●11日は東京芸術劇場でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団によるモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」(演奏会形式)。N響「カルメン」に続いて、またも演奏会形式のオペラ。そしてこれもまた強力キャスト。演技あり。ステージ上のオーケストラの前に机と椅子を置いて、グラスなど簡単な小道具も使用。フィオルディリージにヴィクトリヤ・カミンスカイテ、グリエルモにマルクス・ウェルバ、フェルランドにアレック・シュレイダー、ドラベッラにマイテ・ボーモン、デスピーナにヴァレンティナ・ファルカス。ドン・アルフォンソは大ベテランのトーマス・アレンで舞台監修も兼ねる。舞台上の要でありながら、だれよりもリラックスして見える。レチタティーヴォではノットがハンマーフリューゲルも弾く。今はあんまりそんなイメージはないけど、もともとはオペラハウス育ちの人だったんだっけ。オーケストラは小ぶりな編成で軽快。自分の知ってる「コジ・ファン・トゥッテ」より長かった気がする。
●代役で呼ばれたんだけど、フェルランドのアレック・シュレイダーって、METのオーディション映画 The Audition に出演してた人じゃないすか。「連隊の娘」のハイCを連発してたあの若者を、ついに実際の舞台で聴くことになるとは。同じ映画に出演していたアンジェラ・ミードもパーヴォ&N響の「千人の交響曲」に出演してたっけ。こうして新しい才能がどんどん世界を飛び回るようになるのだなあ、と感慨。
●オーケストラも歌も演技もみんな充実していて、それゆえに作品に引き込まれて改めて感じるのだが、このオペラ、音楽は最強だけど、ストーリーはほんとにどうしようもない。いや、テーマはいいんすよ、恋人同士が相手を交換するというのは。モーツァルトのなかでもっとも現代的なくらい。でもプロットがひどい。恨むよ、ダ・ポンテ……。なにがダメか。そりゃ決まってる。なぜグリエルモもフェルランドもデスピーナも、お前はシャーロック・ホームズかってくらい変装が巧みなのか。「それを言ったらオペラは成立しない。オペラの定型のひとつとして変装モノがあるわけで……」とか、物わかりのいいことを言って納得する気にはなれない。おかしいじゃん、アルバニア人とかニセ医者とかに変装してバレないなんて。「オペラは見たままに理解する」キャンペーン絶賛開催中。
●で、これに関しては、たとえばかつてのジャン=ピエール・ポネルの演出では、序盤で変装が見破られているという見せ方が採用されていた。つまり、正体はとっくにバレてるんだけど、それを承知の上で恋人を交換するという大人のゲームなんだ、という演出。これは正解ルートのひとつって感じで腑に落ちる。でもそれはもう20年くらい前の演出だから、今だったらポネル案を一歩進めておいて、自分の基本理解はこう。恋人たちはもともと相手のパートナーのほうに興味津々で、交換したくてしょうがなかった。だからドン・アルフォンソとデスピーナを利用して、交換する口実を作った。それが「コジ・ファン・トゥッテ」という物語である、と。えっ、それだと細かいところで整合性が取れない? 整合性なんてもともとの台本からさっぱり取れてないよっ!
●もう「自由になんにでも変身できる宇宙人」みたいな突飛な存在を仮定しないと、この話の整合性は取れないから。変身怪獣グリエルモ、とか。なんかウルトラ怪獣にいそうな名前だし。
●で、この後、4人の恋人たちがどうなるのか、元の鞘に収まるのか、交換するのかっていう話だが、だいたいこういう調子に乗ったおふざけをすると、翌日にフェルランドとグリエルモのもとに本物の命令が届いて出征することになるというのがこの手の話のお約束だ。で、フィオルディリージとドラベッラはもう一回恋人たちとの別れを嘆くことになるのだが、どこまで泣いていいのかわからない。そして、男たちが去った後、姉妹はぽつんと取り残され、空想上のすてきアルバニア人たちの訪れを待つが、もちろん、そんな男たちは来ない。がらんとした部屋で寂しく時が過ぎる。
December 13, 2016