●まもなく年が変わろうというのに、「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」をまだ観れていない。年明けにはなんとか見たい。サウンドトラックだけ先に買ったが、まだまだフォースが足りてない。
●宣伝をいくつか。年末年始ということで、飛行機で移動する方も多いのでは。ANAをご利用の方はぜひ機内オーディオ・チャンネルで「旅するクラシック」をお聴きいただければ幸い。拙監修で、パーソナリティはタレントでヴァイオリニストの松尾依里佳さん。ニュースにもあったように松尾さんがまもなく産休に入るということで、何か月分もせっせと先録りしている。12月の放送は「クリスマスの名曲で巡るヨーロッパ」。50分番組。機内放送なので、万人が楽しめる選曲を心がけているが、毎回なるべく「一般にはあまり知られていないけど、聴けばすぐに好きになれそうな曲」を一曲入れるようにしている。今回だったらシャルパンティエの「真夜中のミサ」から。1月はお正月らしくワルツをテーマにしているが、ウィンナワルツは一曲だけで、ウィンナワルツへのオマージュであるラヴェル「ラ・ヴァルス」や、ウィンナワルツを嫌ったショパンのワルツなどを取りそろえたワルツ無双。音源はユニバーサルミュージック提供。
●FM PORTの恒例、クラシック音楽を聴きながら年越しをする生特番「Goodbye2017 Hello2018」、ナビゲーターは遠藤麻理さんと新井翔さんで、大晦日の23時から25時まで。今回、ワタシは出演しないんだけど、クイズや話題案を提供している。新潟県以外の方はラジコ・プレミアムでどうぞ。タイムシフトでも聴けるけど、クイズは賞品もあるので生で聴くのが吉。
●東京・春・音楽祭公式サイトでのミニ連載「ロッシーニに学ぶデキる男の仕事術」は第3回「爆速仕事術編」で締めくくり。
●さて、年末年始はいつものように当ブログは不定期更新モードで。今年もお世話になりました。よいお年をお迎えください。フォースとともにあらんことを。
2017年12月アーカイブ
2017年もあとわずか
小中高校生のための「第九」~山田和樹指揮仙台フィル×読響
●27日は東京オペラシティでベートーヴェン「第九」で今年の聴き納め。といっても普通の公演ではなく、ソニー音楽財団による小中高校生のための「第九」。山田和樹が縁のあるふたつのオーケストラ、仙台フィルと読響の合同オーケストラを指揮する一夜限りの「第九」。それだけでも十分に注目される公演だが、この日の客席は小中高校生とその親御さんでぎっしり。普段の演奏会とはまったく雰囲気が違う。小中高校生といっても、やっぱり多いのは小学生か。けっこう低学年が多い。だんだん大きくなると親と一緒には来てくれないということか。
●ソニー音楽財団では子供や若者たちに向けて継続的にさまざまな公演を企画していて、自分もよくプログラムやウェブサイトに原稿を書かせてもらっている。なので、純粋に「第九」を聴きたい気持ちに加えて、実際に客席に来ている人たちがどうなのかを確かめたくて足を運んだ。子供たちの様子を一言でいえば「行儀がいい」。すごい。本当に感心した。「第九」って、ぜんぜん聴きやすくもないし、やさしくもない曲じゃないすか。あの重々しくて長い第1楽章だけで子供は退屈して、駄々をこねだすんじゃないか、なんて思ってたらそんなことはない。いや、退屈はしてると思う、大方は、確実に。男子中学生くらいだと「けっ、こんなところに連れてきやがって」くらいのノリの子も絶対いる。でも少なくとも70分、静かにしている。もしかすると、慣れすぎたベテランだらけの客席より張りつめた空気が醸成されていたかも。
●18時から仙台フィルメンバーによるロビーコンサートがあって、開演は18時30分。といっても前半はマエストロの15分のトークのみ。鍵盤ハーモニカ持参で「第九」について解説。かなり高度な内容も含まれ、もりだくさん。休憩をはさんでから「第九」。合唱は東京混声合唱団と武蔵野音楽大学合唱団。男女別に分かれていなくて、各パートばらばらに並んでいた模様。オペラシティの舞台いっぱいにオーケストラと合唱がひしめき合う大編成で、とてもパワフル。客席のいつもと違った緊張感が舞台上にも影響してか、「これが第九だ!」といわんばかりの雄弁で起伏に富んだベートーヴェン。やはり終楽章で声楽が入ると、客席に「はっ」とした雰囲気が生まれる気がする。最後、熱狂的なコーダが終わるやいなや大歓声が上がったのは吉。ビバ、若い反射神経。
●開演前にマエストロが「第九を生で初めて聴く人は手を挙げて~」と言ったら、大半の人を手を挙げた。こういった機会は貴重。子供はこれですぐにクラシックを好きになったりはまずしないが、過去に一度でも経験があるとないとでは、大人になってから関心を払う率はぜんぜん違ってくるはず。あと、見逃せないのが親御さんで、小学生だと親の年代でも通常のオケ定期基準でいえばまだまだ「若い人」なので、子育てが一段落ついた頃に「帰ってくる」人も少なくないんじゃないだろうか。
「ブレードランナー2049」で「ピーターと狼」と「青白い炎」
●先日の映画「ブレードランナー2049」の話の続き。この映画とナボコフの「青白い炎」との結びつきが話題になっている。主人公のレプリカントは任務を終えて帰還するたびにメンタルテストを受けて、そこでよくわからないキーワードのようなものを連呼するシーンがあるのだが、あれがナボコフの「青白い炎」からの引用なんだとか。この「青白い炎」というのが一筋縄ではいかない怪作で、架空の詩人による長篇詩に架空の学者による膨大かつ詳細な注釈が添えられたという構成を持つメタフィクション。本編である長篇詩より注釈のほうがはるかに長い。
●ワタシは未読なんだけど、仮に「青白い炎」を読んでいたとしても、映画を見て引用に気づくなんてことは不可能だったと思う。映画での字幕と訳文は異なるが、おそらくこの部分だと思われるところを、岩波文庫の「青白い炎」(ナボコフ著/富士川義之訳)から引用しておこう。
一個の主要細胞内で連結した細胞同士を
さらに連結した細胞内でさらにそれらを連結した
細胞組織を。そして暗黒を背景に
恐ろしいほど鮮明に、高く白く噴水が戯れていた。
●ちなみにこの長篇詩、ここだけ見るとなんとも小難しそうだが、たとえば「地方紙『スター』からの珍しい切り抜き。レッド・ソックス、5対4でヤンキースをくだす/チャップマンのホーマーで」なんていう、妙にローカルな一節も出てくる。
