●27日はサントリーホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響。N響では主に後期ロマン派~20世紀音楽を中心に取りあげてきたパーヴォだが、今回はクラシカルなレパートリー。前半にシューベルトの交響曲第3番、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第2番(ラデク・バボラーク)、後半にベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲とハイドンの交響曲第102番。小ぶりな編成による推進力あふれる音楽を満喫。同様のレパートリーをドイツ・カンマーフィルとの演奏したときとはまた違って、通常のモダン・オケに寄せた筋肉質なサウンド。特に後半、「プロメテウスの創造物」序曲のダイナミズム、ハイドンの第1楽章序奏の弦楽器の精妙さ(ワーグナーばり)が印象的。メイン・プログラムがハイドンというのもうれしい。奇跡の傑作が連続するロンドン交響曲のなかでも第102番の充実ぶりは尋常じゃない。第1楽章展開部のカッコよさに悶絶。ハイドンではチェロのソロが登場するけど、客演していたのは日フィルの辻本玲さんだろうか。朗々とした音色に聴きほれる。
●シュトラウスのホルン協奏曲第2番では、やはりバボラークのソロが異次元。あのまろやかな音色はホルンという楽器観を変えてしまうほど。アンコールはブラームスのトランペットのための練習曲から第3曲。そんな曲があったとは。
2018年9月アーカイブ
パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団とバボラーク
サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団のバーンスタイン、ドヴォルザーク、ヤナーチェク
●ラトルといえばベルリン・フィル。そんな時代が終わって、ロンドン交響楽団(LSO)を率いて来日する日が来るとは。いや、うんと遡れば、赤いカマーベルトでバーミンガム市交響楽団を振った頃の記憶もあることはあるのだが。で、24日、サントリーホールでバーンスタイン、ドヴォルザーク、ヤナーチェクの3曲からなるプログラムを聴くことができた。
●前半はクリスチャン・ツィメルマンをソリストに迎えての、バーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」。この曲、実演でも録音でも今年は演奏されまくっていて、バーンスタイン・イヤー最大のヒット曲じゃないかと思うほどだけど、なにしろツィメルマンには作曲者本人と同曲を共演しているという強みがある。ラトルとベルリン・フィルとも同曲を演奏して、DGの録音もDCHの映像もある。クラリネットの寂しげな弱音で始まる孤独な音楽が、刹那的なパーティを経て、最後は力強い肯定で終わるというこの音楽、作曲のきっかけとなったオーデンの「不安の時代」の構成をかなり忠実に音楽でなぞっていて、もとのストーリーがあらすじだけでも頭に入っていると断然聴きやすい。というか、オーデンの長篇詩の内容をなにも知らずに聴くと、なかなか前半の文脈が追いにくい。でも、「戦時における信仰の回復」というテキストから離れて、音楽のみから大きなドラマを感じられるようになるということが、「名曲」に登録されるということなんだろう。ジャン・パウルの「巨人」を一切知らなくても、マーラーの「巨人」に心動かされるように。この曲自体、かなりマーラー的な要素は感じられて、最後の肯定感はマーラーの交響曲第3番を連想させる。ポスト・マーラーの交響曲作家として、バーンスタインが振り返られるようになるのかも。
●後半はドヴォルザークのスラヴ舞曲集 op.72(全8曲)とヤナーチェクのシンフォニエッタ。ドヴォルザークがアンコールの先取りみたいで浮いているような気もするけど、同じチェコ音楽のくくりのなかでのボヘミアvsモラヴィア、19世紀vs20世紀の対比を聴かせるということか。各曲に思い切りよく性格付けが施された精彩に富んだドヴォルザーク。とはいえ、これって全8曲を順番に聴くようなタイプの作品なんだろうか。ヤナーチェクのシンフォニエッタはバンダのトランペット部隊までロンドンから呼んできたようで、輝かしく、くらくらするような高揚感を満喫。ラトルのもと、LSOは高いモチベーションでひとつにまとまっているよう。ラトルにとってもオーケストラにとっても、このコンビはハッピーなものであるにちがいない。客席の喝采にこたえて、最後はラトルのソロ・カーテンコール。ステージ上に並ぶ無人の椅子に向かって立ち上がるように指示しておどけるラトル。
●長らくラトルとベルリン・フィルのコンビが続いていて、ラトルの音楽とベルリン・フィルの音楽のつなぎ目みたいなのがすっかり見えなくなっていたような気がする。それをラトルとLSOを聴くことで「差分を取る」みたいな感覚があった。ラトル時代のベルリン・フィルはまちがいなく大きな成功を収めたけど、逆にベルリン・フィル時代のラトルはどうだったのかなと思うことがある。ベルリン・フィルは「ラトルのオーケストラ」と呼ぶ気になれない一方で、ラトルは「ベルリン・フィルの指揮者」であるという非対称性というか。たとえば、ラトルの2種類のベートーヴェン交響曲全集のレコーディングでいえば、古いほうはあのウィーン・フィルをラトルの色で染め上げている一方で、最近のベルリン・フィルとの全集は「ラトルのベートーヴェン」より「ベルリン・フィルのベートーヴェン」と語られるべき録音芸術だと感じてしまう。だから、まだまだ元気なうちにベルリン・フィルを去って、ロンドンで「マイ・オーケストラ」を持つのは、ラトルにとっての最高のボーナス・ステージになるんじゃないだろうか。サッカーで言えば、長年ビッグクラブで指揮を執ってきた監督が、キャリアの終盤で自国の代表監督を務めるのによく似ている。
