●祝、マリノス天皇杯決勝進出。相手は広島なので、リーグ戦の雪辱を果たすには最高の舞台。今日の鳥栖戦での2ゴールは美しかった。
●今年も残すところあとわずか。この一年を振り返ってみるべきだろうか。思い起こせば、今年も長かった。1月とか2月に起きたことが「今年の出来事」とは思えないくらい。
●ベストコンサートの回顧は今月の「モーストリー・クラシック」誌に書かせていただいたので、もう少し大きな視点から振り返ってみると、個人的には「コンサートの録音メディア化」と「録音メディアのコンサート化」をいっそう強く感じた一年だった。つまり、コンサートに行くと、たとえば「バッハ管弦楽組曲全曲」のようなCDみたいなプログラムに出会ったり、直近にリリースされたCDそのもののような演目に出会うケースがますます増えてきた(ような気がする)。一方で、録音の聴き方は自分のなかで大きく変わりつつある。定額制音楽配信が充実してきたため、同じ音源を何度も聴くよりも、少しでもたくさんの種類の音源を聴こう、同じ曲を聴くにもなるべく以前に聴いていない音源を聴かなきゃ損だ(?)、みたいな妙な気分にとらわれるようになった。だって、定額制だし。となると、録音に対しても「一回しか聴かない」前提で接するようになってきて、それって実演と同じような一回性が録音物に対しても仮想的にありえるんじゃないかと。録音なんだけど、コンサートと同じように聴いたらそれまで、もう聴けないものになる。録音物であっても音楽の一回性は保たれているはずという錯誤。もはや「愛聴盤」という概念が崩壊しそう。
●ひとつ告知を。大晦日の午後9:20から午後11:55まで、NHK Eテレ「クラシック・ハイライト 2013」に出演しています、畏れ多いことに。2013年の振り返りはこちらで。では、よいお年をお迎えください!
2013年12月アーカイブ
2013年を振り返らない
USBメモリで「ニーベルングの指環」
●以前、USBメモリ版「コンプリート・バッハ・エディション」をご紹介したが、今度はUSBメモリ版ワーグナー「ニーベルングの指環」がリリースされた。中身はバレンボイム指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏(ワーナークラシックス)。バッハ全集が入るくらいなんだから、もちろん「指環」など余裕でUSBメモリ1本に収録できる。音源に加えて、ワーグナーについてのBBCのドキュメンタリー映像や、リブレット、解説アプリらしきものなども全部含めて、6450円ぽっきり(Presto Classicalでの本日時点円建て価格、送料別)。
●個人的には、前回の「コンプリート・バッハ・エディション」よりこちらのUSB「指環」のほうがずっと割安に感じる。なぜなら、バッハのほうは320Kbpsのmp3だったが、こちらは無圧縮WAV(つまりCDの中身そのもの)と320Kbpsのmp3の両方が入っている。用途によって好きなほうを使える。また、バッハは32GBのUSBメモリだったが、こちらは16GBで、メモリそのもののコストに割安感を覚える。なんとなれば、データをHDDにコピーしたら後はフツーのUSBメモリとして使用したっていいわけで(バックアップは忘れずに)、音楽ソフトの付録つきUSBメモリを買うという考え方だってありうる(笑)。
●デジタルデータをわざわざ記録媒体に入れて、それを物流に乗せるのは不合理な感じもしなくはないが、16GBともなればネットで長時間かけてダウンロードするより送ってもらうほうが手っとり早いか。というか、そもそも音楽CD自体が「デジタルデータをわざわざ物流に乗せている」わけだが。
ゾンビとわたし その30:「コン・ティキ号探検記」(トール・ヘイエルダール著/河出文庫)
●当連載では、地上がゾンビで埋め尽くされるようになった終末世界で人間がいかに生き延びるかについて、これまでさまざまな考察とフィールドワークを続けてきた。備えあれば憂いなし、Zdayは日いちにちと近づいている。そして、ここでようやく新たな解決への糸口を発見したことを力強く宣言したい(ババン!)。
●希望の一冊となるのは、海洋生物学者であり探検家のトール・ヘイエルダールによる「コン・ティキ号探検記」(河出文庫)だ。名著である。ゾンビ禍とは無関係に読まれるべき一冊。以前映画化されたものを紹介したが、これはヘイエルダールが「ポリネシア人の祖先は南米から海を渡ってやってきた」という自説を証明するために、1500年前の古代でも入手可能な素材と技術のみを用いていかだを作って、風と波を頼りに仲間たちとともに8000キロにわたる太平洋横断に挑んだ記録である。多くの人が無謀と考えた航海は100日ほどをかけて見事に成功した。この本の味わい深い点は、後の研究によりヘイエルダールの仮説は否定されているところだと思うのだが、今のわたしたちにとって重要なのはいかだで太平洋上で長期間を平和に過ごせるという点だ。舟ではなくいかだというのがミソ。荒波をかぶっても沈まない。サメやクジラなどの巨大海洋生物が脅威になるのかについても、この本は多くの有益な情報を与えてくれる。
●が、なにより驚いたのは食糧だ。ヘイエルダールたちはいとも簡単に海上で食い物を調達していて「飢えるのは不可能と思える」ほどだったという。トビウオたちが勝手にいかだの上に飛んできてくれる。そして、シイラがずっといかだとともに航行してくれるので(これは「大西洋漂流76日間」でも同じ記述があった)、シイラも食べ放題。シイラといえば、昨今の一部の回転ずしではカンパチの代用魚として利用されているという。つまり、いかだの上は、疑似カンパチの新鮮な刺身食い放題というのだから、日本人にとっては嬉しい環境である。このカンパチ、ついさっきまで生きてました! ガブッ!
