●29日はすみだトリフォニーホールでキット・アームストロング ピアノ・リサイタル。このホールの名物企画であるゴルトベルク変奏曲シリーズの一環で、ついこの前のピーター・ゼルキンに続いて、同じホールでまたこの曲を聴くことに。プログラミングがおもしろい。ピーター・ゼルキンがゴルトベルク変奏曲にモーツァルトの晩年の作品を添えたのに対し、キット・アームストロングはバードとスウェーリンク、ジョン・ブルという16世紀後半から17世紀前半の作曲家たちを組み合わせた。それってむしろピーター・ゼルキンが好きそうなプログラムでは。
●で、しかも各々の曲が変奏曲になっていて、バードのヒュー・アシュトンのグラウンド、スウェーリンクの「我が青春は過ぎ去りし」、ブルのウォルシンガム変奏曲。前半は軽めのプログラムかと思いきや、ウォルシンガム変奏曲は主題と30の変奏からなる壮麗な大変奏曲。まさかこんなクライマックスが前半に待っていようとは。
●アルフレート・ブレンデルのお気に入りだというキット・アームストロングは、1992年ロサンゼルス生まれ。風貌は東アジア系で、以前のインタビューによれば「8分の1は日本人」なのだとか。なんどか来日していると思うが、今回ようやく聴けた。よどみなく流れる自然体の音楽。ピーター・ゼルキンが自身のトレードマークとでもいうべき作品を前に苦闘の儀式をくりひろげたのに比べると、アームストロングは万全のメカニックでやすやすと弾いてみせるといった感。ダイナミクスは控えめに設定するものの、語り口はしなやかで、情感豊か、パッションも欠いていない。清潔すぎるかな、と思わなくもないんだけど、なにせプログラムが見事なのでまた聴いてみたくなる。
2017年8月アーカイブ
キット・アームストロング ピアノ・リサイタル
サントリーホール リニューアルオープン説明会&内覧会
●29日はサントリーホールのリニューアルオープン説明会&内覧会へ。7か月ぶりに足を運んだサントリーホール。これまでにも改修のために休館することはあったが、これだけ大規模な改修工事は初めて。市本徹雄総支配人と堤剛館長よりリニューアルオープンについての説明があり、続いて内覧会が開かれた。
●今回の改修ポイントは3つ。1つは伝統の継承。音響およびホール内の雰囲気についてはこれまでと変わらないように留意されている。客席椅子の布地やクッション、舞台床板が張り替えられているが、ぱっと見ではわからないかも。ブルーローズ(小ホール)床の寄せ木細工も全面張替え。オルガンはパイプを取り外して中を掃除するなど、オーバーホールと整音が行われた。特にオルガンは開館以来のオーバーホールで、6名の専門家がオーストリアから来日して2か月をかけたとか。
●2つめはダイバーシティデザイン。新たに段差のないエントランスが増築された。さらに2階客席へのエレベーターも新設されている。1階ホワイエにもスロープが作られた。これまではホワイエの片隅にある昇降機で車椅子に対応していたのが、これがなくなって、スロープができた。また、トイレも増設。多くの聴衆にとって最大の変化と言えるのがトイレかも。2階にあった従来のトイレの場所が女性用になり、男性用はその奥に配置されることに。実はこの日の内覧会に限って、男性も女性用トイレのなかに入ることができたのだが(オープンしたら金輪際入れない場所だ)、女性用トイレってこんなに広いんだ!と感動。新たに空室表示サインが導入されたほか、化粧直し用カウンターも設置、また入口と出口を分けて導線が改善されている。すばらしい。男性側も改善されていると思うのだが、一部のレパートリーに特有の長い「男たちの行列」がどうなるかは、実際の運用が始まってから確かめたいところ。
●3つめは個別設備の一段の充実。照明のLED化、館内へのデジタルサイネージの導入(これも目に付きやすい変化)、楽屋内の家具の更新、ミキシング・コンソールの更新等。以前からそうだけど、楽屋は快適そう。ふー、暑いから、せっかくの機会だしシャワー浴びちゃおうかな~(ウソ)。
●内覧会の合間にはオルガンの演奏も。鈴木優人さんがバッハの前奏曲とフーガ ト長調BWV541とエルガーの「威風堂々」(!)を演奏してくれた。普段とちがって客席がまばらなので、よく響く。レセプションで優人さんに尋ねてみると、オーバーホールの効果は弾いてすぐにわかるのだとか。
●内覧会となると普段は行けないところに行けるんだけど、多くの人がまず舞台に立つんすよね。やっぱり立ちたくなるものなのか。これは改修とは関係ないんだけど、舞台に立つと客席がすごく近く感じる。最前列のお客さんなんて手を伸ばせばすぐ届きそうな気がするくらい。
クラークの「2001年宇宙の旅」とアレックス・ノースのボツ・バージョン その2
●(承前) 映画「2001年宇宙の旅」でキューブリックはアレックス・ノースが書いたオリジナルの音楽をばっさりと没にして、代わって「仮の音楽」だったはずのクラシック音楽を用いてることになった。その際、キューブリックが削ったのはノースの音楽だけではない。作品をわかりやすくするためのナレーションも削られてしまった。ナレーションなし、オリジナルの音楽もなし、そしてこの映画では人間同士の会話も少ない。音声的に雄弁なのはここぞという場面で使われるリヒャルトとヨハンの両シュトラウスやリゲティの音楽、そしてHALとの「対話」シーンだろうか。おかげで映画に多数の解釈の余地が生まれ、深みのある作品になったことはまちがいない。アーサー・C・クラーク著の「2001年宇宙の旅」決定版(伊藤典夫訳/早川書房)の後書きによれば、当初、映画はこんなナレーションから始まる予定だったという。
無情な旱魃は今日まで一千万年つづき、あと百万年は終わりそうもなかった。恐竜の時代はとうに過ぎ去っていたが、ここ、いつかアフリカと呼ばれるようになる大陸では、生存の戦いは新しい残虐なクライマックスを迎え、勝利者はまだ現れていなかった。