ローマ歌劇場の「マノン・レスコー」
●22日は東京文化会館でローマ歌劇場のプッチーニ「マノン・レスコー」。キアラ・ムーティの演出で、題名役を初来日のクリスティーネ・オポライスが歌うのが大きな話題。デ・グリューはグレゴリー・クンデ、レスコーはアレッサンドロ・ルオンゴ、指揮はドナート・レンツェッティ。オポライスは美貌のマノンにぴったり。クンデは若いデ・グリューには見えないが、張りのある声で客席からの反応は一番人気。演出については後述。
●オペラのなかにはプロットにはまるで魅力を感じないけど、テーマ性と音楽ゆえに好きになってしまう作品というのがいくつかあって、「マノン・レスコー」はそのひとつ。度を越したダメ男と崖っぷち女が破滅するべくして破滅するという、救いのない台本なのだが、登場人物のキャラクター描写には現代に通じる鋭さがある。最大の魅力はプッチーニのシンフォニックなスコア。
●マノンはデ・グリューの一途な愛に心を動かされるものの、性根のところはぜいたく大好きな享楽的な女子なので、若く貧しい学生のデ・グリューを捨てて、金持ち老人の愛人になる。しかし、やっぱりデ・グリューの愛を選び(というか醜い老人に辟易して?)、アメリカに売春婦として売り飛ばされて、最後はデ・グリューともども砂漠で野垂れ死ぬ。これは「愛かお金か」という話じゃないんすよ。そうじゃなくて、愛でもお金でも充たされないのがマノン。じゃあなんなら満足できるのかといえば、それは崖っぷちに立つこと。にっちもさっちもいかなくなったときだけ、急に生き生きとする女。こういう進んで崖っぷちに近づいてしまう若い女性って、現代においてもリアルな存在なんじゃないかな。
●じゃあデ・グリューは何者かといえば、引き返せない男。崖っぷち女の危険性はわかっているはずなのに、そしてなんどもマノンに愛想をつかしてさよならするチャンスがあったのに、破滅に向かう。蟻地獄にわざわざ飛び込む働き蟻。本質的にモテない男なんだけど、口だけは一丁前で、ようやく行動するチャンスが巡ってきたときに、加減というものがわからず、よせばいいのに砂漠までついていってしまう。感心するのはレスコー兄。この人は兄妹だけあってマノンと同じく享楽的な性格の持ち主なのだが、違うのは自分を火の粉の振りかからないポジションに置きながら祭りをプロデュースする能力に長けているところ。こういう要領のいい人って、たしかにいる。うらやましい。
●で、キアラ・ムーティの演出なのだが、一点を除いてオーソドックスな演出だった。決定的に普通と違うのは第1幕からずっと常に背景が砂漠であること。幕ごとに舞台は変わるんだけど、戸外には終幕を先取りして砂漠が広がっている。第2幕なんて、マノンが囲われているぜいたくこのうえない金持ち老人の屋敷の一部屋があるのに、窓から見える外はもう砂漠なんすよ。これをどう解釈するか。ひとつの解答としては、演出家は「第1幕からすでにマノンは砂漠をさまよっているようなもの」と言っている。マノンは修道院に向かっている時点から詰んでいるのだ。平たく言うと「お前はもう死んでいる」。ただ、これだとわざわざパリに砂漠を作るという飛び道具を使っている割にパンチに欠ける。だから、もうひとつの答えも考慮したくなる。これは第1幕から舞台はすでにニューオーリンズの砂漠なんすよ。現実のマノンは最初から最後までずっと砂漠にいる。で、そのなかにあるパリの屋敷とかはぜんぶ砂漠の遭難者が見た幻影。マノンはもともと売春宿にいて、砂漠に逃げ出したんだけど、渇きと飢えと暑さで意識が朦朧として、死の直前に「もしもあたしの過去がこうだったら……」という妄想に浸っている。で、終幕、マノンがいったん意識を失って、はっと気が付くところで話全体が現実に戻っている。そういうフィリップ・K・ディックの小説に出てきそうなマノンが描かれていた、と考えたい。
カンブルラン指揮読響のブルックナー「ロマンティック」他
●21日はサントリーホールでシルヴァン・カンブルラン指揮読響。前半にモーツァルトの「後宮からの誘拐」序曲、ピアノ協奏曲第24番ハ短調(ピョートル・アンデルシェフスキ)、後半にブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(1888年稿/コーストヴェット版)。アンデルシェフスキは今もっとも聴きたいピアニスト。抒情性と節度のギリギリのせめぎ合いから生まれてくるような清冽なモーツァルト。できれば長調の曲も弾いてほしいもの。アンコールにベートーヴェンの6つのバガテルから第1曲。自分が聴いた前回と前々回のリサイタルでもこの曲がアンコールで弾かれたっけ。簡潔で気まぐれで、独り言をつぶやくような曲想は、アンデルシェフスキのために書かれた曲であるかのよう。
