●岡田武史元日本代表監督が代表を務めるFC今治が、今季からJFLに参入する。JFL、つまりJ1、J2、J3の下にある4部リーグ。2014年に岡田武史代表をはじめ吉武博文元U-17代表監督らのチームスタッフがやってきて、日本人が世界で勝つためのイノベーティブなサッカーを確立しようと「岡田メソッド」を掲げ、「2025年にJ1で常時優勝争いするチームになる」というビジョンを描いている。最初のシーズンはJFL昇格に一歩及ばず、2度目のチャレンジで昇格を決めた。大手企業がスポンサーについたり、チームスタッフが超強力だったり、地域リーグのクラブとしてはありえないような充実ぶり。日本でただひとり岡田武史しかプレイできない「リアルサカつく」って感じもする。
●たぶん、このチーム、ここからさらに快進撃が続くと思う。漠然とした予想だけど、最初の1年でJFLからJ3への昇格を決め、次の1年でJ3からJ2への昇格を決めるくらいの勢いで突っ走るんじゃないだろうか。地域リーグからJFLへの昇格はアマチュアチームゆえの日程的な無茶苦茶さがあって(3日間で3連戦とかある)サッカーの質とは別の厳しい戦いがあったが、JFLは整備された全国リーグなので、強いチームが順当に勝ち上がる。しかもJFLにはそもそも昇格を目指していないチームもいくつかあって、たとえば直近だと1位のHonda FCと2位の流経大ドラゴンズ龍ケ崎がともにプロを目指すクラブではなかったため、3位のアスルクラロ沼津がJ3に昇格している。空気感がだいぶ上とも下とも違うので、今治のように先まで見すえたクラブならJFLはスムーズに通過する、というのがJFLウォッチャーとしての予感。
●で、そんな今治なんだけど、やっぱりJFLにあがるとなったら、いい選手を獲得できるみたいで、外国人2名を含む新選手7名が加入している。J1やJ2で経験を持つ選手もいる。しかし新しい選手が入れば、出ていく選手もいるわけだ。公式サイトで退団選手のお知らせを見たら、14人もの選手が今治を去る。これはもうサッカーなんだから、しょうがない。上のカテゴリーに進めば進むほど、選手は入れ替わる。リーズン中に監督やチームスタッフが選手たちに向かって「お前たち、この試合に勝って、人生を変えようじゃないか!」とか言って、みんなで一丸となって戦って、感動のエンディングを迎えても、その後は大勢の選手が契約終了で去る。だから選手って、はかないものだなと思ったりするけど、よく考えてみると、監督やコーチだってずっとそこにいられるわけじゃない。やっぱり去る人は去る。種をまいたり、水をやったりした当人たちが果実を手にするのは難しいこと。経営陣ですら絶対的ではないはず。じゃあ、仮に地域リーグからJFL、J3、J2、J1と上がっていったとして、その一部始終を全部まるごと体験できるのはだれかっていえば、それはファンなんだと思う。ファンだけが自分の意志でファンであり続けるという特権を持っている。
2017年1月アーカイブ
JFLに参戦するFC今治
下野竜也指揮N響のマルティヌー、フサ、ブラームス
●28日は下野竜也指揮N響へ(NHKホール)。前半がマルティヌーの「リディツェへの追悼」、フサの「プラハ1968年のための音楽」(管弦楽版)と珍しい曲、後半はクリストフ・バラーティの独奏でブラームスのヴァイオリン協奏曲。協奏曲で終わるコンサート。
●なにしろ前半がめったに聴く機会のない曲なのでインパクト大。どちらも重い。マルティヌーはナチスによる住民虐殺によって地図から消えた村リディツェへの追悼曲。同じ作曲家の交響曲などで聴ける愉快さや軽妙さ、気まぐれさとはまったく別種の、悲痛な音楽。歴史的背景の重さを考えると、むしろ静かで澄んだ曲というべきか。終盤、ベートーヴェン「運命」の動機が引用されるということなのだが、いまひとつ意図を汲めた気がしない。
●同じくチェコの作曲家カレル・フサは昨年の暮れに95歳で世を去った作曲家。たまたま先人が書いた追悼曲に続いて作品が演奏されることになってしまった。吹奏楽の分野でよく知られる作曲家で、「プラハ1968年のための音楽」ももともとは吹奏楽の作品として書かれ、後からオーケストラ版も用意されたのだとか。ワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻が題材となっている。第1楽章の「序奏とファンファーレ」は、予感に満ちたピッコロのソロが印象的。ファンファーレといいつつ、これは早鐘、あるいは機銃掃射か。第3楽章は打楽器のみの楽章(ということは吹奏楽版も同じなのだろうか)。終楽章は鬱屈したコラールで閉じられ、救いがない。後半でブラームスが始まったときの別世界感がすさまじい。
佐渡裕指揮東京フィルのピアソラ、ブラームス他