●さて、「ブレードランナー2049」にはクラシックの名曲が一曲登場する。主人公が携帯する情報端末から、ときおり聞こえる通知音が、プロコフィエフの「ピーターと狼」の冒頭主題なんである。これは主人公の恋人であるAIのジョイの起動音みたいなもので、全編を通じてなんども聞こえてくる。この映画にはナボコフだったり、タルコフスキーへのオマージュだったり、プロコフィエフだったりと、ロシア的な題材がちらちらと見え隠れするのだが、それにしてもどうして「ピーターと狼」なんだろう。「ピーターと狼」のあまりに簡潔なストーリーに重要な意味があるとは思えないので、ひとつにはこれが動物の音楽だから、ということがあるのだろう。先日も書いたが、おおもとの原作であるディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で描かれるように、この世界では動物はほぼ絶滅しており、超貴重品。だから羊だったり馬だったりといろんな動物モチーフが意味ありげに登場する。ロシアの動物の曲といえばこの曲。主人公ピーターが小鳥やアヒル、猫、狼たちに囲まれているという図式は、非人間だらけのこの映画と重なるところがある。
●もうひとつは、この組曲では各楽器がキャラクターを担っていて、フルートは小鳥、オーボエがアヒルで、クラリネットが猫、ホルンが狼を意味する。この情報端末が鳴らすのは冒頭主題、つまり弦楽器によるピーターの主題。だからこの情報端末という楽器 instrument にジョイという人物の役割をあてがっている、とも解釈できる。
働き者のAIアシスタント
●「オッケー、人間。朝だから起きて!」
●「オッケー、人間。ぐずぐずしてると遅刻するから、出勤して!」
●「オッケー、人間。お帰り。明日も早いんだからさっさとお風呂入って」
●「オッケー、人間。そろそろ就寝時間だからベッドに入って」
(以下ループ)
バッハ・コレギウム・ジャパン「メサイア」~サントリーホールクリスマスコンサート2017
●23日はサントリーホールで鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパンのヘンデル「メサイア」。森麻季のソプラノ、テリー・ウェイのアルト(カウンターテナー)、櫻田亮のテノール、ドミニク・ヴェルナーのバス。BCJの「メサイア」はこれまでにもなんどか聴いているのだが、年末にまた聴けるという喜び。全席完売、当日券なしの盛況。
●「メサイア」、全編にわたって名曲ぞろいだけど、やっぱり第2部が盛り上がる。特に好きなのは、All we like sheep... の合唱。思いきりハジけて、羊みたいに道を外れて自分の道へ向かうんだよっ!ウヒョ~!って感じで喜んでたのに、後半で一瞬にして雰囲気が変わって And the Lord hath laid on Him... 主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。このさっと影が差すところなんて、神がかっている。この後に決然としたレチタティーヴォをはさんだ後、合唱で He trusted in God that He would deliver Him...のフーガが続く展開も本当にカッコいい。
●もちろん、第2部の最後の「ハレルヤ・コーラス」は最高。使い古されてボロボロになっててもおかしくないくらい有名曲なのに、毎回新鮮な感動が訪れる。そして、ここで立つかどうか、という問題は自分的にはいまだ健在。サントリーホールのお客さんはほぼ立たない。危うくだれも立たないかもしれないくらい立たない。でも、立ったほうが楽しそうだ。立ちたい。でも立てない。だって、立ったら後ろからゾンビに噛みつかれるかもしれない問題があるじゃないすか、昨今は。でも立ったら勇者。立った、立った、ジョージが立った!くらいの勢いで。
●アンコールにトラディショナル(鈴木優人編)「いけるものすべて」。しみじみと余韻を味わう。
●それにしても、みんなでひとつの物語を共有しているって、すごい。仏教にだっていろんな物語はあるんだろうけど、ここまでのドラマ性はなかなか見当たらない。煩悩の数が108つあるから鐘を撞くみたいなのは共有されているのだが、個人のドラマじゃないからなあ……。ともあれ、メリークリスマス。
エッシェンバッハ指揮N響の「第九」
●昨年に続いて、今年もこの時期はNHKホール前がこんなに真っ青ピカピカに。渋谷公園通りから代々木公園ケヤキ並木が青一色に染まる「青の洞窟」開催中。みんな写真を撮るわ撮るわ。絶好のインスタ映えポイントだし。ついでなので案内すると、細々と静かに続けているワタシのインスタのアカウントはこちら。
●で、22日はN響「第九」へ。今年はクリストフ・エッシェンバッハが指揮台に。定期公演でも評判を呼んだエッシェンバッハが、またも来てくれるとは。「第九」一曲のみのプログラム。独唱陣は市原愛、加納悦子、福井敬、甲斐栄次郎、合唱は東京オペラシンガーズ。合唱指揮に田中祐子で万全の布陣。
●エッシェンバッハの音楽は巨大。筆圧の強いタッチで一音一音塗り込めるかのような「第九」。骨太で豪放磊落なベートーヴェン。ぐっとタメが入ったり、息をのむような間をとったり。第4楽章の冒頭、一瞬どこで入っていいのかよくわからないような棒から始まる怒涛のカオス。vor Gottのフェルマータもたっぷり。全強奏のなかでも突出して存在感を放つピッコロ(少し笑った)。直線的な熱狂とはまた違う、大きなエネルギーを持った音楽を存分に味わった。
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●お知らせを。「東京・春・音楽祭」公式サイトの春祭ジャーナルで、ロッシーニにまつわる全3回のコラムを連載中。題して「ロッシーニに学ぶデキる男の仕事術」。第1回「夢の早期リタイア編」、第2回「グルメをきわめるセカンドライフ編」まで公開中。遊ばせてもらってるので、オススメ。
「機巧のイヴ」(乾緑郎著/新潮文庫)
●昨日の「ソラリスとブレードランナー2049」の話の続きだが、そういえば「人間のようでいて人間ではない者」の話を最近読んだなと思い出したのが、乾緑郎著の「機巧のイヴ」(新潮文庫)。これは舞台設定が秀逸で、時代小説の枠組みを借りたアンドロイド小説とでもいえばいいのだろうか。江戸のようでいて江戸ではない世界を舞台に、機巧師と呼ばれる男と、精巧な機械でできているが人間とは見分けのつかない美女、伊武(イヴ)の物語が描かれている。スチームパンク的な「懐かしい未来」を和風でひとひねりした感じ。連作短篇集の形になっていて、とてもおもしろく、かつ読みやすい。