●後半は問題のブルックナー。交響曲第4番「ロマンティック」(1888年稿/コーストヴェット版)というバージョンで、最近ではマーク・ウィグルスワース指揮東響でも演奏されているのだが、初めて聴いた。弟子の勝手な改竄なのか、作曲者本人も認めているのか、という真正性は自分の関心外。どちらでもいいので、既存の名曲に一貫した説得力のある別稿がもたらされる(=名曲の世界が広がる)ならありがたいこと。で、前半の2つの楽章はまだしも、後半はかなり別世界が広がっていた。基本、第3楽章も第4楽章もどちらも簡潔化しようとしていると思うのだが、それがもうひとつ効果的ではない印象。第3楽章の狩りはどこか最大の獲物を逃してしまったような物足りなさが残る。第4楽章は一般的な第2稿で冗長さを感じる楽章ではあるんだけど、むしろその大きさが魅力だったのかもと感じる。強烈なのはシンバルの追加で、シリアスな場面で笑いを誘発しかねない。あと、第4楽章コーダでシンバルを弱奏のみで使うのは、まったくブルックナー的な感じがしない。と、違和感を延々と綴っておきながらなんだが、なんどか聴いたらこれも自然に感じるのかも。ブルックナーの音楽自体、違和感の集積がおもしろさに結実している面があると思うわけで、自然さと慣れの線引きは難しい。
●版の問題はともかく、カンブルランのブルックナーは、期待通りのカッコよさ。深い森でも大伽藍でもなく、モダンなデザインの高層建築物のようなブルックナー。マッシヴな響きの塊というよりは、多層レイヤーの見通しのよさが魅力。ブラス・セクション、とりわけホルンの響きが美しい。
●ブルックナーの全交響曲で、いちばん偉大さを感じるのが第5番とするなら、いちばんラブリーなのが第4番。ぶっちぎりでラブリー。あ、マーラーも第4番はラブリーか。そもそもベートーヴェンの4番だって「北欧のふたりの巨人に囲まれた可憐なギリシャの乙女」(シューマン)だし、第4番はラブリーになりがちなのかも。
「ソラリス」(スタニスワフ・レム著/沼野充義訳/早川書房)
●来月末、東京芸術劇場で藤倉大作曲のオペラ「ソラリス」(演奏会形式)が日本初演されるのだが、その前にン十年ぶりにスタニスワフ・レムの原作「ソラリス」(沼野充義訳)を再読。いや、正確には一部は初読でもある。というのも、かつてワタシが読んだのは「ソラリスの陽のもとに」の邦題による飯田規和訳。ところがこれはロシア語からの重訳で、当局からの検閲なども入っていた。現行の沼野充義訳はポーランド語の原書から直接訳されており、ロシア語訳でカットされた部分もぜんぶ訳出されている。しかも、純粋に日本語として読みやすい。レムだけに話の中身は大いに歯ごたえがあり、晦渋なところも一部あるのだが、それだけに日本語訳が読みやすいというのはありがたい。なお、「ソラリス」はタルコフスキーとソダーバーグという著名監督によって二度も映画化されているわけだが、レムの原作はこれらとは別物と言っていい。映画監督が原作に自分のオリジナリティを付与するのは当然だし、もちろん藤倉大のオペラだって原作とは別物であったとしてもいいわけだが、レムが書きたかったことは原作にしかない。
●惑星ソラリスの海が、どうやら海全体でひとつの生命体となっており、知的活動としか思えない営為がそこにあるのにもかかわらず、人間はどうやっても一切のコミュニケーションができず、まったく海を理解できない。「ソラリス」での大きなテーマは、そんな絶望的な他者性にある。海はどうやら人間の精神の奥底を知覚することができる。そして、ソラリスを訪れた科学者の心のなかから、すでに亡くなっている過去の恋人などを「再生」して、ステーションに送り込んでくる。それは人の形をして人の意識を持っているけれど、記憶は限定的で、精巧な張りぼてのような非人間なんである。コミュニケーションの不可能性を描きながら、人間とは何者なのかを問いかける。
●という大筋はおぼろげながら記憶していたのだが、今回新訳で読んで改めて気づいたことをいくつか。まずは(特に序盤で)ホラー小説の体裁をまとっているところ。お約束的な定型をあえて採用している。幽霊屋敷とか山奥の山荘とかと同じように、異星での孤立したステーションがゴシック・ホラーの舞台となりうるのはもっともな話。もうひとつは惑星ソラリスを研究した「ソラリス学」という架空の学問、架空のアカデミアを体系的に詳述していること。そこにあるシニカルなテイストは、同じレムの「泰平ヨン」シリーズを連想させる。レムは引きつった笑いを誘発させる作家であり、その特徴は「ソラリス」にすらあるというのが発見。もうひとつはソラリスの海に対する執拗な描写。ストーリー展開上とくに必要なさそうなものなんだけど、しかしこれをレムは嬉々として書いたはずで、こういう一見退屈な場面が作品に重みをもたらしている。
●もちろん、古びているところもあって、海に対する「X線の照射」みたいなのはどうかと思うし、紙の本とマイクロフィルムがあるけど電子書籍が存在しないみたいなレトロな未来に違和感は残る。でも、1961年に書かれた古典だから。
●ハリーというキャラクターって、はからずも今風のアニメなんかのヒロインを先取りしているような気がする。記憶があいまいで、無垢で、自分の力に無自覚で、でも主人公から一時も離れられなくて、自己犠牲の精神を持っているところとか。本質はぜんぜん違うんだけど。ドヴォルザークの「ルサルカ」とかドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」といったオペラと通じる、一種のセイレーンものとも読めるか、な。
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●ONTOMOの連載「耳たぶで冷やせ」、第6回はクラシック化しつつあるジョン・ウィリアムズ作曲の「スター・ウォーズ」。ご笑覧ください。
PCのキーボードを取り替える
