●28日はミューザ川崎でフェスタサマーミューザ2018記者発表会。今年のラインナップが発表された。7月下旬から8月中旬にかけて、首都圏10のプロオーケストラがミューザ川崎シンフォニーホールに続々と登場する。オーケストラの競演が音楽祭の柱だが、ほかに子供向けプログラムやパイプオルガン、バレエ、ジャズなどバラエティに富んでいる。
●このサマーミューザの会見って、毎年、川崎市長が臨席してくれるんすよ。先代の阿部市長時代の伝統が現職の福田市長にも受け継がれ、ミューザは川崎のシンボルなんだっていう誇らしげな雰囲気が伝わってくる。写真は左からホスト・オーケストラというべき東京交響楽団の大野順二楽団長、指揮者でこのホールのチーフアドバイザーの秋山和慶、福田紀彦川崎市長、吉井實行日本オーケストラ連盟専務理事、オルガニストで同ホールアドバイザーの松居直美、ジャズピアニストで同ホールアドバイザーの佐山雅弘の各氏。
●で、この音楽祭って、各公演のカラーがオーケストラによってまちまちなんすよね。思いきりファミリーコンサートっぽいところもあれば、ド本格のプログラムを持ってくるところもあって、客層がぜんぜんちがう感じ。たとえば読響は渡辺俊幸指揮でシネマ&ポップスだけど、都響はミンコフスキ指揮でチャイコフスキーの「くるみ割り人形」全曲だったりする。例年、N響はファミリー向けの公演だったのが、今年は路線が変わってパーヴォ・ヤルヴィのアシスタント熊倉優が指揮台に立ってショスタコーヴィチの交響曲第10番を振る。ソリストに上野耕平でグラズノフの協奏曲。で、若いファンもマニアも両方の人気を呼びそうなのが藤岡幸夫指揮日フィルで、反田恭平のソロでラフマニノフ(ヴァレンベルク編)のピアノ協奏曲第5番を演奏する。そんな曲は本当はないわけだが、これは交響曲第2番をピアノ協奏曲に編曲したもの。日本初演。
●東響の大野順二楽団長からは「今、各オーケストラでものすごい勢いで世代交代が進んでいる。N響がいちばん若いくらいかもしれない。若い人たちの活躍に期待してほしい」。このブログでもN響の若さは以前にも話題にしたと思うが、今回は指揮者もソリストも若くて、本当にフレッシュな感じ。ところで、この発表会では特製MUZAどら焼きが参加者全員に配られた。ちょうどお腹もすいていたところでありドラえもん級に歓喜したのであるが、そういえば、どら焼きといえばオーケストラ・アンサンブル金沢も作っていなかったっけ。東京定期で飛ぶように売れるどら焼きを見たような記憶が。なぜオーケストラやシンフォニーホールはどら焼きを作りたくなるのか。他の楽団やホールもオリジナルどら焼きで競演してみてはどうか、mgmg。うまっ!
2018年3月アーカイブ
フェスタサマーミューザ2018記者発表会
東京・春・音楽祭2018 プラド美術館展記念コンサートvol.2 宇治川朝政、髙橋弘治、佐藤亜紀子
●27日午前は上野の国立西洋美術館の講堂で、東京・春・音楽祭のプラド美術館展記念コンサートvol.2。絶賛開催中の東京・春・音楽祭、今年も約一か月にわたって上野の各会場で多彩な公演が開かれる。美術館や博物館を会場としたミュージアム・コンサートはこの音楽祭ならでは。この日はプラド美術館展が開かれている国立西洋美術館へ。展示されているベラスケス作品に連動して17世紀のスペインとイタリアの音楽を、宇治川朝政のリコーダー、髙橋弘治のバロック・チェロ、佐藤亜紀子のバロック・ギター&テオルボで。カプスペルガー、カステッロ、スプリアーニ、サンス、オルティスらの作品をリラックスして楽しむ。最後に並べられたヴィターリのチャッコーナとデ・ムルシアのマリオナスは同じ和音進行のパターンにもとづいた舞曲という趣向。平日の午前と午後に2公演開催だが、客席はなかなかの盛況。最初に国立西洋美術館の川瀬佑介主任研究員による美術のレクチャー(トークというよりレクチャーだった)があって、音楽の合間には演奏者のトークも入った。公演のチケットでプラド美術館展も見ることができるという気前のよさは大吉。
●ちょうど上野は桜が見頃とあって、午前中からすさまじい人出。駅の改札を出るために行列に並ぶという状態。花見をしたい人もいれば、動物園でシャンシャンを見たい人もいるだろうし、ベラスケスを見たい人もいれば、古楽を聴きたい人もいるという陽気なプチカオス。時間があれば、優雅に花も絵も見たかったところだが、すぐに次の予定があったので、そそくさと移動。一瞬だけ、上野公園の入り口に立ち寄って桜を眺めた。写真はソメイヨシノではなく、舞姫という品種なんだとか。ピンク系で派手め。
ニッポンvsウクライナ代表@スタッド・モーリス・デュフラン
●いよいよW杯ロシア大会メンバー決定に向けてのベルギー遠征第2戦、相手は仮想ポーランド的な意味合いでウクライナ。なんだけど、そんな「仮想」もへったくれもないほど、ウクライナはハイクォリティなチームだった。このウクライナがヨーロッパじゃワールドカップに出られないのかよ! アジアにいたらぶっちぎりのナンバーワン。先日のマリ代表とは比べ物にならない洗練された(そして力強い)サッカー。監督はかつてACミランで活躍した名ストライカー、シェフチェンコ。結果としては1対2で負けてしまったわけだが、あまり悔しくない。なんていうか、勝てたらおかしいから、これ。
●ただ、試合終了後にハリルホジッチ監督が「マリ戦よりは内容はよかった」と言っていたのは単なる強がりではなくて、その通りだと思う。レベルの高い相手と試合をすると、こっちのレベルも普段より高められるっていうのがあるじゃないすか。パスはこれくらい強くて正確じゃないといけないんだ、ボールを奪うときはこれくらい激しく複数選手で行かなきゃいけないんだ、苦し紛れのパスを出したら一気に奪われてピンチになるから落ち着いて逆サイドに出さなきゃいけないんだ、ディフェンスの寄せが遅れたらこんないいパスを出されてしまうんだ……。レッスンをしてもらったというしか。