●26日は東京オペラシティで佐渡裕指揮東京フィル。ワーグナーの「タンホイザー」序曲ではじまり、御喜美江のアコーディオンによるピアソラのバンドネオン協奏曲、そしてブラームスの交響曲第1番というプログラム。ピアソラのバンドネオン協奏曲をアコーディオンで演奏するというのが逆輸入?みたいな感じでおもしろい。曲は古典的な3楽章の協奏曲の枠組みでピアソラ流のタンゴが展開されたもので、ほかの小さなピアソラ作品同様、ムンムンしててカッコいい。第2楽章でアコーディオンとハープとヴァイオリン・ソロ(後でチェロのソロも)がトリオになるところが美しい。アンコールにスカルラッティのソナタ ハ長調 K.159。アコーディオンってこんなこともできるんだ。
●ブラームスの交響曲第1番は20世紀のオーソドックスなスタイルで、聴きごたえ十分。東フィルのサウンドは明るく、しかも重量感も不足せず。端正で格調高いブラームスで、終楽章のコーダは煽ったものの、全体に力みのない指揮ぶりが印象に残る。
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●忘れないように自分メモ。今年のラ・フォル・ジュルネは5月4日から6日まで。暦通りで5連休ができていて、その真ん中の3日間に入る、と。
ドゥダメル指揮ウィーン・フィル・ニューイヤ・コンサート2017
●ドゥダメルの指揮で話題を呼んだ今年のウィーン・フィル・ニューイヤ・コンサート2017。選曲的にもニューイヤー・コンサート初登場の曲が8曲も入っていて新鮮な感じがあったんじゃないだろうか。
●なかでも印象に残ったのは、ワルトトイフェルの「スケーターズ・ワルツ」かな。この曲、ちゃんと最初から最後まで聴いたのは初めてかも。町のスケート場とかでBGMでかかっている曲というか、ホームミュージック的な印象しかなかったんだけど、こんな曲だったとは。この曲って序奏が付いているんすよね。で、国内盤CDの解説でも言及されているけど、冒頭ホルンがまるでブルックナーの交響曲第3番の冒頭トランペット主題みたい。ドキッとする。あと、曲全体としては思った以上にウィンナワルツ風なのだな、と。
●ニコライのオペラ「ウィンザーの陽気な女房」から「月の出の合唱」も初登場曲。この合唱は夜12時になったことを知らせる場面の曲なんだとか。鐘が鳴るのがそうなのか。プロコフィエフのバレエ「シンデレラ」のなかの「真夜中」と並ぶ、「深夜零時名曲」として記憶しておきたい。
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●ニューイヤ・コンサート仮想批評。
2017 一昨年をわずかに凌駕する出来ばえ
2016 3年連続で偉大な年となった
2015 100年に一度と評された2011年を上回る出来
2014 過去最高と言われた2011年に匹敵する出来ばえ
2013 屈指の出来と呼ばれた2009年を思い起こさせる
2012 100年に一度といわれた昨年に迫る
2011 過去100年で最高の出来
2010 まれに見る出来だった昨年に迫る
2009 ここ50年でもっとも素晴らしい出来ばえ
2008 21世紀最高の出来
●さて、最高なのはどれでしょう。
METライブビューイング サーリアホ「遥かなる愛」
●24日はMETライブビューイングでサーリアホの「遥かなる愛」へ(東劇)。現代フィンランドの作曲家サーリアホのオペラが、はたしてメトロポリタン・オペラの保守的と言われる聴衆にどんなふうに受け入れられるのかと思いきや、これが客席大喝采のスタンディング・オベーション。むむ、この反応は読めなかった。指揮はスザンナ・マルッキ。
●演出は映像の魔術師ロベール・ルパージュ。舞台上に約5万個のLEDライトを並べたという「光の海」が作り出される。逆に言えばそれ以外の舞台は簡素で、抽象的。これは海オペラでもあり舟オペラでもある。テーマはずばり純化された「愛」。「トリスタンとイゾルデ」を連想する。なので、舞台があるとはいっても演奏会形式でもそれほど不足なく上演できてしまう作品でもあって、一昨年だったか東京オペラシティでの演奏会形式による上演と受けた印象はそう変わらない。
●改めてストーリーを紹介しておくと、こんな感じ。舞台は12世紀のフランス。ブライユの領主でトルバドゥールであるジョフレは、はるか遠くトリポリの女伯クレマンスに理想の女性を見出し、まだ見ぬ遠い恋人への思いを募らせる。一方、クレマンスも巡礼の旅人から受け取ったジョフレの詩に接して、心を動かされる。ジョフレはついに海を渡って、クレマンスに会うことを決意する。船旅に出たジョフレは来たるべきクレマンスとの面会を恐れ、心を乱す。自分はまちがった決断をしたのではないだろうか。ついにジョフレがクレマンスと出会うとき、ジョフレは病により死に瀕していた。ふたりは愛の言葉を交わすが、クレマンスの腕のなかでジョフレは息絶える……。
●って話なんだけど、クレマンス役のスザンナ・フィリップスはぴったりとして、ジョフレ役にエリック・オーウェンズというのにびっくり。この人の深みと温かみのある低音は好きなのだが、愛を語る詩人にしては年を取りすぎているし、キャラが立ちすぎなような。でも歌は見事。
