October 7, 2015

ピーター・ゼルキンのリサイタル

●5日はトッパンホールでピーター・ゼルキンのリサイタル。いろんな点で特異で、心底楽しめるか、ぜんぜん受け入れられないかのどちらかのリサイタルだったと思う。自分は前者なので、猛烈に満喫。まずはピアノ。こんなに鈍くてくすんだ音色のスタインウェイを聴いたことがあるだろうか。まったくブリリアントではない。すばらしい。そして、プログラム。チャールズ・ウォリネンによる「ジョスカンの『アヴェ・クリステ』」なる曲で幕を開け、スウェーリンク、ブル、ダウランド、バードといったルネサンス期の作品が続いて、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番ホ長調へ。後半はモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番イ短調、レーガーの「私の日記より」Op.82より、バッハのイタリア協奏曲。前半のルネサンス音楽(とその変形)が続くと、なんというか妙に家庭音楽的な雰囲気が漂ってくる。そしてイタリア協奏曲で終わるリサイタルがありうるとは。アンチ・ピアニズムというかアンチ・ヴィルトゥオジティのリサイタルというか。モーツァルトもバッハも、極端なデフォルメがあるわけではないにしても、いちいち緩急や強弱の付け方が独特で、普通ではない。ちなみに調律は「1/7シントニックコンマ・ミーントーン」なんだとか(さあ、音楽辞典で「コンマ」を引いてみよう!)。
●ピーター・ゼルキンはいつも「非ピアノ」というテーマと格闘しているようで、一見、不自由そうに見える。昔、フォルテピアノを弾いたCDがあったけど、あれは何年頃の録音だっけ。だったらフォルテピアノ奏者になればいいじゃん、って思わず言いたくなるが、そうなったら普通の奏者になってしまう。それじゃ意味がなくて、彼は自己矛盾のピアニストであり続けなければいけない。そんな不自由さ。いや、むしろ自由さ、なのか? 父ルドルフ・ゼルキンが一音一音確信に満ちた音を弾いていたのだとすると、ピーターは一音一音を美しい猜疑で彩っている、今も。
●アンコールでバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアを弾きはじめたとき、父ルドルフのエピソードを思い出さずにはいられなかった。若き日にアンコールとしてゴルトベルク変奏曲全曲を弾いてしまい、曲が終わった頃には、ホールには知人と共演者しかいなくなっていたというあれ。もちろん、アリアが終わったところで、ピーターは立ち上がった。アンコールはもう一曲。 バッハの3声のインヴェンション(シンフォニア)から変ホ長調。なんだかこれも家庭音楽会っぽい。

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