●マリ戦とは多くの先発メンバーを入れ替えて、みんなに先発チャンスを割り振る選考会のよう。GK:川島-DF:酒井高徳、植田、槙野、長友-MF:山口、長谷部(→三竿)-柴崎(→中島翔哉)-FW:原口(→宇佐美)、本田(→久保)-杉本(→小林悠)。日本は右サイドをコノプリャンカになんども破られていて、酒井高徳はチンチンにやられた感。彼ひとりの問題ではなく、相手のレベルが高すぎるともいえるが、不在のもうひとりの酒井の守備力が恋しくなる。本田の先発は半年ぶりだとか。周囲との連携はもうひとつ。頼れる存在だが、局面を打開する力は見せられず。キーパーはやはり川島が頭一つ抜け出ていると実感。槙野はセットプレイから頭で合わせて唯一のゴールを奪った。長谷部の代役は結局見つからない。原口はただひとりドリブルで仕掛けられる選手だが、イエローカードの場面はいただけない。柴崎、プレイスキックはいい。杉本はまったくボールが収まらず、マリ戦の大迫とは対照的な結果に。2失点はいずれも完璧に崩された形。ほかにもなんどもディフェンスを崩されて、あわやの場面がいくつも。
●ウクライナのなにがいいかっていうと、オフ・ザ・ボールの動きの質がとても高い。ニッポンもかなり強くて正確なパスを回していたんだけど、守りが組織的かつ効率的。逆に攻めの局面ではディフェンスをはがす動きが巧みで、ボールを持った選手に対してパスコースを作ってあげるのがうまい。なるべくプレイを難しくしない工夫というか。それでいて局面を打開できる個人の力がある。
●これくらい差があると、裾野というか土台を築かずに頂点を高くすることはできないと痛感する。もうJリーグのレベルが上がらない限り、どうにもならない感じ。かつての中田ヒデの「ワールドカップも盛り上がったんで、こんどはJリーグをよろしく」は今も生きる名言だと痛感する。いや、ワールドカップ、まだ終わってないけど。ていうか、始まってもいないけど。
満開の花
●よく言われることだが、一般的な桜、つまりソメイヨシノって全部クローンなんすよね。日本中に広がっているのに、みんなクローンで個体差がない。だから、同じ地域の桜はどれも一斉に咲いて、一斉に散る。一気に満開になるところとか、桜吹雪なんかも、クローンゆえの美しさ。歴史的にも案外新しくて、江戸時代の末期あたりに作られた品種で、最近の研究によれば最初の原木は上野公園にあったんだとか。それが接ぎ木でどんどん増殖されて、全国に広がった。いわばコピペ植物。ソメイヨシノ同士の自然交配はできないそうなので、人間が広めることでしか生きられない植物ということになる。もっとも、ソメイヨシノ側から見れば、自ら繁殖しなくてもヒトという動物を働かせて広く繁殖できたわけで、「美しく咲き誇る」という能力を適者生存の原則にのっとって発達させた生命体ともいえるわけだ。
●とはいえクローンだ。ムチャクチャな仮定だけど、仮にソメイヨシノが植物じゃなくてヒトだったとすると、ひとりの原個体を全国津々浦々にコピーしたようなもので、たまたまそれが西郷隆盛だったりすると、日本全国どこにいっても西郷隆盛ばかり植えてあって、ほかの人物はまったくいないみたいな状況なわけで、「なんでそいつに決めたの?ほかに候補はいなかったの?」っていう疑問はずっと残ると思う。ひとりじゃなくて、せめて3人とか5人くらいをコピーしてもよかったんじゃないか、とか。
●それで、なんの話かというと、一週間ほど前に、「あ、あそこで一本、もう満開の桜がある!」と思って、撮った写真を上に載せてるんだけど、よく見たらこれ、桜じゃなくてアンズだったんすよ。近づいてみたらわかるけど、ぱっと見、桜と同程度に楽しめて、花見が可能。つまり、軽い互換性がある。しかもアンズってことは、実がなるんすよね? 子供の頃によく木になっているアンズの実を食べたけど、けっこうおいしかった記憶がある。花見ができて、なおかつ食べられるんだったら、アンズは桜に対して上位互換性があるんじゃないかとすら思うのだが、それほど人気がないのにはそれなりの理由があるのだろうか。
ニッポンvsマリ代表@スタッド・モーリス・デュフラン
●23日、W杯ロシア大会メンバー発表前の最後のインターナショナル・マッチウィークにニッポンvsマリ代表。この試合と続くウクライナ戦で本番の代表メンバーを決めるのかと思うと、いまに試行錯誤が続くばかりでメンバーが固まらない感はある(しかもケガ人多め)。中立地のベルギーで、仮想セネガルとしてのマリ代表との対戦。ニッポンは「ベルギー組」の森岡、久保を先発起用。GK:中村航輔-DF:宇賀神(→酒井高徳)、昌子、槙野、長友-MF:大島僚太(→山口)、長谷部(→三竿)-森岡亮太(→小林悠)-FW:宇佐美(→中島翔哉)、久保(→本田)-大迫。森岡はベルギーで、中島翔哉はポルトガルで大ブレイク中。宇佐美はこの日ベンチの原口とともにドイツ2部のデュッセルドルフでプレイしている。
●で、試合は多くの時間帯でニッポンが主導権を握っていた。特に前半は前線からのプレスがスムーズで、ボールもかなり奪えていた。もっとも、W杯に出場しない若いチームとこちらではモチベーションがぜんぜん違う。試合の入り方は悪くなかったが、前半のうちに宇賀神が相手にPKを与えていしまい、失点。30歳を迎えて代表初出場初先発となったサイドバックの宇賀神だが、本職の左ではなく右でのデビュー。しかし身体能力の高い選手に慣れていない様子で苦戦。前半のみのプレイで後半からは酒井高徳に。トップの大迫は相変わらずボールがよく収まり、ポストプレイのスペシャリストのよう。反面、ゴールに向かう勢いはない。森岡は体がキレていて、ドリブル突破で技術を見せた。