●このオペラ、19世紀的なオペラを期待してしまうと肩透かしをくらうわけで、物語的にも音楽的にも起伏に富んだスリリングな展開が続くようなものではないので、予備知識ゼロでご覧になる方はそのつもりでどうぞ。サーリアホの音楽は繊細で抒情的で、美しい音響が連綿と続く。とりわけ前半は静的で、疑似中世風といった雰囲気を醸し出しつつ淡々と進む。後半は張りつめた場面も出てくるが、それでもアグレッシブではなく、響きの持続的な美しさにうまく浸れるかどうかで、この作品から受ける印象はずいぶん違ってくるはず。
金沢歌劇座「蝶々夫人」全国共同制作プロジェクト
●22日は金沢でプッチーニの「蝶々夫人」(金沢歌劇座)。全国共同制作プロジェクトとして金沢、大阪、高崎、東京の各地で開催されるシリーズの初日。新演出・字幕付き。欧州で実績豊富な笈田ヨシが日本で初めてオペラの演出を手がける。指揮はミヒャエル・バルケ。蝶々夫人に中嶋彰子、ピンカートンにロレンツォ・デカーロ、シャープレスにピーター・サヴィッジ、スズキに鳥木弥生他。ピットに入ったのはオーケストラ・アンサンブル金沢。開催地ごとにオケは大フィル、群響、読響と入れ替わるが、指揮者は同じという方式。ちょうど開場する頃になってどんどん雪が降ってきて、金沢歌劇座から眺める光景は真っ白に。
●舞台は明治初期の長崎に置き換えられる。日本人役は日本人歌手、西洋人役は西洋人歌手が歌う。「蝶々夫人」って、日本が舞台になっていることが憂鬱な方向に作用することがあるじゃないすか。「日本っぽさ」みたいなところに焦点が当てられがちで。「トゥーランドット」が架空の中国であり、「西部の娘」が架空のアメリカであるように、「蝶々夫人」も架空の日本で十分だと常々思っていたんだけど、今回の舞台を見て、この話はジャパネスクという意匠を越えた普遍的なテーマが描かれているんだと納得。つまり、登場人物にみんな真実味がある。
●特に蝶々さん。蝶々さんって、ただ純粋な愛を捧げた一途な女だと思うとなんの共感もできないけど、そうじゃないんすよね。蝶々さんには蝶々さん側の事情があって、ピンカートンをつかまえるのに必死なんだなーっていう、したたかさもある。第1幕では自分の神様を力いっぱい投げ捨てるくらい全力でアピール。でも第2幕ではもうピンカートンはいない。そして貧しい。だから着飾ってもいないし、かわいくもない。「ある晴れた日に」って歌うときに、ああ、これは敗北した「痛い女」の歌なんだなと思った。この公演を見て、はじめて蝶々夫人が生身の人間に感じられたかも。
●ピンカートンは裕福な国の海軍士官の男。蝶々夫人は貧しい国の元芸者で女。一方的な力関係が悲劇を生み出すわけだけど、でもピンカートンってフツーの若い男でもあるんすよね。貧しい国を訪れて有利な結婚契約に飛びついて現地妻と楽しく過ごしたけど、帰国してアメリカ人妻といっしょに日本を再訪してみたら、目の前の修羅場に耐え切れずに逃げ出す男。この話に出てくる男って、みんなフラフラした男ばかり。シャープレスは善人なんだろうけど煮え切らないし、ヤマドリは「日本のピンカートン」になりたい男にすぎない。そう考えると蝶々さんもスズキもケイト・ピンカートンも女性はみんなたくましい。
●オケはよく鳴っていた。ミヒャエル・バルケの感傷に溺れない、きびきびとした音楽の運びは好感度大。プッチーニの色彩的なオーケストレーションに改めて魅了される。ストーリーは重くても、音楽はバラエティに富んでいて楽しいのが救い。
●シャープレスが蝶々さんに子供の名前を尋ねる場面があるじゃないすか。「今の名前は『悲しみ』です。でもお父さんが帰ってきたら『喜び』になるのです」みたいなの。これって、ワーグナー「ワルキューレ」のジークムントを思い出す。「フリートムント(平和)やフローヴァルト(喜び)でありたいけれど、ヴェーヴァルト(悲しみ)と名乗ってしまうこの私。冬の嵐がどうたらこうたら。ならば、これよりジークムントと名乗りましょう!」っていうあの場面(←かなり略)。あれ? 最近、ここで似たような話をしたっけ。そうだ、マスカーニ「イリス」にも名乗りがシーンがあったのだった。「私の名は……欲望!」という。作曲順は「ワルキューレ」「イリス」「蝶々夫人」。オペラにおける名乗りの場面の系譜がどこかにまとまっていないだろうか。逆に名乗らないのが「トゥーランドット」(結局は名乗るけど)。
●東京公演は東京芸術劇場にて二日間上演。東京だけ主役がダブルキャストで2月18日が小川里美さん、19日が他都市と共通の中嶋彰子さん。
インキネン&日本フィルのブルックナー第8番
●20日はサントリーホールでインキネン指揮日本フィルによるブルックナーの交響曲第8番。大曲一曲のみの勝負プロ。これがインキネンの日フィル首席指揮者就任後初となる東京定期になるのだとか。すでになんども聴いているコンビだから特にそんな記念の公演という気もしなかったが、聴いてみるとやはり新たな第一歩を記したんだなという手ごたえあり。