●この男女のキャラクターは、「ブレードランナー2049」の主人公とAIのカップルとはまるで違っているのだが(なにせ時代小説なので)、しかしどこかP.K.ディックを思わせるところもある。たとえば、闘蟋というコオロギを戦わせる競技が出てくるのだが、そこに機械でできた人造コオロギが紛れ込んでいるらしい……などといった筋立ては、「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に一脈通じる。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界では人間以外の動物は超貴重品で、昆虫一匹に至るまで「本物」は保護されており、人々は本物の代わりに「電気羊」のような精巧なイミテーションに甘んじている(昆虫ですら「本物」の命は尊いのに、感情や知性を持ったレプリカントの命には微塵も価値が認められていない、という対照が原作にはある)。
●機械の女性に恋をするといった話は昔からいくつもあるだろうが、オペラならオッフェンバックの「ホフマン物語」だ。詩人ホフマンはオランピアが自動人形であると知らずに恋に落ちる。これも「機巧のイヴ」がそうである程度にはSF伝奇ロマンといってもいいような話(ちょうど2月に新国立劇場でフィリップ・アルロー演出の再演がある)。ここでのオランピアはいかにもゼンマイ仕掛けの「機械」なのだが、これを「ブレードランナー2049」のAIみたいに今風に進化させた演出がどこかにあってもおかしくない。
「ソラリス」と「ブレードランナー2049」
●今、NHK Eテレの「100分 de 名著」でスタニスワフ・レムの「ソラリス」がとりあげられている。全4回の第3回まで見たが、大変おもしろい。ゲストは「ソラリス」の訳者でロシア・東欧文学研究者の沼野充義氏。実のところ原作「ソラリス」を読んだのは大昔の旧訳なので内容はずいぶん忘れていたのだが、これをきっかけに新訳で再読したくなる。惑星ソラリスの探査に赴いた科学者たちは、そこですでに亡くなっている恋人など、そこにいるはずのない人物と出会い、自身の正気を疑う。どうやらそれらはソラリスの海が人間の深層意識から生み出した存在のようなのだが、人間にはソラリスの海とコミュニケーションをとる手段がない。絶対的に相互理解不能な他者を描いたのが「ソラリス」……と記憶していたのだが、番組を見ていて主人公と元恋人(しかし実体はソラリスの海が作り出した何か)との間の物語を思い出した。
●ここで登場する元恋人ハリーは、一昔前ならお化け屋敷にあらわれる幽霊あたりで済んだところだろう。死んだ者がよみがえる話は珍しくない。しかしハリーを異星の海が作り出した存在とすることで、レムはこの幽霊に葛藤させてみせた。最初は主人公がハリーとは何者かと畏れ、苦悩する。人間とそっくり同じ姿形をしていて、人間としての思考も感情も持っているハリー。主人公はやがてその存在を受け入れることにしてしまう。ところが、こんどはハリーが「自分とは何者か」と問いかける。自分は実体のない、ただの幽体なのか。自分の存在が恋人を苦しめてしまっていることに悩み、自己犠牲を決断する……。
●で、はっとしたのは先日映画館で見た「ブレードランナー2049」とのシンクロニシティ。「ブレードランナー」ももともと非人間=レプリカントの物語だった。原作のP.K.ディックとレムとの間にテーマの共通性があることは不思議でもなんでもないが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による「ブレードランナー2049」では、主人公がレプリカント、その恋人が物理的実体を持たないAIとして描かれていた。このAIはクラウド上の存在で、ネットワークにつながっていればどこからでも呼び出せるわけだが、「ソラリス」で「海」として描かれていた知性が、昨今風のクラウド、つまり「雲」と比喩されるところにあるのがまずおもしろいところ。もうひとつは主人公レプリカントの最後の場面での決断だ。彼はもっとも人間らしい行為として、ある種の自己犠牲を果たす。自己犠牲こそが人間とそれ以外を分け隔てるものだ、というのである。ここに「ソラリス」でのハリーの姿が重なってくる。
●音楽ファンにとって自己犠牲といえば、まっさきに思い出すのはワーグナー「神々の黄昏」の「ブリュンヒルデの自己犠牲」。ブリュンヒルデの場合は半神半人か。ドキッ! 非人間だらけの自己犠牲大会。もっともブリュンヒルデは神性を失っているから、人間扱いとすべきだろうか。
デュトワ指揮N響のメンデルスゾーン「スコットランド」
●14日はサントリーホールでシャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団。ハイドンの交響曲第85番「女王」、細川俊夫のソプラノとオーケストラのための「嘆き ゲオルク・トラークルの詩による」(ソプラノ:アンナ・プロハスカ)、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」というプログラム。きらびやかで磨き上げられたハイドン。白眉は「スコットランド」。木管セクションがいつにも増して活発で、意欲的。一番オーボエに客演していたのは、マーラー・チェンバー・オーケストラの首席オーボエ奏者として活躍する吉井瑞穂さん。進むにつれて弦楽器も熱気を帯びてきて、この曲では聴いた記憶がないくらいの高揚感が生み出されていた。
●シューマンがシューベルトについて言った有名な「天国的な長さ」は、いつまでも続いてほしいという終わることのない喜びについて述べたものだと理解しているが、そんな愉悦に満ちた「天国的な長さ」がメンデルスゾーンでもありうるのだなと実感。
●みんな、こぞって写真を撮っている、サントリーホール前のカラヤン広場で飾られている光る物体。なんだか使徒っぽい、割と。
ニッポンvs韓国代表@EAFF E-1サッカー選手権
●試合の途中から自分はこれを「代表戦」にカウントしたくなくなってしまったのだが(この大会ってなんのための大会だっけという疑問をずっと引きずっている)、1点先制したら4点取られたというひどい試合になった、ニッポン対韓国代表。GK:中村航輔-DF:植田、昌子、三浦弦太、車屋紳太郎-MF:今野、井手口(→三竿健斗)、土居聖真-FW:倉田(→阿部浩之)、伊東純也(→川又)、小林悠。前の試合に続いて植田はサイドバックでの起用。唯一実績豊富な今野はやはり全試合先発。
