●10日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の「ドン・ジョヴァンニ」演奏会形式。直前にドン・ジョヴァンニ役がミヒャエル・ナジからマーク・ストーンに、ドンナ・エルヴィーラ役がミヒャエラ・ゼーリンガーに交代するというアクシデントがあったが、結果的には大成功に。騎士長にリアン・リ、レポレッロにシャンヤン、ドンナ・アンナにローラ・エイキン、ドン・オッターヴィオにアンドリュー・ステープルズ、マゼットにクレシミル・ストラジャナッツ、ツェルリーナにカロリーナ・ウルリヒ。合唱は新国立劇場合唱団。演奏会形式ではあるが、演技もあり、舞台上にはオーケストラの手前に簡素なベッド状のものが置かれて活用される。演出監修は原純。前回のノット&東響コンビによる「コジ・ファン・トゥッテ」と同じく、ノットはハンマーフリューゲルを弾きつつ指揮をする。今回は川崎の一公演のみ。トランペットとホルンはピリオド楽器を採用。
●オペラの演目って重なりがちで、今年はパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響によるほとんど理想的といってもいいスタイリッシュな「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたばかり。これも最低限の簡素な装置だけを置いて演技を付けるスタイルだったので、どうしても思い出してしまうのだが、あちらは磨き抜かれた完成品の魅力、こちらは今その場で湧きあがる音楽の生命力が肝といった感。歌手の変更があったにもかかわらず、チームワークは万全。ノットの鮮度の高いモーツァルトを満喫。カーテンコールではオーケストラ全員が去っても拍手が鳴りやまず、ノットと歌手陣が再度登場して大喝采。残っていたお客さんのスタオベと多数のブラボーで最高にいい雰囲気になった。
●レポレッロが「カタログの歌」でスマホを取り出すのはもはや標準演出か。数年前と違うのは、きっとデータはクラウド上に置かれてるはずで、安心のバックアップ体制が敷かれている。レポレッロが従者を辞めてもドン・ジョヴァンニはデータにアクセス可能だ。「コジ」等で肖像を見せる場面なんかもそうだけど、今はデータ化可能なものはみんなスマホで見せないと不自然だと感じるようになってきた。ドン・ジョヴァンニがレポレッロに金貨を渡す場面ではお札が舞っていたが、あれも遠からずスマホ決済になるにちがいない。ピピッ!みたいな音がして。
●レポレッロという役柄には2種類の描かれ方があると思う。ひとつは生まれながらの従者タイプ。この日のシャンヤンはそう。人物像としては伝統的でわかりやすい。もうひとつは本当はカッコいいレポレッロ。N響「ドン・ジョヴァンニ」はそちらだったという認識。たまたま身分制度上従者になっているが、実はイケメン。そうしておくとレポレッロがドン・ジョヴァンニと衣装をとりかえて人違いが起きる場面のリアリティが増すし、「カタログの歌」にも別の味わいが生まれる……。いや、待て待て、どうやってもリアリティなんかないか。ダ・ポンテ三部作はどれも話の発端はおもしろいんだけど、途中からグダグダでどうでもよくなり、モーツァルトの神音楽がすべてを解決してしまう。
●地獄落ちの場面。ドン・ジョヴァンニが銃口を自分の頭に向けるという演出。個人的には現代的かつリアルな手段で自らの命を絶つ場面には抵抗があるのだが、もうそうもいってられないのか。最後、ティンパニのロールを不気味に残してハッピーエンドのフィナーレにつなげるアイディアは秀逸! この間に、ドン・ジョヴァンニが起き上がって、皆の顔を見ながら去ってゆく。そういえば死者が起き上がって歩き出す光景は、河瀨直美版「トスカ」でも見たっけ。別にゾンビになったという演出ではないので、魂が肉体から抜け出たとでも思えばいいのだろうか?
●このオペラでもっとも危険な人物はドン・オッターヴィオだと思っている。大昔に最初に見たときから、この人、なんかヘンだよねっ!と感じていたのだが、今はその違和感の正体が理解できる。甘いテノールで最初から最後までずっと正論を歌って善人オーラを振りまこうとしているが、実は口だけで自分じゃなにもやっていない、それがドン・オッターヴィオ。いるいる、こういう人! 立派なことを言ってて、思いやりもありそうなんだけど、よく考えたらこの人、いてもいなくてもまったくいっしょで、話の行方になんの影響も与えていない。上司にしたくない登場人物ナンバーワン。ドンナ・アンナも薄々その邪悪さに感づいたから、結婚を先延ばしにしようって言ってるんじゃないかなー。
December 13, 2017