●21日は「都響スペシャル」でインバル指揮東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第10番クック補筆全曲版(サントリーホール)。前日、同じプログラムの公演がSNSで大好評を博していたのを目にしていたのだが、期待通りのすばらしい公演となった。この曲を実演で聴けること自体が貴重だが、これだけ高機能、高解像度の演奏で聴けるとは。一般参賀2回。
●それにしてもマーラーの第10番は一筋縄ではいかない作品だなとますます実感。この曲、初めて知った時点では第1楽章アダージョのみの作品だったので、未完の作品であり、前作と近い雰囲気を持った交響曲第9番Bのような曲だと思っていた。マーラーの交響曲の創作史のとらえ方にはいろんな考え方があって人それぞれだと思うけど、自分は第7、8、9をワンセットとして見て(「大地の歌」は番外扱いで)、第7番はパロディ的自己言及的なポストモダン交響曲、第8番は究極まで肥大化させた大編成スーパー・ロマンティック交響曲、第9番は古典主義の極致として3点セットと見るのがすっきりしていて好きなんである。ところが第10番がクック補筆による(不足はあるとしても混ぜ物のほとんどない)完成された作品として目の前にあらわれてしまった。
●で、この完成された第10番を聴いても、やはり交響曲第9番Bという印象は強い。終楽章のクライマックスだって第9番の相似形のように感じる。第9番が4楽章制の古典的交響曲の系譜の終着点とするなら、第10番はアーチ形の5楽章制交響曲の系譜の終着点とでもいうか。でもその一方で、第9番と第10番はある角度から見ると似た楽想を共有してるけど、別の角度から見るとまるで違うコンセプトにも思える。第10番のほうは過去作品からの引用的なものが多い。フィナーレの衝撃的な大太鼓は第6番のハンマーをいやでも連想させる。でも衝撃音が2度か3度なら悲劇の表現だけど、第10番のように何度も続くとそれはやがてパロディになり強制的に笑いを誘発させる。聖と俗、真摯さとユーモア、悲劇と喜劇など二項対立的な要素の共存はマーラーの音楽そのものだけど、それにしても第10番はどこまで額面通りに受けとっていいんだか。アルマとの関係を重んじればパーソナルで引き裂かれるような愛の交響曲でもあるけど、一方では個人的愛を超越した彼岸的交響曲でもある。そして、一曲一曲が「世界全体を描く」大きな作品であるだけに、マーラーの生涯を通した交響曲の創作全体が「メガ交響曲」としてまた一つの作品となっているかのような思いもいっそう強まる。
July 22, 2014