●これまでに聴いた範囲ではインキネンの印象にはかなりばらつきがあるんだけど、おおむね感じるのは清澄さや音楽の流れの自然さ、別の見方をすれば彫りが浅いというか淡白。それでいてワーグナーやブルックナーのような重厚な音楽を得意とするところがインキネンの興味深いところ。一方、以前の記者会見でインキネンは日本フィルの特徴を「透明感のある美しい音色」と語りつつ、「これからはワーグナー、ブルックナーなどドイツ音楽での重厚で深みのある音を追求したい」とも語っていて、彼の目指すサウンドはもっと先にあるのだなとも感じていた。今回の第8番は端正な造形を保ちながらも、一段階、重量感を増した充実したブルックナーだったと思う。弦は対向配置。テンポは全体に遅めで、じっくり、しかし決して粘らず。音の大伽藍、というよりは巨大な宗教画を仰ぎ見る、といった感じのほうが近いかな。
●さて、サントリーホールは改修工事のため2017年2月6日から8月31日まで休館する。けっこう長い。各オケとも別のホールを代わりに使ったりで、この期間中はホールとオーケストラの新鮮な組合せで聴く機会も多そう。休館前のサントリーホールにはあと一回、足を運ぶ予定。
ロペス=コボスとN響のオール・レスピーギ・プロ
●19日はヘスス・ロペス=コボス指揮N響のオール・レスピーギ・プロ(サントリーホール)。前半に「グレゴリオ風の協奏曲」(ヴァイオリン:アルベナ・ダナイローヴァ)、後半に「教会のステンドグラス」、「ローマの祭り」という、なかなか聴けないプログラム。「グレゴリオ風の協奏曲」って、ヴァイオリン協奏曲なんすよね。独奏はウィーン・フィルのコンサータマスター、アルベナ・ダナイローヴァ。どうしてこんな珍しい曲を弾こうと思ったんでしょ。「教会のステンドグラス」はレスピーギ得意の大編成のオーケストラによる色彩感の豊かさが聴きもの。バンダのトランペットあり、オルガン・ソロあり。第2楽章だっけ? おしまいでドラが「シャーン」と鳴らされるところが少し可笑しい。「グレゴリオ風の協奏曲」ともども、レスピーギの特徴である擬古的な趣向や宗教的イメージの活用、豊麗な色彩感がよくあらわれていたが、とはいえ、曲の魅力でいえば断然、「ローマの祭り」。やっぱり人気曲ってよくできてるなとも痛感。そもそも「ローマ三部作」のなかでもワタシは「祭り」派なので、総天然色の音の奔流をたっぷりと堪能。
●先日のファンホ・メナに続いて、またもスペイン人マエストロがN響に登場。ロペス=コボスとN響の音楽は精緻で明快、細部までピシッとピントが合ったようなレスピーギで、「祭り」もカオスな乱痴気騒ぎというよりは、サービスの行き届いた清潔なテーマパークのよう。とりわけブラスセクションは見事。
●「教会のステンドグラス」って、先に曲ができていて、その後にこの曲名とか各楽章の標題が後付けでできたっていうんすよ。しかもレスピーギ本人が考えたんじゃなくて、友人の文学者クラウディオ・グアスタッラの提案で。だから、曲の成立とステンドグラスにはなんの関係もないし、第1曲が「エジプトへの逃亡」だったり、第2曲が「大天使聖ミカエル」だったりするのも後付け。妙手なり。なんだかレスピーギへの親近感がわく。こういう曲こそ、「これはステンドグラスだ!」と信じて聴きたいもの。
Jリーグ開幕前の練習試合
●ジュビロ磐田に移籍した中村俊輔の健闘を祈りつつ、いよいよ来季のマリノスはアレかもしれない的な危機感をうっすらと抱いているのだが、それはともかくとして。1月24日と26日にタイで開催される「アジアチャレンジinタイ インターリーグカップ」の試合がDAZN(ダ・ゾーン)で生中継されるとか。Jリーグから参加するのはマリノスと鹿島。タイからはバンコク・ユナイテッドとスパンブリー。
●普通なら開幕前の練習試合といったところだが、今回はファンにとっても「ネット観戦の練習」になるのかもしれない。Jリーグの開幕は2月。スカパーの中継はなくなり、DAZNが全試合をネットで中継する。このままいけば(いくはずだが)、これまでスカパーでJリーグを観戦していた人たちはどっとDAZNに流れ込み、否応なくサッカーをネットで観戦しなければならなくなる。どうなんすかねー。まずはこのインターリーグカップと、同時期に国内で行われるニューイヤーカップで、サポからの不満がドッと噴出する予感。画質とか、接続の安定性とか、無線LANでも平気なのかとか、タイムラグ問題とか、実況の質とか、インターフェイスとか、いろんなことが気になる。Jリーグ、思い切った。
●たとえばPCの画面で見るのか、テレビの大画面に出力するのか、どっちがいいのかってところから、まだピンと来てないのだが。
最果ての原典主義