●今までPCのキーボードといえば、購入時に標準で付いてくるものしか使っていなかったのだが、日々の打鍵で老朽化してきたので買い替えることにした。で、こればかりは実物を触らずに購入するというわけにはいかないので、実店舗でいろんな機種を触りまくって、オウルテック キーボード109キー ホワイト OWL-KB109STD(W)に決めた。タイプとしてはよくあるメンブレン式。評判のよいメカニカル式や静電容量無接点方式なども触ってみたけど、自分にはイマイチそのよさがわからなかった。色は白。近頃のキーボードはほとんどが黒なのだが、この機種は珍しく白も選べるのが吉。断然、白がいい。黒はダークサイドのフォースを誘発しそうなので。コーホー、コーホー(←ベイダー卿風に)。
●選ぶにあたって重視したのは、まずはタッチ。このキーボードはやや軽め、やや浅め。しっかりと押下するタイプはそろそろしんどいなと思い、軽めを選択。使い心地はとても良好。あとは、フルサイズのキーボードであること。ぱっと見、右側は使わないキーだらけだから、ついキーが少なかったり詰め込まれたりした省スペースタイプが欲しくなるが、たぶん、あるべきものがそこにないのは無視できないストレスを生む。それと、無線よりも有線。マウスは無線が快適だけど、キーボードは有線の確実さ重視(無線だと乾電池を変えるのもそれなりに面倒だ)。あとはNumLockやCapsLockのランプがちゃんとあること、スペースバーの長さが十分なこと。
●このキーボードが今まで使っていたものと違うのは、右Windowsキーがないこと(ほぼ使わないので、なにも困らない)、スリープボタンがあること(あれば便利)。キーボードの奥の側に傾斜を付けるための足がついているのは一般的だが、もうひとつ、手前側にもより大きな足があるのが特徴。これはキーボードを縦置きするためのスタンドになる。なぜ、そんなものが必要なのか、ピンとこない人にはこないだろうが、なるほどと膝を打った。こいつは一時的にキーボードを立てて、空いたスペースでメシなどを食うためのものにちがいない。たとえば、カレーとか。mgmg……
「ロンドン・デイズ」(鴻上尚史著/小学館文庫)
●先日、amazonに勧められるままに買った「ロンドン・デイズ」(鴻上尚史著/小学館文庫)がおもしろすぎて、つい寝る前に一気読みしてしまった。当時39歳の鴻上尚史がロンドンに演劇留学を果たした一年間について綴った一冊。文庫になったのは今年だが、中身は1997年の出来事。すでに日本で演出家として実績十分の著者が、あえてイギリス流の演劇教育を受けようとギルドホール音楽・演劇学校に留学する。そう、よく音楽家のプロフィールで目にするあのギルドホールではないの。この学校を演劇側の留学生の立場から記述した本を読めるとは。最初の登校日のところで「ほとんどは音楽の生徒らしい。ギルドホール音楽・演劇学校は、圧倒的に音楽の生徒が多いのだ」と書いてあって、そうんなだと軽い驚き。
●著者の体当たり的な悪戦苦闘ぶりが描かれているのだが、苦労の大半は「英語が聞き取れない」ことに起因している(しかもその英語が、出身地や出身階級によって激しく違っている)。先生の話がなにを言ってるのかさっぱりわからないんだけど、紙に書かれた指示は理解できるから「ああ、みんな、日常も筆談してくんないかと思う」(あるある)。高度に抽象的な概念を意味する単語は知ってるのに、子供でもわかるような簡単な単語の組み合わせによる日常的な表現がわからない。そんな外国語学習者にありがちな状況が、どうしても英語を母語としている人にはピンと来てもらえなかったというのもよくわかる話。
●いちばんおもしろいのはギルドホールで出会った同級生や先生たちの描写で、それぞれの強烈なパーソナリティが生き生きと伝わってくる。ときには友達同士、ときには役者と演出家の視点で描かれるのが興味深い。
マリノスvs浦和、降格ライン上の綱渡りが続く
●ま、また負けたよっ! 分がいい浦和相手に、ホームで1対2で敗戦。ほかの下位陣が奮闘した結果、ますます降格圏が団子状態になっている。最下位の長崎が24、そのひとつ上のガンバ大阪が27、そしてその上にマリノス、鳥栖、柏の3チームが勝点29で並んでいる。どこが落ちても、どこが残ってもおかしくない熾烈さ。
●マリノスは右サイドバックにイッペイ・シノズカ(ロシア国籍)を起用した。どうもポステコグルー監督は従来からこのポジションに不満を感じているようで、本来攻撃の選手であるシノズカをコンバートした模様。ディフェンスラインは左から山中、チアゴ・マルチンス、ドゥシャン、イッペイ・シノズカ。日本人がひとりしかいないディフェンスラインはJリーグではかなり珍しい。ちなみに中澤はもはやベンチにも入っていない。さらば、レジェンド。中盤の底に扇原、その前に天野と大津、左サイドに遠藤、右サイドに仲川、トップに伊藤。キーパーはおなじみ飯倉(もう走ってない)。ポステコグルー監督の基本プラン通り、圧倒的に高いボール支配率で、相手を上回るチャンスを築き、勝負に負けた。なんども書いているように、ポステコグルー監督の戦術が機能すると試合は負ける。ポステコグルー=グル・ポステコ=尊師ポステコ。尊師は負けるための戦術を極めつつあり、最終解脱は近い。
●ところが、試合終了後のインタビューで、尊師はおかしなことを言っている。選手たちに勝ちたい気持ちが足りないのではないかという精神論を述べた後、「このサッカーはただワクワクするとか、アタッキング・フットボールをやりたいとかではなくて、これが勝つために一番近い方法だからやっている」と、耳を疑うようなコメントを残しているのだ。えっ、それ、逆じゃないの? 「ただワクワクする、アタッキング・フットボールをやりたい」ためだけにこのサッカーをやっているのだと信じていたのだが。