●もう言うまでもないだろう。地上がゾンビで埋め尽くされても、海洋はいたって平和なままである。地表の71%は海だ。ゾンビ禍以後も地球上の大半はその姿を変えないのだ。わたしたちは海に出なければいけない。古代インカ文明が発明したいかだが、21世紀の人類の命運を握ることになろうとは。人類は海洋を生きる生物になる。ひとつの家族がひとつのいかだに乗り、遠洋上でいかだの群れが集落をなす。いかだが集まって村ができ、町ができ、やがて都市ができる。人はいかだの上で生まれ、いかだの上で生涯を過ごす。そして、カンパチの刺身をたらふく食うのだ。
クリスマス2013
●メリー・クリスマス。今やストック・フォトにゾンビサンタさんの写真が売られている時代。ヤツらは「夜更かししてる悪い子はいねがー」と叫びながら煙突から侵入してくるにちがいない。しかし、こんな写真、なにに使うんすかね。
●まだ年賀状を書いていない。暮れのあわただしい時期に年賀状なんてなかなか作ってる余裕はないよなあと思いながら、念のため昨年の記録を確かめてみたらもう昨日にはプリント業者に発注しているじゃないすか。うーむ、がんばったなあ、去年の自分。サンタさんからのプレゼントとして、印刷済み年賀状が届いていたらいいのに。
●新しいプリンタ(複合機)をゲット。プリンタにせよFAXにせよ紙に出力するものは好きではないが、いまだにどうしても必要なので、限界まで使い倒した旧機種に替えて。年賀状に使うわけではなく、業務用なのでランニングコストとモノクロ印刷の質と速度、省スペース重視で、EPSON PX-504Aを選択。これまで石器時代の旧機種を使っていたので、すごく速くてきれいに感じる。例によって、交換用トナー2、3回分で本体が買えるわけで、これならもっと早く買い替えておけばよかったのかも。
「シスターズ・ブラザーズ」(パトリック・デウィット著/東京創元社)
●「シスターズ・ブラザーズ」(パトリック・デウィット著/東京創元社)を読む。傑作。「このミステリーがすごい!2014年版」にランク入りしているが、ジャンル小説ではまったくない。ブッカー賞最終候補作。
●舞台はゴールドラッシュにわくアメリカ。主人公は兄弟でコンビを組む名うての殺し屋だ。情け容赦のない荒くれ者の兄と、不器用で心優しいがいったんキレると歯止めのきかない弟が、雇い主に命じられてある山師を消すためにオレゴンからサンフランシスコへと旅する。兄のほうはためらいもなく人を殺し、抜け目なく欲しいものを手に入れる。弟のほうはせっかくまとまった金を手に入れても、モテない男ならではの勘違いで女に(それも冴えない女に)あげてしまったりと、兄とは対照的なヌケ作なんだけど、読者が共感するのは弟のほうだ。兄貴にいいように利用されているようでいて、ただのバカ者ではなく、物事をシンプルに眺めるがゆえにどこか思索的でもあり、ある種の真実に手の届く男のように見える。まるで「聖なる愚者」のように。
●アメリカ西部を舞台にしたロードノベルの形を借りながらも、これって聖杯を求める話なんすよね。カリフォルニアに着くと、男たちはみんな目の色が変わってる、欲望のために。川に浸かって砂金をとってる。実際に金持ちになることよりも、金持ちになる夢のほうがずっと甘美で、人を狂わすものなんだろう。そういえば、川で金を探すといったら、「ラインの黄金」じゃないすか。アルベリヒもヴォータンもみんなやられちゃってるように、西部の男たちもいかれてしまったのであろうなあ。そして、この本には片目の神様は出てこないが、片目の駄馬は出てくるのだった。
●暴力的な話のように思えて実はこじゃれたテイスト。個々のエピソードひとつひとつが秀逸。