●あなたはムーミンのガールフレンドの名前を知っているだろうか。もちろん、知っているとも。ノンノンだ。そう即答するのはオッサンとオバサン。なんと、いつのまにか名前がフローレンに変わっていた。ムーミンとフローレン。ノンノンはもういない。
●ということを知って動揺したワタシは、あわててムーミン公式サイトにアクセスした。なにかのまちがいだろう、ノンノンがフローレンだなんて? そこで発見したのはさらに驚くべき事実だった。moomin.co.jpによれば、このキャラクターの名前はノンノンでもなければフローレンでもなく、「スノークのおじょうさん」なんである。いやいや待て待て、スノークはノンノンのお兄さんだろう、なのに「スノークのおじょうさん」はないだろう。そう思うかもしれないが、彼女の名前は「スノークのおじょうさん」としか書かれていない。
●どうしてこんなことになったのか。原作者のトーベ・ヤンソンはこのキャラクターに「スノークのおじょうさん」という呼び名しか与えていない。日本でアニメ化するにあたって、名前がないのでは困るということで(だいたい妹を「おじょうさん」とは呼ばない)、ノンノンというかわいい名前が与えられた。ところが原作者は「ノンノン」という名を嫌った(と、あちこちに書いてある)。それで、フローレン(ドイツ語のフロイラインから来ているのだろうか?)に改名された。でも、これだって原典にはない名前だ。だから本家公式サイトは「スノークのおじょうさん」で通しているのだろう。
●「スノークのおじょうさん」は正しい。でも「ノンノン」はかわいい。どっちを選ぶべきかは明らかだろう。それは、ウッ、ゲホッゲホッ……。
「宇宙探偵マグナス・リドルフ」(ジャック・ヴァンス著/国書刊行会)
●ようやく読んだ。抜群におもしろい。ジャック・ヴァンスの「宇宙探偵マグナス・リドルフ」(国書刊行会)。トラブルシュータ―であるキレ者の主人公マグナス・リドルフが宇宙各所の惑星を訪れて、次々と問題を(ときにはムチャクチャな方法で)解決するという連作短篇集。ヴァンス得意の異世界探訪もので、それぞれの惑星には多彩にして異様な風土やら習俗やら生態系やらがあって、卓越した異世界描写にホラ話のエッセンスとミステリー仕立ての筋立てが加わる。なんとも楽しく、俗っぽく、そしてカッコいい。国書刊行会の立派な装幀で出てるけど、内容的にはペーパーバックが似合うようなテイストだと思う。
●で、ぜんぶの短篇が大傑作だとは言わない。最後の「数学を少々」とか、「暗黒神降臨」みたいに、なまじSF的な趣向を凝らそうとしたものほどしっくり来ない。一方、多少強引でもミステリー仕立ての話のほうがキレがある。特にいいなと思ったのは「ココドの戦士」「禁断のマッキンチ」「盗人の王」。話の大枠もおもしろくて、ディテールも痛快。そのあたりの凸凹も含めて、一冊丸ごと思いきり楽しめる。
●この本は国書刊行会の〈ジャック・ヴァンス・トレジャリー〉全3巻の第1巻。すでに第2巻「天界の眼――切れ者キューゲルの冒険」まで刊行されているのだが、第3巻は「スペース・オペラ」っていう題なんすよ。「惑星を渡り歩く歌劇団の珍道中を描く傑作長篇」というふれこみなんだけど、いったいどんな歌劇団なんだか。ワクワク。
ファンホ・メナ指揮N響のスペイン・プロ
●13日はNHKホールでファンホ・メナ指揮N響。ファリャのオペラ「はかない人生」からの間奏曲とスペイン舞曲で幕を開け、カニサレスを独奏に迎えたロドリーゴのアランフェス協奏曲、休憩をはさんでドビュッシーの「イベリア」、ファリャのバレエ組曲「三角帽子」第1部&第2部という変則スペイン・プロ。
●昨年、ベルリン・フィル定期にも招かれて注目を集めたファンホ・メナだが、日本にはちょうど10年前にラ・フォル・ジュルネでビルバオ交響楽団とともに来日している。覚えてます、東京国際フォーラムのホールAでの朝一コンサート(0歳から入場可)で赤子たちが泣くなかで見せてくれた雄姿を。LFJでわりとひっそりめで来日して、その後メジャーになってN響に帰ってくるというパターンは何度目だろうか。 フランソワ・グザヴィエ・ロトもそうだったし、ベルトラン・シャマユもそうだし。そう考えると、ルネ・マルタンは慧眼。しかし10年経っただけあって、メナは恰幅がよくなっていて、一瞬「え、この人だっけ?」と思ってしまったのだった。変わらずムンムンしてて、カッコいいのだが。
●カッコいいといえばカニサレス。足を組んでギターを構えただけでもうカッコいい。PAあり。アランフェス協奏曲の後、アンコールで自作の「時への憧れ」を演奏してくれた。聞きほれる。
●メナの音作りは基本的に明快緻密で、整然とした音楽を作り出していたと思う。が、「三角帽子」では思い切り盛り上げてくれた。終盤では指揮台で複雑なステップを踏みながら、オーケストラを焚き付ける。「洗練された土臭さ」みたいなファリャの魅力が全開に。
