●サントリーホール休館中にミューザ川崎で開催されている「N響 午後のクラシック」だが、この3回シリーズがハイレゾで無料配信されることに。現在、4月に開催された第1回が公開中。広上淳一指揮、ダニエル・ホープのヴァイオリンで、曲はブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、ベートーヴェンの交響曲第7番他。以降、フェドセーエフ指揮の第2回、コープマン指揮の第3回と続く。これは快挙。さっそく第1回公演をハイレゾで聴いて、臨場感を味わったところ。
●少し説明しておくと、今回公開されているのは、映像とハイレゾ音源。映像のほうは一般的な動画なのでN響サイトでブラウザ上からアクセスできる。一方、ハイレゾ音源を再生するためには、IIJのPrimeSeatというプレーヤーをインストールする必要がある(パソコン専用、スマートフォン非対応)。このPrimeSeatでは同じ音源をDSD5.6MHzとPCM96kHz/24bitの二種類から選択できるようになっている(DSDネイティブ再生にはASIO DSDモードに対応したオーディオ・デバイスが必要)。いずれもCDよりずっと情報量は多い。実はDSDというものをぜんぜん知らなくて、今ようやくググっているニワカ者なのだが、これっていわゆる1bitオーディオっていうか、SACDでも使われている方式なんすね。PCMは直感的に理解可能な原理だが、DSDはかなり理解が難しい。オーディオ関連のサイトでもあまり突っ込まないように配慮されている印象。個人のブログだが、ここが参考になった。
●で、IIJのサイトに親切な説明図があるように、こういったPCオーディオを楽しむためには、USB-DAC(USB-DAC搭載ヘッドホンアンプ)を用いるのが吉。これをPCのUSB出力と、普段使っているオーディオ機器(アンプなど)のアナログ入力の間にはさむ。ハイレゾだけではなく、Apple MusicでもNMLでもそうやって聴く。使っているスピーカーやヘッドフォンもCDを聴くときと同じもの。たまに「Apple Musicって便利だ~」みたいな話をすると、「えっ、スマホで聴いてるんですか?」的な反応が返ってくることがあるのだが、そういうわけではない。
●で、そうやってヘッドフォンで聴いていると、ハイレゾはもちろんすばらしいのだが、CDでも十分すばらしいし、それどころか圧縮音源でもぜんぜんすばらしい(と感じてしまうので、自分はオーディオファンにはなれない)。上記のN響音源でわざわざ同じ曲の同じ場所を映像とハイレゾ音源で聴き比べてみたりもしたのだが、どちらを聴いても(ヘンな言い方だが)生のコンサートでは決して体験できない臨場感がある。鋭く鮮やかで、豊潤なサウンド。音源フォーマットのいかんにかかわらず、(もとの録音さえよければ)客席では聴けないものを聴けるのがオーディオだと自分は理解している。まるで虫眼鏡のような。
2017年5月アーカイブ
「N響 午後のクラシック」のハイレゾ配信
U-20ワールドカップ ニッポンvsイタリア
●BSフジで中継されているU-20ワールドカップ、グループリーグ第3戦はニッポン対イタリア。ともに勝点3ながら得失点差でリードするイタリアは有利な立場。ニッポンは勝てばグループリーグ突破、引分けならグループ3位で他のグループの成績次第で突破、負けても可能性はまだ残るという状況。しかし、なんと序盤でいきなり2失点してしまう。どちらもディフェンスの裏を取られた形で、前半3分、ラインのそろっていないところに縦パス一本で右サイドを崩され、クロスボールを入れられ失点。さらに前半7分はおそらく練習通りのサインプレイで、フリーキックから失点。いったい何点取られるの?という展開だったが、イタリアのゴールはこの2点まで。
●序盤の2失点で動揺しない今のU-20は大したもの。ここからしっかりとチームを立て直して、ボールをつなぐニッポンらしいサッカーを展開、イタリアの当たりが厳しくなかったこともあってスペクタクルな攻撃を見せてくれた。前半22分、遠藤渓太が左サイドからクロスを入れて、中央に飛び込んだ堂安律が足先で触ってゴール。後半5分、またしても堂安がゴールを決めるのだが、これはすごかった。細かいタッチのドリブルでペナルティエリア内に突っ込んで、敵ディフェンス陣4人くらいを交わしながらキーパーの手の届かないところにコロコロ・シュート。最後は相手に当たっていたとは思うが、メッシ級の痛快さ。なにかと15歳の久保建英が話題になるが、大活躍しているのは堂安。これで2対2。
●後半20分過ぎからは、お互いにリスクを冒さないゲームに。なにしろこのまま引き分ければ、ともに決勝トーナメントに進出できるので。どっちかといえばイタリアよりも、むしろニッポンのほうがこのクールダウンを主導していたのでは。とはいえ、それなりにニッポンにも逆転ゴールのチャンスはあったので、「談合試合」というほどのものでもない。ごく常識的なリーグ戦の戦い方。
●これで3位通過したニッポンは、いよいよ決勝トーナメントで本日U-20ベネズエラと戦う。ちなみに決勝トーナメントの対戦カードはほかに韓国vsポルトガル、ウルグアイvsサウジアラビア、イングランドvsコスタリカ、ザンビアvsドイツ、メキシコvsセネガル、フランスvsイタリア、アメリカvsニュージーランド。フル代表のワールドカップとはずいぶん違った雰囲気の顔ぶれになっている。
「中世騎士物語」(ブルフィンチ/岩波文庫)その4 ~ パーシヴァルと聖杯
●(承前 その1 その2 その3)またまたブルフィンチの「中世騎士物語」(岩波文庫)の話題を。ワーグナーの楽劇にもなっているパーシヴァル(パルジファル)と聖杯の物語もこの本に登場する。ただ、ここでアーサー王伝説の一環として語られる話は、ワーグナーの楽劇(=ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩が原作)とはずいぶんと異なっている。パーシヴァルは騎士道にも武具についてもなにも知らない少年として登場し、見よう見まねで騎士に扮した珍妙な姿でアーサー王の広間にやってくる。そこにかつて一度も笑ったことがないという宮女が現れる。この宮女は王の道化によれば「騎士道の華となる者を見ないうちは決して笑わない者」。その宮女がパルジファルを見て笑ったんである。で、王の道化の言った通り、パルジファルは最強クラスの騎士となる。ここまでは「聖なる愚者」といった感じで、まだワーグナーと設定が近い。しかし、その後の運命はまるで違う。
●魔術師マーリンの助言をきっかけに、アーサー王の騎士たちは聖杯の探索に出かける。マーリンによれば、聖杯を見つける騎士はもう生まれているというのだ。で、この聖杯なんだけど、割とちらちらと姿を見せるんすよ。騎士たちの前にあらわれたり、パーシヴァルとか騎士ランスロットの目の前に出て来たりする。でも手にするのはパーシヴァルじゃない。この聖杯探索によってアーサー王の騎士たちはあちこちに散り散りになり、半分以上は命を落とすというかなり暗い展開に話は向かっていくんだけど、最終的に聖杯に選ばれたのはランスロットの息子である騎士ガラハド。ガラハドはパーシヴァルと騎士ボゥホート(ボールス)とともに聖杯を見つける。そこでガラハドの霊は肉体から離れ、聖杯とともに天に昇り、以後聖杯を見た者はだれもいなくなる。パーシヴァルはその後、僧服を身につけて隠遁し、精進の生活を送ってまもなく世を去る。パーシヴァルは聖杯を見つけた騎士のひとりではあるけれど、ワーグナーの楽劇みたいな決定的な役割を果たすこともなく、あっけない末路をたどるのだ。そして、ここにはパーシヴァルの息子ローエングリンという設定は存在しないっぽい。