●つまり、これはクラークの小説版の冒頭とほぼ同じ。最初はずいぶん説明的な映画として構想されていたわけだ。映画でも小説でも冒頭はヒトザルのシーンから始まる。映画は小説よりもずっと展開が早く、ヒトザルはモノリスに触発されることで、動物の骨を道具や武器として使うという知恵を獲得する。狩りのシーンも挿入されていたと思うが、印象に残るのは水場を巡って対立する他の部族との争いのシーンだろう。武器を発明した部族は容易に戦いに勝利し、骨を空に放り投げる。宙を舞った骨が一瞬にして宇宙空間に浮かぶ衛星と入れかわって、「美しく青きドナウ」が流れ出す。歴史的な名シーンだ。
●この場面、先日再読して気がついたのだが、小説版ではずいぶん丹念に描かれている。ヒトザルはたしかに映画と同じように他の部族と対立しているのだが、それ以上に焦点が当たっているのは「飢え」。まだ狩りを知らないヒトザルはひたすら飢えているんである。一族のなかで巨人といえるほど体格のよかった「月を見るもの」でさえ、身長は150cm未満で体重は45キロ、ひどい栄養不良に苦しんでいた。凶暴な肉食獣のいるこの世界で、ヒトザルのごちそうといえば枯れ木の根株のなかにあるハチの巣がせいいっぱい。ところが、ヒトザルはモノリスのレッスンを受ける。ヒトザルのなかでもとくに素質のあるものがモノリスのもとに通い、やがて道具を使うことを覚え、ついに狩りをする。いったん、狩りを覚えたら、あとは簡単だ。なんの警戒もしていないイボイノシシを石の武器で打撃する。もはやヒトザルが飢えることは決してない。そこらじゅうに食糧があるのだから。クラークの文で特にいいなと思ったのは、狩りを知る前の飢えたヒトザルたちについての、こんな一文。
豊穣のまっただなかで、彼らはゆっくりと餓死への道を進んでいるのだった。
●淡白な文体のなかで、ここだけが目立って詩的だと感じる。
ワールドカップ2018最終予選はあと2試合
●さて、ワールドカップ2018最終予選であるが、残すところあと2試合。いよいよ31日、今週木曜日にホームのオーストラリア戦が行われる。すでに何度か書いているように、今回の最終予選は序盤が比較的戦いやすく、最後の2試合がキツいという「先行逃げ切り」型のスケジュールが組まれていた(なんだか最終予選は毎回そうなっているような気もするんだけど)。そして、今週、ホームでのオーストラリア戦、9月6日には難関、アウェイでのサウジアラビア戦が待つ。
●ニッポンは現時点でなんとか1位を確保して勝点17。2位と3位のサウジアラビアとオーストラリアはともに勝点16。楽観的な言い方をすれば「ニッポンは2試合のうち、どちらかで勝てば2位以内で出場決定」。しかし、残り2試合を見ると、サウジアラビアはアウェイのUAE戦とホームの日本戦、オーストラリアはアウェイの日本戦とホームのタイ戦と続く。つまり、対戦相手を巡る事情は3か国でだいぶ違っていて、ニッポンが「ガチの」2試合を残すのに対して、サウジとオーストラリアは下位の相手との試合がひとつずつ残っている。特にオーストラリアにとってホームのタイ戦は、「もっとも勝点3が見込める」試合だろう。
●オーストラリアの立場になって考えると、次の日本戦で勝点0になってしまうと、2位確保がかなり厳しくなる。というのもその場合、最終節でサウジアラビアはすでに大会出場を決めた後のニッポンとホームで戦える。しかも(サウジアラビアがUAEに勝点を落としていなければ)彼らは引き分けでもオーケーという状況になってしまう。一方、日本戦で引き分けた場合、オーストラリアは一気に楽な展開になる。なぜなら、タイ戦に勝つ可能性がきわめて高いので最終的にオーストラリアは勝点20を見込める。一方サウジとニッポンは最終節で(サウジがUAEに勝つという前提で)サウジ19vsニッポン18でつぶし合うのだから、オーストラリアはタイに勝った時点で2位以内を確保してW杯出場権を獲得する。勝てばそれに越したことはないが、引分けでもほぼ無問題、負けると一気に厄介になるという「絶対に負けられない戦い」が彼らにとっての日本戦。監督の考え方が戦術に現れやすい状況だと思う。
●ただ、ひとつモヤッとするのは残り2節、同時キックオフじゃないんすよね。次節、サウジアラビアは一日前にUEAと試合をするので、ニッポンとオーストラリアはその結果を確かめてから試合ができる。最終節もキックオフ時間はバラバラで、他の試合の結果が出た後でサウジアラビアとニッポンが戦う。少しニッポンは得をしている。あまりにも時差が大きいのでしょうがないのかなとも思うけど、イランや韓国が属するグループAでは最終節は同時キックオフになってるんすよね。このあたりの仕組みはどうやって決まってるのか、不思議。
読響サマーフェスティバル2017 ルイージ特別演奏会
●24日は東京芸術劇場でファビオ・ルイージ指揮読響。週末のサイトウ・キネンに続いて、松本から東京へ。サイトウ・キネンからもとてつもないサウンドが出てきたが、この日はまた一味違った緊密堅牢な響き。読響とは初共演ということなんだけど、オーケストラのポテンシャルが最大限に引き出された記憶に残る名演だった思う。
●プログラムはR・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、ハイドンの交響曲第82番「熊」、休憩を挟んでR・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ぼんやりとしがちな「ドン・ファン」の冒頭だが、いきなりビシッと気合の入った音が出てきて、普段の公演とはずいぶん違った雰囲気に。ひりひりした緊張感のなかで集中度の高い音楽が生み出されてゆく。カンブルランが振った際の精緻でカラフルなサウンドとは別のゴールに向かった、造形のしっかりとしたアンサンブル。しかも聴かせどころは情感豊か。このクォリティの高さ、周到さ。これは……お見合いなの?