●ちなみにメナはバスク地方の出身なんだとか。で、ビルバオ交響楽団の芸術監督を務めているわけだ。そこでサッカーファンならすぐに連想するのが、スペインリーグのアスレチック・ビルバオ。このクラブは伝統的にバスク系の選手だけと契約するという純血主義を貫いている。欧州主要リーグではすっかり国際化が進んでおり、先発選手に自国人がひとりもいなかったなどという事態が出来して久しいのだが、いまだにこのクラブは選手の血筋や出身地にこだわり続けているのだ(それでいて結構強い)。さて、メナをシェフとするビルバオ交響楽団にもそんな発想があるのだろうか? まさか。
オノフリ&OEKのニューイヤーコンサート
●「ニューイヤーコンサート」と銘打たれてはいるけれど、ワルツもポルカも登場しないエンリコ・オノフリとオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の東京公演。祝賀にちなんだ音楽を集めた、ヴィヴァルディ、ヘンデル、モーツァルトからなるプログラム。独唱は森麻季さん。
●前半はヴィヴァルディのセレナータ「祝されたセーナ」より「シンフォニア」とヴァイオリン協奏曲ト長調作品3ー3、ヘンデルのオラトリオ「時そして覚醒の勝利」より「神によりて選ばれし天の使者よ」とヘンデル「王宮の花火の音楽」、後半にモーツァルトの「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」と交響曲第35番「ハフナー」。オノフリは序盤はヴァイオリンを弾きながら、途中からは楽器を持たずに指揮者としてアンサンブルをリード。OEKの共演は今回で3回目。すっかりOEKがオノフリ仕様に変貌していて、ピリオド感満載。ヘンデルにせよモーツァルトにせよ、ときに強烈なティンパニが鋭く楔を打ち込むようなヴィヴィッドで心揺さぶる音楽なのだが、森麻季さんの清澄な歌唱が華やかさをもたらし、新年の祝いであることを思い出させる。「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」の後に、森さんのアンコールとして得意のヘンデル「私を泣かせてください」。さらに「ハフナー」の後に、同曲の第3楽章をもう一度。アーノンクール張りの大胆な強弱の対比やテンポのゆらぎで、アンコールは一段と弾けた演奏に。
●CD売場に名物のOEKどら焼きが並べられて異彩を放っていた。金沢の茶菓工房たろうのオリジナルどら焼き。大人気で完売。人気高すぎだろうってくらいの勢いで。
価格と価値
●昔、ある音楽雑誌のベテラン編集者がこんなことを言っていた。「CDはぜんぶ同じ値段で売ってるだろう? あれはおかしいと思うんだよね。だって1回しか聴かないCDと、何百回も繰り返し聴くCDが同じ値段なんて、ヘンじゃないの」
●いやー、まあ、たしかに購入者にとっての価値と価格が比例すべきであればその通りだろうし、ワクワクしながら買った一枚が期待外れだったときにそういうことを考えたこともなくはない。でもムリじゃん。そうなったら、買ったけど封も開けずに積まれてるCDはタダなわけ? 一見もっともらしいけど、なんだかその考え方って腑に落ちないなー、てなことを、たぶんワタシは思った。
●でも、そのベテラン編集者の言ってたことは、半ば現実になった。ただし、裏返しになって。対価を払う側ではなく受け取る側が、ストリーム配信で再生された回数に応じた報酬を手にするようになったわけだ。そして、聴く側はSpotifyのような形で「買ったけど封も開けずに積まれてるCD」と同等のものを大量にほぼ無料で手にしている。ここまでの事態を予見した人には会ったことがない。
FIFAワールドカップ、2026年大会から出場国が48か国に
●まさかこんな案が正式決定されるとは……。ワールドカップ本大会の出場国が現行の32か国から48か国に増えることに。2026年大会からの話なので、鬼が笑うどころではない先の話だが、あまりうれしくない。以前は24か国だったのが現行の32か国になって、さらに48か国へ。どんな試合よりエキサイティングだったワールドカップ予選への興味が薄れてしまいそう。
●48か国になると、どんな大会になるか。地域別の出場枠を見ればイメージできる。一部報道によれば、欧州が16、アフリカが9.5、アジアが8.5、南米が6.5、北中米カリブ海が6.5、オセアニアが1。アジアから8または9か国が出場するとなると、(規模感として適当に国を挙げるけど)たとえばオーストラリア、日本、韓国、イラン、サウジアラビア、イラク、ウズベキスタン、中国あたりが出場して、カタールがプレイオフに回るみたいな規模の大会になるわけだ。オセアニアからは毎回ニュージーランドが出場しそう。南米にいたってはたいていの国が出場できるというか、予選は「出場する国を決める」ためというより「出場できない国を決める」ためみたいな感じ。北中米カリブ海の6.5ってのも、たいがいにしてほしい。アメリカ、メキシコ、コスタリカ、ホンジュラス、えーと、あとはどこだ?