●どんなにやられても「このサッカーは正しい」と断言していた頃のポステコグルーのすわった目が懐かしい。J2に落ちるなら狂信的なフットボールを貫徹してくれないとファンは納得できない。勝つためのサッカーで負けてどうする。一刻も早くゴールキーパーが7キロ走る伝説の戦術に回帰してほしい。
山田和樹指揮東京混声合唱団 第247回定期演奏会
●13日は第一生命ホールで山田和樹指揮東京混声合唱団。プログラムが魅力的。エフゲニー・スヴェトラーノフの「アレクサンドル ユルロフの思い出に ~無伴奏混声合唱のための後奏曲~」、藤倉大の「さわさわ 混声合唱とマリンバのために」(共同委嘱作品/日本初演)、ラフマニノフの「晩祷」。
●スヴェトラーノフというのは、あの指揮の大巨匠のスヴェトラーノフ。親しい友人であったソ連の合唱指揮者ユルロフへの追悼曲。情感豊かで、聖歌風でもあり、民謡風でもあり。藤倉大の「さわさわ」は同じく東京混声合唱団のために書かれた「ざわざわ」の続編なんだとか。ただし、今作ではマリンバ(塚越慎子)が加わる。合唱とマリンバという、まったく溶け合わない音色の組合せによる交感がおもしろい。感触的には「さわさわ」というか、「ぞわぞわ」かな。ラフマニノフの「晩祷」は初めて実演で聴けた。全15曲からなる1時間近くの大曲だが、長さを感じさせない濃密さ。ゲストにオクタビストという超低音を歌う鈴木雪夫さんを招いて深々とした響きを実現。すごいロシア感。祈りの音楽だけど土の香りが漂ってくる。「言葉もわからない異教の祈りの音楽」を聴くという意味で、先日のバッハのロ短調ミサと同じ体験をしているのだと気づく。
ニッポンvsコスタリカ代表@キリンチャレンジカップ2018
●どうしても生中継を見れず、一日遅れで録画観戦したニッポンvsコスタリカ代表。森保一新監督の初陣であり、ワールドカップ後はじめての代表戦ということで注目の一戦。といっても、本来は札幌でのチリ戦が初戦になる予定だった。それが地震と大規模停電のために中止になってしまい、森保ジャパンのデビューは吹田でのコスタリカ戦にずれ込んだ次第。
●で、メンバーだ。ガラッと一新され、世代交代が進んだ。ワールドカップメンバーはほとんどいない。端的に言えば、五輪世代の若いメンバー+年齢は上だけどワールドカップで不完全燃焼に終わった選手たち。GK:東口-DF:室屋(→守田英正)、三浦弦太、槙野、佐々木翔(→車屋)-MF:遠藤航、青山敏弘(→三竿)-堂安律(→伊東純也)、中島翔哉(→天野純)-FW:南野拓実、小林悠(→浅野)。キャプテンは青山。フォーメーションは2トップと見れば4-4-2、1トップ1シャドウと見れば4-2-3-1。まあ、どちらもそう違わない。名前を見ても所属チームがわからない代表選手がいるのは久々。ベンチの選手も書いておこう(本来ならチリ戦もあったので出場のチャンスはあったはず)。GKにシュミット・ダニエル、権田、DFに植田、冨安健洋、伊藤達哉。国内組にベルギー、オランダ、ポルトガル、オーストリア、ドイツの海外組が加わっている。若い選手が多いので海外組の所属リーグが以前に比べると地味になった。マリノスから久々に代表選手が出たのはうれしい。レフティのテクニシャン、天野純。
●で、試合内容だが、一言でいえば「ショーケースに飾ってあるけど、購入できない素敵なニューモデル」だったと思う。ほとんどの時間、ニッポンがゲームを支配し、ボールをつないで華々しいスペクタクルをくりひろげた。オウンゴール、南野、伊東のゴールで3対0と危なげなく快勝。結果も内容も文句なしだが、コスタリカ側はすっかり親善試合モードでプレイ強度でもコンディションでも本来のレベルには程遠い感じ。ニッポンは来年1月のアジアカップでアジア王者を賭けて戦うわけだけど、中東の強豪相手の公式戦ではこの布陣は実用性を欠くんじゃないかな。攻撃の選手に小柄なドリブラー、テクニシャンの似たようなタイプの選手を何人も使った。はたして守備の局面でどれだけファイトできるか、相手が激しいチャージでフィジカル勝負に持ち込んだ場合にどこまで耐えられるか。アジアカップの開催地はUAEなので、基本アウェイゲームのなかでタフネス勝負になると予想。
●とはいえ、森保監督の人選はとても合理的で納得のゆくもの。ワールドカップまでニッポンは世代交代を遅らせてきたのだから、ここで一気に若返るのは自然なこと。ワールドカップで燃え尽きた選手は年齢にかかわらずいったん退いてもらって、まだ野心のある選手だけでチームを組んだ。アジアカップのような勝負の場になれば、まだまだワールドカップの主力組もなんにんか呼ばざるを得ないと思うが(酒井宏樹とか吉田麻也とか大迫とか、バトルできる選手)、先に新しい選手だけでチームを作っておくのは吉。
●前回のアジアカップでは、決勝トーナメントの最初の試合でUAEなんかにPK戦で負けてしまったんすよ。当時の監督はアギーレ。ワールドカップはお祭りだけど、アジアカップは勝負。森保ジャパンには決勝まで進んでもらいたいもの。
新国立劇場 大野和士のオペラ玉手箱 with Singers Vol.1「魔笛」