●「英雄の生涯」は終結部が一般的なバージョンと違っていて、最後の一撃がなくて、静かに消え入るように終わるオリジナル版。ルイージによれば「人生を静かに振り返る老人の姿」が描かれるのだから、このオリジナル版がふさわしい、と。これは納得。ストーリーとして筋が通っているし、音楽の流れとしても自然で美しい。これを聴くと一般的な終結部がとってつけたようなわざとらしいものに思えてくる。改稿によりエンディングが派手になった似たパターンとしては、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」があるけど、あっちの改訂版はいいと思うんすよね。華麗で、演奏効果抜群だし。でも「英雄の生涯」のほうはそうでもないわけで、オリジナル版を聴いてもなにかを聴き損なったという悔しさがまったくない。というのが発見。
第27回出光音楽賞受賞者ガラコンサート
●23日は東京オペラシティで第27回出光音楽賞受賞者ガラコンサート。出光音楽賞の授賞式と合わせて、3人の受賞者たちが演奏を披露する公演で、今回の受賞者は荒木奏美(オーボエ)、小林沙羅(ソプラノ)、反田恭平(ピアノ)の3名。年によっては作曲家や邦楽の演奏家も受賞するのだが、今回はクラシックの演奏家がそろった。
●授賞式ではおなじみ、池辺晋一郎先生が選考委員を代表して登場。期待に応えて今回も華麗にダジャレを連発。「この賞は、今、アブラの乗っている人に差し上げているんです。出光だけに。それと光の出ている人ですね」。ご本人もおっしゃってたけど、そのネタ、前にも聞いてます! でもいいっす。秀逸なネタは何度でも。
●荒木奏美さんはオーボエ奏者の定番、モーツァルトのオーボエ協奏曲を披露。沼尻竜典指揮日本フィルが共演。よどみなく音楽が流れるのびやかなモーツァルト。カデンツァは自作。モーツァルト・スタイルで無理がない。普段、東響の首席奏者として聴いている荒木さんが日フィルと共演してソリストを務めているという新鮮な光景。
●小林沙羅さんは3曲。それぞれまったく異なる性格を持った曲で、グノーの「ファウスト」から「宝石の歌」、グリーグの「ペール・ギュント」から「ソルヴェイグの歌」、そしてレハールの「ジュディッタ」から「私の唇は熱いキスをする」。レハールの曲は盛り上げてくれるだろうなと思っていたが、期待通りダンスを交え、赤いバラを客席に投げ込む演出入り。一気にオペレッタらしい雰囲気になって、華がある。
●反田恭平さんはラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲。とりわけ思い入れのある一曲ということで、切れ味鋭く、スケールの大きな演奏。この前、同じラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を聴いたばかりなので、この一曲だけだともっと聴きたくなる。有名な第18変奏はたっぷりとして甘美。
ブライアン・オールディス追悼
●イギリスのSF作家ブライアン・オールディスが逝去。92歳。SNSを見ていると、みな一様に「まだ生きていたのか!」とびっくりしていた。たしかに「地球の長い午後」をはじめとする代表作が書かれたのは1970年代まで。以前、当欄でご紹介した「寄港地のない船」に至っては50年代の作。そこそこ翻訳されていたと思ったが、今amazonで見たら大半は絶版・品切状態の模様。もちろん電子化もされていない。
●読んだのが昔なので中身はほとんど忘れているのだが、「地球の長い午後」は未来の地球で巨大な樹木が地表を覆いつくし、進化した食肉植物が食物連鎖の頂点に立ち、文明を失った人類がかろうじて生き延びている、という強烈な終末感に包まれた小説だった。知能を有するようになったアミガサダケが、主人公の脳に寄生して行動を支配するという設定がかなり気持ち悪い。そもそもアミガサダケとはどんなキノコなのか、この小説以外で見聞きしたことがあるのだろうか。で、気になって検索してみたら、こんな姿のキノコだった。なるほど、これはいくぶん禍々しい。なんだか脳っぽくて、いかにも進化するとヒトに寄生しそう。これ、欧米じゃ食べるらしいっすよ。うっ。
●自分は「地球の長い午後」よりも「マラキア・タペストリ」のほうが好きだった。架空の都市国家が舞台なんだけど、ヨーロッパの宮廷文化とファンタジーに登場するような想像上の動物が混在するような世界でくりひろげられる冒険譚で、「地球の長い午後」とはまるで違った絢爛豪華な世界の描写に圧倒された……ような気がする(うろ覚え)。今にして思うと、バロック・オペラ風の物語だったような? 復刊の可能性はあるだろうか。
●未読なんだけど、「グレイベアド―子供のいない惑星」では、子供が生まれなくなった平均年齢70歳の超ウルトラ高齢化した人間社会が舞台になっている。今の日本から見るとおそろしく先見性のある話かも。復刊するならこっちか。
松本市美術館へ
●ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラを聴いた後、松本に一泊することになったのだが、翌日をどうするかはかなり迷った。松本山雅の試合はない。上高地や乗鞍高原を散策できれば最高なのだが、山を歩いたその足で帰京するというのは軟弱者の自分にはきつすぎると思ったし(二泊だったら行けるんだけど)、せっかく遠くまで来たんだからゆったりしたスケジュールで過ごしたい。で、徒歩で行ける松本市美術館へ。常設展で「草間彌生 魂のおきどころ」を満喫。これが常時展示されているというのは強力。なにしろ建物自体が写真のような楽しさ。松本出身の草間彌生あってこその美術館。
