン「ピーター・グライムズ」@新国立劇場
●今季の新国立劇場はブリテン「ピーター・グライムズ」で開幕。これを観にいかなかったらなにを観るの?」というくらいの演目。初日から評判は上々で、期待通りのすばらしさだった。打ちのめされるオペラ、ナンバーワンかも。台本と音楽の両方で圧倒される。
●「ピーター・グライムズ」は「ヴォツェック」などと同じく、社会から疎外され、不寛容に押しつぶされる男の物語だ。だから、まず条件反射的に自分をピーター・グライムズの場所に置いて聴こうとする。が、幕が開けてしばらくすると、そんな抑圧された人物を都合よく気取ったような視点では見ていられなくなる。ピーター・グライムズはなぜ村人に疎外されているのか。少年に対して乱暴にふるまうから? 家ともいえない掘っ立て小屋みたいなところに住んでいる貧しい男だから? いや、一昔前の寒村における徒弟の扱いはピーターに限らず酷いものだっただろう。子供なんてぶたれて当たり前だったにちがいない。貧しい者だっていくらでもいただろう。
●で、やはりセクシャリティの問題に思いを巡らせないわけにはいかない。アレックス・ロスが「20世紀を語る音楽」のなかでブリテンと「ピーター・グライムズ」当初脚本におけるホモセクシャリティや少年愛の問題について論じていたと思うが、今回のウィリー・デッカー演出ではこれらの要素は触れられていない。それで問題なく作品は成立するんだけど、ワタシはやはりピーター・グライムズはセクシャリティゆえに疎外されているという設定でしか観ることしかできなかった。ピーターがエレンに抱く夢は、常に自分が社会の構成員として一人前に認められるための方策としてしか語られることがない。彼はエレンという個人に微塵の興味も抱いていないのだ。一方、村人たちはどうか。たとえば「人はみな自分らしく生きる権利があると思うんだ。僕は他人が僕と違う生き方を選んできたとしても、決して差別しないし、彼のことを尊重するよ」なんてことを涼しい顔で言う人がいたら、そんな人間の言うことを1ミリでも信用できるだろうか。だれだって言うだけならそう言える。この村人たちですら胸を張ってそう言うだろう。しかし「ピーターのこと、差別なんかしないよ」って言っていても、ピーターが少年と関係を持てば途端に平気な顔をしてはいられなくなる。「自分で判断のできない少年が相手なのだから罪だ。これは決して差別ではない」と主張するかもしれない。しかしピーターにはピーターの倫理があってはいけないのか? 彼の倫理ではごく当然の愛情表現だったかもしれない。絶望的な軋轢と相克を前にしてもなお「僕はあなたのことを尊重する」と言えないものが村人になる。つまり、自分も村人になる。セクシャリティではなく、ナショナリティやエスニシティの話だったとしても同じことはいくらでもあるわけで、その度にお前はいちいち村人の側に付こうとするのだと客席に向かって冷然と宣言するのが、この「ピーター・グライムズ」という作品。このオペラは観客に「心地よい除け者の孤独」という安楽な仮想ポジションを決して与えてくれない。
●あのブリテンの海の音楽。風が凪ぎ波が陽光にきらめく穏やかな海に救いのない悲劇を託する。突き刺すような告発の合唱。憎悪の増幅装置となって襲いかかる痛烈な管弦楽。これを31歳で書いただなんて。
●スチュアート・スケルトン(ピーター・グライムズ)、スーザン・グリットン(エレン)、リチャード・アームストロング指揮東フィル、新国立劇場合唱団。合唱は驚異的な完成度。
サントリーホール ブルーローズにて「音楽のある展覧会~ウィーンに残る、日本とヨーロッパの450年の足跡」
●10月6日(土)より10月12日(金)まで、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)で「音楽のある展覧会~ウィーンに残る、日本とヨーロッパの450年の足跡」が開催中。5日に開かれた内覧会に足を運んだ。なんと、あの小ホールが展覧会場になってるんすよ。最初の一歩を踏み入れて「あれ!? ここはどこ?」。