●本大会の大会形式も問題が多い。3か国ずつの16グループで1次リーグを戦って、各グループ上位2か国が決勝トーナメントに登場するというのだが、なんですかそれは。グループステージでは各国が2試合ずつを戦って、3か国中1か国が脱落する敗者決定戦。全3試合であっさりグループステージが終わるわけだが、現行のようにグループステージ最終日を公平性のために同時キックオフするという方式がとれない。3試合目はそれまでの試合結果に応じた戦い方が可能になり、フェアではないし、そもそもあまりエキサイティングな方式とも思えない。「決勝まで最大7試合」を維持するためにこんな大会方式になったのだと思うが、予選も本大会も水で薄めたコーヒーみたいな味になりそう。
ストリーミング・サービスとバヴゼのモーツァルト
●たびたび話題にしている定額制ストリーミング・サービスについてだが、クラシックを聴くことに関して言えば、唯一日本語対応ができているNaxos Music Libraryを別格とすると、今のところApple Music、Spotify、Google Play Musicの順で使用頻度が高い。「クラシックの新譜をチェックしよう」と思ったときに、まずまず頼りになるのがApple Music、(タイトル数が)頼りないけど一応できなくはないのがSpotify、そもそもそういうコーナーが見当たらないのがGoogle Play Music。サービス開始時から契約しているものの、このままなら契約を解除するつもり……。
●と、思っているのだが、困ったことにたまにGoogle Play Musicじゃなきゃ聴けない音源もあるんすよ。最近だと、CHANDOSに録音されたジャン=エフラム・バヴゼが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲集。昨年だったか、バヴゼがアシュケナージ指揮OEKと共演したときに、ピアノ協奏曲第17番で自作と思われる攻めたカデンツァを弾いていて「むむ!」と思ったのだが、おそらくそれと同じものがCHANDOSの録音で聴ける(指揮者とオケは別)。ただ、この録音、AppleやSpotifyだと一部トラックしか聴けなくて、なぜかGoogleだとアルバム全体を聴ける。こういうサービスごとの対応の違いはなにが原因なんすかね? アーティストやレーベルが「ウチは配信なんか認めない。モノを売りたいんだ」というポリシーがあって配信では丸ごと聴かせないというのなら(是非はともかく)まだ理解できるんだけど、GoogleではOKなのにAppleやSpotifyでは聴かせないとする理由がわからない。あるいは深い理由なんかなくて、実務上の段取りの問題にすぎないのかも?
●それで、このバヴゼの録音なのだが、ピアノ協奏曲第17番の第1楽章と第2楽章のカデンツァ以降の部分は独立したトラックとして区切られている。ここでバヴゼは自作カデンツァを弾いているが、この曲には幸いモーツァルト自身のカデンツァも残っている。そこで、ボーナストラックで第1楽章と第2楽章のモーツァルト自身のカデンツァ以降が用意されている。つまり普通にCDをかけるとバヴゼのカデンツァが演奏されるが、「やっぱりモーツァルト自身のバージョンで聴きたいよ!」という人はCDのプログラム再生機能を使って、バヴゼのカデンツァを迂回してモーツァルト自身のカデンツァにジャンプすることができるわけだ。
●こういう趣向はそれほど珍しいものではなかったと思うけど、CD時代が終わりストリーム配信が主流になると、せっかくの趣向がイマイチ生きてこない(Google Play Musicのプレイリスト機能を駆使してCD同様にトラック順をコントロールすることはできなくはないのだろうが、かなりめんどくさい感じ)。じゃあどうすればいいのかというと、たぶん、正解は「2種類の演奏をまるごと用意する」なんじゃないだろうか。一枚のアルバムに両方を入れてもいいし(CDと違って長さに制約はないんだし)、あるいはアルバムごと2種類用意しても大きな不都合はなさそう。
●「バヴゼ」って名前の濁点率の高さにたじろぐ。
ワイヤレスマウス、おかわり
●もっと早く気づけばよかったと思いつつ、2台目のワイヤレスマウスをゲット。以前から持っている同じ製品の色違い。数年前から使用している1台目は持ち歩き用で、ノートPCとともに携帯している。タッチパッドって、どうしても小さなストレスから逃れられないので、だったらマウスを携帯しようと考えた。
●で、ふと気づいたのだが、デスクトップのマウスだってワイヤレスにしてしまえばいいじゃないの。机で使ってるだけなので有線マウスだってケーブルの長さが足りなくなるなんてことはない。でもワイヤレスにしてみるとこれが大正解。開放感がぜんぜん違うんすよ! そこにケーブルがないっていうだけで、もうパンツ履いてないくらいの開放感。さわやかフリーダム。しかも、PCの中をいじるときに(掃除するとか、増設するとか)、外すべきケーブルが一本減るのもささやかに吉。
●で、このロジクールのワイヤレスマウス M235というのがやたらと評判がいいのだが、それも納得で、使っていて不具合などに悩まされたことが一度もない。購入したらレシーバーをPCのUSB端子につなげるだけ。それでもう動き出す。電池は単三形一本なので交換も容易。電源のスイッチも付いているが、これは持ち歩き用のみオンオフして、デスクトップではオンのままでスマートスリープ任せにしている。