●こんなふうにコーラの自動販売機まで水玉模様になっていた。館内は空間的にゆとりがあって、いたるところに座って休める場所があるのも吉。人も少なくてのびのび。なんというぜいたくな環境なのか。企画展は「日本のアニメーション美術の創造者/山本二三展」で、「天空の城ラピュタ」や「未来少年コナン」の背景画などが展示してあった模様だが、そちらは立ち寄らず。
●松本市ってどれくらいの人口なんだろうと思って検索してみたら、24万人しかいないんすよね。それでいて最高水準の音楽祭があって、美術館があって、サッカー専用スタジアムがあって、松本山雅がある。街は公園にも恵まれていて、人口密度が薄そうなのに個人商店が駅の周囲にたくさん生き残っている。上高地や乗鞍高原もある。文化にも自然にもこれだけ恵まれた都市はそうそうないのでは。東京へのアクセスも悪くない。山が見える街というのも憧れる。なんというか、住みたくなる街。実際には、クルマを一切運転する気のない自分が暮らせるとは思えないんだけど、つい夢想してしまう。
松本でルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ
●19日は久しぶりに松本へ。前回の松本への旅では、同日のあずさに乗った音楽関係者たちが次々とサイトウ・キネンを聴きに行くのを尻目に、ワタシはその足でアルウィンへ直行し松本山雅FCの試合を観戦し、その翌日は乗鞍高原まで行ってハイキングして、なにも聴かずに帰るという謎行動をとったのであった(参照:ゾンビと私 その24 乗鞍高原ハイキング)。ビバ、アルピコ交通。新島々バスターミナル上等。いや、単に松本山雅を観戦したくて旅行を計画したら、たまたまその日がサイトウ・キネンと重なったというだけなのであるが。
●が、今回の目的は演奏会。セイジ・オザワ 松本フェスティバル2017でファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(キッセイ文化ホール)。曲はマーラーの交響曲第9番のみ。この日のオーケストラ出演者はこちら。日本を代表する名手たちに加えてバボラークとかタルコヴィとかゼーガースがいて、サッカーにたとえるならニッポン代表にメッシやネイマールがスポット参戦してくれているようなドリームチームによる、マーラーの第9番。最強に強まっている。それでいて当日券あり。
●マーラーの第9番はやはり特別な曲。あらゆる交響曲のなかでもこれほど襟を正して聴かなければと思わせる曲はほとんどない。実演であれ録音であれ、奇跡の名演に接するたびに曲のイメージがどんどん脳内で膨張して、もしかしたら実像以上の彼岸的な絶美の世界がすっかり築かれてしまっているので、かえって「本物」に接することでイメージとの乖離に困惑することも少なくないんだけど、でもこの日は違っていた。自分の勝手な脳内イメージを外側にぐっと一段押し広げて、いまだ聴いたことのないマーラーを体験できたという充足感。ひとりひとりの奏者から生まれる音の美しさの総和を、さらに一段階ルイージの棒が引きあげて、熱い命を吹き込む。第1楽章では弦と管の響きのバランスに「つなぎ目」を感じるようなところもあったんだけど、進むにつれて一体に。第3楽章は凶暴というよりは悦楽のブルレスケ。いちばんすごいと思ったのは第4楽章。冒頭から弦楽合奏の緻密さが際立っていた。曲が終わった後は、完全な沈黙の後で大喝采、鳴り止まない拍手にこたえて、ルイージのみならず楽員も舞台に再登場してのカーテンコール。
●この後、東京に帰る電車はないので、松本に一泊。これで松本山雅の試合とくっつけられれば最高だったのだが、あいにくこの週はアウェイ。今回、音楽祭のオーケストラ・コンサートはA、B、Cプロのどの週末も松本山雅はアウェイゲーム。土曜の夜に松本山雅(夏なので試合は夜になる)、日曜の昼にコンサートとなれば一泊で両方行けるんだけど、なかなかそうも行かないか。
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●今日は本サイトの誕生日。インターネット草創期の1995年に始まったので、22周年になる。よく飽きないというか、進歩がないというか。
クラークの「2001年宇宙の旅」とアレックス・ノースのボツ・バージョン
●とうの昔に読んだ本だが、ついKindle版で買い直してしまった。名作、アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」(伊藤典夫訳/早川書房)。「決定版」と記されていて、どうやら自分が読んだときとは翻訳が改稿されているらしい。これを機に再読してもいいかも。この本が書かれた時点では2001年は遠い未来であり、宇宙開発がずっと進んでいるという設定だったわけだが、現実には2017年になっても月への旅は容易になるどころか、むしろ遠のいてしまった。
●で、この本の後書きにもあるように、スタンリー・キューブリックは原作と同時進行で映画「2001年宇宙の旅」を撮影していた。当初、音楽を担当していたのはアレックス・ノース。作曲の依頼を受けたノースは、ニューヨークからロンドンに飛んでキューブリックと打合せをした。キューブリックは仮の音楽として、クラシック音楽を付けていた。こんなイメージで行きたい、というわけだ。ノースは仕事を引き受けたのだが、レコーディングまでの日があまりに短く、ぶっ倒れそうになりながら筆を進めて、当日は救急車でレコーディング・ルームに運ばれる騒ぎになったという。
●で、最初に40分ほどの音楽を仕上げ、オープニングテーマはキューブリックにも気に入ってもらえたのだが、その後、パタリと仕事の催促が来なくなった。しばらくすると、キューブリックからもうこれで十分だという連絡が入る。事の顛末をノースが知ったのはようやくニューヨークで試写会が開かれてから。なんと、ノースが書いた音楽はボツになり、代わりに当初キューブリックが付けていた「仮の音楽」がそのまま使われていた!