●しかし、ゲームは支配していてもシュート・チャンスは少なめ。後半に入って中盤のメンバーが変わると、選手の連動性が低下し、どんどんプレスが機能しなくなり、ペースダウン。中島翔哉はボールを持てば最高に魅せる選手だが、守備は期待できず。進むにつれて試合が雑になり、マリの勢いに押されるようになったのだが、後半アディショナル・タイム、こぼれ球からの三竿のシュート気味のボールに対してゴール前の中島が反応して、押し込んで同点ゴール。1対1。かろうじて引き分けた。
●ハリルホジッチ監督にとっては頭の痛いゲームだったと思うが、結局、欧州・アフリカ勢と戦うとニッポン代表はおおむねこうなる。個の力、特にフィジカルの差をコレクティブなプレイで補うが、耐え切れなくなって競り負けたりファウルで止めたりのワンプレイで失点する。4年前のザッケローニの代表は、W杯本番で長谷部をはじめキープレーヤー数人がコンディション不良に陥り、チーム力が下降した状態で試合に臨んだ。中盤、これからどうするんだろう……と思っていたら、4年経った今、所属のフランクフルトでリベロを務める長谷部が相変わらず中盤のキープレーヤー。コンディションが気になるが代役は見つからず。攻撃陣は宇佐美、中島、久保、森岡、小林悠、原口、本田、今回呼ばれなかった乾、浅野、香川と数はそろっているものの、横一線で突き抜けた存在は見当たらない。
鈴木優人チェンバロ・リサイタル
●雪とみぞれの21日はトッパンホールで鈴木優人チェンバロ・リサイタル。オール・バッハ・プログラムでメインは「ゴルトベルク変奏曲」。それに先立って前半に、「プレリュード、フーガとアレグロ」変ホ長調BWV998、カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」。実はこの日はバッハの誕生日、であるばかりか、生誕333年というキリのいい(?)記念日でもあった。それがうまく春分の日と重なって祝日。3つの部分からなり3部形式のフーガを持ちフラット3つの「プレリュード、フーガとアレグロ」で始まり、30の変奏からなり、3の倍数の変数がカノンになっている「ゴルトベルク」で終わるという、生誕333周年。トッパンホールの親密な空間で多彩で創意にあふれたバッハの音楽にどっぷりと浸る至福の時。「最愛の兄の旅立ちに寄せて」が旅を予告するように、これはひとつの旅のような音楽会だったと思う。「ゴルトベルク」はいつだってそうだけど、リピートありだとなおさら。最初のアリアで出発するときのワクワクするような期待感が、最後のアリアで帰ってきたという安堵の思いに収束されてゆく。
●「ゴルトベルク」の変奏は3曲ごとにカノンが入るので3曲ワンセットではあるわけだけど、全体に伏流するような大きなストーリー性もなんとなく感じる。おおむね、軽やかに始まって重く終わるというか。第15変奏で最初に短調の変奏が出てくると、一気にガラッと孤独なモノローグのような雰囲気になる。それが第16変奏で急に堂々たるフランス風序曲でかしこまってリスタートを告げる。この折り返し地点の明暗というか暗明がドラマティック。あと、第25変奏で短調の変奏が出てくるところも区切り感がある。ここからラストスパートしますよ、みたいな。続く第26変奏がやたらと活発で狂躁的なところの対比も効いているし、ひとつひとつの所作に重みが出てきて、明るい曲にもしみじみとした旅の終わりの予感が漂うかのよう。第29変奏がスペクタクルという点で最大の山場で、最後の変奏である第30変奏のクオドリベットでは、すでにみんなに「ただいま」を言っている(と感じる)。最後のアリアで「おやすみ」。
●配布されたプログラムノートには優人さんが事前にTwitterで一か月をかけて一日一つぶやきしてきた「ゴルトベルク変奏曲」各曲の解説がまとめられていて、この手があったか!と膝を叩く。一瞬、Twitterのつぶやきをまとめたのかと錯覚したけど、それだと印刷が間に合わないので、先に原稿を書いておいて、Twitterで毎日連載してくれたということか。妙案。
井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 東京定期
●19日はサントリーホールで井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の東京定期。プーランクの「オーバード(朝の歌)」(ピアノは反田恭平)とハイドンの交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」の三部作がセットになったおもしろいプログラム。プーランクの「オーバード」で題材となるのは朝というか暁なので、暁、朝、昼、晩と一日の4つの時間帯を追いかけるような構成になっている。しかも、どちらも協奏的な作品。プーランクの「オーバード」は「ピアノと18楽器のための舞踊協奏曲」と題されるように、本来はダンサーがいたわけだけど、ヴァイオリンなしという変則編成による協奏曲。反田恭平の切れ味鋭くスケールの大きなソロが活躍。一方、ハイドンの三部作は「交響曲」とはいいつつも、バロック的な合奏協奏曲風の趣向もあって、オーケストラの各メンバーが次々とソロを聴かせてくれる。フルート、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス……。名手ぞろいのOEKの特色が生きる(ふだんこれだけコントラバスのソロを聴く機会もない)。曲の合間合間にマエストロのトーク入り。「金沢ではよくこんなふうにしているので」と。
●「晩」の終楽章が典型だけど、風がくるくると舞うような描写的な嵐の音楽なんかもバロック的。エステルハージ侯に仕えたばかりの若きハイドンの意欲と創意が伝わってくるとともに、ここからはるか後の「ロンドン交響曲」への道のりに思いを馳せずにはいられない。名人芸を前提とする協奏的交響曲から、緊密な構成感と様式美を突きつめた後期の傑作群への長い道。普段まったく聴くチャンスはないけど、10番代とか20番代の交響曲ってどんな曲だったっけ?