●開始早々に伊東純也の仕掛けからPKをもらって、これを小林が決めて先制するが、その後はおもしろいようにやられた。韓国のトップにキム・シヌクという2m近い(?)長身ストライカーがいて、注文通りに頭で合わせられて失点。あとチョン・ウヨンの見事すぎる超絶技巧フリーキックで逆転。そのまま流れは最後まで引き戻せず、一方的にやられて計4失点。試合を通じてハリルホジッチ監督のいうところの「デュエル」で負け続け、攻守の切り替えも遅く、パワーと技術の両面で屈した感じ。ニッポンは全般に体が重そう。この急造チームのなかでは実績のあるはずの今野、井手口の中盤も機能せず。こうして3試合を戦うと、中国や北朝鮮に比べて、韓国はずっとレベルが高いことがよくわかる。お互いに欧州組が呼べず、よくわからないチームで戦っているという事情は同じなのだが、韓国側は伝統の「日韓戦」を戦おうとしていたのに対し、こちらは「引き分けでも優勝」といったふわっとした通常モードで試合に入り、なんだか焦点が合わないまま90分を終えてしまった。
●以前は「私は負けるの嫌い。負けると病気になる」とまで言っていたハリルホジッチ監督だが、試合後のインタビューは妙に淡々としていた。この実質B代表を見切ったからこそ、あっさりしていたのかな、と。もうこのチームが組まれることはないんだし、どうこう言ったところで意味がない。そんな本音が透けて見えた気がする。この煮え切らない大会を単純に「バックアッパーの選抜試験」と考えれば、ひとりかふたりの収穫はあった、ということか。
ヤン・リシエツキ ピアノ・リサイタル
●11日は紀尾井ホールでヤン・リシエツキのピアノ・リサイタル。リシエツキ、DGからリリースされるショパンで知って、ポーランド人だと思い込んでいたら、両親がポーランド人でカルガリー生まれのカナダ人なのだとか。リサイタルのプログラムがおもしろい。ショパンの夜想曲第15番ヘ短調と第16番変ホ長調、シューマンの4つの夜曲、ラヴェル「夜のガスパール」、ラフマニノフの幻想的小品集Op.3、ショパンの夜想曲第19番ホ短調とスケルツォ第1番ロ短調。テーマは「夜」。最後にスケルツォ第1番が置かれるのはどうしてかなと思ったら、中間部にポーランドのクリスマス・キャロル「眠れ、幼子イエス」が引用されているのだとか。
●リシエツキは1995年生まれ。唖然とするほどきれいなテクニック。粒のそろった美音で、強奏時でもきらびやかで決して響きのバランスを崩さない。特に「夜のガスパール」の第1曲「オンディーヌ」はこんなに精密に弾けるのかと思うほど。ショパンであれラフマニノフであれ感傷にも官能にも溺れず、整った造形で音のドラマを紡ぎ出す。スケルツォ第1番なんかはもう少し煽ってくれてもとは感じるんだけど、これだけ磨き抜かれた演奏はめったに聴けない。もっと客席がわくかと思ったが、好みの分かれるタイプということなのか。アンコールは2曲。ショパンのノクターン第13番ハ短調、とてもゆっくりしたテンポのシューマン「トロイメライ」。アンコールまで本編のテーマに即していた。
ニッポンvs中国代表@EAFF E-1サッカー選手権
●巷ではぜんぜん盛り上がっている感じがないEAFF E-1サッカー選手権。ニッポン代表といっても海外組がいなくて地味ということもあるのかもしれないが、この大会名称ってどうにかならにんすかね。EAFF E-1って、なにかの型番みたい。
●で、第2戦は対中国戦。中国を率いるのはあの名将リッピ。おお、ベンチにリッピがいる。久々に見た。リッピは広州恒大の監督を務めた後、中国代表監督に就任したのだとか。中国といい中東といい、日本はクラブレベルでも代表レベルでも経済力の差を感じることが増えてきた。中国代表は北朝鮮よりさらに大型チームで、平均で184.4cm。ニッポンは178cmほど。高さでは対抗しようがない。特に前線の選手は迫力がある。ダイナミックだが粗削りなサッカーで、かつてのオーストラリア代表を連想させる。フォーメーションは3-4-3。リッピは試合ごとに3バックと4バックを使い分けている模様。
●ニッポンは前の試合からだいぶ選手を入れ替えてきた。GK:東口-DF:植田、三浦弦太、昌子、山本脩斗-MF:今野、大島(→井手口)、倉田、土居聖真(→阿部浩之)、伊東純也(→川又)-FW:小林悠。アンカーに今野を置く。やはり頼りになるベテランをひとり入れておかないとチームにならないということか。山本脩斗は32歳でまさかの代表デビュー。本来センターバックの植田を右サイドバックに起用したのも驚き。しかも植田はサイドバックの動きがきちんとできていて、コンビネーションからサイドをえぐって、正確なクロスボールを供給するなど大活躍。こうして両方できる選手がいると、チーム編成の自由度が格段に上がる。
●序盤はかなりニッポンがボールをスムーズに回せていた。前の試合と違って、前線も活性化していて流れはよかったと思うのだが、前半30分に大島が痛恨の負傷退場。代わって井手口が入ると、急激にボール支配率が下がってしまった。井手口の獰猛で執拗な守備はとても有効なのだが、大島がいないと中盤の選手が視野の広さを失ってしまったよう。前の試合で収穫だった伊東純也を先発起用。突破力のあるところは見せてくれたが、突破した後のプレイに物足りなさも。好機の少ない試合で、流れとしては0対0で終わってもおかしくない雰囲気だったが、後半39分、中央で倉田の縦パスを小林がフリック、これを交代出場の川又がシュート。シュートは弾かれるが、こぼれ球を小林が拾って、ゴールエリア右から体をひねるように反転して浅い角度からシュートを決めた。圧巻は後半43分。センターバックの昌子がボールを拾うと、思い切ってロングシュート。まさかの43メール弾が決まってしまった。伝説のゴールといってもいいインパクトだが、相手ゴールキーパーにも問題を感じる。試合終了直前、延々と続くフィジカル勝負に疲れ果てたのか、青息吐息の山本がジャンウェンジャオを倒してPK。これを決められたものの、2-1で勝利。
●収穫としては植田のサイドバック起用か。さんざん国内組を試した結果、ワールドカップ本大会に生き残ったのが大ベテラン今野だったしても驚かない。
ノット&東京交響楽団の「ドン・ジョヴァンニ」
●10日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の「ドン・ジョヴァンニ」演奏会形式。直前にドン・ジョヴァンニ役がミヒャエル・ナジからマーク・ストーンに、ドンナ・エルヴィーラ役がミヒャエラ・ゼーリンガーに交代するというアクシデントがあったが、結果的には大成功に。騎士長にリアン・リ、レポレッロにシャンヤン、ドンナ・アンナにローラ・エイキン、ドン・オッターヴィオにアンドリュー・ステープルズ、マゼットにクレシミル・ストラジャナッツ、ツェルリーナにカロリーナ・ウルリヒ。合唱は新国立劇場合唱団。演奏会形式ではあるが、演技もあり、舞台上にはオーケストラの手前に簡素なベッド状のものが置かれて活用される。演出監修は原純。前回のノット&東響コンビによる「コジ・ファン・トゥッテ」と同じく、ノットはハンマーフリューゲルを弾きつつ指揮をする。今回は川崎の一公演のみ。トランペットとホルンはピリオド楽器を採用。