●デスクトップPC(Windows 10)に導入した際、ひとつだけとまどったのは、PCをスリープにしている際にマウスに軽く触れただけでPCが起動してしまう点。これは人によっては便利機能だけど、自分は不要だったので解除しようとして少し迷った。解決策としては、デバイスマネージャーからマウスのプロパティを選び、「電源の管理」タブから「このデバイスで、コンピューターのスタンバイ状態を解除できるようにする」のチェックを外せばOK……と思ったら、それだけでは解除できず。実はマウスがキーボードとしても認識されているようで、デバイスマネージャーからキーボードを見るとしっかり新たなデバイスが増えている。こちらでもマウスのプロパティと同様にチェックを外せば、マウスからは起動しなくなる(こちらを参照)。ホントだったらさっとマウスに触ってPCが起動するのもカッコいいんだけど、ウチはそれをやるには机の上が散らかりすぎてて、意図せずマウスが動いてしまうんすよね。
ゾンビとわたし その33:「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)
●新年早々に終末感の漂う話題で恐縮であるが、久々に不定期連載「ゾンビと私」として、「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)を下腿三頭筋にググッと力を込めつつご紹介したい。この数年、あたかもブームのようにゾンビあるいはそれに類する生命体(いや非生命体)を題材としたフィクションが次々と発表され、とてもそれらを十分に追いかけることはできていないのだが、多くの物語はこの災厄を軽々しく扱いすぎているという印象を持っていた。はやり物に乗ってみただけで、切実さが微塵も感じられないというか。その点、この一冊は違う。正しく現実の問題としてゾンビ禍をとらえている。迫りつつあるゾンビ禍に立ち向かうために必読の小説といってもいいのではないだろうか。
●主要な登場人物は大手出版社の編集者、純文学の極貧作家、女性誌などでも人気の美人作家、小説家志望の若者、福祉事務所で働くケースワーカー等々。舞台の中心となるのは文壇である。危機はひとまず古典的な枠組みにのっとって始まる。基本ルールはしっかり踏襲される。ヤツらは人を噛んだり、喰らったりする。噛まれると感染する。感染するとヤツらに変質する。ヤツらは頭を破壊されないと活動停止しない。ヤツらはゆっくりと歩く。が、2017年の現代にあって、そんな古典様式だけでゾンビを描けるはずがない。やがて走るゾンビがあらわれる。どうやら同じゾンビ化するにも、古いゾンビ観で育った年配者は歩くゾンビになるが、近年のゾンビ観になじんでいる若者たちは走るゾンビになりやすい……といったように、「ゾンビのなんたるかを(よく)知っている現代のわたしたち」が前提となっているところが秀逸。
●で、書名にあるようにこれはコンテクスト・オブ・ザ・デッド。つまり、なにが人をゾンビにしているかというと、コンテクスト依存なんである。なにを言うにもするにも、狭い集団内で共有されているコンテクストにほとんど無自覚で乗っかることでしかできない人々が、次々とゾンビになる。このテーマ設定が新しく、そして共感できる。なぜなら現実そのものだから。つまり、この本は二重の意味で現実的なんだと思う。ひとつは現代日本におけるゾンビ禍の描写として。もうひとつはゾンビ禍が暗喩するわたしたちのあり方について。このテーマは実のところワタシたちにとって取り扱い注意物件でもあって、コンテクスト依存を嘲笑うことは一見容易だが、たとえば音楽作品やそのコンサートなど、やたらとハイコンテクストなカルチャーを無条件に許容している自分たちをどう規定すべきなのかという問題をはらんでいる。グサッ。ガブッ。
●お気に入りは、出版社のパーティに作家や編集者たちが集まっているところに、ゾンビ作家たちが乱入してくる場面。そこに居合い切りの達人として知られる有名書評家がやってきて、バッサリとゾンビを斬り捨てる。次々とゾンビを斬るが、「面識もっちゃった相手に対しては、メッタ斬りもしづらいんだよね。さっき挨拶しちゃったから」とか言って、斬りかけたゾンビ作家に構えを解いて会釈して、そそくさと別のゾンビを斬ったりする。大笑い。
●著者は又吉直樹と同時に芥川賞を受賞しているが、それよりもっと以前、高校在学中に「黒冷水」で文藝賞を受賞して話題になった。これは自分も読んだ記憶あり。それから十数年が経って、こんなに秀逸なゾンビ小説が書かれることになるとは!
謹賀新年2017
●賀正。今年はゆっくりと過ごせる元日に。近所の神社へ初詣に出かけてみた。特に有名な神社でもないはずなのだが、長蛇の列が! ファストパスはないのだろうか。
●賽銭箱の前でうっかり財布を忘れていたことに気づくあわてんぼうな参拝者のために、クレジットカード決済を導入する神社があってもいい気がする。決済は神様に向かってカードナンバーをささやくだけ。うろ覚えでも大丈夫、神様ならなんでもお見通しのはず。
●ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートの指揮はドゥダメル。ウィンナワルツのイメージはなかったが、晴れやかな場がこれほど似合う指揮者もいない。録画もしてあるので、お雑煮を食べながらお茶の間モードでちらちらと視聴。シンフォニックで爽快、ポジティブなエネルギーが全身から発散されていておめでたい。知らない曲や意外な曲がたくさんあったのも新鮮。そして広瀬さんと奥田さんの堂々たる話しっぷりがカッコよすぎ。来年はムーティ登場なんだとか。おお!
●2017年の抱負は、しっかりとした目標や決意を抱くこと。というメタ抱負はどうか。
●今年もよろしくお願いいたします。