●この一冊を読んでいて思い出すのは、「千一夜物語」。手触りというか語り口がなんだか似ている。あっちはイスラム世界の説話集でぜんぜん違うといえば違うんだけど、「こういう話の展開は千一夜物語にもなかったっけ?」とか思うこと、たびたび。
U-20ワールドカップと、フル代表に加藤恒平選出
●現在、韓国で開催中のU-20ワールドカップ(旧ワールドユース)。久しぶりにU-20ニッポンが出場権を獲得したのだが、テレビ中継は地上波もNHKもなくて、BSフジで放送。現在グループステージを2試合戦ったところで、初戦は南アに対して2-1で逆転勝利したのだが、第2戦はウルグアイに0-2で完敗。ニッポンは超飛び級で史上最年少15歳の久保建英がメンバー入りしている。2試合とも途中出場を果たした。テクニックはすばらしくてさっそく南ア戦で活躍、思わずメッシみたいだと思ってしまうのだが、さすがにフィジカルの差は埋めがたく、ウルグアイ戦では相手のパワーに苦しんだ感も。
●1勝1敗で第3戦はイタリアが相手。ともに勝点3ながら、ニッポンは得失点差で劣っているので2位勝ち抜けには苦しい状況。ただし3位であっても全グループで成績上位4チームは決勝トーナメントに進めるそうなので、場合によっては「お互い引分けでもオッケーじゃね?」的な状況もないことはない。
●一方、フル代表はハリルホジッチ監督が次のワールドカップ最終予選イラク戦(アウェイ)に向けてのメンバーを発表。これがなかなかのサプライズ。GK西川、DF森重といった主力級が落選。清武、宇佐美、武藤も呼ばれず。逆に乾が復帰。ガンバ大阪から三浦弦太、倉田秋、井手口陽介、今野泰幸、東口順昭と大勢選ばれていてびっくり。浦和の宇賀神、柏の中村航輔もサプライズ。だが最大のサプライズはこの人! なんと、なんと、なんと、ブルガリア1部リーグのRECべロエ・スタラ・ザゴラ所属の加藤恒平だっ!!!!!
●だれ、それ!の声、多数。一方、ついに来たかの声も。いわゆる「海外組」というとJリーグで大活躍した後ドイツやイングランドなどに渡った選手たちをまっさきに思い浮かべるが、そういう選手たちとはまったく別ルートで東欧などで活躍している日本人選手たちは何人かいる。そんな「もう一つの海外組」のひとりが加藤恒平。大学を経由してアルゼンチンに渡るも試合に出られず、一時町田ゼルビアに所属するも、その後、モンテネグロ1部リーグ、ポーランド1部リーグを経て、現在ブルガリア1部リーグへ。27歳。ポジションは中盤で、ファイター・タイプなのだとか。
●少し前に読んで印象に残った加藤恒平インタビュー。アルゼンチン時代の話がもうムチャクチャ。契約を結べないまま、ブエノスアイレスの貧民街にある4部リーグのチームに帯同していたんだけど、アウェイで負けたらサポーターのボスみたいなのがふたり、猟銃を持ってロッカールームにやってきて、選手をみんな座らせて説教したって言うんすよ。で、「オレたちはカネがないのにアウェイまで来た。なのにお前らは負けた。だからバス代を出せ」。日本じゃ絶対にありえない展開だけど、それで加藤選手も含めてみんなおカネを取られちゃう。
●こんなタフな環境から育ってきた選手が、今のスターぞろいの(かなり行儀のいい)ニッポン代表に加わるっていうんだから、まったくおもしろいことになってきた。ハリルホジッチ監督によれば「ボールを奪えて、組み立てもできる」。応援するしか。
N響 水曜夜のクラシック 第二夜 ~ フェドセーエフのロシア音楽プロ
●24日はNHKホールで「N響 水曜夜のクラシック 第二夜」。指揮はウラディーミル・フェドセーエフ。前半にショスタコーヴィチの祝典序曲、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ボリス・ベレゾフスキー独奏)、後半にリムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲、チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」。ここのところ大曲ばかり聴いていたので、中規模な作品中心のプログラムに新鮮味を感じる。フェドセーエフの語り口の豊かさと、強奏時でも金管、木管、弦のバランスが美しく保たれる精妙な響きを堪能。
●ベレゾフスキーはますますの巨漢ぶりでピアノが小さく見えるほど。豪腕を振り上げながらも、軽々と弾く俊足チャイコフスキー。ベレゾフスキーはなんでも弾いてくれるところがすごい。LFJではこの前ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲を披露してくれたし、以前にはラフマニノフのピアノ協奏曲第4番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番等々、あんまり聴けない曲もどんどん弾く一方で、N響や海外オケの来日公演では名曲ど真ん中のプログラムを弾く。ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」も聴いたことあり。こんな人、なかなかいない。この日は、アンコールでオーケストラといっしょに第3楽章のおしまいをもう一度弾くという、最近では珍しいパターン。
●「フランチェスカ・ダ・リミニ」の後、さらに全体のアンコールとしてフェドセーエフのトレードマークとでもいうべき、ハチャトゥリアン「ガイーヌ」から「レズギンカ」。袖からスネアドラムが入ってきたところで察した方も多かったのでは。今回も熱かった。客席は大喝采。
●客席といえば、いつもと少し雰囲気が違っていて、若いお客さんがずいぶん多かった。N響定期にはA、B、Cの3シリーズがあって、この内、サントリーホールで開催されるB定期はホールの休館に伴ってお休み中。代わって水曜にNHKホールで「水曜夜のクラシック」、木曜にミューザ川崎で「N響 午後のクラシック」(つまり本日開催される平日昼公演)が開かれている。チケット価格も控えめ。若者の姿が多いとほっとする。
「中世騎士物語」(ブルフィンチ/岩波文庫)その3 ~ エクスカリバー
●(承前 その1 その2)まだ続く、ブルフィンチの「中世騎士物語」(岩波文庫)の話題。ここにはワーグナーの楽劇でおなじみのトリストラムとイゾーデ(トリスタンとイゾルデ)やパーシヴァル(パルジファル)が登場するのだが、もうひとつ共通するようなしないような要素として出てくるのが聖剣エクスカリバー。ワーグナー作品に登場する魔剣はノートゥングと名付けられている。「ワルキューレ」第1幕で、トネリコの木に刺さったかつてだれも抜けなかった剣を、ジークムントは見事に引き抜く。これは窮地に陥ったジークムントのためにヴォータンが用意してくれた剣であり、後にはヴォータン自身の槍で折られてしまうことになる。北欧神話でもそのような話が出てくる。
