●ぜんぜん新刊ではなくて、2011年の夏に刊行された本なのだが、今ごろ読んで身震いした。イアン・マキューアン著の「ソーラー」。世の中には気持ちが悪いほどタイムリーに世に出る本があるのだなあ。2011年は3月11日以来しばらくの間まったくフィクションを読む気になれなかったので、この本もスルーしてしまっていたのだが、もしあの年に読んでいたら、とてつもない破壊力があった。
●「ソーラー」とは太陽光発電のことを指している。主人公は若い頃にノーベル賞を受賞した物理学者ビアード。この物理学者がモラルのかけらもないような人物で、とことん打算的で、欲深く、好色で見境がない。ひたすら欲望に忠実に生き、かつてノーベル賞を受賞したという栄誉に自己満足を抱きつつ、名声を巧みに利用して世の中を渡り歩く。そんなビアードが、ひょんなことから同僚から新方式の太陽光発電についてのアイディアを盗み、大儲けを狙う……。この人物像が実に魅力的で、インテリの世界の描かれ方も秀逸。表層のストーリーだけでも抜群におもしろい。
●が、マキューアンのこと、それだけにはとどまらない。この本で冴えまくっているのは「ポストモダンな連中」に対するイジワルな視線。マキューアンだって現代の創作者であるので、これまでの作品に「書くことについて書く」といったようなポストモダン的視点を盛りこんできたわけだが、本書では主人公を物理学者に設定して、人文系の一部の困った人たちへのとまどいを語らせる。
ビアードは、一般教養課程では奇妙な考えが幅をきかせているという噂を聞いていた。人文科学科の学生たちは、科学は単にもうひとつの信念の体系にほかならず、宗教や占星術以上にあるいは以下に真実であるわけではない、と常日頃から教えられているというのだが、これは文科系の同僚に対する誹謗中傷にすぎない、と彼はずっと考えていた。結果を見れば、何が真実なのかはあきらかなのだから。だれが司祭が考え出したワクチンを接種しようとするだろう?
あるセミナーで社会人類学出身のフェミニストの女性科学者に対して、ビアードはまるで本人はそうと意識せずに失言して、彼女を激高させる。するとビアードの耳元で量子重力理論の専門家がささやく。
「まずいことになりましたな。彼女はポストモダンなんですよ、空っぽの酷評者、強烈な社会構成主義者です。連中はみんなそうですがね」
別の場面、機関投資家向けの温暖化対策の会議では、レセプションみたいなシーンで都市研究と民俗学の専門家がビアードに話しかける。
「じつは、気候科学によって産み出される物語のかたちに興味をもっているんです。これは、もちろん百万人の作者による、一種の叙事詩ですからね」
ビアードは警戒心を抱いた。(中略)物語性を云々する連中は、現実について歪んだ見方をしており、しかもすべての見方が等価値だと信じている。しかし、ビアードは「それはなかなか興味深いですね」と言う必要さえなかった。みんなが一斉にカップとソーサーを置いて、あわてて自分の席を探しはじめたからだ。
爆笑。これを書いているのが自然科学の人ではなく、小説家だというアクロバティックな構図がキモ。どうしてマキューアンはこんな視点で話を書けるんだろう。
●貪欲さがそのまま人間になったような主人公像が、際限なく消費するわたしたちの社会の比喩となっているのはたしかだろう。でもマキューアンなので、それをたしなめるような話にはなっておらず、むしろ底なしの欲望こそが真に問題解決に近づけるという、どちらかといえば市場主義の効用のほうを描いている。そして、おしまいまで読むと、本当に最後の最後の段階で仰天するのだが、どこから見てもそんな話のようには見えなかったのに、この話は「愛の物語」に着地している。この巧みさには舌を巻くしか。