ワールドカップ2014ブラジル大会展望~ニッポン代表篇
●そうだ、ワールドカップ2014ブラジル大会のテレビ放映スケジュールが発表されたのであった。全64試合の内、NHKが半分、民放が半分を生中継する。録画放送でよければNHK-BSが全試合放送してくれる。地球の反対側での開催ということで時差がどうなるか、今一つピンと来ていなかったわけだが、日本戦に関してはテレビ的に割と都合のよい時間帯に落ち着いてくれたんじゃないだろうか。
6月15日(日)午前10時:コートジボワール - 日本
6月20日(金)午前7時:日本 - ギリシャ
6月25日(水)午前5時:日本 - コロンビア
基本、早起き対応でOKだ。演奏会と重なる心配はない。初戦は日曜の午前と理想的。第3戦の平日朝5時がやや辛いが、欧州開催の3時とか4時に比べればずっといい。
●で、ニッポンのグループCの組合せ抽選の結果にまだ触れていなかったが、おそらくすべての国が「しめしめ」と皮算用しているはず。なにしろ超大国がいない。しかしイメージ以上に実力を有したチームが多い。FIFAランキング(あてにならないのは百も承知だが)でいえば、コロンビア(4位!!)、ギリシャ(12位!)、コートジボワール(17位)、ニッポン(47位)。普通に考えればニッポンは最下位というのが妥当な予想だろう。
●とはいえ、ニッポンの47位はいくらなんでも低すぎる。ベースとなるチーム力はコロンビア、ギリシャ、コートジボワール、ニッポンの順で異論はないが、実力はもう少し接近しているはず。僅差で4カ国が並んでいる印象だ。サッカーは偶然の支配力が強いスポーツなので、どこが1位になってもどこが4位になってもおかしくない程度の差じゃないだろか。
●ただし、コロンビアに関してはかなりの優位がある。南米で開催されるワールドカップでは南米優位、欧州が比較的苦戦という傾向があると思う。コロンビアにはもともと世界4位の地力に加えて、地の利もあり、さらにもうひとつ、移動距離の点でも有利だ。各チームのグループリーグでの移動距離を見ると(参照)、コロンビアはベロオリゾンテ→ブラジリア→クイアバで1,463kmと、全32チーム中3番目に短くて済む。
●ニッポンは2,777kmと平均的、ギリシャは2,266kmでやや短め、コートジボワールは3,314kmと長めの移動が待ち構えている。つまり、移動距離を考慮しても、決勝トーナメントへの勝ち抜けはコロンビアとギリシャ、敗退はコートジボワールとニッポンの可能性が比較的高そうに見える。ニッポンはいちばん移動距離の長いコートジボワールと初戦で当たってしまうのも少し惜しい感じ。コロンビアとの第3戦が勝点期待値のもっとも低い試合であることはまちがいないので、第1戦と第2戦を1勝1分で乗り切るのが目標になりそう。
「書くことについて」(スティーヴン・キング)その2
●(承前)一昨日に続いて、スティーヴン・キングの「書くことについて」(田村義進訳/小学館文庫)。序盤の自叙伝部分のおもしろさは述べたが、文章読本の部分ももちろん興味深い。特に小説の書き方について、くどいくらいにストーリーが第一に大切であるといい、逆にプロットなんか考えるな、と言っている。キングに言わせれば、プロットを練るのとストーリーが自然に生まれるのとは相矛盾するというのだ。「ん、ストーリーとプロット、なにが違うの?」と思われる方もいるかもしれない。ストーリーは物語で、プロットは筋立てだ。キングのイメージではストーリーは化石の発掘みたいに慎重に「探し当てる」ものなんである。じゃあ、プロットは?