●一方、「中世騎士物語」のエクスカリバーを抜くのはアーサー王だ。当時アーサーはまだ戴冠前の15歳。教会の入り口で剣が刺さった石が発見され、石にはこの剣が王の剣となると記されていた。そこでこの石から剣を抜いたものがブリトンの統治者となるのだと定められるが、名だたる騎士のだれもこれを抜くことができない。あるとき、腕試しの試合で剣を折った騎士ケイのために、アーサーが剣を取りに帰ったのが、たまたまこの石に剣が刺さっているのを目にすると、それをなんの苦も無く抜いて、ケイに渡した。ケイはこれを石に戻して、ふたたび抜こうとするが抜けない。しかしアーサーはまたしてもこれを抜いてしまう。こうしてアーサーが全員一致で王に推されることになった……というのが、エクスカリバーのエピソード。
●ところでアーサー王は別のエピソードでも不思議な剣を手にしている。これは湖の女王のエピソードで、謎の騎士と戦って敗れ、剣を失ってしまったアーサー王に対して、湖から一本の腕が出てきて、剣を与えるという話。これは湖の女王から与えられたものだが、この剣もどいうわけかエクスカリバーと呼ばれているのだ。というのも、この剣は、アーサー王の死の場面でふたたび登場する。戦いで傷ついて死を覚悟したアーサー王は、騎士ベディヴァに対して、「愛剣エクスカリバーを海に投じて、なにが見えたかを教えてくれ」と命ずる。ところが宝石のちりばめられた剣を惜しいと思い、騎士ベディヴァは剣を木の根に隠して、アーサー王に「剣は海へ捨ててきた」とうそをつく。しかしアーサー王はベディヴァの返答からたちまちうそを見抜く。ベディヴァはそうやって2度もアーサー王を偽るが、3度目にようやく本当に剣を海に投じる。すると海中から一本の腕が出てきて、剣を受け止めて振り回した後、剣もろとも海中へ消え去ってしまう。
●じゃあ、石から抜いたのと、海から腕が出てきて与えてくれたのと、いったいどっちがエクスカリバーなのよ。それとも不思議な力を持った剣のことはどれもエクスカリバーと呼んでいたとでも? (→その4へ)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第5番
●前日にロジェストヴェンスキー&読響のブルックナー交響曲第5番(シャルク版)という奇観を仰ぎ見た翌日、今度はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第5番。今度は正真正銘の(?)ブルックナー。ノットと東響のコンビによるブルックナーはこれまでにもすばらしい演奏を聴いているが、今回も心揺さぶられるもの。同じ曲をパーヴォ・ヤルヴィ&N響で聴いたときにも感じたことなんだけど、神秘性や宗教的恍惚感に頼ることなく作品の構築性や抒情性を表現するという今日的なブルックナーとして説得力大。第1楽章は前夜の刺激があまりに強烈だったせいか、ありのままのブルックナーをうまく受け止められないという内部エラーに悩まされたが、次第にロジェストヴェンスキーの影を振り払って、ノットの世界に没入できるように。第2楽章、遅めのテンポが意外な感もあったけど、同じコンビで第7番を聴いたときもやっぱり第2楽章が遅めで意外とここに書いていたのだった。白眉は第4楽章。一段さらにギアが上がって、白熱のブルックナーに。対位法モンスターが最終形態に覚醒してグイグイと迫ってくる。
●おっと、ブルックナーの前にもう一曲。モーツァルトのピアノ協奏曲第6番を小曽根真のソロで。協奏曲やソナタに関して言えば、ザルツブルク時代のモーツァルトも傑作ぞろいでどれひとつとしてつまらない曲はないとは思うが、この第6番はかなりロココ調と言ったらいいのか、優雅で洗練されたテイストが前面に出ていて、その分、ヤンチャ成分が控えめという印象。それを小曽根真でという意外感。カデンツァではモーツァルト・スタイルを逸脱した(でもしすぎない)自由な演奏を聴くことができた。アンコールはレクオーナのスペイン組曲「アンダルシア」から第4曲「ヒタネリアス」。
●ブルックナーが終わった後、やはりほぼ完璧な沈黙が訪れ、その後、客席は大喝采に。この日も、楽員が退出した後、拍手が止まずノットのソロ・カーテンコールがあった。盛大なブラボーとスタンディングオベーション。たまたまだが、サロネン&フィルハーモニア管弦楽団、ロジェストヴェンスキー&読響、ノット&東響と3日間続けて指揮者のソロ・カーテンコールに出会ったことになる。これはさすがに珍しい。
●翌21日も同じミューザ川崎で同じプログラムがあったので、なかにはもう一度聴いて、三日連続でブルックナーの5番を体験した方もいる模様。もっとすごいのは京都まで足を延ばして高関健指揮京響でブルックナーの5番を聴いて、すべて異なる楽団による三連荘コースをたどった猛者もいらっしゃるとか。そうそう演奏されない曲がここまで集中したのは偶然だとは思うが、意図しても実現しないようなブルックナー第5番フェスが出現した。
ロジェストヴェンスキー&読響のブルックナー交響曲第5番(シャルク版)
●この週末はブルックナーの交響曲第5番祭。もしその気になれば金土日と三日連続ブルックナーの5番を聴くことも可能ではあったが、私が参戦したのは二日間で読響と東響を一公演ずつ。
●19日(金)は東京芸術劇場でゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団。プログラムは一曲のみ。ブルックナーの交響曲第5番、まさかのシャルク版。原典からの逸脱という点で悪名高いシャルク改訂版を生で聴ける貴重な機会とあって、全席完売。しかもロジェストヴェンスキー。「今しか聴けない」の問答無用の訴求力。ただ事じゃ済まないだろうと思ってはいたが想像を超えていた。
●まず、長い。原典からカットして短くなっているはずなのに、なぜか終演時刻は特に早くなかった。そして、圧倒的な過剰さ。シャルク版以前にまずロジェストヴェンスキーと読響の剛直で重量感のある響きがすごい。そしてオーケストレーションに特盛感があって、なんでそこでティンパニが入るのとか、あちこちで初耳であるという以上の違和感を感じるのだが、最後の最後にお祭り騒ぎの一大スペクタクルが用意されていて、それまでのあれこれがすべてがぶっ飛んだ。バンダの金管あり、シンバルあり、トライアングルありの大音響で、とてつもない高揚感。予想外の方向性からサービス精神を発揮してくれるシャルク。少し笑うが、真摯な感動には笑いがつきもの。
●で、芸劇のお客さんたちは、たとえこんなにド派手に終わる曲でもブルックナーには違いないので、余韻を味わおうと一瞬、完璧な静寂を作り出した。が、その静寂を打ち破ったのが指揮者本人。指揮棒で(たぶん)楽譜をピシャリと叩いた。それが合図となって場内は大喝采に。あのピシャリに「は? もう終わったぞ、はよ拍手せい!」というニュアンスを感じたのはワタシだけじゃないと思う。実際の当人の意図は知らないけど、儀式的な沈黙をありがたがるわれわれ聴衆の態度をフッと鼻で笑うようなところが感じられて、楽しさ倍増。客席の雰囲気は最高。楽員が去っても拍手は鳴りやまず、ロジェストヴェンスキーのソロ・カーテンコール。なんか「お前ら、まだいたのぉ、しょーがねーなー」みたいな雰囲気(想像)でザクッと登場。で、シャルク版のスコアを讃えるマエストロ。
●指揮している最中に、パタンと音をたてて指揮棒が床に落ちてしまったんすよ。あっ、どうするんだろう?と思った次の瞬間、マエストロの右手を見たらちゃんと指揮棒を持っていた!? えっ、これってなにかの手品?……指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーってそういうこと?(違います)
エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団のマーラー「悲劇的」
●18日は東京オペラシティでエサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団。ストラヴィンスキーの「葬送の歌」(日本初演)とマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を組み合わせたプログラム。休憩なしは吉。「葬送の歌」はストラヴィンスキーの失われていた初期作品で、昨年の12月にサンクトペテルブルクにて、ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団によって蘇演された12分ほどの曲。初演の模様はネット上で映像配信されたが、続く出世作「火の鳥」のプロトタイプであると同時に、ワーグナーの影響も。リムスキー=コルサコフの逝去に伴って作曲されたということで「葬送の歌」と題されているわけだが、当初「悲劇的」のみだったプログラムにこの一曲が加わって、予期せぬ文脈が生まれたかも。サンクトペテルブルク音楽院の改修工事に伴って図書館の資料を移送する際に発見されたということだが、いったい全世界の図書館にはどれだけ失われた楽曲が眠っているんだろうか。どこか探したらベートーヴェンの交響曲第10番とか出てこないの?(出てきません)
●マーラーの交響曲第6番「悲劇的」は壮絶。すさまじい熱量を持った演奏で、オペラシティの空間に収まりきらないほどの音圧。しかし分解能は高く、サウンドは輝かしい。冒頭のザクザクとマシーンみたいに行軍するところからただならぬ気迫が漂っていた。第2楽章にスケルツォ、第3楽章にアンダンテの配置。激烈な作品だが、アンダンテの甘美さ、柔らかさが白眉か。終楽章のハンマーは2回。ハンマーもさることながら、タフなブラスセクションがすごい。これだけの演奏だからこそ、作品の容赦のなさにたじろぐという面も大いにあり。曲が終わった後に完全な沈黙が訪れて、その後大喝采。サロネンのソロ・カーテンコールが2回。このコンビ、聴くたびに印象がずいぶん違うんだけど、この日はフルスロットルの爆走を目の当たりにした感。
「中世騎士物語」(ブルフィンチ/岩波文庫)その2 ~ リア王
●一昨日のエントリーでもうひとつの「トリスタンとイゾルデ」について紹介したブルフィンチの「中世騎士物語」(岩波文庫)であるが、この本の中には「リア」の物語も出てくる。そう、シェイクスピアが「リア王」として書いた、あのリア。ブルフィンチはミルトンの「歴史」からこの物語を引いてきたそうで、同じ話をシェイクスピアはいくつか物語や登場人物名を変えて悲劇「リア王」に仕立てたという。えっと、それってみんな知ってること? ワタシは知らなかった……。
●シェイクスピア作品では King Lear だけど、この本で登場するのはリア Leir。リア王には男児がなく、娘が3人いた。国を娘に譲ろうと決心し、3人の娘でだれがいちばん自分を愛しているかを計ろうとした。長女と次女はだれよりも父を大切に思っていると語った。しかし末娘は口先だけで情愛の深さを表現することをよしとしなかったため、父王の怒りを買ってフランスに追放される。ふたりの姉の結婚後、リアが100名の騎士とともに長女のもとに移り住むと、「100名の騎士は多すぎて困る」とこれを30名に減らされる。次に次女のもとに赴くと「5人以上の騎士を養うことはできない」と言われてしまう。そして、ふたたび長女のもとに戻ると、今度はただひとりの召使しか許されなかった。哀れなリアは懺悔をしようとフランスの末娘を訪ねる。末娘は落ちぶれた父の姿に涙し、その身分にふさわしい歓待を尽くした。末娘は兵を率いて姉たちの領土に攻め入って降伏させ、ふたたび父を王位につかせた。3年間のリア王の統治の後、末娘が王位を継いで5年間統治するが、姉たちの息子らが謀反を起こして命と王位を失う。
●基本設定はシェイクスピアと同じだが、途中からがずいぶん違う。ここにはリア王の発狂がないし、リア王は復位にも成功してしてる。リア王、がんばった。リア王にしてリア充。ウェーイ。逆に言えばこの話から、あの「リア王」を生み出したシェイクスピアがすごいとも言えるのか。
●昔、「キング・イズ・アライヴ」(クリスチャン・レヴリング監督)っていう映画を見たとき、男女が砂漠の真ん中で遭難して、ただ狂気と孤独のなかで「リア王」を演じようとするというぶっ飛んだ展開に戦慄したっけ。どんだけ「リア王」好きなの、西洋人は。つくづくヴェルディが「リア王」をオペラ化しなかったのが残念。(→その3へ)
ブラビンズ指揮東京都交響楽団のイギリス音楽プロ
●16日は東京オペラシティでマーティン・ブラビンズ指揮東京都交響楽団。オペラシティで都響を聴くというのが新鮮な感じ。いや、本当に新鮮なのはプログラムか。バターワース「青柳の堤」、ティペットのピアノ協奏曲(スティーヴン・オズボーン独奏)、ヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲(交響曲第2番)。どれもなかなか聴けない。特にティペットのピアノ協奏曲は1955年の作品ながらこれが日本初演なのだとか。
●ティペット作品を生で聴いたのは、ノリントン&N響の交響曲第1番以来だろうか。ピアノ協奏曲もベートーヴェンに触発された作品というが、交響曲第1番ほどベートーヴェン的なスピリッツは感じられず、むしろピアノを管弦楽と対峙するソリストとしてよりはアンサンブルの一員として扱うスタイルはバロック協奏曲的な発想というか。形式的には古典派協奏曲風でもあって、ティペット流の新古典主義。カッコいいフレーズが次々と登場する一方で、30分はこのスタイルには長すぎるような気も(特に第1楽章)。ソリストは譜めくりあり。
●ヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲、自分にとってはなじみの薄い作曲家なんだけれど、こんなにいい曲だったのかと認識を改める。ブラビンズと都響の澄明なサウンドのおかげもあってか、オーケストレーションが思った以上に壮麗。第1楽章、ビッグ・ベンの時報の鐘が出てくるところで、「ああ、ロンドンだな」と思うべきなのだろうが、学校の授業開始の気分になってしまうのが恐ろしい(第4楽章で同じ主題が回帰するところは授業おしまいの合図だ)。その代わり、第1楽章では「オペラ座の怪人」の主題が登場してミュージカルの街ロンドンを連想させる、というのもこのアンドリュー・ロイド・ウェッバーの有名なミュージカルを初演したのはロンドンのウエスト・エンドの劇場であり、ヴォーン・ウィリアムズはそのロンドンのシンボルともいうべき主題を自作に引用したのであった……というのは、もちろん大ウソだ。20世紀初頭の交響曲にアンドリュー・ロイド・ウェッバーが出てくるわけがない。順序が逆。でもそんな誤読を喜んでしたくなるなにかがここに。
●マーティン・ブラビンズはいつのまにか立派な白いひげを蓄えていた。遠目にはサー・チャールズ・グローヴズ風? ずいぶん雰囲気が違っていて、一瞬だれかと思った。風格がある。
「中世騎士物語」(ブルフィンチ/岩波文庫)~ トリストラムとイゾーデ