●10日は新国立劇場で「大野和士のオペラ玉手箱 with Singers Vol.1 魔笛」。新オペラ芸術監督が自ら登場して、ピアノを弾きながら開幕の演目について語るというレクチャー。歌うのはカバー歌手たち。会場はなんと本番と同じオペラパレスで(すごい集客力)、19時開演で休憩をはさんで21時終演予定というぜいたく仕様。しかもトークが予定より大幅に長くなり21時半くらいに終わった。もうそれだったら「魔笛」本編の正味と変わらないよ!っていうくらいの時間を費やしたわけだが、これが抜群のおもしろさ。かねてより大野さんのレクチャーの巧みさは知られるところではあるけど、一本のオペラについて2時間以上もピアノを弾きながら話すことができて、なおかつそれが場内の聴衆の興味を最後までひきつけられる人が、いったいほかにいるだろうか。しかも、なにがスゴいって、「魔笛」の本番の指揮者は大野和士じゃないんすよ!(指揮はローラント・ベーア)。もうそのまま指揮しちゃえばいいじゃん! って、そうもいかないか。
●内容については詳しく書かないけど、いちばん「おお!」と思ったのは、「第九」との近似性の話かな。あと、通常は聴く機会のないカバー歌手のみなさんの歌を聴けるというのも吉。カバーといっても、実績のある方々がそろっている。パミーナの馬原裕子さんは本番でも聴きたいと思ったほど。
●Vol.1と銘打たれているということは、Vol.2もVol.3もあるのだろう。欲を言えば終演時間をもっと早くしてほしかった。最高におもしろい内容であっても(事実最高におもしろかった)、21時を過ぎると翌日への影響が必至。休憩なしで20時に終わるとか、開演を早められれば。あるいは期間限定でいいので、YouTube等にあげてもらえたら最高だ。
トン・コープマン プロジェクト2018 コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団のバッハ ロ短調ミサ
●8日はすみだトリフォニーホールへ。トン・コープマン・プロジェクト2018のハイライト、コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団によるバッハのロ短調ミサ。今回の日本ツアーは、ほかに台風の被害があった大阪、地震で大規模停電が起きた札幌を巡ることになっていて、大阪ではなんとか公演ができたものの札幌は中止になってしまった。残念な限り。コープマンがマイクを持って登場して、お見舞いのメッセージあり。
●ロ短調ミサの前に、なぜかコープマンがバッハの小フーガ ト短調をオルガンで演奏。そういえば7月のミューザ川崎でのオルガン・リサイタルでもこの曲が演奏されて、全体のプログラムから浮き上がっていた。オルガンのあるホールと見るやこの曲を弾くことに決めているのだろうか。ひょっとして、ぜんぶ録音していて全世界各地のオルガンによる「小フーガ」20連発みたいな企画CDを出したりして……って、んなわけないか。細部に拘泥せず、猛進する前のめりの演奏スタイルは今回も変わらず。
●ロ短調ミサは期待通り、音楽の愉悦にあふれたバッハ。遅い曲でもあまりテンポを落とさずにすいすいと進んで、過度に儀式化しないところが吉。これなら非キリスト者も仲間に入れてもらえそうな気がする。コープマンもけっこう高齢になったはずなんだけど、昔からあまり風貌が変わっていないせいなのか、音楽がはつらつとしているせいなのか、あまりそんな感じがしない。むしろ時の流れを感じさせるのは世代交代するオーケストラのほう。合唱は少人数。独唱陣はマルタ・ボス(ソプラノ)、マルテン・エンゲルチェズ(カウンターテナー)、ティルマン・リヒディ(テナー)、クラウス・メルテンス(バス)。
●休憩が一回入ったのだが、第2部と第3部の間、つまり「サンクトゥス」の前に入った。前半には小フーガもあったので、たぶん前半で90分以上、後半で30分弱くらいの時間配分だっただろうか(うろ覚え)。長さで考えれば「クレド」の前に入ってもよさそうなものだが、文脈上の区切りとしては「サンクトゥス」の前がふさわしいってことなの?
山田和樹指揮日本フィルの三善晃、デュティユー他
●7日はサントリーホールで山田和樹指揮日本フィル。プログラムがとても意欲的で、前半にプーランクのシンフォニエッタと三善晃のピアノ協奏曲(萩原麻未)、後半にデュカスの「魔法使いの弟子」(ストコフスキー版)とデュティユーの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」。このプログラムで同一ホール2公演を開けるのはすごい。三善晃作品をフランス音楽の流れでとらえれば変則フランス音楽プロ。「魔法使いの弟子」がディズニー映画「ファンタジア」由来のストコフスキー版となっていることを思えば、20世紀中葉プログラムでもある。
●プーランクのシンフォニエッタは簡潔な編成だけど、けっこう長い。逆に三善晃のピアノ協奏曲は多数の打楽器群が大活躍する巨大編成なんだけど、その割には短い。短い中にすさまじいエネルギーが爆発して、ピアニストはマグマの激流と格闘する。「ル・ドゥーブル」は作曲者が亡くなっても演奏機会はけっこう多いし、このまま20世紀後半の交響曲としてオーケストラのレパートリーにしっかり定着しそう。「ル・ドゥーブル」、つまりダブル。オーケストラの前に小オーケストラが配置されるという二重の編成があるわけなんだけれど、この仕掛けを機能させるのはそう簡単にはいかないという気も。小オーケストラのティンパニとかはすごく引き立つ反面、残響の豊かな大ホールで距離のあるところから聴くとなかなか二重のアンサンブルというほど前後の対比は感じづらい。でも、そのダブル効果があってもなくても、この日もっとも楽しめたのはまちがいなくこの曲。語り口が豊かで多彩。
トン・コープマン プロジェクト2018 コープマン指揮新日本フィル