●ひどい話ではある。本当にひどい。で、後年、幻のノースのスコアはレコーディングされて、映画とは別に日の目を見ることになった。自分はこれを聴いていなかったのだが、この決定版の後書きを読んで、ふと存在を思い出し、Apple Musicで聴けるということに思い当たった。その録音がこちらの Alex North's 2001。そして、これを聴くとキューブリックの決断の正しさを思い知る。「ツァラトゥストラはかく語りき」や「美しく青きドナウ」がなかったら、あの映画の雰囲気はずいぶん違っていただろうし、宇宙空間には大量のBGMよりも静かな息づかいのほうがずっと似合っている。アレックス・ノースの職人芸になんら問題があったわけではなく、描いていたゴールが違いすぎたということなんだろう。
東京国立近代美術館 MOMATコレクション
●竹橋の東京国立近代美術館のMOMATコレクションへ。13,000点の所蔵作品から約200点を厳選して紹介するというだけあって、恐ろしく見ごたえがある。1回でぜんぶを巡るのが大変なくらいのボリューム感。おまけに開催期間中になんども展示替あり。上野ならともかく、竹橋はなにかのついでに来る機会がないんだけど、ふらり立ち寄れる常設展としては最強なんじゃないだろうか。
●全体の構成も巧みで、最初に入る1室を「ハイライト」と名付け重要文化財を中心に展示し、2室が「明治の絵画 リアルな自然を描く」、3室が「恋とクリームパン」(このネーミングも秀逸)、4室が「インド・アジア スケッチ紀行」、5室が「西洋は絶対か?」、6室が「藤田、Foujita、またの名を Léonard」、7室「国吉康雄 誰かがわたしの何かを破った」、8室「アメリカの影」、9室は写真展で田村彰英の「午後」、10室「筆と墨と個性と南画」、11室&12室が「1960-70年代の美術|近年の新収蔵作品から」。音楽ファンにとってなじみ深いところでは、5室にココシュカの「アルマ・マーラーの肖像」があった。これってここの収蔵作品だったんすね。全体についてのすごく雑な感想としては、新しいほど古びやすいってことかな。前半のほうにより力強さを感じる。
●で、コレクションの充実ぶりはもちろんスゴいんだけど、ハッとさせられたのは、各室や各作品に添えられた解説文。これが猛烈に上手い。門外漢が読んでも、とてもおもしろい。よく知らないんだけど、これは学芸員の方が書いているんだろうか。「文句のつかない正しいこと」だけで字数を埋めて対話性を拒むようなカテナチオ原稿とは正反対で、開いた文体でやさしくあれこれを教えてくれる。「解説」ってこうあるべき、と心に刻む。
映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(ジョン・リー・ハンコック監督)
●映画館で「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(ジョン・リー・ハンコック監督)を見た。マクドナルドの創業者として知られるレイ・クロックを主人公とした実話に基づく物語。といっても、マクドナルドのお店を最初に作ったのはこの人ではない。本当の創始者はマクドナルド兄弟のふたり。この兄弟はいわば発明者で、かつてないほどスピーディに提供される新しいサービス形態のハンバーガーショップを考案して、マクドナルドと名付けた店を繁盛させていた。そこにミルクシェーク製造機のセールスに訪れたのがレイ・クロック。彼はマクドナルド兄弟の店に感銘を受け、フランチャイズ方式でビジネスを拡大することを提案する。マクドナルド兄弟はあまり乗り気ではなかったが、レイ・クロックの熱意に負けてこれを了承する。すると、レイ・クロックは猛然と事業を拡大し、大躍進を遂げるのだが、やがてマクドナルド兄弟との間の亀裂は深まり両者は対立する……といった筋立て。
●史実そのものの興味深さもあって、これは秀作。いいなと思ったのは、レイ・クロック側とマクドナルド兄弟側のどちらにも肩入れしていないところ。ありがちな見方としては、創意に富むがビジネスに疎いマクドナルド兄弟のもとに、辣腕ビジネスマンがやってきて、なにからなにまで奪ってしまった、ということになるんだけど(事実そうでもあるのだが)、ちゃんとレイ・クロックの側にも共感できるように描かれている。マクドナルド兄弟の発明は立派だけど、でもそれを全世界に広げる才能はさらに偉大ともいえるわけだし。しかもマクドナルド兄弟が単なる敗者ともいいがたいところがある。ちなみに、このレイ・クロックって52歳になってマクドナルドを始めたっていうんすよ。そこから巨大企業を築きあげたんだから驚き。チェコ系移民の一家の出身で、母親がピアノ教師だったこともありピアノの腕前も達者だったそう。
●あと、この映画が偉いと思うのは、見終わった後でも特にハンバーガーを食べたくなったりしないところ。ぜんぜん平気。
欧州各国リーグが開幕
●まだ日本はお盆だというのに、ヨーロッパの夏はあっという間に終わる。先週と今週あたりで各国ともサッカー界は開幕。そして、なんと、DAZNでは今季からイングランドのプレミアリーグも一部配信されるようになった。これで英独仏伊スペインの五大リーグ(?)が見れて、J1、J2、J3も全部見れるし、ベルギー・リーグだのブラジル全国選手権だのがあって、おまけに野球もF1も格闘技も自転車もラグビーもゴルフも競馬もダーツも楽しめるというのがDAZN。いやー、恐ろしい。人をダメにする娯楽集積装置のようでもあり、コンテンツのインフレ化を究極まで進める破壊装置のようでもあり。