●オペラの演目って重なりがちで、今年はパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響によるほとんど理想的といってもいいスタイリッシュな「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたばかり。これも最低限の簡素な装置だけを置いて演技を付けるスタイルだったので、どうしても思い出してしまうのだが、あちらは磨き抜かれた完成品の魅力、こちらは今その場で湧きあがる音楽の生命力が肝といった感。歌手の変更があったにもかかわらず、チームワークは万全。ノットの鮮度の高いモーツァルトを満喫。カーテンコールではオーケストラ全員が去っても拍手が鳴りやまず、ノットと歌手陣が再度登場して大喝采。残っていたお客さんのスタオベと多数のブラボーで最高にいい雰囲気になった。
●レポレッロが「カタログの歌」でスマホを取り出すのはもはや標準演出か。数年前と違うのは、きっとデータはクラウド上に置かれてるはずで、安心のバックアップ体制が敷かれている。レポレッロが従者を辞めてもドン・ジョヴァンニはデータにアクセス可能だ。「コジ」等で肖像を見せる場面なんかもそうだけど、今はデータ化可能なものはみんなスマホで見せないと不自然だと感じるようになってきた。ドン・ジョヴァンニがレポレッロに金貨を渡す場面ではお札が舞っていたが、あれも遠からずスマホ決済になるにちがいない。ピピッ!みたいな音がして。
●レポレッロという役柄には2種類の描かれ方があると思う。ひとつは生まれながらの従者タイプ。この日のシャンヤンはそう。人物像としては伝統的でわかりやすい。もうひとつは本当はカッコいいレポレッロ。N響「ドン・ジョヴァンニ」はそちらだったという認識。たまたま身分制度上従者になっているが、実はイケメン。そうしておくとレポレッロがドン・ジョヴァンニと衣装をとりかえて人違いが起きる場面のリアリティが増すし、「カタログの歌」にも別の味わいが生まれる……。いや、待て待て、どうやってもリアリティなんかないか。ダ・ポンテ三部作はどれも話の発端はおもしろいんだけど、途中からグダグダでどうでもよくなり、モーツァルトの神音楽がすべてを解決してしまう。
●地獄落ちの場面。ドン・ジョヴァンニが銃口を自分の頭に向けるという演出。個人的には現代的かつリアルな手段で自らの命を絶つ場面には抵抗があるのだが、もうそうもいってられないのか。最後、ティンパニのロールを不気味に残してハッピーエンドのフィナーレにつなげるアイディアは秀逸! この間に、ドン・ジョヴァンニが起き上がって、皆の顔を見ながら去ってゆく。そういえば死者が起き上がって歩き出す光景は、河瀨直美版「トスカ」でも見たっけ。別にゾンビになったという演出ではないので、魂が肉体から抜け出たとでも思えばいいのだろうか?
●このオペラでもっとも危険な人物はドン・オッターヴィオだと思っている。大昔に最初に見たときから、この人、なんかヘンだよねっ!と感じていたのだが、今はその違和感の正体が理解できる。甘いテノールで最初から最後までずっと正論を歌って善人オーラを振りまこうとしているが、実は口だけで自分じゃなにもやっていない、それがドン・オッターヴィオ。いるいる、こういう人! 立派なことを言ってて、思いやりもありそうなんだけど、よく考えたらこの人、いてもいなくてもまったくいっしょで、話の行方になんの影響も与えていない。上司にしたくない登場人物ナンバーワン。ドンナ・アンナも薄々その邪悪さに感づいたから、結婚を先延ばしにしようって言ってるんじゃないかなー。
井上道義指揮日本フィルの「錯乱」&「幻想」プロ
●8日はサントリーホールで井上道義指揮日本フィル。ラヴェル「マ・メール・ロワ」組曲、八村義夫「錯乱の論理」(ピアノに渡邉康雄)、ベルリオーズ「幻想交響曲」という錯乱プログラム。八村義夫「錯乱の論理」の曲名の由来となった花田清輝の評論集についてはなにも知らないのだが、「幻想交響曲」での主人公が錯乱し破滅に至るというストーリーと結びつけて、ひとつの大きな流れを読み取ることができる。そしてこれを「マ・メール・ロワ」のおとぎ話で始めるのがおもしろい。終曲「妖精の園」に続いて(舞台転換には時間がかかるが)「錯乱の論理」が始まったところで、同じ世界を表から裏に回って見つめ直したかのような印象を受ける。情念渦巻く「幻想交響曲」はまれに聴く大轟音。
●定期演奏会では珍しく、最後にマエストロがマイクを持って登場し、あいさつ。日本のプロオーケストラの定期演奏会デビューが日フィルでこの「幻想」だったそうなのだが、オーケストラに向かってそのときにもいた人は?と尋ねると、ひとりかふたり反応があって(よくわからなかった)「オーケストラってこれくらい人が入れ替わるんです」。40年も経てばそれはそうか。本来「幻想」はもっと若い指揮者の振る作品だから、最近はあまりやっていなかったというお話も。トークで一段と会場は盛り上がった。
ニッポンvs北朝鮮代表@EAFF E-1サッカー選手権
●さて、EAFF E-1サッカー選手権が開幕したんである……が、なんだそのEAFF E-1って? この大会、名称がどんどん変わっていくのだが、以前は東アジアカップと呼ばれ、その前には東アジア選手権とも呼ばれていた気がするし、ルーツをたどればダイナスティカップ(当時弱小国のニッポンがオフト監督のもと初めて国際タイトルを手にした大会)にまで遡る。日本と北朝鮮と韓国と中国の東アジア勢でタイトルを争う。今回は日本の味スタで開催中。
●ただし、この大会は東アジアローカルな日程で組まれたもので、インターナショナル・マッチデイとは同期していない。欧州リーグ戦は休みにならないので、基本的に国内組で代表を組むことになる。おまけにFIFAクラブワールドカップに出場する浦和の選手が呼べない。だから形式上はA代表だけど、ベストメンバー1チーム分くらいを除いた選手たちによる代表というか、実質的にB代表くらいの感じだ。ってことは……そうだな、少しおもしろそう。今のニッポンのJリーグ勢の水準でどこまでできるかを知る好機。ちなみに前回大会はニッポンは一勝もできずに終わった。
