●27日はサントリーホールのブルーローズ(小ホール)でサマーフェスティバル2018 「フランス音楽回顧展Ⅰ 昇華/飽和/逸脱〜IRCAMとその後〜」。トリスタン・ミュライユ、ラファエル・センド、フィリップ・マヌリの3人の作曲家の作品が演奏された。「回顧展」と題しつつも、3作とも2010年代の近作。すべて日本初演。
●トリスタン・ミュライユ「トラヴェル・ノーツ」(2015)は2台ピアノ(グラウシューマッハー・ピアノ・デュオ)と2群の打楽器(藤本隆文、安江佐和子)のための作品。旅の手帳ってことなのか。空想の乗り物に乗って空想の風景を旅するということで、ロンド風の形式で旅の部分と風景の部分が交代する。空想の乗り物ということなんだけど、あえてイメージすれば飛行機と空港、かな。ラファエル・センドの「フュリア」(2010)は、チェロ(山澤慧)とピアノ(秋山友貴)の特殊奏法が炸裂。PAで増幅された苛烈な音響と奏者の気迫がインパクト大。
●より印象的だったのは後半のほう。マヌリの2台のピアノと電子音響のための「時間、使用法」(2014)。50分以上の大作だというし、曲名の意味がチンプンカンプンだし(「時間の使用法」ならともかく、「時間」と「使用法」っていうまるで異なる概念の並列がわかんない)、雰囲気だけでもと思い事前に少しだけ音源をつまみ聴きしたのだが、「これは滝に打たれる覚悟で行かねば」と恐れつつ臨む。でも前半よりある意味こちらのほうが聴きやすかったかも。2台ピアノとそれに重なる加工された電子音響が前方と後方の左右に置かれたスピーカーから立体的に聞こえてくる。長大な現代作品に恐れをなしてしまうのは、大概の場合、とにかく文脈が追えないからで(自分には)、いくら瞬間瞬間でおもしろい音が聞こえてきても、前後のつながりがどうなっているのか仮にでも感知できないと迷子になる。起承転結なら最高にわかりやすいが、なんなら起承起承でも起承転転でもアレグロ~アダージョ~スケルツォ~フィナーレでもなんでもいいわけだが、ブルックナーやマーラーがどんなに長くても聴き通せるのはそこで迷子にならないから。だから「時間、使用法」はもうダメだろうと思いきや、全体が8つのセクションにわかれているということで、かろうじてセクションごとの切れ目、キャラクターの違いは伝わる。そこから全体の大きな物語性みたいなものを受け取ると、ある種の恍惚感が訪れる。でも、「時間」はともかく、「使用法」ってなんだろ。「1日3回食後に2錠ずつ飲んでください」みたいなこと?
August 28, 2018