●でも、どんなに膨大なメニューがあっても、見る側の時間は増えるわけではない。週末に開催された試合のなかから、関心のあるものをいくつか拾ってハイライトを再生してみた。各試合5分くらいあってスポーツニュースとは段違いに見る甲斐があるのだが、そうはいってもハイライトをいくつも見てるとかえって味気ない感じもしてくる。やっぱり1試合をしっかり見たくない? ていうか、スタジアムに行こうよ、みたいなうっすらとしたフラストレーション。うーん、これはいろんな意味でサッカーファンの生態を変える。革命かも。
●で、フランスリーグ。ネイマールの移籍で、がぜん注目度がアップ。ギャンガン対パリ・サンジェルマン(PSG)でついにネイマールがデビュー。それにしてもパリの攻撃陣、ネイマール、カバーニ、ディ・マリアといった顔ぶれは「銀河系軍団」の一歩手前くらいまで来ている。ネイマールはめでたくパリ・デビューをゴールで飾った。左サイドを破ったカバーニがアシスト。カバーニのプレイにネイマールにゴールを取らせようという意図がありあり。ロッカールームでの関係も良好なのか。
●プレミアリーグも何試合かハイライトを見たが、やはりここのレベルがいちばん高いんじゃないだろうか。ビッグクラブの数が多いうえに、下位のチームでもビッグクラブを脅かせる力を持っているところが他との違い。レスターはアーセナルに3-4で逆転負けを喫してしまったが、なんと岡崎が先発、しかもゴールまで決めた! レスターは絶対的なエースであるヴァーディの相棒を探していて、昨季はスリマニ、今季はイヘアナチョを新戦力として獲得。岡崎の序列は3番手、4番手に下がっているはずなのだが、それでも開幕戦にこのふたりをベンチに置いて先発したのだから立派。しかもゴールまで。攻撃力はどう考えてもスリマニやイヘアナチョのほうが高いのだが、岡崎のような泥臭い献身性を持った選手には独自の価値があるということか。31歳なので、もうすっかりベテラン。
●マンチェスター・ユナイテッドからエヴァ―トンに復帰したルーニーも、開幕戦でゴール。古巣での13年ぶりのゴール。これが決勝ゴールとなった。泣かせる。
フェスタサマーミューザ2017 東京交響楽団フィナーレコンサート
●11日はミューザ川崎で「フェスタサマーミューザ」のフィナーレコンサート。秋山和慶指揮東京交響楽団、反田恭平のピアノによるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番と交響曲第2番。全席完売、当日券なしで大盛況。
●この日は午前中に公開リハーサルがあり、そちらも見学。予定時間いっぱいを使って、プログラム通りの流れで進めつつ、部分的に細かなところを確認するという流れ。鋭敏でキレのある独奏ピアノにオーケストラも輪郭のくっきりとした演奏でこたえていたのだが、協奏曲が終わって交響曲になるととたんに折り目正しい秋山サウンドに変化するのがおもしろいところ。
●前半のピアノ協奏曲第3番、やはりソロは強烈。リハーサルよりも一段も二段も熱量を込めた演奏で、切れ味鋭いテクニックにピアノから噴煙が上がりそうな勢い。思い切りのよい表現で雄弁だが、まったく感傷に溺れない剛胆でヴィヴィッドなラフマニノフ。反田さんは体つきからしてそうなんだけど、以前よりもパワーというか筋力が増していて、楽器を鳴らしきっているという印象。スピードに加えてパワーもついてきたアスリートのよう。フィジカルでもメンタルでも20代の今だからこその音楽なんだろうと思う。白熱の第3楽章が終わると客席が「ウォーーー」と沸いた。アンコールはモーツァルトの「トルコ行進曲」。曲が始まったとたんに、身構えていた聴衆からドッと笑いが起きた。超絶技巧編曲版じゃないんだけど、にもかかわらず技巧の高さと解釈の独自性は鮮烈。後半の交響曲第2番も客席の熱気が後押しするかのようにエモーショナルな名演に。終楽章の高揚感は音楽祭の掉尾を飾るにふさわしいもの。やっぱり最終日が祝祭的な雰囲気で包まれるといいっすよね、「フェスタ」らしくて。
山賊ダイアリーSS(岡本健太郎著/イブニングコミックス)
●漫画を読む習慣はなかったのだが、Kindleで手軽に読めるようになってから、いくつか楽しみな作品ができてしまった。岡本健太郎著の「山賊ダイアリー」もそのひとつ。猟師のライセンスを持つ著者が山で銃や罠を用いてイノシシやシカや鳥を狩り、それをさばいて食べる。それだけの話が無性におもしろかったのだが、新シリーズ「山賊ダイアリーSS」では新たな展開が。クルマを手に入れた著者は、銃を預けて、モリを携えて海へと向かったんである。「魚突き」(スピアフィッシング)なるものの存在すらワタシは知らなかったんだが、これがまたワイルド。絶対にまねできない。車中泊で気ままな一人旅をしながら、各地の海に潜り、魚をモリで突く。そして食べる。この食べるシーンが実にうまそう。イシダイを刺身にして、サヨリを塩焼きにするキャンプ飯。じゅるり(←よだれの音)。
●で、これは前シリーズにもいえるんだけど、やっぱり危険なんすよね、狩猟も漁も。正しくやれば大丈夫なんだろうだけど、一歩まちがうと怖いことになりかねない。海に潜れば息が続かないかもしれないし、危険生物もいる。そこのところはあんまりクローズアップされていないけど、抑えたタッチの話のなかにひそむスリルがおもしろさにつながっている。人が自然を美しいと思い、憧れを感じるのは、それが本質的に凶暴で危険なものだから、という思いを新たにする。
