January 24, 2017

金沢歌劇座「蝶々夫人」全国共同制作プロジェクト

雪の金沢
●22日は金沢でプッチーニの「蝶々夫人」(金沢歌劇座)。全国共同制作プロジェクトとして金沢、大阪、高崎、東京の各地で開催されるシリーズの初日。新演出・字幕付き。欧州で実績豊富な笈田ヨシが日本で初めてオペラの演出を手がける。指揮はミヒャエル・バルケ。蝶々夫人に中嶋彰子、ピンカートンにロレンツォ・デカーロ、シャープレスにピーター・サヴィッジ、スズキに鳥木弥生他。ピットに入ったのはオーケストラ・アンサンブル金沢。開催地ごとにオケは大フィル、群響、読響と入れ替わるが、指揮者は同じという方式。ちょうど開場する頃になってどんどん雪が降ってきて、金沢歌劇座から眺める光景は真っ白に。
●舞台は明治初期の長崎に置き換えられる。日本人役は日本人歌手、西洋人役は西洋人歌手が歌う。「蝶々夫人」って、日本が舞台になっていることが憂鬱な方向に作用することがあるじゃないすか。「日本っぽさ」みたいなところに焦点が当てられがちで。「トゥーランドット」が架空の中国であり、「西部の娘」が架空のアメリカであるように、「蝶々夫人」も架空の日本で十分だと常々思っていたんだけど、今回の舞台を見て、この話はジャパネスクという意匠を越えた普遍的なテーマが描かれているんだと納得。つまり、登場人物にみんな真実味がある。
●特に蝶々さん。蝶々さんって、ただ純粋な愛を捧げた一途な女だと思うとなんの共感もできないけど、そうじゃないんすよね。蝶々さんには蝶々さん側の事情があって、ピンカートンをつかまえるのに必死なんだなーっていう、したたかさもある。第1幕では自分の神様を力いっぱい投げ捨てるくらい全力でアピール。でも第2幕ではもうピンカートンはいない。そして貧しい。だから着飾ってもいないし、かわいくもない。「ある晴れた日に」って歌うときに、ああ、これは敗北した「痛い女」の歌なんだなと思った。この公演を見て、はじめて蝶々夫人が生身の人間に感じられたかも。
●ピンカートンは裕福な国の海軍士官の男。蝶々夫人は貧しい国の元芸者で女。一方的な力関係が悲劇を生み出すわけだけど、でもピンカートンってフツーの若い男でもあるんすよね。貧しい国を訪れて有利な結婚契約に飛びついて現地妻と楽しく過ごしたけど、帰国してアメリカ人妻といっしょに日本を再訪してみたら、目の前の修羅場に耐え切れずに逃げ出す男。この話に出てくる男って、みんなフラフラした男ばかり。シャープレスは善人なんだろうけど煮え切らないし、ヤマドリは「日本のピンカートン」になりたい男にすぎない。そう考えると蝶々さんもスズキもケイト・ピンカートンも女性はみんなたくましい。
●オケはよく鳴っていた。ミヒャエル・バルケの感傷に溺れない、きびきびとした音楽の運びは好感度大。プッチーニの色彩的なオーケストレーションに改めて魅了される。ストーリーは重くても、音楽はバラエティに富んでいて楽しいのが救い。
●シャープレスが蝶々さんに子供の名前を尋ねる場面があるじゃないすか。「今の名前は『悲しみ』です。でもお父さんが帰ってきたら『喜び』になるのです」みたいなの。これって、ワーグナー「ワルキューレ」のジークムントを思い出す。「フリートムント(平和)やフローヴァルト(喜び)でありたいけれど、ヴェーヴァルト(悲しみ)と名乗ってしまうこの私。冬の嵐がどうたらこうたら。ならば、これよりジークムントと名乗りましょう!」っていうあの場面(←かなり略)。あれ? 最近、ここで似たような話をしたっけ。そうだ、マスカーニ「イリス」にも名乗りがシーンがあったのだった。「私の名は……欲望!」という。作曲順は「ワルキューレ」「イリス」「蝶々夫人」。オペラにおける名乗りの場面の系譜がどこかにまとまっていないだろうか。逆に名乗らないのが「トゥーランドット」(結局は名乗るけど)。
●東京公演は東京芸術劇場にて二日間上演。東京だけ主役がダブルキャストで2月18日が小川里美さん、19日が他都市と共通の中嶋彰子さん。

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