●OEKはこの9月よりミンコフスキを芸術監督に招くため、井上道義音楽監督とのコンビは今回で一区切り。OEKの新体制はタイトルが多い。芸術監督にマルク・ミンコフスキ、首席客演指揮者にユベール・スダーン、常任客演指揮者に川瀬賢太郎、指揮者に田中祐子。首席客演指揮者と常任客演指揮者の両方がいる。
浦和レッズvsマリノス、ハイリスク戦術は続くよ
●ポステコグルー新監督を迎えたマリノス。開幕戦でも書いたように、エキサイティングすぎるハイリスク戦術を採用した結果、ここまでリーグ戦0勝1分2敗と違った意味でエキサイティングな順位に沈んでしまった。どんな戦術か、おさらいしておこう。前線からプレスをかけ、バックラインはハーフラインあたりまで上げる。後ろに広がる広大なスペースはキーパーが実質スイーパーとなってカバー。両サイドバックは高い位置をとり、なおかつ内側にどんどん入って攻撃参加。キーパーは相手が高い位置にいてもお構いなしでディフェンスラインにボールを渡し、細かくパスをつなぎながら攻撃を開始する。夢のフットボールではあるが、高い技術が前提になっているので、小さなミスがいちいち決定的ピンチにつながる。
●で、18日はアウェイの浦和レッズ戦。なんと、勝ってしまった。レッズ 0-1 マリノス。伝統的にレッズ相手には分がいいマリノスだが、それは大体フィジカル勝負をするからであって、まさかこの戦い方で勝てるとは。結果を知らずにDAZNでオンデマンド再生したが、ポステコグルー監督はここまでの結果に右往左往することなく、開幕戦と同様の戦術で勇敢に戦った。マリノス側の選手だけを記しておくと、GK:飯倉-DF:松原、中澤、ミロシュ・デゲネク、山中-MF:扇原、バブンスキー(→吉尾海夏)、天野-FW:遠藤渓太、ユン・イルロク(→イッペイ・シノヅカ)-ウーゴ・ヴィエイラ(→伊藤翔)。スコアレスの緊迫したゲームが続くなか、後半36分、ペナルティエリア付近まで中に入った山中から、ウーゴ・ヴィエイラにショートパス、ウーゴ・ヴィエイラは相手に体を寄せられながらも競り勝って、ゴールに蹴り込んだ。ちなみにこの日もキーパー飯倉はよく走っていて、走行距離6.8キロ。
●さて、ポステコグルー監督の戦術は成功したんだろうか。勝ったんだからまあ成功したといえばそうなんだが……実は自陣でのミスからピンチを招くことたびたび。レッズになんども決定機を与えていた。一度などは、キーパー飯倉の超前進守備を見越してウルトラロングシュートを蹴られてあわやの事態に(枠に飛んでいれば入っていたのでは?)。相手はマリノスがどう戦うかを知っていて、自陣前でのミスを誘発させようとプレスをかけてくる。で、実際、ミスもするわけだ。ただ、事は単純ではない。そうやってレッズの選手が前がかりになると、後ろにはスペースができているので、マリノスとしてはそこを突いて最後列からパスをつなげてチャンスを作りたいわけだ。隙を見せながら、隙を突くというハイリスク戦術。肉を切らせて骨を断つみたいなところがあるのだが、正直なところ、1つのチャンスを得るために相手に2つのチャンスを与えているような感もあって、むしろ骨を断たせて肉を切るみたいなことになっているんじゃないかという危惧はある。でも、祝、ポステコグルー監督、リーグ戦初勝利。
●たとえ降格争いに巻き込まれることになっても、この戦術を貫徹してほしい。抜群のおもしろさ。
ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル
●17日はすみだトリフォニーホールでピョートル・アンデルシェフスキのピアノ・リサイタル。プログラムはうれしいことにオール・バッハ。事前発表では平均律クラヴィーア曲集第2巻から前奏曲とフーガ6曲(番号未定)、イギリス組曲第3番および同第6番。当日会場に行ってみると、平均律は第1番ハ長調、第17番変イ長調、第8番嬰ニ短調を弾くと掲示されていて、なんだかプログラムが短めだったんだけど、アンコールを弾く余地を多めに残してあると思えば吉(実際そうなった)。というか、アンデルシェフスキ、公演数日前にインフルエンザにかかってロンドンの公演をキャンセルしたという情報が目に入っていたので、無事公演が開催されて安堵。
●前半、平均律が終わったところで、拍手を待たずにそのままイギリス組曲第3番へ。後半のイギリス組曲第6番が白眉。ホールの大きさゆえか、予想よりも一段身振りが大きく、次第に白熱するバッハ。端正な造形美と抒情性の絶妙のバランスは期待を裏切らず。アンコールはまずはベートーヴェンの6つのバガテルop126-1で始まった。これは前回聴いた彼のリサイタルでも同じようにアンコールで弾かれた曲で、簡潔でさりげなく、きまぐれな曲想がアンデルシェフスキにぴったり。そのときは、そのまま同じバガテルの第2曲、第3曲と続けてくれたので同じ展開を予想したが、続いてショパンのマズルカop59-1。がらりと雰囲気が変わる。で、そこからヤナーチェクの「草陰の小径」第2集をまるまる弾いてくれた。天国的な「第3部」に。
新国立劇場「愛の妙薬」(チェーザレ・リエヴィ演出)
●16日は新国立劇場でドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」。演出はチェーザレ・リエヴィ。このプロダクションは初出時の2010年に観て以来で久々。明るくてポップでカラフルな衣裳と舞台が圧倒的に吉。オペラ界最高のラブコメにふさわしい。ネモリーノにサイミール・ピルグ、アディーナにルクレツィア・ドレイ、ドゥルカマーラにレナート・ジローラミ、ベルコーレに大沼徹、ジャンネッタに吉原圭子。フレデリック・シャスラン指揮東フィル(指揮者は直前に変更があって代役)。主役ふたりがいい。サイミール・ピルグ、「パヴァロッティの後継者」っていうほど声は甘くないと思うんだけど、とてものびやかでリリカルで声質的にイケメン。2010年のときはジョセフ・カレヤで、純朴なネモリーノにしては押し出しが強すぎてどうかと思ったんだけど、ピルグは適役。アディーナもキュートなヒロインそのもの。
●ドニゼッティの「愛の妙薬」の台本はロマーニで、スクリーブの台本にもとづいて書かれたそうなんだけど、オペラのなかでは例外的にきれいに仕上がったラブコメだと思う。モーツァルトの「フィガロの結婚」とか「コジ・ファン・トゥッテ」なんかも便宜上自分はラブコメとか呼んだりするものの、ダ・ポンテの台本ってラブコメの向こう側にあれこれと本当に言いたいことがあったりとかするじゃないすか。でも「愛の妙薬」にはラブコメとしてきれいに話をまとめることを最優先にする潔さがあって、そこが偉大。軍人から詐欺師まで含めて、本当のワルがいない、善人たちのほのぼのワールド。こんな世界に住みたいぜー。
●この愛の妙薬、つまりトリスタンとイゾルデ伝説にもとづく惚れ薬が、ドニゼッティから33年後にワーグナーによってあんなに暗くておどろおどろしい物語になって帰ってくるとは。