●6日はすみだトリフォニーホールでトン・コープマン指揮新日本フィルのバッハ・プログラム。プログラムは前半が管弦楽組曲第4番、ブランデンブルク協奏曲第1番、後半がブランデンブルク協奏曲第3番、管弦楽組曲第3番。チェンバロに曽根麻矢子(ブランデンブルク協奏曲第3番のみコープマンがチェンバロも担当)。新日本フィルといえばかつてブリュッヘンとのプロジェクトがあったのを思い出すが、今回のコープマンとの共演から生まれるのはまったく別種のはつらつとした音楽。
●前日に1時間のみの公開リハーサルがあって、そこでは管弦楽組曲第4番がとりあげられていた。短時間の間にどんどん音楽が彫琢されて、コープマン指揮新日本バロック・オーケストラと呼びたくなるような生命力が吹き込まれていくプロセスは見物だったんだけど、本番ではむしろ後半が精彩に富んで印象的。ブランデンブルク協奏曲第3番のみ、客席に背を向ける形でチェンバロを置いてコープマンが演奏しながら指揮、オーケストラもチェロ以外は立奏。物理的な編成はいちばん小さいんだけど、客席からの心理的な距離感はもっとも近く感じられるのがおもしろいところ。立って演奏する効果なのか、コミュニケーションの密度ゆえなのか。2つの和音が書かれるのみの第2楽章では、コープマンの即興と呼ぶには入念なソロが披露された。これはCDでの演奏と同じものなのかな。終楽章の疾走感は爽快。
●管弦楽組曲第3番のガヴォット冒頭が「まっかだなー、まっかだなー」としか聞こえないのは全国的全世代的に共通の現象なんだろうか。それにしても管弦楽組曲って4曲しかないのが本当に惜しい。もっとたくさん書いてほしかった。バッハの曲ってなんでも6曲セットが多いけど、どこかにあと2曲、管弦楽組曲が残ってたりしないもの?
●アンコールにヘンデル「王宮の花火の音楽」から「歓喜」。爆発的。明日8日はアムステルダム・バロック・オーケストラ&合唱団とのロ短調ミサが演奏される。
ローマ歌劇場2018日本公演開幕記者会見
●いよいよ9月9日からローマ歌劇場の日本公演が開催される。演目はヴェルディ「椿姫」とプッチーニ「マノン・レスコー」で計7公演。開幕に先立って、5日に東京文化会館の大会議室で記者会見が開かれた。写真は左より「椿姫」に出演するアントニオ・ポーリ(アルフレード)、指揮のヤデル・ビニャミーニ、フランチェスカ・ドット(ヴィオレッタ)、合唱指揮のロベルト・ガッビアーニ、アレッシオ・ウラッド芸術監督、「マノン・レスコー」を指揮するドナート・レンツェッティ、クリスティーネ・オポライス(マノン・レスコー)、キアラ・ムーティ(マノン・レスコー演出)。
●オポライスは初来日。「プッチーニは私にとってもっとも好きな作曲家」と語る。今回のプロダクションについては「キアラに恋をしてしまうほどすばらしい演出」。その演出のキアラ・ムーティ(リッカルド・ムーティの娘)は、プッチーニよりも先に同じ原作をオペラ化したマスネの「マノン」を引き合いに出して、「ふたつの作品には大きな違いがある。マスネのマノンはフランス人で、プッチーニのマノン・レスコーはイタリア人。原作では派手でぜいたくを好む女性として描かれているが、プッチーニのマノン・レスコーは最初から宿命を感じ取り、悲劇を予感する女性として描かれている」。またオポライスについて「彼女は歌手である以前に、女優である。リハーサルで私自身が感動してしまうほど」という。
●今回のふたつの演目には「愛と富を求めるヒロイン」という共通項がある。「椿姫」の演出はソフィア・コッポラ。つまりどちらの演出家も偉大な父を持つ女性ということになる。ソフィア・コッポラの「椿姫」は映画として先に公開されており、当欄でもご紹介している。衣裳がヴァレンティノ・ガラヴァーニという点でも話題を呼んだ。ポーリは「映画にもなっているけど、本物は映画よりずっとすばらしい」と念を押していたのが、まるでMETライブビューイングのお決まりのセリフみたいでおかしかった。
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●この日は午前中のローマ歌劇場記者会見に続いて、午後からはすみだトリフォニーホールにてトン・コープマン指揮新日本フィルの公開リハーサルへ。同ホールのトン・コープマン・プロジェクトで、コープマンは本日6日に新日本フィル、8日にアムステルダム・バロック・オーケストラ&合唱団を指揮する。夏が終わって、一気にシーズンが始まったという感じ。
ゾンビとわたし その37:松本アルプス公園~城山公園~まつもと市民芸術館
●先日、セイジ・オザワ松本フェスティバルのために松本市に足を運んだが、音楽祭以外のもうひとつの重要ミッションがこちら。標高約800メートルにある広大な松本アルプス公園を訪れた。かねてより「ゾンビと私」にて書いてきたように、街がゾンビで埋め尽くされた場合、なによりもまず人口密度の薄い土地に逃げなければならない。そのため、東京近郊の低山をリサーチしてきたが、なにしろ東京は関東平野。都市が巨大で、山が遠い。その点、地方都市ではより有利な状況を望める。以前、松本に行った際には「乗鞍高原ハイキング」を敢行したが、いささか市街地から遠すぎたのではないかという反省があった。なにしろゾンビ禍が発生すると、すぐに車が使えなくなることは先行事例から明らか。徒歩で到達できる場所を考えるべきである。そこでグーグルマップで松本市を眺めて、ほどよい距離と高度を持つアルプス公園に目を付けた次第だ。
●まずなによりもこの公演は見晴らしがよい。写真のように街を一望できる。遠景に山があって実に美しいではないか。下界で人々が次々と噛みつかれていることを忘れてしまいそうなほど、心安らぐ見事な眺望である。