●今回展示されているのはウィーン楽友協会所蔵のコレクションで、16世紀から現在に至るまでの日本との縁のある音楽関係の資料。ブラームスが所有していた「日本民謡」とかディットリヒが編纂した「日本民謡集」や、西洋楽器を演奏する様子が描かれた浮世絵、ヨーロッパで刊行された日本文化関連書物(たとえば1851年のプフィツマイアー著「日本語辞典」など)等々。ミニ・コンサートやギャラリー・トークも開催される。この日は武村八重子さんのピアノでヘルベルト・ブラウン「東郷元帥マーチ」なる曲などが演奏された。
●写真はウィーン楽友協会アルヒーフ室長オットー・ビーバ氏の挨拶。「日本音楽がどうやって西洋に伝えられてきたかを伝えたい。これは多くの方がご存じないこと。すべての資料は楽友協会資料室のもので日本初公開となる」。展覧会の詳細はサントリー公式サイトへ。
大井浩明POC#11「ラッヘンマン+ホリガー全ピアノ作品」、すみだトリフォニーホール「オール・アバウト・ハインツ・ホリガー」第1日
●4日は代々木上原のけやきホールで大井浩明さんのピアノによるPOC(Portraits of Composers)#11「ラッヘンマン+ホリガー全ピアノ作品」。このけやきホールって古賀政男音楽博物館の中にあるんすよね。お隣がJASRAC本部ビルという「総本山」感。で、公演は平日ながら18時開演で、この日も特盛り3時間コース。ありがたいこと。
●全体は3部に別れ、第1部にラッヘンマンとホリガーの初期作品中心、第2部にラッヘンマンの「こどものあそび」「セリナーデ」(←誤植にあらず。セレナーデを初演者の名にちなんでもじったもの)、第3部にホリガー「こどものひかり」抜粋(日本初演)、「パルティータ」「7月14日の小玉花火」(日本初演)。内部奏法、特殊奏法頻出。第2部のラッヘンマンがおもしろかった。「こどものあそび」のネジの外れた無邪気さが怖い。「セリナーデ」は鍵盤の強打の合間に生まれる残響やハーモニクスの間歇的な連なりが文脈を生成し、水面に映る「逆さ富士」あるいは影絵を連想させる。
●第3部の前にデイパックを背負ったラフな格好の白人男性が客席の端に座った。あ、ホリガーだ。週末にすみだトリフォニーで行なわれる「オール・アバウト・ハインツ・ホリガー」のために来日中だったので、「もしかして来るのかなあ?」とは思っていたが、やはりご本人臨席はインパクトあり。古賀政男音楽博物館にハインツ・ホリガー。演奏が終わって大井氏に促されてホリガーが立ち上がったときの、客席の「え、ホリガー来てるの!? なんでなんで?」感がハンパなかった。 フツーにそこにいるし、ホリガー。なお、POCシリーズの次回#12は11月15日にジョン・ケージ、#13は12月12日にファーニホウ+シャリーノが予定されている。詳細はこちら。
●で、6日はすみだトリフォニーホール「オール・アバウト・ハインツ・ホリガー」第1日へ。この日のホリガーは指揮者、オーボエ奏者、作曲家の一人三役。オケは西江コンマス率いる新日本フィル。前半にホリガー吹き振りのモーツァルトのオーボエ協奏曲、さらにシューマンの交響曲第2番、後半にホリガー自作「音のかけら」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。時間配分としては前半のほうがはるかに長いんだけど、より楽しかったのは後半。「音のかけら」は巨大編成を用いながらもウェーベルンを連想させるミニチュア楽章9つから構成され、特殊奏法も満載。大仰ではない明快で歯切れのよい「ラ・ヴァルス」は痛快だった。
●「オール・アバウト・ハインツ・ホリガー」第2日は8日、室内楽でプログラムが組まれている。この日はワタシは行けないんだけど、シューマン、サン=サーンス、ベートーヴェン、自作でホリガーのオーボエを聴くことができる。
スーパー・コーラス・トーキョー特別公演、インバル&都響のマーラー「嘆きの歌」
●別途進行中のマーラー・ツィクルスの番外編とでもいうべきか、3日、東京文化会館でインバル&都響のマーラー「嘆きの歌」。合唱がスーパー・コーラス・トーキョー(ロベルト・ガッビアーニ合唱指揮)で、東京都の東京文化発信プロジェクトの一環(プログラムに都知事の挨拶あり)。