●前にも書いた気がするけど、「愛の妙薬」って、ため息ばかりついてる他力本願なダメ少年が、都合の良い外的な力を借りて自己実現するという男の子の願望充足オペラなんすよね。つまり、ネモリーノがのび太、アディーナがしずかちゃん、ベルコーレがジャイアン、ドゥルカマーラがドラえもん。多くの演出でドゥルカマーラがコロコロした体形で描かれるのは、彼がドラえもんのメタファーだから。ウソ。
第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール記者発表
●13日午前、トッパンホールでの第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール記者発表に足を運んだ。な、なんと、ピリオド楽器を対象としたショパン・コンクールが今年の9月に開かれるんである。開催するのはもちろん、本家本元のショパン・コンクールと同じくポーランドの国立ショパン研究所。開催地もワルシャワだ。参加者は1次予選と2次予選でソロを弾いて、ファイナルでは18世紀オーケストラと協奏曲を共演する。今回が第1回で、今後5年ごとに開催される予定だという。現在DVDによる書類審査受付中。参加資格は18歳以上、35歳まで。ここでいうピリオド楽器とは「1860年より前にエラールまたはプレイエルの工房で制作されたピアノ、またはショパンの生存期間(1810-1849)のウイーン式ピアノまたはそのコピー」(コンクール規定からコピペ)。写真は左からポーランド音楽出版社のディレクター&編集長のダニエル・チヒ、国立ショパン研究所副所長マチェイ・ヤニツキ、国立ショパン研究所のふたつのコンクールのチーフ・プロデューサーのヨアンナ・ボクシチャニン、ダン・タイ・ソンの各氏。
●記者発表中にダン・タイ・ソンによるピリオド楽器とモダン楽器を比較する簡潔なデモンストレーションも行われた。また、午後に開かれたガイダンス(こちらはワタシは不参加)では小倉貴久子さんによる演奏アドバイスやコンクール参加希望者の相談受付もあったとか。
●記者発表ではマチェイ・ヤニツキ国立ショパン研究所副所長から今回のコンクールに向けての意欲が力強く述べられた。「わたしたちの研究所では活動の最初期から歴史的楽器の演奏を重視してきた。ピリオド楽器による演奏は私たちの知らなかった作品の姿を再発見させてくれる。ショパンの作品は当時の楽器と深く結びついており、彼の音楽と楽器は切り離すことのできない関係にある。わたしたちはピリオド楽器の魅力を伝えようとしているのではなく、ショパン本来の魅力を知らしめようとしている」。
●で、ピリオド楽器を使うのはいいとして、では審査員はだれが務めるのか。これはピリオド楽器を専門とする奏者と、ピリオド楽器も弾くモダン・ピアノ奏者の両方が担うそう。アンドレアス・シュタイアー、アレクセイ・リュビモフ、クレール・シュヴァリエ、ダン・タイ・ソン、ニコライ・デミジェンコ、ネルソン・ゲルナー他の名前が挙げられた。
●2次予選からはインターネットでも中継されるということなのだが、新たなスターが誕生することになるのだろうか。第1回ということで、なにがどうなるのか予想のつかないことだらけという気もするが、かなりエキサイティングなことになっている。
ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
●13日はサントリーホールでヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック。ソリストにユジャ・ワン。前半にブラームスのピアノ協奏曲第1番、後半にストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。大傑作の割には実演で聴く機会が案外少ないブラームスを聴けるのがうれしい。
●ユジャ・ワンの選曲が意外な感じもあるんだけど、以前のリサイタルでベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」を演奏したときと同じような感触。一見、ユジャならではの敏捷性や切れ味の鋭さが生かされないような重い作品を、伝統的な視点とは別の観点からスタイリッシュな音楽に再構築する。ブラームスに期待しがちな少し気恥ずかしくて大きくうねるようなロマンティシズムは後退して、クールですらりとしたイケメン風ブラームスが誕生。ただし第3楽章の終結部は熱かった。猛烈な速さのテンポで駆け抜ける。唖然とするほどの鮮やかなテクニック。ソリストのアンコールが2曲もあって、シューベルト~リスト編「糸を紡ぐグレートヒェン」、メンデルスゾーンの無言歌集から「失われた幻影」。
●ニューヨーク・フィルの新音楽監督にヤープ・ヴァン・ズヴェーデンというのは意表を突かれたんだけど、現地では納得感のある人事だったんだろうか。オーケストラは非常に明快で解像度が高く、とてもパワフル。自分史上最轟音の「春の祭典」だったかも。骨太で荒々しい「春の祭典」でありながら、細部はクリア。妖しい異教性よりも音響のスペクタクルが前面に。ユニバーサルがニューヨーク拠点でDecca Goldというレーベルを新たに立ち上げて、このコンビによるベートーヴェンの交響曲第5番「運命」&第7番をリリースしていて、先にそちらを聴いた印象では、ヴァン・ズヴェーデンの目指すところはどちらかといえば伝統重視の重厚なスタイルなのかなとも思うんだけど、はたして。アンコールにワーグナー「ワルキューレの騎行」(休憩中の音出しですっかりネタバレではあったが)。カーテンコールをあまり長引かせずに、わっと盛り上がって、サクッと解散。
どっちのペトレンコだ問題
●ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールで、ペトレンコが指揮したコンサートを聴いてみた。と、いっても次期首席指揮者キリル・ペトレンコではない。ロイヤル・リヴァプール・フィル首席指揮者として絶賛活躍中のヴァシリー・ペトレンコのほうだ。なんと、ヴァシリー・ペトレンコがベルリン・フィルにデビューを果たしたんである。
●これはズービン・メータのキャンセルにより、急遽代役としてヴァシリー・ペトレンコに白羽の矢が立った次第。キリルとヴァシリー。ますます混迷する「どっちのペトレンコだ問題」。ちなみにヴァシリーはラヴェルの「ラ・ヴァルス」「ダフニスとクロエ」第2組曲他を指揮。なんだか粘り気のあるラヴェル。ヴァシリーはベルリン・フィルから電話をもらったときに、どう思っただろうか。「あの……別の人とまちがえてませんか?」とか(んなわけない)。
●ところで、今年のラ・フォル・ジュルネにはエカテリンブルク・フィルハーモニー合唱団という団体が招かれる。先月、彼らの演奏をナントで一足先に聴いてきたのだが、その指揮者の名前がアンドレイ・ペトレンコ。第一、第二のペトレンコに続いて、まさかの第三のペトレンコが日本上陸! さらなる深みにはまる「どっちのペトレンコだ問題」。合唱指揮者だから、さすがにアンドレイがベルリン・フィルの指揮台に立つことはないとは思うけど。
バッティストーニ指揮東京フィルのグルダ&ラフマニノフ