Pepperと呼ばれるロボ
●たまに見かけるPepperと呼ばれるロボット。いや、正直なところ人型であるというだけで、ロボットと呼びたくなるような生命感はまったくなく、胸のパネルに触ると商品案内とか観光案内をしてくれるだけの掲示板みたいなものだと思っていた。
●先日、そのPepperなるロボの胸パネルに「写真を撮る」みたいな選択肢があったので、押してみた。へー、このロボ、写真を撮ってくれるんだ。ロボを前にいろんなポーズをとるワタシ。こんな感じかな、ピース、それともこっちがいいかな、ニッコリ。そのワタシの前でいろんなポーズをとるロボ。ヒュイーン、ギゴゴゴ、ヒュイーン、ギゴゴゴ……。あ、あの、君が写真を撮ってくれるんじゃなくて、ワタシが写真を撮るって意味なのかよっ! なんでワタシがあんたの写真を撮りたいと思うのかね。シラッとした空気を挟んで正面で向き合ってロボとポージング対決をしてしまったぜ。どうしてくれようか。
●はじめてこのロボと友達になれそうな気がした。
パリのブラジル人
●この移籍は実現してほしくないと思っていたのだが、ついに決まってしまった。ネイマールがバルセロナからパリ・サンジェルマンへ。パリがバルセロナに支払う契約解除金(一般に移籍金と呼ばれるもの)は約290億円。この契約解除条項が用意されたときには、まさか現実にこれを払うクラブが出てくるとはだれも思っていなかったんじゃないだろうか。
●高額の移籍金でサッカー界をにぎわせた事件として、ワタシが記憶しているのは1992年、イタリアのレンティーニがトリノからミランへ当時の史上最高額で移籍した件。単なる一選手を獲得するためにそんな大金が動くのは馬鹿げていると、ずいぶん物議を醸した。じゃあその移籍金はいくらだったのかと今ググってみたら約30億円と出てきた。これで大騒ぎになったんである。当時のミランは世界最強のビッグクラブ。レンティーニは移籍直後のシーズンは活躍したが、その後、自動車事故にも遭って選手生活は苦労の連続だったと思う。
●で、ネイマールだ。事前の報道では移籍するかしないか二転三転していたのだが、いろんな記事からはネイマール本人には迷いがあったが父親のビジネス上の強い意向があって決断されたというようなニュアンスが伝わってくる。もちろん、本当のところはわからない。ひとつこの移籍によい面があるとすると、もうネイマールはメッシの陰に隠れずに済むこと。絶対的な中心選手としてチームで輝ける。
●しかしパリ・サンジェルマンが底なしの資金力でどんなにいい選手を買い集めても、彼らはバルセロナにはなれない気がする。なぜなら、フランス・リーグにはレアルマドリッドがいないから。フランスでずば抜けた一強になって国内リーグで圧勝して、チャンピオンズリーグでいきなり欧州ビッグクラブとギリギリの真剣勝負をするというのはどうなんだろう。やっぱり国内に最低でももうひとつのビッグクラブがないと、選手たちがモチベーションを維持するのが困難なんじゃないだろうか。パリは自分のクラブに投資するのと同じくらい熱心に、自国のライバルに投資したほうが強くなれるんじゃないかとすら思う。
DCHでドゥダメルの「新世界より」
●久々にベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホール(DCH)にアクセス。ドゥダメル指揮のドヴォルザーク「新世界より」を視聴。ドゥダメルもだんだん「若者」という感じでもなくなってきた。で、こうして超定番の名曲を指揮すると、やっぱりすごい音が出てくる。精緻でエモーショナル。感情表現の幅が大きく、アーティキュレーションや細かなテンポの動き、楽器間のバランスなどあちこちに個性が刻印されていて鮮度は高い。ドゥダメルはなにを指揮してもドゥダメルの音楽になるみたいなところもあって、端的にいえば濃くてベタ。「精密にコントロールされたシンフォニック演歌」的な印象が自分内に定着しつつあるのだが、だんだんその濃厚さがクセになってきている。そこでタメてほしい!と思ったところでタメてくれて嬉しいみたいな感動あり。近い将来にかつてのロリン・マゼールみたいなポジションに収まる可能性を考えてみる。
●「新世界より」第2楽章、イングリッシュホルンで有名な旋律を奏でるのはドミニク・ヴォレンヴェーバー。彼がソロを吹いている間、となりで一番オーボエのマイヤーが目を閉じて聴き入っている様子にぐっと来る。いや、マイヤーだけじゃない。多くの楽員たちが「この傑作をここで演奏できる喜び」みたいなものに浸っている(ように見える)。管のソロも豪華メンバーぞろいだし、弦を見ればヴィオラならヴィオラ、第2ヴァイオリンなら第2ヴァイオリンっていうひとりの奏者が弾いてるかのように、ぴたーっとピントが合った音が出てきて、まるで室内楽をやってみるみたいに聞こえる。ここまで磨きあげられたオーケストラは地球上にほかにないって気持ちになれる。
他人の意見に左右される
●このお店のスパゲッティはあまりおいしくない。以前に入ったときにうすうすそう感じていたお店で、またランチを食べてしまった。近くに適当なお店がなく、かといってうろうろとお店を探している時間もない。おいしくないという記憶があるといっても、実は本当はおいしいのかもしれない。なぜなら、それほど立地がよいわけでもないところで、ずっと昔からこのお店はある。評判が悪ければとっくになくなっているんじゃないか。