プロットは削岩機のような馬鹿でかい道具だ。削岩機を使えば、固い土から化石を取りだすのは簡単だろう。だが、そうすると化石は粉々になってしまう。削岩機は粗暴で、無個性で、反創造的である。私に言わせれば、プロットは優れた作家の最後の手段であり、凡庸な作家の最初のよりどころだ。
と、プロット頼みの小説に対してなかなか手厳しい。「ストーリーは由緒正しく、信頼に値する。プロットはいかがわしい」とも。
●キングがどれだけストーリーに重きを置いているか、まったく別の章ではこんなことも書いている。
なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。優れた小説はかならずストーリーに始まってテーマに終わる。テーマに始まってストーリーに行き着くことはまずない。ごくまれな例外はジョージ・オーウェルの「動物農場」くらいのものだろう。
そりゃあ、キングはジャンル小説で成功を収めて、エンタテインメントの大巨匠になった人物だからそうだろうとも、と思わなくもないが、これはなかなか考えさせられる。この本はかなり率直に創作技法を明かしてくれていて、言われてみれば、ああ、あの作品はそうだったのねと納得できるポイントがいくつかある。
「R40のクラシック」(飯尾洋一著/廣済堂新書)
●拙著の告知を。「R40のクラシック ─ 作曲家はアラフォー時代をどう生き、どんな名曲を残したか」(廣済堂新書)が刊行されました。ビジネスマン向けのクラシック入門書という位置づけで、30人の作曲家について、特に40歳前後の創作活動と作品に絞って書かれています。肩肘張った作曲家論ではなく、作曲家についての連載コラム30回分を引き受けたつもりで書きました。場所柄(?)、ごく落ち着いたトーンになっています。
●一年以上も前に書き下ろしで一冊というお話をいただいて、書き下ろしはいくらなんでも無理でしょうとお答えしてしまったのですが、担当編集者さんをはじめとする方々より絶大なるご助力をいただいて刊行にこぎつけた次第。多謝。
●トイトイトイ(←おまじない)。
「書くことについて」(スティーヴン・キング)
●今年、新訳が刊行されたスティーヴン・キングの「書くことについて」(田村義進訳/小学館文庫)。これはかつて「小説作法」の題で刊行されていたものだが、新訳かつ文庫化で再登場。キングの傑作小説と同じように、抜群におもしろく、読みはじめると止まらない。簡潔な自叙伝付きの「文章読本」といった内容で、自叙伝部分がすばらしい。幼少期の思い出から、売れない物書きになり、そして初期の名作「キャリー」で成功を収めるまでが記されている。
●もうホントに平坦じゃない、キングの歩んだ道のりは。母子家庭に生まれ、子供の頃の思い出も母親のクローゼットでゲロを吐いた話とかで、きらきらとした思い出が散りばめられているっていう感じじゃぜんぜんない。早くから書くことに目覚めるけど、大学を出てもろくな勤め先はない。タピー(キング・ファンにはおなじみの奥さん)と結婚して早々に二人の子供を授かるんだけど、キングは洗濯屋勤務、タピーはダンキンドーナツの遅番。生活保護の一歩手前の生活水準で、子供に薬も買ってやれない。そんな未来への展望がまるで開けない環境から、「キャリー」をきっかけに時代を代表するベストセラー作家が誕生することになった。「キャリー」で突然大金を手にすることになって、どうしたらいいかわからず、タピサにヘアドライヤーを買ってプレゼントする場面は涙なくして読めない。
●で、さすがにキング、箴言満載。いいなと思ったのは、キング自身が学生時代に地元の週刊新聞の編集者(田舎町にもいる現場の叩き上げのオッサンみたいなイメージ)から言われたアドバイス。「ドアを閉めて書け。ドアをあけて書き直せ」。つまり、まず書くときは一人で書く。他人に意見を求めない。でも書きあげたら、今度は人に見せて書き直せってこと。この種の実践的なアドバイスがいくつもある。もうひとつ例をあげると「副詞を削れ」ってのが印象的だったかな。さまざまな副詞を駆使してどんどん文章を修飾したくなるものだけど、「地獄への道は副詞で舗装されている」。そうねえ、でもこれは英語と日本語では事情が違うんじゃないの……といった反論も可能なわけだが、いわんとすることはよくわかる。気持ちが弱いと副詞だらけになるんすよね、文章は。
ゴーティエ・カプソン&ユジャ・ワン、ウルバンスキ&東響、デュトワ&N響
●15日はトッパンホールでゴーティエ・カプソンとユジャ・ワンの共演。プログラムはシューマンの幻想小曲集op73、ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタ ニ短調op40、ラフマニノフのチェロ・ソナタ ト短調op19。これは強烈。シューマンからすでにユジャ・ワンのピアノは伴奏にとどまるものではなく、ラフマニノフでは猛烈にスリリングなデュオが実現。ゴーティエ・カプソンの朗々と歌う音楽の大きさにも感銘。しかし二人とも本当にカッコいい。ユジャ・ワンは前後半で違ったステキすぎる衣装を披露してくれて、どちらも10cm以上はありそうなハイヒール。あの左右非対称なおじぎのスタイルも健在。カプソンもイケメンすぎて笑う(←なんで?)。こんなにカッコよくて、チェロもあれだけ上手いなんてどういうこと? もう自分が独身女子なら楽屋に直行して求婚するレベル。