●で、メンバーは新鮮。GK:中村航輔-DF:室屋、谷口彰悟、昌子、車屋-MF:今野、井手口、高萩(→伊東純也)-FW:倉田(→阿部浩之)、小林悠、金崎(→川又)。復帰組と元五輪組が目立つ。若い選手が多いなかでベテラン今野が起用されているのがおもしろいところ。川崎の阿部浩之は28歳で代表初選出、初キャップ。で、こうして即席チームを作ってプレイすると、やっぱりニッポンはパスをつなぐサッカーになる。北朝鮮が堅守速攻を目指した戦い方を選んだこともあり、パスは横につながるけれど、縦にはなかなか入らず、ボール支配率ばかりが高くチャンスの少ない展開に。アジアでは毎度おなじみの展開にやっぱりなってしまう。ボールをサイドに運んで前が詰まると逆サイドに動かして、また前が詰まると逆サイド……みたいな。前線で小林悠がしきりにボールを呼び込む動きをしていたようだが、所属チームのようにはいかない。シュートが遠い。
●一方、北朝鮮代表はむしろハリルホジッチ監督が好みそうな効率的なサッカー。平均身長180cm超の高さと強さのある選手たちをそろえ、球際の争いに強く、ボールを奪うと素早くカウンターアタック。この戦術がぴたりとハマって、たびたび決定機を作り出していた。中村航輔のファインセーブで救われた。全体に力強さではニッポンを上回り、技術も予想以上にある。ただし攻守の切り替えや決定機など、ここぞという場面で技術的なミスが出てしまう。北朝鮮の監督は元ノルウェー代表フォワードのヨルン・アンデルセン。外国人監督を迎えたのが意外だが、だが、実はサッカー界に関して言えば北朝鮮はそんなに「閉じた国家」でもなくて、海外組も何人かいる模様。日本と同じく今回欧州組は呼べないわけだが、在日コリアン組は呼べるわけで、カマタマーレ讃岐のリ・ヨンジ(李栄直)が先発出場。J2讃岐ではレギュラーポジションを取れていない選手だが代表では中心選手になっているようで、このあたりは日本代表の選手が海外移籍した場合にまま見られるのと似た現象。ほかに熊本のアン・ビョンジュン(安柄俊)、町田のキム・ソンギ(金聖基)が代表入り。仙台のベテラン、おなじみリャン・ヨンギ(梁勇基)は招集されず。
●90分を通して、ニッポンはボールを回すばかりで決定機が乏しく、チャンスの質でもシュート数でも北朝鮮が上回ったゲーム。0対0で終わるかと思えたが、アディショナルタイムもそろそろ終わろうかという後半48分、スルーパスに抜け出た川又が左サイドからファーサイドへ高いクロスボールを入れ、これを今野が慎重で頭で中に落とし、中央で井手口が豪快に蹴り込んだ。ボールは相手選手にかすって、そのままゴールへ。1対0で劇的な幕切れ。ニッポンの収穫はキーパーの中村航輔だが、ホームで北朝鮮と試合をしてキーパーが目立ってしまう展開は厳しい。伊東純也の縦への突破力は魅力。先発で見たい。
映画「ブレードランナー2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)
●もう上映館も少なくなってしまっているが、滑り込みでなんとか映画館で見た、「ブレードランナー2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)。カルト的な人気を獲得している前作「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督)が1982年の作品だから、なんと35年も経ってから続編が作られたわけだ。ひえーーー。これだけ忘れられることなく語り継がれる作品も珍しいだろう。今回の「ブレードランナー2049」も語りたくなる映画に仕上がっている。そして、よくできたエンタテインメント。
●ネタバレを避けつつ、いいなと思ったところ。これが非人間同士の物語であるところ。主人公はレプリカントだし、その恋人はホログラムで投射されるAI。非人間の形態として対照的なあり方(スタンドアローンの物理実体とクラウド上に存在するデータ)のふたりをカップルにしているのが秀逸、そして切ない。旧作の主人公で今やハードボイルド爺となったハリソン・フォード演じるデッカードもレプリカントだし、戦う相手も女レプリカント、主要登場人物の多くが人間じゃない。で、人間であるはずのウォレス社の大ボスみたいなのがやたらと非人間的だったりする。主人公の幼少時の記憶をめぐるエピソードもなかなかいい。彼のしょぼくれた感じの人間像は、前作のデッカードとはずいぶん違うんだけど、おおもとの原作であるP.K.ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の主人公はむしろこんな感じの男なんじゃないだろうか。
●舞台となるロスアンゼルスが前作以上に暗く、ディストピア化している。殺伐とした雰囲気はまあしょうがないのか。いくつか引っかかるところもある。まず長すぎる。2時間40分を超えるので、映画館で予告編を見せられるとほぼ3時間コースになってしまう(なぜ課金モデルなのに広告を見なければならないのか、という映画館への根本的な不満)。トイレ退出続出。それと前作へのオマージュ要素がとても強くて、嬉しい反面、どこかリメイク的な印象も受けてしまう。これは「スター・ウォーズ」の新シリーズ1作目なんかにも言えるんだけど。オペラでいう「新演出」とまでいうといいすぎだが、同じテーマで今作り直したらこうなる的なヴィジョンというか。あと、今の自分にとってはバイオレンス成分はもう少し控えめのほうが嬉しいかな。前作を映画館で見た人はみんな35歳、年を取ってるわけで。
●だらだら雑談を続けるけど、前作「ブレードランナー」について言うと、ワタシは初見ではどちらかといえばこの映画に失望した。というのも原作を読んで頭をガツンとやられた者にとって、リドリー・スコット監督の映画には原作で重要だと思う要素がふたつほど落ちていたのが寂しかった。ひとつはマーサー教という宗教モチーフ。山登りをする教祖とか、すごくディック的な仕掛けがあるんだけど、それがない。もうひとつはオペラの要素。原作にはオペラ劇場のシーンとか、オペラ歌手のレプリカントが登場するじゃないすか。たしか「魔笛」も出てくる。そういうオペラ要素にはリドリー・スコットはあまり惹かれなかったみたい。もちろん原作と映画は別物で当然なので、そのうち映画は映画のほうで好きになったのだけれど。
●あと、デッカード本人がレプリカントだっていうのは、かなり後付けっぽい設定だと感じたんすよね。まあ、ただの人間だったら最後のロイ・バッティとの戦いで秒殺されてるだろうから、それでいいのかもしれないんだけど、この話はデッカードが人間のほうがおもしろいんじゃないかっていう点で釈然としなかった。その点、今作の「ブレードランナー2049」はもっとスマート。