●先日の「アルベニスとマーリンとワーグナーと」をきっかけに、ブルフィンチの「中世騎士物語」(岩波文庫)を読みはじめた。おもしろい。というか、今までこれを読んでいなかったことを後悔。アーサー王伝説に登場するキャラクターたちに生き生きとしたイメージを抱くことができる。といっても、伝説の類はみなそうだがバリエーションがさまざまあって、話によって人物像が違っていたり、時系列が矛盾していたりするもの。たとえば、トリスタンとイゾルデの物語。ワーグナーがオペラ化するにあたって参照したのはシュトラースブルクの叙事詩ということのようだが、この「中世騎士物語」では微妙に違ったもうひとつのトリスタンとイゾルデが描かれる。ワーグナーの楽劇より筋が通っているところもあって、いくつか腑に落ちた。
●コーンウォールのマーク王(マルケ王)のもと、騎士となったトリストラム(トリスタン)は、アイルランドの騎士モローントを倒すが、自らも負傷する。モローントの槍には毒が仕掛けてあり、トリストラムの傷は日に日に悪くなる。そこで傷を治そうと英国に渡るのだが、アイルランドに流されてしまう。ここでトリストラムはイゾーデ(イゾルデ)と出会う。ふたりは互いにひかれあう。が、トリストラムの剣の切っ先のこぼれ方がきっかけで、彼がモローントの敵であったことがバレてしまう。でも、トリストラムは許されるんすよ。こんな立派な騎士なんだから寛大に接しようっていうことになって。
●で、コーンウォールに帰ったトリストラムはマーク王にイゾーデっていうラブリーな貴婦人がいるよって話しちゃう。そこで、マーク王はじゃあイゾーデをわが妃に迎えるから、連れてきてくれとトリストラムに命ずる。なな、なんと。しょうがない、トリストラムは騎士だからこれを受け入れる。で、トリストラムはアイルランドからイゾーデを舟で連れてくるわけだけど、ここで出てくるのが侍女のブレングウェイン(ブランゲーネ)だ。ブレングウェインは媚薬を持っている。まちがいが起きてはいけないから、イゾーデとマーク王に飲ませるための薬だ。ところがブレングウェインは粗忽者だったんである。その辺にひょいと媚薬を置きっぱなしにしていたから、のどが渇いたというだけの理由で、イゾーデが半分これを飲んで、残りをトリストラムが飲んでしまう。最後に愛犬がその盃をなめた(という描写があって、えっ、これって愛犬と三つ巴の三角関係に発展するってこと?と一瞬、混乱したのだが、なんの伏線にもなってなかった。だよな)。
●つまり、トリストラムはイゾーデは会った瞬間から惚れ合っていて、媚薬はそれをいっそう強固にしただけなんすよね。イゾーデはマーク王と結婚するので、そこからまたいろいろな物語が展開するのだが、とにかくトリストラムはアーサー王の円卓の騎士の一員となる(このあたりからワーグナーの楽劇とはぜんぜんちがう展開をたどっている)。トリストラムが名誉を授かる一方で、マーク王は嫉妬心と復讐心からトリストラムを襲って殺そうとまでする。マーク王の描かれ方はさんざんだ。トリストラムはランスロットと並ぶほどの無双ぶりで勇名をはせる。
●ワーグナーには「死のうと思って飲んだ薬が媚薬だった」というドラマティックな展開があるが、こちらの話では媚薬なんてあってもなくても話の大筋は変わらない。で、トリストラムはその後、聖杯の探索に出かける。そして「白い手のイゾーデ」と呼ばれる別のイゾーデと出会い、ふたりは結婚する。ところが戦いのさなか、トリストラムは梯子に登ったところで敵の投げた岩が頭にあたって傷つく。ランスロット並みの勇者だったはずのトリストラムだが、なんと、これが致命傷になる。傷がどんどん悪化したところ、かつての記憶をたどってコーンウォールのイゾーデなら治してくれるかもしれないと彼女を呼ぶのだが、「白い手のイゾーデ」の嫉妬心が妨げとなって治療は間に合わず、トリストラムは命を落とす。途方もない敵と戦うのではなく、岩が頭に当たって命運が尽きたというのが印象深い。トリストラムほどの猛者であれば、岩の一撃くらい豆腐の角に頭をぶつけた程度のものだろうと思いきや、そうもいかないらしい。頭、大事。ヘルメット推奨。(→その2へ)
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●METライブビューイング、6月はシュトラウス「ばらの騎士」新演出(ロバート・カーセン、ルネ・フレミング他)。6月12日の東劇では上映前にソプラノの森谷真理さんのトークがあるのだとか。二期会公演で元帥夫人役を歌うということで「ばらの騎士」の魅力、またMET出演時のお話も聴けそう。
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のハーマン、バートウィッスル、ベートーヴェン
●13日は東京オペラシティでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。まったくユニークなプログラムで、ハーマン/パーマー編の「タクシードライバー ~オーケストラのための夜の調べ」、バートウィッスルの「パニック ~アルト・サクソフォン、ジャズ・ドラムと管打楽器のための酒神讃歌」、ベートーヴェンの交響曲第8番。アルト・サクソフォンに波多江史朗、ドラムスに萱谷亮一。映画音楽、現代音楽、古典派交響曲というまったく直接的な関連のなさそうな3曲が並んでいるのに、全体としてあたかもひとつの作品のように思えてくるプログラム。サクソフォンで結ばれた「タクシードライバー」と「パニック」、そして「パニック」の副題にある「酒神讃歌」はベートーヴェンの力感あふれる終楽章にもつながって、熱狂の渦を巻き起こす。実は全部合わせても正味1時間強しかないプログラムなのだが、聴きごたえは十分。
●ハーマン/パーマー編の「タクシードライバー」、もう少し時代が経つと純音楽作品になるのかもしれないけど、今のところはまだマーティン・スコセッシ監督の映画の持つインパクトが生きている。大都会をさまよう孤独な魂。物語の細部はすっかり忘れているが、すぐに思い出すのはロバート・デ・ニーロが鏡の前で「練習」をする場面。なので、やはり音楽にも孤独と狂気を見出してしまい、それが爆発してバートウィッスル作品の狂騒へと続くように感じる。この曲を単体で聴いたらずいぶん違った印象を持ったにちがいない。
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●NBSのサイトのミニ連載コラム「もっと楽しく! オペラへの招待」が完結。第3回「『タンホイザー』、社会に抑圧された若者の物語」、第4回「オペラは見たままに理解する」(←いつもこのブログで言ってるような話)。ご笑覧ください。
Windows 10 Creators Updateでシステムフォントのサイズ変更ができなくなったら
●今日、ウチのマシンにもWindows 10 Creators Updateがやってきた。こんな風に無料でOSのアップデイトがされるのって、すばらしい。少々時間はかかったが、問題なくアップデイトされた。で、使ってみると、少し画面の雰囲気が違うことに気づく。あ、システムフォントのサイズが小さくなってるではないの。いや、正確に言えば、以前自分でサイズを大きめに設定したシステムフォントが元に戻っているんである。
●これは直さねば。そう思って「設定」をあちこち探したのだが、ない。以前にはあったシステムフォントのサイズ変更機能がなくなっている! で、ググってみてわかったのだが、本当にWindows 10 Creators Updateからはこの機能がなくなってしまったんである。あー、なんでよっ!
