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May 11, 2018

チョン・ミョンフン指揮東フィルの「フィデリオ」演奏会形式

●10日は東京オペラシティでチョン・ミョンフン指揮東フィルのベートーヴェン「フィデリオ」演奏会形式。今月は新国立劇場でも「フィデリオ」が上演されるので、初台駅のあっち側とこっち側で「フィデリオ」を聴くことができるという僥倖。東フィルはすでにBunkamuraとサントリーホールでも「フィデリオ」を演奏していて、これが3公演目。5月の東京は「フィデリオ」大強化月間なのだ。
●で、東フィルの「フィデリオ」だが、「フィデリオ」序曲ではなく「レオノーレ」序曲第3番で開始された。この序曲、あまりにも完璧な作品なので使わないのはもったいないし、かといって使うとそれ自体でドラマが完結してしまっていて浮いてしまうという悩み深い存在だが、これを冒頭に持ってくるとは。いきなりクライマックスみたいな開幕。20世紀巨匠風の雄渾なベートーヴェン。序曲の後、いったん指揮者が袖に帰って、そうだ、これは演奏会形式なのだと思い出す。以降、音楽のないセリフの部分を割愛してサクサクと進む。先日のパーヴォの「ウエスト・サイド・ストーリー」なんかもそうだったけど、あらかじめストーリーを知っていないとなにが起きているのか理解できないわけだが、演奏会形式とはそういうものといえばそういうものか。合唱は東京オペラシンガーズ。
●レオノーレにマヌエラ・ウール、ロッコにフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、ドン・ピツァロにルカ・ピサローニ。みんなすばらしいんだけど、2幕でフロレスタンのペーター・ザイフェルトが第一声を発声した瞬間にガラッと世界が変わった。みずみずしい美声でまだまだ声は若々しく、声量も表現力もずば抜けている。オーラすごすぎ。フィナーレではパワフルな合唱とオーケストラが高らかに勝利を告げて、圧倒的な高揚感。客席の盛り上がりぶりは大変なもので、盛大なブラボーとスタンディングオベーション。今年自分が足を運んだ公演では最高の熱狂度か。これは東フィルの東京オペラシティ定期シリーズの一環として開かれた公演なんだけど、東フィルのお客さんは若い人もかなり多い。あとなぜか外国人率がとても高い。
●で、ここからはベートーヴェンに苦情だ。あのさ、このオペラってゾンライトナーって人が台本を書いてるんだけど、作曲する前にどうしてこれにダメ出ししなかったのよ? おかしいでしょ、これ。オペラには奇妙な台本がいくらでもあるけど、そのなかでも「フィデリオ」は群を抜いてひどいと思う。男女の入れ替えとかは別にいいんすよ、それは様式だから。いちばんよくないのは、最大の山場であるはずのレオノーレが自分の正体を明かして、ドン・ピツァロからフロレスタンを守ろうとする緊迫の場面で、さあ、この窮地をいったいどうやって抜け出すのかなという劇的展開が期待されるところを、「正義の大臣、到着しました~」っていうのんびりしたトランペットひとつで解決してしまっているところ。19世紀にもなって、広げた風呂敷をデウス・エクス・マキナで畳まないでほしい。いくらテーマと主張が高邁であっても、そこに有効なプロットを肉付けしなかったら物語は成立しないんだと台本作家に言いたい。
●じゃあ、あの場面、どう展開すればいいのか。ドン・ピツァロがふたりとも殺してやろうとナイフを持ってレオノーレに襲いかかる。しかし、そこに飛び出たのがロッコだ。この物語で唯一善と悪の間で葛藤を見せる生きた人物がロッコ。ロッコは身を挺してレオノーレを守り、身代わりになって死ぬ。なぜそんなことをするのかと動揺するドン・ピツァロ。レオノーレはロッコの死体からナイフを抜く。そしてドン・ピツァロの心臓を一突き。レオノーレは言う。「これがレオノーレのキッスよ!」(←それは違うオペラだ)。
●でも、いくら台本の代案を考えても、ベートーヴェンの曲はだれも書けないんすよね。台本はいくらでも直せるけど、ベートーヴェンが曲をつけたらもうだれにも直せない。この音楽は神の領域。