●そう思いながら食べたのだが、やっぱりおいしくない。自分が家で作るスパゲッティのほうがうまいと自信を持って断言できる。なぜおいしくないのか。その理由を3つに整理してみた。
1) オリーブオイルの分量が絶対的に足りていない。しかも麺の茹で汁をかけすぎていて水っぽい。
2) ペペロンチーニとメニューにうたっておきながら、ニンニクの味がオイルに十分に移っていない。
3) 麺が茹ですぎである。いまどき、どこのメーカーの麺であれ、普通に指定通りの時間で茹でればアルデンテになるはず。
●食べ終わって店を出たら、オシャレな雰囲気の若い女性の二人組が通りがかって、その一人が店を指さしてこう言った。
「あー、知ってる? このお店、すっっっごく、おいしんだよー」
●うん、おいしいよね。
「影裏」(沼田真佑著/文藝春秋)
●どこの本屋さんに行ってもたくさん積んである第157回芥川賞受賞、「影裏」(沼田真佑著/文藝春秋)。紹介文を読んでみてもなんの話がぜんぜんわからなかったのが逆に気になって、読んでしまった。中篇というか、長めの短篇くらいの長さ、しかし文体は濃密。会社の出向で岩手に移り住んだ主人公が、ある同僚と親しくなり釣り仲間になる。やがて同僚は転職し、疎遠な間柄となる。震災をきっかけに、主人公は同僚のもう一つの顔を知ることになる……といったあらすじ。淡々とした日常の描写のなかから、やがて震災と性的マイノリティがテーマになった話だということがわかってくる。が、一定の距離感を保った描き方で、そこに目を向けなくても小説として読めてしまう。いちばん魅力的なのは釣りの場面。釣りなど一度もやったことがない自分が読んでも魅了される。もう釣り小説でいいじゃん!ってくらいに。
●で、読み終えてどうしても連想せずにはいられなかったんだけど、これってブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」とすごく重なってる。だって、海があって漁があって(釣りだけど)、嵐がやってきて、マイノリティの話で。
●この同僚の人物像が生々しい。ああ、こういう人、よく知っている気がする。そしてこの人物の父親が語る場面がハイライト。痛烈で、リアル。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル
●1日はすみだトリフォニーホールでピーター・ゼルキンのピアノ・リサイタル。デビュー以来くりかえし演奏し続けているバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を中心としたプログラム。前半はモーツァルトでアダージョ ロ短調とピアノ・ソナタ第16番変ロ長調K.570(プログラム上の表記は第17(16)番になっていて、もう大変)。
●この前半の選曲からしてそうなんだけど、すっかりと枯れた孤独なモノローグ。最初のアダージョも、ソナタ第16番の緩徐楽章も、ともに気が遠くなりそうに遅い。といってもあざとい感じは皆無。推進力とか躍動感から解き放たれたアンチ・クライマックスの音楽であり、心地よい停滞空間。このソナタ第16番って、モーツァルトの全ピアノ・ソナタのなかでも、たぶん2番目くらいに簡潔な曲で、いちばん寂寞とした曲だと思う。第1楽章、アレグロなのに手触りはとても静的。第2楽章はほとんど独り言で、第3楽章で不思議なはじけ方をする。一見、溌溂とした音楽なんだけど、中間部のところで風変わりな同音反復の信号風主題が出てくるじゃないすか。あそこって、オペラの一場面みたいな雰囲気で入ってくると思うんだけど、自分のイメージとしてはふたりの人物が要領を得ない会話をしている感じ。モーツァルトなりの「控えめなギャグ」だと解している。ウィーン時代の最初の頃のような晴れやかさはどこにもない。今のピーター・ゼルキンにとってこれしかないという選曲なのかも。
●チラシにお知らせがはさまっていて、ピアノの調律は「1/7シントニック・コンマ ミーントーン」。調律師による平均律との違いについての親切な説明まで入っていた。これは前回の来日リサイタルでも採用された調律法なんだっけ。
●前半が予想外に長くなったので、後半のゴルトベルク変奏曲はどうなることか心配していたのだが、極端に遅いということはなく、リピートも基本はなし。それでも大長篇には変わりない。時の流れとは隔絶されたなかで、一章一章の物語が淡々と紡がれてゆくかのよう。さすがに70歳ということで年齢を感じさせるところも多々あるんだけど、今だから聴けるゴルトベルク変奏曲を味わい尽くしたという感。アンコールはなし。前回聴いたリサイタルでのアンコールがこの曲のアリアだったので、今日その続きを聴いたという錯覚を覚える。
焼きあご昆布入り
●麻布十番の駐車場に「だし道楽」の自動販売機がある。駐車した人がたまたま「あ、そういえばちょうど今だしが切れていた」と思い出したときとか、突然おいしい玉子かけご飯を食べたくなったときなどに便利である……かもしれないのだが、むしろ喉が渇いてなにか飲もうと思って近づいてみたら、コーラではなくて焼きあごだしだったという、がっかりパターンのほうが多いのではないか。わざわざ、こんな自販機でだしを買う人がいるものだろうか。
●そうずっと思っていたのだが、先日、ついに見かけたのである。ここでだしを買っている人を。「いつもそこで買ってるんですか? うどんだしに使ったら、うまいですか」と尋ねたい気持ちをぐっとこらえる。