●アンコールのピアソラ「ル・グラン・タンゴ」で、ユジャ・ワンは紙の楽譜ではなくタブレット端末を持ってきた。譜めくりの方が忙しく立ちあがって画面をタッチする。iPad、なんだろなあ……。Microsoft Surfaceだったら最強(ないか)。客席にデュトワの姿あり。
●14日はサントリーホールでウルバンスキ指揮東京交響楽団。前半はチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」とヴァイオリン協奏曲(神尾真由子)、後半にストラヴィンスキー「春の祭典」。今回もウルバンスキは独特な音楽の作り方で、前回のブラームスと似たような印象。慣習的ではなく、外形的にはアンチドラマ志向なんだけど、制御された色彩や意匠に富んだニュアンスで作品の内側から生命力を引き出してくるというか。変拍子だらけの「春の祭典」でオケに細かくキューを次々と出していくうちに、段々とウルバンスキの動きが妖しさ全開の舞踏に、そして頻出する指揮台上のムーンウォーク。あたかも指揮ロボ。あと少しで両足裏からジェット噴射して浮き上がっていたと思う。サントリーホールの天井がカパッと開いて、フハハハハと不敵な笑いを残しながら天空へと向かうウルバンスキの姿が一瞬見えた気がする。気がする、だけだけど。しかしウルバンスキも相当カッコいい。
●12日はサントリーホールでデュトワ&N響。ラヴェル「クープランの墓」、デュティユーのチェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」(ゴーティエ・カプソン)、ベートーヴェンの交響曲第7番という前半と後半でがらりと雰囲気が変わるプログラム。ゴーティエ・カプソンはここでも男前。豊潤で力強い音がする。アンコールにプロコフィエフ「子どもの音楽」から行進曲。超人。ベートーヴェンはデュトワの色がよく出ていた。ホルンは4本に増強、弦は14型かな? 特に前半楽章は描写的で、語り口の巧みさを感じる。全楽章アタッカで、終楽章の爆発まで一気呵成。
アンドレアス・シュタイアー&佐藤俊介のモーツァルト
●11日はトッパンホールでアンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)と佐藤俊介(ヴァイオリン)の共演によるオール・モーツァルト・プロ。先週のシュタイアーのソロ(ディアベリ変奏曲)は聴き逃したのだが、こちらのモーツァルトを満喫。精彩に富み、闊達で機敏、陰影も豊か。フォルテピアノはアントン・ワルター(1800年頃)レプリカ。
●前半にヴァイオリン・ソナタ ハ長調K303があって、続いてピアノ・ソナタ第8番イ短調K310。このイ短調があまりにも雄弁な音楽なので「うーん、やっぱり名作ぞろいのピアノ・ソナタが一曲入ってしまうと、ヴァイオリン・ソナタはかすんでしまうんじゃないかなあ」などと案じたが、まったくの杞憂、むしろフォルテピアノではなく主役はヴァイオリン。シュタイアーの鬼才、身振りの大きさにもしっかりと共鳴。ヴァイオリン・ソナタ ホ短調K304、「ああ、私は恋人を失った」の主題による6つの変奏曲 ト短調K360とさらに短調の曲を並べて、最後に華麗で高揚感にあふれるヴァイオリン・ソナタ ニ長調K306で鮮やかなコントラストを描いた。
●あ、こういうときはモーツァルトの「ピアノ・ソナタ」じゃなくて「フォルテピアノ・ソナタ」と書くべきなのか。小さな音しか出ないほうが「フォルテピアノ」で、恐ろしく巨大な音がするほうが「ピアノ」というのは、後世の考古学者に謎を残しそうな気がする。
カンブルラン&読響のハンガリー・プロ
●10日はカンブルラン指揮の読響定期へ(サントリーホール)。リゲティ「ロンターノ」、バルトークのピアノ協奏曲第3番(金子三勇士)と6つのルーマニア民族舞曲、組曲「中国の不思議な役人」という最強に魅力的なプログラム。細密で色彩的な響きの芸術を堪能。「中国の不思議な役人」が圧巻。猥雑さ、荒々しさよりも制御された音色の美しさ、解像度の高さで楽しませてくれた。
●ゆったりとした「ロンターノ」は静寂のなかでイビキの律動とともに曲を閉じた。複数。イビキの対位法。あなたたちのなかで演奏会で寝落ちしたことのない者だけが石を投げなさい。
●このプログラム、後半がずいぶん短いなあと思っていたら、定期演奏会でまさかのアンコール。ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」(ハンガリー行進曲)。これでオール・ハンガリー・プロが完結するということで納得。
小泉和裕&日本フィル定期の小倉朗、大型本「山田和樹とオーケストラのとびらをひらく」
●そんなわけで、マリノスが撃沈した7日の午後は、サントリーホールの小泉和裕指揮日本フィル定期へ。この日はワタシが公演のプレトークを仰せつかっていたので、テレビは録画観戦になったのだ。で、公演プログラムはベートーヴェンの交響曲第2番、小倉朗の交響曲ト調、ベートーヴェンの交響曲第7番というオール交響曲プロ。「日本フィルシリーズ」でかつて委嘱初演された小倉朗の交響曲再演が聴きもの。明快な古典的フォーマットで書かれた交響曲で、日本的な響きや諧謔味、オーケストレーションの壮麗さなど聴きどころ満載。実演で耳にするのは初めてだったが、録音で聴いて感じていた以上に演奏効果が高く、華やか。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を連想する。そしてやはり時代を反映してということか、「ベタなノリ」は控えめになって、平成の洗練された音楽にバージョンアップされていた。