●「ブレードランナー2049」を見てて思ったのは、みんなスマホ持ってないなーってこと。未来の人たちは携帯情報端末に頼ってなくて、いちいち用があると実際に出かけたり会ったりする。演出的にはわかる。スマホを眺めてる登場人物はどうやってもカッコ悪いし、スマホをスマートウォッチとかスマートグラスに置き換えたとしても、やっぱり見映えがしないもの。
●羊の折り紙に「いいね」を押したい。
Windows 10 Fall Creators Updateでスリープから復帰すると画面が乱れる事件
●先日、PCの電源を投入したら、画面表示が乱れて縞模様になってしまうという不具合が起きた。わわ、これは困った。慌てて再起動すると普通に立ち上がって安堵するのだが、いったんスリープにして復帰しようとすると、また縞模様になってしまう。うーん、参った、これはハードウェア的な不具合なのか……と思ったが、検索してみると、どうやらWindows 10のFall Creators Updateの適用をきっかけに同じ症状で困っている人が少なくない。ワタシが使用しているエプソンダイレクトのサイトにもこのように案内があった。現時点では対応策が載っておらず、スリープを使うなという指示があるのみ。
●が、親切な個人ブログでワタシと同じような環境の方が解決策を書いてくれていたので、そちらを試してみることにした。ディスプレイドライバにIntel HD Graphics 530を使っている場合、「デバイス マネージャー」から「ディスプレイ アダプター」を開き、Intel HD Graphics 530のプロパティを開く。ドライバーのタブを確認すると、バージョンが22.20.16.4749と表示されていると思う。Fall Creators Updateにアップデイトされた際にこのドライバがインストールされるようなのだが、これをIntelのサイトから現時点で最新の15.60.0.4849をダウンロードして、手動でインストールしてアップデイトする。すると、無事スリープから復帰できるようになった。さらば、縞模様。
●今のところ問題はないけど、副作用が出る可能性もあるだろうから、なにかあっても自力で回復できる人向け。だれかの役に立つかもしれないので、書いておこう。
2018年 音楽家の記念年
●恒例、来年に記念の年を迎える音楽家一覧を。例によって100年単位で区切りを迎える主だった人を挙げている。ここ数年、特集記事などが組まれるような著名な作曲家が少なめだったが、一転して来年は話題豊富。なんといってもレナード・バーンスタイン生誕100年が強力だ。バーンスタインの曲をたくさん聴けそう。ドビュッシー没後100年も大きいのだが、数年前に生誕150年が中途半端にとりあげられてしまった感もあって、そのあたりの影響は微妙。
●グノー生誕200年とか、例年ならもう少し目立ってもよさそうだが、ほかにネタが豊富なだけにどんなものか。
●ここ数年、毎年生誕100年を迎える大歌手がいる。「大歌手たちの時代」を未来形で追体験している感。
●生誕100年の人は、100年後に全員そろって生誕200年になるんすよ。生誕300年も生誕1000年もみんないっしょに迎える。うん、当たり前だ。当たり前だけど、なんだか惜しい。
[生誕100年]
レナード・バーンスタイン(作曲家、指揮者)1918-1990
ベルント・アロイス・ツィンマーマン(作曲家)1918-1970
ゴットフリート・フォン・アイネム(作曲家)1918-1996
ジョージ・ロックバーグ(作曲家)1918-2005
レーモン・ガロワ=モンブラン(ヴァイオリニスト、作曲家)1918-1994
ヘンリク・シェリング(ヴァイオリニスト)1918-1988
ルッジェーロ・リッチ(ヴァイオリニスト)1918-2012
レナード・ローズ(チェリスト)1918-1984
ジェラール・スゼー(歌手)1918-2004
ビルギット・ニルソン(歌手)1918-2005
[没後100年]
クロード・ドビュッシー(作曲家)1862-1918
アッリーゴ・ボーイト(作曲家、台本作家)1842-1918
リリ・ブーランジェ(作曲家)1893-1918
ツェーザリ・キュイ(作曲家)1835-1918
ヒューバート・パリー(作曲家)1848-1918
シャルル・ルコック(作曲家)1832-1918
トイヴォ・クーラ(作曲家)1883-1918
[生誕200年]
シャルル=フランソワ・グノー(作曲家)1818-1893
マリユス・プティパ(舞踊家,振付家)1818-1910
[生誕400年]
ジョアン・セレロールス(作曲家)1618-1676
[没後400年]
ジュリオ・カッチーニ(作曲家)1551-1618
[没後500年]
ピエール・ド・ラ・リュー(作曲家)1452頃-1518
ロワゼ・コンペール(作曲家)1445-1518
2017年のJリーグを振り返って
●J1の優勝争いが最終節までもつれ込むのはいったい何度目だろう。先週末、1位鹿島(勝点71)、2位川崎(勝点69)の状況で迎えた最終節は、感動的なフロンターレ川崎の逆転優勝で決着した。鹿島といえば「勝者のメンタリティ」、一方川崎といえば「シルバーコレクター」。ところが鹿島は磐田相手にドロー。今季J1に復帰した磐田だが6位フィニッシュは立派。往年のライバル相手に意地を見せた。リーグ最少失点のチームを作り上げた名波監督はいずれ名監督になるかもしれない。一方、川崎は大宮に大勝。結果として勝点で並んだが、得失点差で川崎が大きくリードしているため、悲願の初優勝、初タイトル。そもそもこれだけ「強いクラブ」というイメージの定着している川崎が、初タイトルというのが驚き。中村憲剛の男泣きもわかろうというもの。これほどの名選手が現役を無タイトルで終えかねないところだったわけで、サッカー選手の喜びというものについて考えさせられる。名声とタイトルの価値はどのあたりで釣り合うものなのか、と。
●得失点差で頭一つ抜け出ている川崎が優勝したのは順当といえばまったく順当。もともと川崎といえば点はよく取るけど、よく取られるイメージが強かったのに、今季は守備も堅く、失点の少なさでリーグ3位。得点は1位のまま、失点を減らしているんだから、今季から就任した鬼木達監督の手腕あってこそなんだろう。まだ現役選手みたいな雰囲気だが、この人も名監督候補。