●そんな機能、必要がないという人にはまったく必要がないが、ワタシのように必要な人は(一定年齢以上だと)けっこういるんじゃないだろうか。これはモニタサイズとか解像度にもよるんだろうけど(でも小声でもうひとつ条件として老眼だと)、標準設定だとフォントサイズが小さすぎて、小さなストレスがたまる。読めなくはないんすよ。でも、もう一回り大きくしたい。
●で、解決策。「Meiryo UIも大っきらい!!」というフリーウェアを使えばよい。使い方は簡単。起動すると、「すべてのフォント」の設定が「Yu Gothic UI 9pt」になっている。このフォントサイズを10ptに変更して、「一括設定」するだけ。すると、エクスプローラー上に並ぶファイル名等が、1pt大きくなる。すばらしい。1ptの違いなのに決定的に不快が快に変わる。本当はなるべくこういうことはOSの標準機能で実現したいのだが、背に腹は代えられない。
●Yu Gothic UIがイヤだったら他のフォントにしてもいいわけだが、このフォントはすっかり見慣れた。
東京武蔵野シティFC対FC今治@JFL
●LFJより遡って5月3日、武蔵野陸上競技場でJFLの注目の一戦、東京武蔵野シティFC対FC今治が開催。あの岡田武史元日本代表監督がオーナーを務める(通称リアル「サカつく」)FC今治がついに東京にやってきた! 岡田武史代表のもと、小さなローカルクラブとしてはありえない優秀な指導者陣や大手スポンサーなどを獲得し、理想のフットボールの実現を目指して邁進するFC今治。最初の年こそJFL昇格に失敗して四国に留まったが、今季はついに全国リーグのJFLに昇格し、われらが東京武蔵野シティFCと同じ土俵で戦うことになった。
●開幕前、岡田さんはインタビューで「JFLはワンシーズンで通過してJ3に昇格したい。ここで何年も留まってしまうと云々」みたいなことを語っていた。なにしろ彼らはこんなところで満足しているつもりはない。J3、J2、J1と駆け上り、ニッポン代表選手を何人も供給する最高峰のクラブを目指しているのだから。しかも、勝つだけではなく、見て楽しい、美しいフットボールで。今季から監督を務めるのは吉武博文。わーお、元U-17日本代表監督だよ! JFLにこんな大物監督がいるなんて。そしてメンバー表を見て唸る。世間的に有名な選手ではないだろうが、元Jリーガーが何人もいる。武蔵野はプロ経験のない大卒選手が大半(JFLだとそんなもの)。
●さて、ここまでが長い前フリだ。それで、試合はなにが起きたか。見たこともない試合になったんすよ!! 今治はパスをつなぐ。JFLでこんなチームは見たことがないというくらい、バックラインでもパスをつなぐ。主導権を握って、ゲームを組み立てるのが彼らのサッカー。うわー、JFLでもこんなボールがつながるサッカーができるんだ。で、武蔵野はどうしたかというと、珍しく前線からプレスをかけまくった。そしてひたすらカウンターを狙うという戦略。これがおもしろいようにハマった。技術は向こうのほうがあるんだろうけど、プレスをかけられるとやっぱりミスをする。だからこれを奪ったらカウンター。次々とチャンスが生まれる。前半28分、武蔵野は左サイドを駆け上がった石原が先制ゴール。さらに41分、ショートカウンターからパスをつないで水谷がゴールで2点目。後半に入っても試合の流れは変わらず、70分にまたも水谷がゴール。キーパー飯塚のファインセーブもあって、武蔵野が3対0で鮮やかな勝利。基本、守備のチームである武蔵野がこんなにゴールを奪えるなんて!
●これもFC今治のおかげなんである。彼らが勇敢にポゼッション・サッカーにこだわったから、ゴールを奪えた。多くのチームのようにシンプルにクリアすれば何事もなく済むところで、彼らはバックラインとキーパーの間でボールをつないで展開しようとする。そこでプレスの餌食になる。ポゼッション・サッカーというものがどんなに損か、目の当たりにした気分。彼らが相手だから、(こちらにとっては)とても見ごたえのあるエキサイティングなゲームが実現した。
●大勝で勝点3をゲットした武蔵野。気分は悪くない。で、心中の思いを一言で表現すればどうなるだろうか。「ざまあみろ」って感じ? チチチ、違うんだよなー。そうじゃない。「うらやましい」。これが正しい。われわれは試合に勝ったけど、志で大敗している。今日の今治はミスで自滅したけど、ファンのハートにぐっと来るのは彼らが目指すサッカーのほう。ガマン比べみたいなカウンター合戦はほどほどにしないと、スタジアムから足が遠のく。この日の観客は1438名。いつもの倍くらい。今治からも大勢のサポが来てくれた。感謝するほかない。
LJF2017を振り返る、さらにおかわり、公式本「ダンスと音楽」
●LFJでは昨年から日仏共通オフィシャルブックが発売されている。前回のナチュール 自然と音楽」(エマニュエル・レベル著)に続いて、今回は「ダンスと音楽 躍動のヨーロッパ音楽文化誌」(クレール・パオラッチ著、西久美子訳/アルテスパブリッシング)。これは音楽学者がその年のテーマについて広範な視点から見渡した音楽書であって、プロモーションを兼ねた入門者向けガイドブックなどでは決してない。だから、音楽祭が終わっても本の賞味期限は切れない。ただ、読めば「なぜその曲が今年のプログラムに入っていたか」といったようなことはわかる。帯にある「踊れない音楽はない!」という惹句がなかなか刺激的だが、これは著者の考えを述べたものというよりは、20世紀以降のダンサーや振付師たちが本来舞踊のために書かれていない楽曲までも踊りの音楽に用いるようになったことを引いている。実際、LFJでも以前に勅使河原三郎がシェーンベルク等で踊っていたっけ。
●いくつか興味深かったところをメモ。
●ワーグナーがベートーヴェンの交響曲第7番に対して「舞踏の神格化」と述べた有名な言葉があるけど、その文脈について。前段として、ワーグナーはハイドンの交響曲第82番「熊」終楽章を挙げて、この田舎風のダンスを評価しなかった。これは低級な音楽だって言うんすよね。神格化されていない、ただのダンス。でもベートーヴェンは違う。「ハーモニーを付けられた舞踏は近代の交響曲というもっとも豊かな芸術作品の基礎だ」と説いて、交響曲第7番を「舞踏そのものの神格化」であると讃えている。
●モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」の第1幕のフィナーレ、祝宴の場面で「招待客」が社会階層ごとに3つのグループに分かれて、異なるダンスを踊るという話もおもしろかった。つまり貴族階級のドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ドン・オッターヴィオはメヌエットを踊るけど、村娘ツェルリーナはドン・ジョヴァンニに誘われて一般市民を象徴するコントルダンスを踊る。そして農夫マゼットとドン・ジョヴァンニの従者レポレッロが躍るのは田舎風のドイツ舞曲。こういったニュアンスは今のわたしたちが舞台を見てても、なかなかピンと来ないっすよね。ていうか、ツェルリーナとマゼットの階級差を意識してこのオペラを見たことなんてなかった。