●交響曲第7番は終始速めのテンポを保った推進力のあるベートーヴェン。第4楽章は白熱して少し危険なくらいの速さだったが、客席は熱狂した。
●こちらはその日本フィルが企画協力した大型本「山田和樹とオーケストラのとびらをひらく」(アリス館/シリーズ音楽はともだち)。表紙の真ん中に日フィル正指揮者の山田和樹さんのイラスト。よく見ると、その周りに描かれている奏者たちもみんな日フィルの楽員になっている。子供たちに向けて「オーケストラってなんだろう」「指揮者の仕事はなに?」ということをやさしく教えてくれる一冊。さすがに当事者が企画協力しただけのことはあって、児童書ながら端々に現場感覚みたいなものが垣間見える。たとえば、「インスペクター」の仕事の説明に(そんな項目があるのもスゴいが)、リハーサルが予定時間になっても終わらないときは勇気を奮って指揮者に終わりを告げなければなりません、とか書いてある(笑)。楽器の配置も通常配置だけではなく対向配置も併記してあって、今の実情に即している。
マリノス、沈む
●ぬか喜びがサッカーの神様の逆鱗に触れたのであろうか。よもや最後の2節のどちらかで勝てば優勝、仮に連敗しても鹿島が広島に勝てば優勝という、ありえないほど有利な条件で王手をかけていたのにもかかわらず、優勝を逃してしまったマリノス。もう寝込んでしまいそう。
●7日のアウェイ川崎戦、この日は小泉&日フィルの演奏会で小倉朗の交響曲ト調他を聴いたのであるが、もちろん、マリノス戦が重なっていることは承知していた。結果を知りたいのはやまやまだが、生観戦のスリルを疑似的に体験するために(いや、もっと言えば優勝の瞬間を味わうために)、テレビ中継の録画をセットし、終演後は情報遮断に全力を尽くして家路についた。これはそんなに難しくはない。Jリーグの優勝チームが決まったからといって、サントリーホールで「ウヒョー!」と声をあげてマフラーを回すような人はいないから。メールを見ない。Twitterを見ない。Facebookを見ない。Yahoo!を見ない。よし、これでまっすぐ帰るぞ。
●しかし、地下鉄の乗り換えでワタシは見たんすよ。ただ一人、マリノスのユニを着用してそそくさと歩く若者の姿を。うつむきかげんに、無表情で歩いている。ま、ま、まさか? ネットは遮断できても、リアルサポは遮断できない罠。いやいや、彼はたまたま一人で歩いているだけかもしれない。後半の途中でお腹が痛くなって「うぉ、あと少しでマリノスの優勝決定だけど、もうダメお腹痛いから帰るぅ」って言って、急いでるだけかもしれない。落ち着け、自分。
●テレビで見る川崎vsマリノス戦は、まるで前節マリノスvs新潟戦の再放送を見ているかのよう。自分がどんよりと暗い表情でテレビを眺めているのを自覚できる。なんとあっさり失点するチームなのか。後半の途中からまたしても絶望的なパワープレイに走り出した頃には、すでに地下鉄で見かけた若者がどんな気分で歩いていたをはっきりと悟った。あと2点必要だっていう終了直前のコーナーキックでゴールキーパーがあがってくるんすよ。こんな悲しい全員攻撃はない。そして、いつもマリノスの前に立ちはだかるあの試合巧者の鹿島が、こんなときに限ってホームで広島にリードされ、前半の内に大迫が退場している。あのねえ。
●ずばり、どう見ても弱い、このマリノスは。90分間、ほとんど相手の守備を崩せなかった。新潟戦も川崎戦も時間とともに内部崩壊していった感あり。ガチガチ。
●最終順位に驚く。1位広島、2位マリノスはいいとして、3位が川崎、4位がセレッソ大阪。終盤まで優勝を争っていたはずの鹿島は5位、浦和は6位。なんと川崎がACL出場枠に食い込んだ。そして逆転優勝した広島。おめでとうございます。ACLまで戦っていたのに、連覇しての優勝。リーグ最少失点で、得失点差でもリーグ1位。文句なし、正真正銘のチャンピオン。ペトロヴィッチ監督が去って森保一新監督になったとき、そこから連覇すると予想できた人はほとんどいなかったはず。偉大すぎてまぶしい。
巨匠的予防接種
●ふと通りかかった近所の医者に「インフルエンザ予防接種 2500円」の貼り紙が掲示されていた。そうだ、今年はまだ予防接種を打っていなかったのだ。しかしこんなところに医者があったとは。行きつけの内科は4000円なのにずいぶん安いなあ。思い立ったが吉日でいま打ってしまえと、思い切って見知らぬ医者に足を踏み入れた。「コンチワ!」
●入ってみると案外中は広い。広すぎて寒々としている。建物は古い。人はいない。空いていて助かった。受付で尋ねると、すぐに打ってくれるという。名前を呼ばれて診察室に入ると、そこにいた先生は80歳は超えていると思われる腰の曲がったお年寄りであった。
