August 2, 2018

ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢のドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

●1日はマルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の東京特別公演でドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」(東京オペラシティ)。ミンコフスキのOEK芸術監督就任記念で、ボルドー国立歌劇場との共同制作。先立って石川県立音楽堂で行われた定期公演ではボルドーでの公演と同様にステージ・オペラ形式として上演されたが、同じ形態でオペラシティで上演するのは困難ということで、東京では後方に大型スクリーン1枚を掲げたセミ・ステージ形式での上演。演技も衣裳も照明もあり。舞台上にオーケストラが乗り、主にその前方で演技が行われるが、バルコニーなども用いられる。大型スクリーンに映し出される映像は、場面場面に応じたものだが過度に説明的ではなく、しばしば登場人物の眼をモチーフとする。懐ゲーのCGみたいのじゃなくて、現代の映像。おそらく金沢での公演はもっとフィリップ・ベジアとフローレン・シオーによる演出面で話題を呼ぶものだったと察するが、東京公演では圧倒的に音楽が主役。
●オーケストラの音が普段のOEKの音とはぜんぜん違う。柔らかくしてしっとりとした質感があって、色彩感豊か。強弱の表現の幅も一段と大きい。OEKは室内オーケストラなので、ベースとなるのは最小の二管編成で、普段はきびきびとした機動力が持ち味。編成が大きい作品を演奏するときはエキストラが増えて、どこか輪郭がにじんだような印象を受けることもあったのだが、今回は一丸となってひとつのサウンドが作られていた。繊細で、熱量も豊か。歌手陣のクォリティはきわめて高く、ペレアスもメリザンドもゴローもアルケルも、みんな歌にも演技にも満足できたという稀有な公演。イニョルド役のマエリ・ケレという人は17歳ってことなんだけど、本当に子供みたいな幼くて清澄な声が出てくるのがすごい。これが金沢ではOEKの定期公演の一公演として開かれたというのも驚き。楽団史に残る記念碑的名演といっていいのでは。
ドビュッシー●で、「ペレアスとメリザンド」だ。少し前に演奏会形式によるデュトワ指揮N響でも聴いたばかりだが、元ワグネリアンのドビュッシーが苦心の末に生み出したポスト・ワーグナー・オペラであり、音楽的にはドビュッシー以外のなにものでもない反面、メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」という題材自体がすごくワーグナー的だと感じる。「トリスタンとイゾルデ」+「パルジファル」。ペレアスとメリザンドとゴローの関係は、トリスタンとイゾルデとマルケ王を思い出させずにはおかないし、深い森に囲まれた閉塞的な城は「パルジファル」のモンサルヴァート城を連想させる。メリザンドは、不幸を先取りせずにはいられない痛々しい女性。崖っぷちでしか生きられない。ドヴォルザークの「ルサルカ」なんかとも同系統のセイレーンものではあるんだけどリアルな存在でもある。彼女の特技は大切なものを水の中に落とすこと。最初のゴローとの出会いで王冠を落とし、ペレアスといっしょのときにゴローの大切な指輪を落とす。わざわざ高く放り投げて戯れて、落としたくて落としている。大切なものを水に落とすという行為は、ずっと反復されてゆく円環的なものなのだろう。最後には死んでしまうわけだが、老王の言うように「次はこの赤ん坊が生きる」。娘は成長したら次のメリザンドになることを予感させる。ドビュッシーの音楽にもどこか円環的なものを感じる。というのは、この曲を聴き終えると、ついつい第1幕冒頭の音楽を思い出してしまうから。おしまいと始まりがどこかで呼応してる。
●イニョルドが遊んでいたボールが岩に挟まって取れなくなる場面で、この演出では岩の役(?)をメリザンド自身が演じていたのがおもしろかった。最後、スクリーンに赤ん坊が映るのは、ついキューブリックの「2001年宇宙の旅」を連想してしまう。意味合いは違うんだけど。

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