●バッハの「パルティータ」を「フランス組曲」や「イギリス組曲」と並べて「ドイツ組曲」と呼ぶことがある、という話。その理由として、アルマンド、クーラント、サラバンドが対位法的にあつかわれていて、対位法はドイツ的な書法の代表格だから、とされていた。そう、かな。
●ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」について、さらっと「ベラスケスの絵画『マルガリータ王女』にちなむ曲のタイトル」と書いてあった。これは俗説だろうと思ってたんだけど、そうでもないのか。
●あと、ダンスの音楽全般について思ったこととしては、踊りの音楽は案外すぐに踊られなくなる、ってことかな。シャコンヌやパッサカリアであれ、サラバンドやジーグであれ、あるいはポルカやワルツでさえもそう。おおむねどの舞曲も、最初は踊るための音楽だったのが、すぐに踊りの性格が薄れて、聴くための音楽になるという経緯をたどっているのがおもしろい。
LFJ2017を振り返る、おかわり
●LFJ2017、公演以外についても振り返っておこう。次回のテーマだが、例年なら最終日の午後にルネ・マルタンさん他が登壇して記者懇談会が開かれるはずだったのだが、なぜか今回は予定なし。いつもはその席で次回テーマが発表されていたので、どうしたことだろうかと気になっていたところ、最終日になって急遽「15時にルネが来年のテーマについて話す」と声がかかった。本当に急だったので、ほんの数名だけで小ぢんまりと一つのテーブルを囲むことに。
●で、数年前から宣言されている通り、次回のテーマは「エグザイル」(亡命)。政治的な理由だったり個人的な事情だったりで作曲家が祖国を離れて、新天地で書いた曲を集めるという趣向。ただし、この「エグザイル」という言葉は後ろ向きすぎるので、フランスでも日本でも「新世界」「新しい世界」といった別の言い方にしたいという。プレスからは、日本では「新世界」だと即ドヴォルザークに直結するからどうなんだろうという意見が出て、マルタンさんも「フランスでも新世界=アメリカのことになってしまうので、新しい世界などと微妙に表現を変えたい、日本語でも同様のことができるのでは?」。ということで、「新しい世界」「新たな世界へ」「新天地」あたりが候補か。マルタンさん「これは4年前に選んだテーマなんだけど、移民は今日的なテーマになっている」。
●具体的に挙がった名前は、ラフマニノフやプロコフィエフ、グラズノフ、メトネル、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、コルンゴルト、アイスラー、グラナドス、ファリャ、アルベニス、リゲティ、ペルト、ショパン、ドヴォルザーク、マーラー、そして各地の宮廷を渡り歩いたバロック期の数多くの作曲家たち等々。いずれも新天地で書いた作品が題材になるということなので、たとえばラフマニノフだったらロシア時代の名曲ではなく、アメリカ時代の作品が対象になる模様。また、テレジン収容所で初演されたハンス・クラーサ作曲の児童オペラ「ブルンジバル」への意欲も。毎年発見の多い「非クラシック」枠としてはユダヤ系のクレズマー・ミュージックが挙げられた。
●少人数だったのであちこちに話は広がったんだけど、実のある話はこんなところか。あと、もっと先の話を尋ねたら、2020年はオリンピックに関連するテーマ、2019年はそれを導くようなテーマになるだろうという答えが返ってきた。
LFJ2017を振り返る
●今年のラ・フォル・ジュルネのテーマは「ラ・ダンス 舞曲の祭典」。備忘録的に思いつくままに。
●最終日のオネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」。オーケストラ版ではなく、オリジナルの小編成版のアンサンブルと声楽による演奏。ダニエル・ロイス指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアのメンバー、ローザンヌ声楽アンサンブルに独唱3名、語り2名。本来小編成による4時間の劇音楽として書かれたものが、改訂の際にオーケストラ用の70分ほどのオラトリオに仕立てられているのだが、さらにそこから編成のみをオリジナルに戻したという、変則オリジナル版(という理解で合ってる?)。対訳も配布され、しかも字幕も付く親切設計。これって編成はコントラバス1本以外は弦楽器がないんすね。主に管楽器+打楽器+声楽という響きの透明感、輪郭のシャープさが印象的。通常のオーケストラより斬新さを感じさせるのでは。ただしオラトリオとしてはストーリーが断片的なつぎはぎのように感じられて、うまく追いかけられず。それでも幕切れに感動させられてしまうのが音楽の力。巫女役の語りの女性がすごい迫力(でも出番は一か所だけの豪華仕様)。ぜひもう一度この小編成版で聴いてみたい作品だが、そんな機会はそうそうないか。時間切れでカーテンコール途中で退出したけど、最後はロイスのソロ・カーテンコールまであった模様。
●リス指揮ウラル・フィルでタン・ドゥンの「パッサカリア~風と鳥の秘密」、ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲(ベレゾフスキーが弾いた)、ヴィクトロワの「踊る天使」。タン・ドゥン作品はあらかじめ聴衆がスマホに音源をダウンロードしておいて、指揮者の指示で再生するという趣向。これが鳥の鳴き声風の音源で、最初は客席からさざ波のようにあちこちから時間差で鳴り響き、その後、オーケストラの演奏がはじまり、曲中にその音がオーケストラからも聞こえてくる。いつもは念には念を押してサイレントに設定したうえで電源を切っているタブレットを、堂々と客席で再生するというなんだか背徳的な体験。事前にダウンロードをする方法がどこにも見当たらなかったのだが(facebookページのストリームしかなかった)、当日会場に入ったらダウンロード用のQRコードが配布されていた。あわてて客席でまずQRコードリーダーのアプリをインストールして、それから音源をダウンロードしたのだが、なぜか再生ができない。やむを得ずfacebookページからストリーム再生したのだが、それでまったく問題はなかった。コンサートホールだと、自分一台分の音でもずいぶんよく音が響くのだなあと実感できたのが貴重な体験。そのほか楽員の発声や特殊奏法など過剰なくらい趣向満載の作品で、かなり愉快。一方、ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲は豪快。ベレゾフスキー、こんな曲まで弾いてくれてうれしい。いい曲じゃん! しかし時間が予定よりかなり長引いており、この曲が終わった時点でもう次の公演が迫っていたので、最後のヴィクトロワはあきらめて退出。残念。
●これを途中退出して向かった先が、マタン・ポラトとアルデオ弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ。2つの小品からポルカと、ピアノ五重奏曲。これがすばらしかった。擬古的な趣向を持ったピアノ五重奏曲という作品の性格もあってか、苦悩する作曲家像よりは音楽のみずみずしさが前面に。マタン・ポラトは各地のLFJでずいぶんいろんな作品を弾いていて、記憶にあるだけでもアイヴズやバッハも弾けば、今回のようにショーソン、ショスタコーヴィチも弾くという大車輪の働き。譜面台にやや大型のタブレットを置いていて、演奏終了後に確認したら、ペダルの左側に譜めくり用のワイヤレスのフットスイッチがあった。