●えっ、この先生が打つの? 一瞬ひるんだが、なにをとまどっているのだ、自分は。自分の知っている80代の老人を思い浮かべてみよ。ロリン・マゼール、ニコラウス・アーノンクール、ピエール・ブーレーズ、ベルナルト・ハイティンク……。みんなバリバリと働いている。働いているどころかジェット機で世界中を飛び回ってパワフルに指揮している。スクロヴァチェフスキなんて90代だ。それを考えれば注射一本くらいなんということもないはず。
●老巨匠はおもむろに注射器を手にした。すでに注射器を構えただけで、全身からオーラが発せられている。言葉はなくともジェスチャーだけで、どんなウィルスを打ち負かしたいのかが伝わってくるかのようだ。一切の無駄のない効率的な手つきで注射針を皮膚に突き刺す。緩やかなアダージョの序奏に続いて、活発なアレグロの主部で薬液がよどみなく流れ込んでくる。今まさに血中で抗体が生まれてくるかのような躍動感! 注射針を抜いた後にはしみじみとした寂寥感が漂って、透徹した抒情を湛える。まさに巨匠ならではの至芸。深遠な精神性を感じさせる名注射といえよう。推薦。
福間洸太朗N.Y.デビュー10周年リサイタル「五輪書を読みて」
●4日は東京文化会館小ホールで福間洸太朗リサイタル。プログラムがすばらしい。バルトークの「戸外にて」から第1、4、5曲、ドビュッシー「沈める寺」、ショパンのバラード第4番、ストラヴィンスキー~アゴスティ編曲の「火の鳥」、後半にブラームスのピアノ・ソナタ第3番。CDの新譜は「バラード~ショパン作品集」と名曲路線だけど、やはり彼はこういうプログラムで聴きたいなあ。アゴスティ編曲の「火の鳥」は「魔王カスチェイ」で始まって「火の鳥の子守歌」「終曲の賛歌」と続く。やりすぎなくらいの過剰な華麗さ、饒舌さと、技巧の鮮やかさに快哉を叫びたくなる。
●でもこの日の白眉はブラームスのソナタ。あまり家でCDを聴こうとは思えない曲なんだけど、引きこまれて聴いた。シューマンが憑依してるみたいな情熱的な作品で、粗削りのロマンティシズム、ぎこちなさ、アンバランスさゆえの巨大な楽想に圧倒される。第4楽章は交響曲第1番終楽章を連想させる。これを聴くと後のブラームスはずいぶんツルンとなめらかに洗練されたものだなあと思う。スターがブレイクする前のダサダサだった田舎時代の写真を引っぱり出してみたら、実はワイルドでもっとカッコよかった、みたいな。
2014年 音楽家の記念年
●そろそろ来年の音楽家の記念年について。
●2013年はヴェルディ、ワーグナー、ブリテン、コレッリ、アルカン、「春の祭典」初演等々、やたら豊作だったが、2014年は地味めなラインナップになる(一般的な知名度という意味で)。主な人を以下に。
[生誕100年]
伊福部昭(作曲家)1914-2006
小山清茂(作曲家)1914-2009
早坂文雄(作曲家)1914-1955
アンジェイ・パヌフニク(作曲家)1914-1991
ラファエル・クーベリック(指揮者)1914-1996
キリル・コンドラシン(指揮者)1914-1981
カルロ・マリア・ジュリーニ(指揮者)1914-2005
フェレンツ・フリッチャイ(指揮者)1914-1963
アルヴィド・ヤンソンス(指揮者)1914-1984
ホルヘ・ボレット(ピアニスト)1914-1990
ポール・トルトゥリエ(チェリスト)1914-1990
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(歌手)1914-1974
[没後100年]
アナトリー・リャードフ(作曲家) 1855-1914
[生誕300年]
クリストフ・ヴィリバルト・グルック(作曲家)1714-1787
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(作曲家)1714-1788
ニコロ・ヨンメッリ(作曲家)1714-1774
[没後300年]
竹本義太夫(義太夫節創始者)1651-1714
[生誕400年]
八橋検校(近世箏曲開祖)1614-1685
[備考]
リヒャルト・シュトラウス(1864–1949) 生誕150年
●どうすかねえ。C.P.E.バッハ&グルック・イヤー……。あるいは伊福部昭イヤーか。数年前から生誕100年の欄に名指揮者や名演奏家の名前が増えてきた。そういう時代に到達。ジュリーニやクーベリックと並んでフリッチャイの名があって一瞬えっ?と思う。フリッチャイは早世しているので、彼らと同時代の人という感じがしない。
●こういうときは100年単位ではなく、50年単位に刻んで記念の年に注目しようという人が出てくる。リヒャルト・シュトラウス生誕150年とか。2012年のドビュッシー生誕150年みたいに。でもなー。「150年」なんてぜんぜんちょうどじゃないし。50年単位まで言い出すと、生年と没年で25年に1度の割合で記念の年ができてしまうわけで、別の言い方をすればほぼ25人に一人が記念の年に該当しちゃうというインフレ状態。
●ちょうど100歳の年に亡くなると、生誕100n年と没後100n年の年が重なってしまって損だ。しかしそこでがんばって101歳まで生き抜いても、「えっ、去年生誕100n年やったばかりなのに、今年また没後100n年って言われても困る!」みたいな事態になるかもしれない。エリオット・カーターみたいに103歳、104歳の年まで生きたほうが将来の作品受容という点でお得だねっ!