●わがマリノスは、ACL圏内の可能性もあったが、終盤に失速して結局は5位に。自慢のディフェンスも終わってみればそれほど堅かったともいえない。モンバエルツ監督の退任にうっすらと希望を抱くが、監督というよりはチーム編成の問題か。
●降格は甲府、新潟、大宮。甲府は勝点差1に泣いた。J2からは1位湘南、2位長崎が自動昇格、3つ目の枠を巡る3位から6位までの謎プレーオフは、名古屋、福岡、ヴェルディ、千葉で争われ、順当に3位名古屋が勝ち抜けた。順当というか、順当であることが珍しいプレイオフではある。名古屋は1シーズンでJ1に返り咲いてめでたいところだが、J2でワンシーズン戦って湘南や長崎より下になったという結果はそれなりに重い。
●V・ファーレン長崎は高木琢也監督で5シーズン目という継続性に加えて、今季から「ジャパネットたかた」創業者の高田明社長を迎えたのが大きそう。昇格を決めた試合後スピーチが滑らかすぎて笑ってしまう。そのまま有力選手の大特価セールを始めるのではないかとドキドキしたが、そんなことはなかった。スピーチの最後にアウェイサポへの御礼を欠かさないあたりはさすが経営者。来季のJ1は長崎対広島の平和祈念ダービー(?)が実現する。
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のホルン・プロ
●2日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。いつもながらノットのプログラムはおもしろくて、前半にリゲティのホルンと室内アンサンブルのための ハンブルク協奏曲(ホルン:クリストフ・エス)、シューマンの4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック(ソロ:ジャーマン・ホルンサウンド)、後半にベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」というホルン大活躍プロ。ジャーマン・ホルンサウンドはクリストフ・エス、シュテファン・ショットシュテット、ゼバスティアン・ショル、ティモ・シュタイニンガーの4人の同門のホルン奏者からなるアンサンブル。4人がぴたりと調和してひとつの音楽を奏でる。シューマンのこの曲、以前にも聴いたことはあるけど、4人もソロがいるのにソリスティックではない変な曲だなーと思っていたんだけど、4人ホルンをひとつのパートくらいに見ればいいのかも。小協奏曲でもあり小交響曲でもあるような、鬱屈とロマンが一体となったくすんだシューマン・ワールド。なんとアンコールがあって、ブルックナー(M.ヒルツェ編)の4本のホルンのための3つのコラールよりアンダンテ。
●後半の「英雄」はスリリング。弦楽器が14型と小ぶりの編成(いつもの対向配置)なんだけど、その分、全力を振り絞って弾き切ることで初めて成立するようなエネルギッシュなベートーヴェン。ところどころにノットからの仕掛けがあって、これにオーケストラが応えるといった丁々発止のやり取りが(たぶん)あって、あえて端正な造形を拒むかのようにキリキリと軋みをあげながら猛進する。つい先日、ヤノフスキとN響でおそろしく完成度の高い「英雄」を聴いたばかりだけど、ノットはまったく別のアプローチで今まさに目の前で音楽が生み出されているという体験を提供してくれた。客席は大喝采で、ノットのソロ・カーテンコールに。定期公演で、しかもマーラーやブルックナーの大曲でもなく、ベートーヴェンの「英雄」でソロ・カーテンコールが起きるのは珍しいのでは。この日、オクタヴィアによるレコーディングが入っていた模様。どこまでこの興奮が録音で伝わるか興味深いところ。
●休憩中にロビーに黒山の人だかりができていて、なにかと思ったらジャーマン・ホルンサウンドの4人が現われて大撮影大会に。これはよくわかる。というのも、コンサートでは演奏中以外であっても撮影するチャンスがほとんどなく、せっかくコンサートに行ってもインスタ的な意味で「お土産」がない。みんなしょうがなくホールの外観とか公演ポスターとかの写真を撮ってSNSに載せてるわけだけど、それって行ってなくても撮れる写真ばっかりで、一抹の寂しさが残る。というわけで、自分も喜んで撮った。
新国立劇場「ばらの騎士」 ジョナサン・ミラー演出、ウルフ・シルマー指揮
●30日は新国立劇場で「ばらの騎士」。2007年のプレミエ以来たびたび上演されているジョナサン・ミラー演出の再演。ウルフ・シルマー指揮東京フィルで、元帥夫人にリカルダ・メルベート、オックス男爵にユルゲン・リン、オクタヴィアンにステファニー・アタナソフ、ゾフィーにゴルダ・シュルツ、ファーニナルにクレメンス・ウンターライナーという布陣。ジョナサン・ミラー演出は時代設定を初演当時に置き換えるというものだが、オーソドックスで、初めてこのオペラを見る人にも安心の舞台。つい最近、METライブビューイングで見たロバート・カーセンの新演出が同様の設定を採用して、よりはっきりと未曽有の世界大戦前夜の気配を打ち出していたのに比べると、こちらはぐっと控えめ。軍服姿のオクタヴィアンに、まもなく彼に訪れるであろう暗い運命を想像することはできる。なんど見ても心動かされる名作。序盤はぎこちなさも感じたが、次第に熱を帯び、幕切れは陶酔的でしみじみ。歌はゴルダ・シュルツのゾフィーがすばらしい。アタナソフのオクタヴィアンはいかにも青年貴族らしい。
●このオペラで味わい深い登場人物がファーニナル。最初、この人は貴族社会に踏み込んできた成金で、娘を有力貴族と結婚させて自分の地位を確固たるものとしようと思っているだけの利己的な人物に見える。でも、だんだん違う見方があると気づく。元帥夫人にも男爵にもお付きの者が何人もいて、彼らのやっていることといえば、廊下でただ椅子に座って待っているとか、それが仕事。この社会、まったくもって生産性が低い。そして、身分のある男性以外はだれもが他人の人生を生きている。元帥夫人も含めて。古き良き時代ではなく、古き悪しき時代。でも平民生まれのファーニナルは自分の才覚で地位を築いた男なんすよね。軍需産業なんだろうけど、社会の実需にこたえて財を成した。しかしファーニナルには大きな弱みがある。第1幕で男爵がいうように、彼は健康ではない。妻に先立たれ、子供は娘のゾフィーだけ。財を成したけれど、男子の後継ぎはおらず、自分がいつまで元気でいられるか自信がない。だから一刻も早く、ゾフィーを貴族に嫁がせたい。なのにゾフィーはこんな相手はイヤだと言い出すものだから、もう頭がカッとなってお前の顔なんかもう二度と見たくないみたいな心にもないことを口走ってしまう。父性の描かれ方で「椿姫」のジェルモンなんかと通じるところがあると思う。