●9日はサントリーホールでアンドレア・バッティストーニ指揮東フィル。前半に小曽根真のピアノとロバート・クビスジンのエレクトリック・ベース、クラレンス・ペンのドラムスを迎えて、グルダの怪作「コンチェルト・フォー・マイセルフ」。後半にラフマニノフの交響曲第2番というプログラム。同一プログラム3公演(ただしすべてホールは違う)にもかかわらず、この日は全席完売。
●グルダのコンチェルト・フォー・マイセルフ。だんだんフリードリヒ・グルダをピアニストとして記憶する人も少なくなってきていてもおかしくはないが、没後18年経った今こうして作品が演奏されているわけで、ひょっとして作曲家として名が残るんだろうか。この曲では、モーツァルト風だったりジャズ風だったり独奏ピアノの即興だったりロマン派風だったりロック風(?)だったりといろんなジャンルのごった煮のような音楽が自由奔放にくりひろげられる。第3楽章の「自由なカデンツァ」では小曽根真が内部奏法をふんだんに取り入れて、作曲者の「あらゆる効果を用いたぶっ飛んだ演奏」という指示にこたえた。で、自分の理解では、この曲ではピアニストが創造的な精神を、オーケストラが模倣しかできない凡庸さを表現している。冒頭、オーケストラが演奏する「モーツァルト風」の音楽は、モーツァルトのパロディではなくて、「モーツァルト時代に凡作を書いて消えていった作曲家、あるいはモーツァルトの模倣をして歴史に埋もれた作曲家」を表現している。だからわざとダサく書いてある。ジャズなどほかの音楽をまねても、逐一模倣にしかならなくて、冴えない。そんなオーケストラに対抗して、創造性の火花を散らすのがピアノ。常套的な表現しかできないオーケストラを触発しようと孤軍奮闘を続けるが、第3楽章ではもうやってられないとばかりオーケストラを見放してひとりでカデンツァを弾き続ける。しかし、ピアニストだってひとりでは寂しいし、孤高の存在になんかなっちゃダメだ、やっぱり手と手を取り合おうよと友情宣言をして第4楽章では仲良くハッピーエンドを迎える……というストーリー。どこにもそう書いてないけど。ソリスト・アンコールにトリオで小曽根真「ミラー・サークル」。すばらしい。
●ラフマニノフの交響曲第2番は、これまでに聴いたバッティストーニ指揮東フィルの演奏のなかでも、一二を争う充足度。起伏に富んでいて、ダイナミック。それでいて細部まで彫琢されている。今の在京オーケストラはどこもいい指揮者をシェフに迎えて充実しているんだけど、このひたむきな熱量は貴重。あと、ピアノを用いない曲における作曲家ラフマニノフの魅力を再認識。この曲にしても交響的舞曲にしても「死の島」にしても、ピアノがないことでラフマニノフはヴィルトゥオジティから自由になれる。
滝千春ヴァイオリン・リサイタル
●8日は紀尾井ホールで滝千春ヴァイオリン・リサイタル。ザハール・ブロンらに師事し、デビュー10周年を迎えたベルリン在住の奏者が選んだのは、なんと、オール・プロコフィエフ・プログラム。なかなかヴァイオリニストでこの選択はない。ソナタ2曲はいいとして、あとはなにを弾くのかといえばこんなプログラム。前半にバレエ音楽「シンデレラ」からの5つの小品より「ワルツ」(M. フィフテンゴリッツ編)、バレエ音楽「ロミオとジュリエット」(L. バイチ/ M. フレッツベルガー編)、ヴァイオリン・ソナタ第1番ヘ短調、後半に「ピーターと狼」(根本雄伯編/委嘱初演)、ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ長調。ピアノは沼沢淑音。
●もりだくさんでかなり長いリサイタルになったのだが、後半がだんぜんおもしろかった。「ピーターと狼」は根本雄伯の編曲が秀逸。単に実用的な編曲ではなく、創意が伝わってくる。本来オーケストラで各楽器がさまざまなキャラクターを担当する曲だが、ヴァイオリンの多種多彩な技巧(フラジョレット、ピッツィカート、ポルタメント、重音等々)を駆使して、情景が目に浮かぶように表現する。欲を言えば、曲が曲だけになにか視覚表現、映像なのか紙芝居なのかダンスなのかパントマイムなのかがあれば最高なんだけど、それをヴァイオリン・リサイタルで言ってもしょうがないか。ヴァイオリン・ソナタ第2番はこの日の白眉で、格段の熱気を帯びて、輝かしく高揚感にあふれた瞬間を作り出していた。プロコフィエフ一流のグロテスクなユーモアもたっぷりと堪能。
●プロコフィエフの2曲のヴァイオリン・ソナタがほぼ同時期に書かれているというのは、曲想からするとかなり意外な感じがする。魅力的なのはフルート・ソナタを原曲とする第2番のほうで、乾いたリリシズムや、才気煥発な気まぐれさがあって、典型的なプロコフィエフ。共感できる曲。一方の第1番のほうは番号は先なんだけど、晩年の晦渋さを先取りしているようなところがある。これを深化ととるのか、枯れてきていると受け取るのか。
●アンコールにキュイの「万華鏡」より「オリエンタル」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」(編曲はだれなんでしょう?)。21時半頃終演。
ダニエル・ゼペック ― 無伴奏
●7日はトッパンホールでダニエル・ゼペックの無伴奏ヴァイオリンによるリサイタル。ゼペック、これまでにアルカント・カルテットやドイツ・カンマーフィルのメンバーとしては聴いていると思うが、ソロを聴いたのは初めて。しかも無伴奏ということで、プログラムが抜群におもしろい。前半にテレマン「12のファンタジー」第9番ロ短調、ベリオ「セクエンツァ」第8番、ビーバー「ロザリオのソナタ」第16曲 パッサカリア、後半にアカ・ピグミー族の伝承音楽「ボッソベ」(録音)~ライヒ「ヴァイオリン・フェイズ」、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調。プログラムのテーマは反復と変奏(あるいは漸次変化)といったところか。プログラム全体がひとつの作品であるかのよう。しかもそれでいてバロックから現代、さらには民族音楽まで含めてしまうという振幅の大きさは圧倒的。時空を飛び越えながら、終着点のバッハ「シャコンヌ」に向かってゆく。柄物のシャツでフラッとステージに出てくる感じもカッコいい。
●後半は、当日に追加曲として発表されたアカ・ピグミー族による伝承音楽「ボッソベ」がスピーカーから流れ(ゼペックは舞台に立って聴いているだけ)、これが終わるとそのままライヒの「ヴァイオリン・フェイズ」につながる。事前録音されたヴァイオリン・パートで「ヴァイオリン・フェイズ」が始まって、しばらくするとようやくゼペックの演奏が加わるという趣向。ミニマル・ミュージックとの共通性から「ボッソベ」を置いたという奏者のメッセージがプログラムに挟まれていた。舞台上にスピーカーが設置されていたけど、PAはとても自然ですばらしい。最後はバッハ。用意周到に敷かれた「シャコンヌ」への道。しかしバッハが始まってしまうと、それまでの伏線がぜんぶ背景に霞んで、ひたすらバッハの音楽にフォーカスしてしまう感も。音楽の大きさというか、種類が違うというか、端正ではあるけれどエモーショナルであるというか。最後にアンコールで弾いたのがカプスベルガーの「アルペッジャータ」。ゼペックは日本語で曲名を案内してくれた。リュート曲からの編曲で、これもアルペジオが連続してミニマル・ミュージックともどこか通じる反復の音楽であるという、プログラム全体に沿った選曲。鮮やかな幕切れ。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式)
●6日はBunkamuraオーチャードホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響によるバーンスタイン「ウエスト・サイド・ストーリー」(演奏会形式)。バーンスタイン生誕100周年を記念して、バーンスタインを師と仰ぐパーヴォが「ウエスト・サイド・ストーリー」を指揮。マリアにジュリア・ブロック、トニーにライアン・シルヴァーマン、アニタにアマンダ・リン・ボトムス、リフにティモシー・マクデヴィット。ジェッツとシャークスは東京オペラシンガーズ、ガールズは新国立劇場合唱団。N響はゲストコンサートマスターにロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のヴェスコ・エシュケナージ。
●曲が圧倒的にすごい。ひとつの作品にこれだけの名曲が詰まっているとは。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」、ビゼーの「カルメン」に匹敵するくらいの名曲密度。天才すぎる。特に「トゥナイト」の五重唱に戦慄。甘いロマンスと絶望的な暴力の前触れがいっしょに歌われるというヴェリズモばりの残酷さ。今回は「シンフォニー・コンサート版」と銘打たれていて、セリフは最小限にして、どんどんと音楽を聴かせるスタイルで正味1時間半(+休憩30分)。しかもパーヴォのテンポ設定がキビキビとしたものだったこともあり、スピーディな展開に。
●歌はPAありなんだけど、やはりシンフォニー・オーケストラが演奏すると格調高いというか、全体としてはクラシカルで重厚な「ウエスト・サイド・ストーリー」。演奏会形式なので、オラトリオ「ロメオとジュリエット」とでもいうか、あるいはオラトリオ「トニーとマリア」、いや(ふたりの本来の名前の)「アントンとマルーカ」か。東欧系とプエルトリコ系。これって移民の話なんすよね(あ、今年のラ・フォル・ジュルネにぴったりの曲だ)。下敷きとしたシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」で、モンタギュー家とキャピュレット家の対立が背景にある以上、これを20世紀アメリカに翻案したら出自の違いがこのように置換されるのはまったく自然なことではあるわけだけど、結果的に今日的なテーマになっているのかも。一方で、「ロメオとジュリエット」題材の音楽としては、プロコフィエフ直系の子孫という気もする。
●平日昼間の公演だが、客席はしっかり埋まっていた。感動を伝える客席からの声が「ブラボー!」と「ヒューヒュー!」みたいな両方の流儀があって、これもバーンスタインならでは。
藤倉大記者懇談会~「ボンクリ」、個展、オペラ「ソラリス」
●2日夕方は東京芸術劇場で藤倉大記者懇談会。現在大活躍中の作曲家だけあって話題はもりだくさん。会見翌日に行われた芸劇ウインド・オーケストラ・アカデミー第4回演奏会でテューバ協奏曲の世界初演があり、9月には東京芸術劇場でアーティスティック・ディレクターを務める「ボンクリ・フェス2018」があり、10月にはHakuju Hall開館15周年記念「藤倉大個展」があり、さらに同月、東京芸術劇場コンサートオペラとしてオペラ「ソラリス」日本初演が行われる。Hakuju Hallの公演は4月18日に詳細情報が公開されるそうなので、以下「ボンクリ・フェス2018」と「ソラリス」について。
●「ボンクリ」とはBorn Creative、つまり人は生まれながらにして創造的、という意味。現代音楽あり、電子音楽あり、合唱あり、パーカッションありと、赤ちゃんからシニアまで一日中楽しめるワンデイ・フェスティバル。昨年に続く2回目の今回は開催時期を変えて9月24日に行われる。スペシャル・コンサートとしてアンサンブル・ノマドや東京混声合唱団、ヤン・バング、アイヴィン・オールセット他が出演。メシアン、エトヴェシュから大友良英、坂本龍一まで。藤倉大作品としてはチェロ協奏曲(独奏:カティンカ・クライン)が演奏される。また、シンフォニースペースではさまざまなワークショップも開催。なお、コンサートホールに入場できない未就学児連れのために「スクリームの部屋」が設けられ、スペシャル・コンサートが同時中継される(要保護者同伴)。
●もうひとつ、オペラ「ソラリス」は2015年にシャンゼリゼ劇場で世界初演された作品で、今回が日本初演。演奏会形式、日本語字幕付き英語上演。「ソラリス」は最近NHK Eテレの「100分 de 名著」でも取り上げられたスタニスワフ・レムによる古典的SF小説(当ブログでも話題にしている)。タルコフスキーらの映画でも知られるが、藤倉さんが触発されたのは小説のほう。佐藤紀雄指揮アンサンブル・ノマドの演奏で、配役はクリス・ケルヴィン役にサイモン・ベイリー、ハリー役に三宅理恵。ケルヴィン役にはもうひとり「オフステージ」としてロリー・マスグレイヴが配されている。これはクリスの言動の不一致を表現するための仕掛けなんだとか。世界初演の際は勅使川原三郎の演出とダンスがあったが、「作曲家としては、演奏会形式でもぜんぜん成立すると思って書いている」「5月にアウグスブルクで再演されるが、そちらでもダンサーはいない」。また、「ソラリスは演劇よりも音楽のほうが表現しやすいテーマだと思った」とも。原作は、知性を持った海で覆われた惑星を訪れた科学者たちが、絶対的に理解不能な現象と出会い、知の限界に突き当たりながらやがて人間存在の意味について問うといった内容。「100分 de 名著」が最高の予習(あるいは原作の復習)になっている。
下野竜也指揮日本フィルのスッペ、尹、マクミラン、ブルックナー
●2日はサントリーホールで下野竜也指揮日本フィル。練り上げられたプログラムで、前半はスッペの「詩人と農夫」序曲と尹伊桑のチェロ協奏曲(ルイジ・ピオヴァノ独奏)、後半はマクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」とブルックナー(スクロヴァチェフスキ編曲)の弦楽五重奏よりアダージョ。前半はチェロのソロが共通項になっていて、「詩人と農夫」序曲では日フィルの辻本玲が朗々としたソロを披露。続く尹伊桑作品が自伝的性格を持った作品であることから、日本でチェロを学んでいた尹伊桑の追憶を暗示させる「詩人と農夫」序曲でもあったよう。尹伊桑の後に予想外のソリスト・アンコール。アブルッツォ地方の子守唄(作曲者不詳)というまったく知らない曲だったのだが、なんと、途中からチェリストが歌い出した。チェロを「歌うように弾く」とはよく言うが、「歌いながら弾く」という手があったとは。これは奏者が子供時代に日々耳にしていた子守唄なのだろうか?