バイエルン国立歌劇場の日本向け時差配信に少しだけアクセスしてみた
●先日ご紹介したバイエルン国立歌劇場の日本向け時差配信、R・シュトラウス「影のない女」、どれくらいの人数がアクセスしたんすかね。できることなら19時からがっつり見たかったのであるが、結局2幕の途中からかろうじてアクセス。きちんと鑑賞する時間が取れなかったので、配信の様子を確認した程度。字幕は英語のみだった模様。クォリティはLow、High、HDの三段階。Highでつないだところでは、画質はブラウザ内で見る分には十分、最大化するにはやや苦しい。ウチのADSL環境ではHDだと紙芝居状態に。Highでも最初は問題がなかったが、途中から数秒フリーズをなんどか繰り返したので、やむなくLowに変更。
●こうしてみると、ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールはまったく同じPC環境でもクォリティが高いし、音質面でもかなり優位があるなあ、とも思うが、なにしろバイエルン国立歌劇場のほうは無料配信なんだから比較するのは無茶な話か。キリル・ペトレンコ指揮のオーケストラは十分魅力的だし、次回があるならまた試してみたい。
●この時差配信に関しては、19時よりも20時とか20時半スタートがいいんじゃないかな。以前にも書いたように、「コンサートの19時開演は早すぎる」という意見はあまり真に受けないようにしているのだが(むしろみんな帰りが遅くなるのを嫌がる)、自宅からアクセスする配信に関して話は別。なぜなら、多くの場合、職場からコンサートホールよりも自宅のほうが遠いし、帰宅したらまず食事になりそうなもの。終演後に電車に揺られて帰宅する必要はないので、遅くなるほうの心配はそんなにいらない。コンサートの時間に合わせるというより、テレビのゴールデンタイムに合わせる発想でいいのでは。
ウルバンスキ&東京交響楽団、首席客演指揮者就任披露 ブラームス篇
●1日は東京オペラシティでクシシュトフ・ウルバンスキ指揮の東響へ。以前の公演でも強烈な印象を残してくれたウルバンスキ、82年生まれなのでまだ31歳、しかも童顔でスリム。実年齢よりさらに若く見える。来年はベルリン・フィルへのデビューも決まっている。東響の首席客演指揮者就任披露公演第1弾はペンデレツキ「広島の犠牲者に捧げる哀歌」、モーツァルトのピアノ協奏曲第18番(フセイン・セルメット)、ブラームスの交響曲第2番。
●ブラームスの交響曲第2番がおもしろい。まるで初めて聴く曲であるかのよう。楽器間の響きのバランスやダイナミクスという点で特異な解釈で、管楽器はほとんどの場所でmfからpppくらいの間で演奏されていたんじゃないだろうか。メリハリの利いた弦楽器に強く焦点が当てられる。これは終楽章のクライマックスで大爆発するための伏線なのかな?と思って聴いていたら、ぜんぜんそんなことはなくて、最後の一音すらmfでふんわり着地するイメージ。聴いたことのないブラームスだけど、奇をてらっている感はないかな。多くの人がこの曲の終楽章に期待する壮麗さはなかったし、熱血ブラームスみたいな要素は徹底して排除されているんだけど、慣習をとっぱらって見えてくる凛々しさや幽玄さがたしかにあって目ウロコ。このブラームスは美しい。次は14日と15日にストラヴィンスキー「春の祭典」他。
●帰りになぜか出口の前で森永のチョコレートが配布されていた。カレ・ド・ショコラ、本格ショコラの贅沢な味わい。「フレンチミルク」と記された一口サイズをパクッ。たちまち濃厚なミルクと豊かなカカオの風味が口内に広がる。リッチ・テイスト。でもウルバンスキのブラームスには同じシリーズの「カカオ70」のビターテイストがふさわしいかも。