April 18, 2013

チョン・ミョンフン&フェニーチェ歌劇場「オテロ」

●17日はオーチャードホールでフェニーチェ歌劇場来日公演、ヴェルディ「オテロ」へ。指揮はチョン・ミョンフン。オーケストラは明るく爽快な響きを聴かせてくれた。オテロにグレゴリー・クンデ、デズデモナにリア・クロチェット、ヤーゴにルーチョ・ガッロ。演出はフランチェスコ・ミケーリ。
ヴェルディ●まだ公演が続くので演出のネタバレ(ってほどのものでもないけど)は避けるとして、細部にアイディアは豊富だった。個人的には煩瑣で説得力を欠いているように感じたんだけど、おもしろいと思う方もいらっしゃるはず。最後の場面はどうなんすかねー。
●で、「オテロ」。もちろん超傑作。でも音楽的な成熟度の高さの一方で物語的には納得の行かないところのオンパレードで、それに対して前日譚や背景の設定を外挿して筋を通すというのがオペラのお約束だとは思う。が、今ワタシは「オペラは見たままに解しよう」キャンペーン実施中なので(笑)、このミケーリ演出をそのまま見ると、この物語でもっとも共感できないのはオテロ。短慮な暴君でしかない。しかも人を見る目がない。戦時には最前線で活躍しても、平時に彼になにができるだろうか。オテロは他人を信用することができない。ヤーゴのことだって最初から疑わしいと思っているのに、「カッシオは寝言でこんなことを言っていましたぜ」という小学生並の浅知恵で騙されてしまう。
●ではだれに共感するかといえばヤーゴだろう。このヤーゴは怪物的な悪の権化でもなんでもなく、むしろ凡庸な一士官。ヴェネツィアの栄光のためにはオテロみたいな暴君は排除したい。しかし権力と富はオテロとデズデモナ、そしてカッシオが占有している。彼らはみな豊満であるが、ヤーゴとエミーリアの夫妻はそうではないことが報労の不均衡を示唆している。そこでヤーゴ&エミーリア夫妻は知恵を絞って、権力者たちを罰する。そう考えれば、ヤーゴとエミーリアがフィガロとスザンナのように見えてくる……?

このブログ記事について

ショップ