●マーラーのカンタータ「嘆きの歌」は全3部のバージョン。ただし初稿なのは第1部のみで、第2部と第3部は改訂稿。この初期作品、初稿の完成が1880年秋というから、マーラー20歳の作品であるわけだ。なるほど、これはもう完全にマーラー。後の交響曲につながる素材があちこちから聞こえてきて、マーラーは20歳からすでにマーラーだったのだと得心する。1881年にベートーヴェン賞に応募するもブラームスら審査委員に理解されなかったというのもしょうがない。一つには作品が時代を先取りしすぎていたということもあるだろうけど、一方で粗削りなのも事実なんでは。
●これ、物語が「歌う骨」モノなんすよね、グリム童話とかにある。赤い花を見つけた者が王女と結婚できる。兄弟で花を探すと弟が見つける。弟が赤い花を帽子に挿して一眠りすると、その間に兄は弟を殺す。弟は女王と結婚して王になる。しかし楽師が弟の骨を拾って、これを笛にして吹くと、笛は自分は兄に殺されたのだと真相を歌う……。
●この物語上の起承転結と音楽の起伏がもう一歩かみ合っていたら、この作品は交響曲第0番的な存在としてもっと広く演奏されていたのかもしれない。もし自分が作曲当時の聴衆だったら、こう考えたんじゃないか。物語はいいけど、通して演奏するとわかりにくい。この独唱者4名にそのつどセリフを当てるのではなく、それぞれに役を固定しては? たとえばテノールが弟、バリトンが兄、ソプラノが王女で、メゾが楽師、群集と語り部は合唱が引き受ける、といった具合に。それと、華やかな結婚式と真実の暴露がどちらも第3部にあって対照的な性格のクライマックスが集中してしまっているから、たとえば第2部に祝祭的な結婚式を置いて、第3部を緊迫した悲劇の場面というように各部の性格をはっきりと分けたらどうか……。
●と、やはり作品を理解できず、後の大作曲家マーラーなど想像もできなかったと思う。たぶん、なんか型破りのパワーをもてあましているヘンな、そしてメンドくさそうな若者が出てきたな~、みたいな感じで。ていうか、破格の才能を秘めた若者なんて、ぜんぶその程度にしか認識できないかも。
「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」(山田治生著/アルファベータ)
●山田治生さんによる新刊「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」を拝読。手にとってみると意外と厚みがあるんだけど、実はこの本にはA面とB面がある(いや両A面なのか?)。「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」と題された縦組のほうを開くと、クラシック音楽の入門書になっている。音楽とどう付き合うか、コンサートの楽しみ方、オペラの魅力など、話題は多岐に渡り、入門書の体裁をとったエッセイ集のようなスタイル。大上段に構えるのではなく、普通の人が音楽を聴くときに知りたいこと、気になることが並ぶ。たとえば、著者自身の利用体験に基づく「コンサートの託児室」についての項なんかがそうなんだけど、このあたりが「いまどき」。それとインターネットメディアを通した音楽へのアクセスについてもまとまったページが割かれている。ネット関連についてはワタシが事情に詳しいだろうということで、この部分のみ、刊行前のゲラをチェックするという形でお手伝いをさせていただいた。
●で、この本の最大の特徴は反対側から開くと横組で「ツイッター演奏会日記」になっているところ。著者が日々つぶやいてきた演奏会についてのツイートが時系列で収録されていて、なんと、こちらのほうが分量が多い。ツイートなんだから山田氏をフォローしていればだれでも読める。そういう誰でも自由に無料で読めるものを、本として商品化するということこそ、実は「いまどき」という気がする。以前から氏をフォローしていて「毎晩、コンサートの感想をこまめにツイートしてて、山田さんは本当に律儀だなあ」と感心していたら、こうして本にするためだったとは!