●後半は事前にマクミランとブルックナーをつなげて演奏するので拍手を控えてほしいという案内あり。マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」にあるイゾベル・ゴーディとは、17世紀のスコットランドに実在したとされる魔女。というか、自称魔女。魔女狩りの時代にわざわざ自ら出頭して自分は悪魔と契約した魔女だと告白し、数々の罪を自白してしまったものだからさあ大変、魔女っ子イゾベルの運命はいかに。となれば、尹伊桑が霞むほどの激烈な音楽が展開される。異教的というか邪教的というか、ストラヴィンスキー「春の祭典」を思わせるところも(とくに最強奏13連打は「春の祭典」第2部の11連打へのオマージュか。素数だし)。魔女集団の悪行が凶暴な響きによってくりひろげられるが、しかし最後は弦楽器を中心とする穏やかな祈りの音楽へと収束する。魂の昇天の後、無事に拍手なしでブルックナーのアダージョへ。この瞬間が鳥肌もの。曲想としては交響曲の縮小版といった感じ。もとが弦楽五重奏曲なのでこちらは弦楽合奏のみ、照明も弦楽器にのみあてられて儀式的な雰囲気に。
●前半と後半とそれぞれの2曲の間につながりがあって、なおかつ1曲目と4曲目がオーストリアの豊かな田園風の音楽、2曲目と3曲目が苛烈な運命に翻弄される音楽ということで、緊密に4曲が絡み合っている。ソリストアンコールも含めれば5曲がシンメトリカルに並んだともみなせる。プログラム全体でひとつのメタシンフォニーになっているかのよう。
大見出しにワグネリアン
●駅でだれかが広げたスポーツ新聞にでかでかと「ワグネリアン」と書かれているのが見えた。なんだ、なんだ、どこかの狂信的なワグネリアンが事件でも起こしたのか、それとも大人気の芸能人かだれかが「実は私……ワグネリアンでした」とカミングアウトしたのか。んなわけない。ワグネリアンというのは競走馬らしいんである。
●競馬のことはまったく知らないのだが、そういえば他にもワーグナー関係の名前を持つ馬がいた気がする。マチカネタンホイザとかローエングリンとかマイスタージンガーとかいたんじゃなかったっけ。なぜワーグナー関連の馬の名前が多いのか。ヴェルディやプッチーニにちなんだ馬の名前はあるのだろうか。
●わからないことだらけなので、とりあえず競走馬「ワグネリアン」をググってみた。すると、血統表が出てきたではないか。ワグネリアンはディープインパクトとミスアンコールの子、そのディープインパクトとミスアンコールはそれぞれだれの子で……といったように、なんと、5代前まで遡って全データが公開されている。すごくないすか。5代前ってことは、2^5=32で、32頭の名前があるってことなんすよ。ひるがえって、自分。いったい何代先まで遡れるのか。2代前(つまり祖父祖母)の4名はわかるにしても、3代前の8名となったらどうか。8人中何人の苗字を言えるだろうか。たとえばここに外国人の名前が入っていたとしても、自分は知らないわけだ。「ワグネリアン」の血統は5代も完璧にたどれるのに、3代前の8人の名前を言えないワタシ。「どこの馬の骨ともわからない」のはこっちのほうだ。
「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(ウェルナー・ヒンク)
●ウィーン・フィルのコンサートマスターとして長年活躍したウェルナー・ヒンクの語り下ろし本「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(小宮正安構成・訳/アルテスパブリッシング)を読んだ。往年の名指揮者たちとのエピソード(クライバー、ショルティ、ベーム、カラヤン、バーンスタイン等々)、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルでの多忙の日々、ウィーン弦楽四重奏団をはじめとする室内楽活動の喜び、自らの生い立ちなど、さすがにこれだけのキャリアを誇る人だけあって逐一おもしろい。ヒンクの語り口は古き良き時代を振り返るといった趣きで、暖かく、決して攻撃的にならない。センセーショナルな要素には乏しいのだが、心地よく読書の楽しみにふけることができる。有名なエピソードもあれば、ここで初めて知ったことも。クライバーやバーンスタインとは対照的にショルティがレコーディング・セッションで才能を最大に発揮する指揮者だったという話などは、よくいわれることかもしれないが、コンサートマスターという当事者だからこその説得力がある。まったく別の本で、ショルティが「ウィーンでいちばん好きな場所は(帰るときの)空港だった」と語っていたことを思い出すと、一段と味わい深い。
●印象的なエピソードはたくさんあるのだが、ニューイヤー・コンサートの舞台裏についての話を読んで納得。ニューイヤー・コンサートって、中継だとよくバレエが入るがじゃないすか。あれって、バレエは生じゃないっぽい(と、見てるとわかる)。でも演奏はぴたりとバレエに合っている。どうやってるのかなーと思ってたんだけど、演奏はあらかじめ早い段階で録音しておいて、それに合わせてダンサーが踊った別録をテレビで流しているんだとか。つまり、バレエが入る曲では、常にテレビの視聴者は会場での実際の演奏を聴くことができないんである。会場では別の演奏が流れている……。すると疑問がわく。そんなことはめったにないだろうけど、もしも指揮者が本番で事前の録音とぜんぜん違うテンポで指揮したら、曲が終わるタイミングが映像と合わないのでは? まさにそんなアクシデントが起きたのが2008年のジョルジュ・プレートル。事前収録よりもずっと遅いテンポで指揮をしてしまい、実際の演奏のほうが1分以上長くなってしまったんだとか。ということはテレビ中継では、バレエが終わった後もカメラが会場に「戻る」ことができなかったわけだ(まだ演奏が続いているんだから)。あれはどう処理したんだろうか。
●1982年にマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督に就任して「ブロックシステム」を導入したことについての話もおもしろかった。従来はレパートリー公演をリハーサルなしのぶっつけ本番でやっていたのを、マゼールは数週間のスパンで3~5演目を固定化して日替わりに舞台にかける方式を採用した(今もそうなっていると思う)。これをヒンクは大変ありがたかったと回想している。なにせこれなら練習時間も取れるし、ぶっつけ本番のリスクもなくなるし、コンサートマスターならずともオーケストラの楽員にとっては負担が軽くなるに決まっているわけだが、ワタシのうっすらとした記憶では当時この「ブロックシステム」に対しては批判の声が大きくて、マゼールが強引に主張を通したかのような印象すら受けた。あれはなにをもめていたんだろうか。
●短い記述だけど、存命中のショスタコーヴィチに会った話も興味深い。自身がソ連を訪れたときの聴衆の冷たく異様な無反応ぶりから、ショスタコーヴィチの面従腹背ぶりをただちに理解して、ウィーン弦楽四重奏団の主要レパートリーにショスタコーヴィチ作品を加えたという。伝えられるべき時代の証言のひとつ。