●そのマタン・ポラトとアルデオ弦楽四重奏団は中日にニコラ・ドートリクールのヴァイオリンとともに、ショーソンの「ヴァイオリン、ピアノ、弦楽四重奏のためのコンセール」。ホールB7の後ろ半分がほとんど空いているというくらいの不人気。まあ、裏番組も強力だったし……。それにしても、この編成のわけのわからなさはすごい。弦楽四重奏にすでにヴァイオリンがふたりいるのに、別途ソロのヴァイオリンを置いて、そこにピアノが入るわけで。二重協奏曲的な意味合いなのかなとも思ったけど、そうでもない。これだったらヴァイオリンのソロを四重奏の第一ヴァイオリンが弾いてもいいような? というか、普通にピアノ五重奏曲に「約分」できたんじゃないかという疑問をつい抱いてしまうのだが。だいぶ遠い席で聴いてたので、もっと至近から聴けばまた違っていたのかも。ともあれ、これもめったなことでは聴けそうもないので、貴重な機会に感謝するしか。
●改めてそのすばらしさを実感したのはルイス・フェルナンド・ペレスの「ソワレ・グラナドス」。グラナドスのスペイン舞曲集、詩的なワルツ集、スペイン民謡による6つの小品。最後は熱くなってノリノリ。この濃密さ、豊かさ。ムンムンとした体臭が感じられて、なおかつ洗練されているという両方の要素を感じさせるのがペレス。
●ほかに印象に残ったピアニストはフランソワ=フレデリック・ギィ。最終日ホールD7でのベートーヴェンのピアノ・ソナタ第2番と第17番「テンペスト」。唸り声がひんぱんに聞こえてくる没入度の高いタイプだが、音楽的な身振りはむしろ抑制的なくらい。ほどよい茶目っ気というか、機知に富んでいるという点で、第2番がより楽しかった。しかし「ギィ」というカタカナは日本語でどう発声すればいいのか、悩む。ギでもギイでもギーでもなくギィ。ラジオなんかではどう発声すればいいんだろう。
アルベニスとマーリンとワーグナーと
●なんとなくすでに連休モードに入ったような気配も感じられるが、暦通りだと明日から5連休。東京はLFJが4日から6日までの開催なので、前後にお休みが一日あるという珍しいパターン。
●LFJ関連で少し予習しておきたいことがあってNaxos Music Libraryにアクセスしたら、たまたまアルベニスのオペラ「マーリン」の録音を見つけた。DECCAの録音でプラシド・ドミンゴほかのキャスト、ホセ・デ・エウゼビオ指揮マドリード交響楽団の演奏。えっ、こんな録音がデッカにあったんだ。っていうか、こんな作品がアルベニスにあったとは。アルベニスといえばなんといっても組曲「イベリア」。ピアノ曲の作曲家だという印象が強かったが、実はいくつもオペラを書いていた模様。で、この「マーリン」だが、ググってみるとやはり大魔術師マーリンのことなんだとか。台本の日本語訳があるなら読んでみたいが、まあ、ないか。
●ちらっと聴いてみると、「イベリア」と同一人物の作品とは思えないくらい手触りは違っていて、かなりのところワーグナー風。土台として潔いくらいに堂々とワーグナーがあって、そこにドビュッシーというか印象主義風味少々で、ところどころスペインの香りが漂ってくるような不思議テイスト。作曲は1902年のようで、「マーリン」「ランスロット」「ギネヴィア」からなる「アーサー王伝説」三部作の一作として構想されるも計画は頓挫してしまい、結局「マーリン」が完全な舞台上演として初演されたのは2003年になってからなんだとか。このドミンゴが歌ってる録音は1999年なので、録音のほうが舞台初演より先に実現したオペラということになる。台本は英語。
●三部作のオペラということだけでもワーグナー的というか「指環」を思わずにはいられないが、この「マーリン」は冒頭からして「ラインの黄金」インスパイアドって感じがありあり。こんなにアルベニスがワグネリアンだったとは。アーサー王伝説という題材もワーグナーとつながっている。整理しておくと、アーサー王のおかかえ魔術師がマーリンで、円卓の騎士にランスロットやトリスタン、パーシヴァル(パルジファル)がいて、パーシヴァルの息子がローエングリン(で、いいんだっけ)。もしアルベニスの三部作が完成していたら、ワーグナーと並んで人気を博していたかも。
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●当ブログの更新スケジュールは暦通りで。次回は8日の予定。
東京武蔵野シティFCvsラインメール青森@JFL
●生観戦はいったいいつ以来か、29日は久々に武蔵野陸上競技場へ。JFLの東京武蔵野シティFCvsラインメール青森。JFLとはサッカーJ1、J2、J3の下にあるカテゴリー。頂上から見ると「なんだ4部リーグか」と思うかもしれないが、裾野から見上げればアマチュア最高峰。下からJFLに上がるのはかなり大変で、岡田武史元日本代表監督が代表を務めるあのFC今治が今季からようやくJFLに到達したところ(次節で武蔵野と対戦する)。
●で、ラインメール青森。まったくなじみのないチームだが、2016年にJFLに昇格したチームなのだとか。控えの選手まで含めたメンバーリストを見ると、JFLにしては大型チームだなというのが第一印象。180cm以上の選手がベンチも含めて8人もいる。先発選手の平均だと青森は176.3cm、武蔵野は173.5cm。J1やJ2に比べてJFLがいちばん違うのは体格で(むしろ技術はけっこうある)、武蔵野の173.5cmなんて日本人男性の平均とそう変わらない。で、高さで勝る青森だが、布陣は3-6-1というか3-2-4-1。武蔵野をはじめJFLだとクラシカルな4-4-2が多いと思うんだけど、青森は3バックでトップに大型フォワードを置きつつ、自分たちがボールを保持するときは中盤から選手をあげて3-4-3気味になる。前半はキックオフ早々から個々の選手の基本的な能力差を感じさせる展開で、青森がゲームを支配。武蔵野は中盤でボールを保持できず、最終ラインでやっと守って奪ったボールも、前に蹴り出すばかりで、ほとんど味方に渡らない。たびたび青森が決定機を作り、武蔵野のキーパー飯塚のファインセーブやポストに救われるという展開。うーん、こりゃ失点は時間の問題だなと頭を抱えつつ耐え切ったのが前半。
●ところがサッカーというのはわからないもので、後半になるとまったく別のゲームになった。武蔵野が次々と青森のゴールを脅かす。特に左サイドから9番水谷の突破が効果的で、サイドからクロスを入れ、こぼれ球を拾ってまたサイドに展開し、といった迫力のある波状攻撃が実現。青森は受け身に回り、時間とともに運動量も落ちて攻め手が乏しくなる。武蔵野がゴールを奪うべき流れではあったが、しかしこちらも決定力を欠いて0対0で笛。勝点2を失ったのか、上位チーム相手に1を拾ったのかは微妙なところ。ともあれ、横河電機時代にはJFLの強豪だった武蔵野も、今は自分たちの下に何チームいるかを気にしなければならない立場。「Jリーグ入りを目指す」と宣言したはいいものの、現状の順位ではまるで現実味がないわけで、残留争いに巻き込まれないことを祈る。観客数は公式発表で860人。