樫本大進「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集」CDリリース・コンベンション
●1日夜は、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)にて、EMIからリリースされる樫本大進とコンスタンチン・リフシッツによる「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集」のCDリリース・コンベンションへ。CD収録曲から一部楽章の演奏とトークで構成される一時間。樫本大進がEMI CLASSICSと世界契約を結び、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集をレコーディングするということで、まずはその第1弾として作品30の第6番~第8番が明日リリースされる。
●樫本「ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタはヴァイオリニストにとってぜひ挑戦したいレパートリー。リフシッツは昔から大好きなピアニストで、いずれいっしょに演奏したいと思っていた。初共演もベートーヴェンだった。今回、レコーディングで共演することができてうれしい」。互いの親密さと敬意が伝わってくるトークだった。リフシッツは作品30の3曲をばらばらの3曲ではなく、一つの作品として見ていると語っているのが印象に残った。「これらはオペラのようなものではないけど、ストーリー性があって、3曲で一作のお芝居のようになっている。3曲がいっしょに出版されたのは、たまたま都合がよかったからではなく、ベートーヴェンなりの意図があったはず」。
●樫本大進にとってはベルリン・フィルのコンサートマスター就任後、初リリースとなるアルバム。このご時勢にヴァイオリン・ソナタでメジャーレーベルが全集を作ってくれるというのはなかなか貴重。
週末フットボール通信~香川真司ゴール編
●台風が過ぎ去った模様。夜の間に通り過ぎてくれて安堵。
●録画でプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドvsトッテナム・ホットスパーをちらちらと観戦。いまだにマンUに香川真司がいるという超現実的な事実をどう受け止めていいのかわからない。えっ、マジで、ホントに? 今日も先発?ベンチにルーニーとかエルナンデスとかウェルベックがいる。
●マンUはファン・ペルシーのトップ、香川真司のトップ下、サイドにナニとギグスがいてセントラル・ミッドフィルダーにキャリックとスコールズ。しかし(前半の)攻撃の活気のなさもさることながら、あの淡白な守備で本当に王者を狙えるんだろうか……と思うような出来。前半の内に2失点。1点目はアンラッキーでもあったが。
●後半、ナニのゴールで反撃の機運が高まったところに、即座に失点して1-3に。これが悔やまれる。しかしその直後、なんと香川真司のスーパーゴールが。ファン・ペルシーの縦パスをエレガントにさばいて一瞬でターン、次のタッチでディフェンスを交わして、ゴール右隅ポストぎりぎりに転がす絶妙なやわらかシュート。2-3に。1分置きに3ゴールが続くめまぐるしい展開。
●しかし、試合はそのまま2-3、アウェイのトッテナムに勝点3を奪われた。うーん、どうなんすかね、香川真司。マンUは特に好きなクラブではないので、香川真司のことだけを考えてみる。
●よかったこと。ゴールを決めた、しかもウルトラ難易度の高い技術を披露して。あんなプレイができる選手、プレミアリーグにだってめったにいない。サポの心はがっちりつかんだはず。
●悪かったこと。勝つべき相手にホームで負けた。得点の後、香川真司はエリア内でPK気味のファウルを受けて倒れるも笛は吹かれず。それ以外の競り合いの場面でも分は悪く、やはりフィジカルの争いでは厳しい。それと、もう少し前を向いてプレイする機会が多くないと。消極的と見るか、知的で効率的と見るか。後半からルーニーが入ってきたが、怪我はもう問題ないようでキレていた。
●ファン・ペルシー、ルーニー、香川真司が共存してくれればいちばんいいんだけど、その場合は香川はサイド? あと、香川が意外とディフェンスでがんばる瞬間があって、これが嬉しいような嬉しくないような微妙なところ。