●そして71ヘクタールという都市公園とは思えない広大さもよい。広ければ広いほど、人口密度は薄まる。公園内でもいっそう小高い「花の丘」で一息。そういえば、週末であるにもかかわらず、ここに来るまで数えるほどの人しか見かけていない。お天気がもうひとつということもあるかもしれないが、都内ではまず考えられないこと。のびのびと過ごせる。
●そして、公園とは言いつつ、周辺部にはこのように低山ハイキングの気分を味わえるような散策コースも用意されている。一見、見通しが悪く安全性に欠けるように見えるが、このような道では必ず足音が聞こえる。足音の様子から、人間とヤツらを見分けることもできるのではないか。
●さて、松本アルプス公園を抜けて、続いてもうひとつの都市公園である城山公園へと下ることにする。標識から確認できるように勾配は10%。大前提として、なぜ高い場所へ逃げるかといえば、ヤツらは意図的に山を登らないはずという仮定がある。獲物を追いかける場合は別として、確たる意思を持たずにフラフラと移動する以上、自然に坂道は上るよりも下るであろうし、特に階段や急勾配を連続して上る確率はかなり低いと見ている。問題は10%の勾配が十分に急と言えるかどうか。人間が歩いてみると、かなり急である。もしこれが十分に急であるとすれば、ぐっと安全度は高まる。
●そして城山公園へと達したときに、恐るべき看板を見かけることになる。まさか、こんな市街地に近い場所にクマが出没するとは! 市の公園緑地課の看板は熊鈴の装備を勧めている。だが、熊鈴を装備すれば、こんどはゾンビをおびき寄せることになる。クマかゾンビか。大山倍達になるか、ミラ・ジョヴォヴィッチになるか。低山という逃げ場の有効性が根本から脅かされているのを感じながら、まつもと市民芸術館まで歩いたが結論は出ていない。
ファジル・サイ&新日本フィル「皇帝」&「メソポタミア」制作発表記者会見
●3日はすみだトリフォニーホールへ。11月9日の公演に先立って、ファジル・サイが新日本フィルと共演する「皇帝」&「メソポタミア」制作発表記者会見が開かれた。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」とファジル・サイ作曲の交響曲第2番「メソポタミア」(日本初演)が演奏される。指揮はイブラヒーム・ヤズィジ。写真は左より「メソポタミア」でテルミンのソロを担当する滝井由美子、ハサン・ムラット・メルジャン駐日トルコ大使、ファジル・サイ。写真の左側にmoogのロゴが見えるが、これがテルミン。
●ファジル・サイの交響曲第2番「メソポタミア」は、120人からなる大編成のオーケストラにピアノ、バスリコーダー、バスフルート、パーカッション、テルミンのソロを要する約55分の大作。ピアノはもちろんサイ自身が弾く。チグリス川とユーフラテス川の大河に挟まれた文明発祥の地を題材として、歴史的な視点に現代の中東とトルコの時事的な問題、テロや戦争といったテーマを絡める。曲は全10楽章からなり、サイによれば「独自のストーリーを持ったオーケストラ・オペラ」なのだとか。バスリコーダーとバスフルートのふたつの独奏楽器はメソポタミア平原のふたりの兄弟を、テルミンが守護天使を表現するといったように。バスリコーダーを使うのはトルコの民族楽器に似た破裂音を出せるからという。
●会見の合間には滝井さんによるテルミンのデモンストレーションや、サイ作曲の「ブラックアース」の生演奏も。サイのオーケストラ作品では、交響曲第1番「イスタンブール交響曲」がすでに80回以上も演奏されているという人気ぶり。それに比べると「メソポタミア」は大編成のうえにソリストが何人も必要とあってまだ演奏機会は多くないが、それでもイスタンブールで初演されて以来、ヨーロッパ、カナダでも再演されているそう。アジアでは今回が初めて。各楽章に「メソポタミア平原のふたりの子供」「太陽」「月」「銃弾」「戦争について」といったストーリー性を想起させる標題が付いている。サイ「作曲にあたっては常にストーリーがインスピレーションを与えてくれる。物語や詩や都市など。モーツァルトやベートーヴェンのソナタであっても、私の頭のなかではストーリーを感じながら演奏している」
セイジ・オザワ 松本フェスティバル 秋山和慶指揮サイトウ・キネン・オーケストラ&小澤征爾音楽塾オーケストラ「ジャンニ・スキッキ」
●31日はスーパーあずさに乗って松本へ。コンサートは秋山和慶指揮サイトウ・キネン・オーケストラ(キッセイ文化ホール)。フランス音楽プログラムで、イベールの祝典序曲、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルのボレロ、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。オルガン付きといってもパイプオルガンはこのホールにないのだが、それでもどうしてもこの曲を、という選曲なんだろう。前半おしまいのボレロですでに客席は大喝采。より凝縮度の高いサウンド(とりわけ弦楽器)を聴けたのは後半のサン=サーンス。客席はいっそうの熱気に包まれて、カーテンコールを繰り返した後、舞台から楽員が退いても拍手が止まず、指揮者も楽員もみんなと一緒に姿をあらわす。これを2回繰り返して、最後に去り際のマエストロに盛大なブラボー。この盛り上がりに感じるのは、スーパースターがもたらす祝祭性よりも、わが街の誇れるチームを応援したいという松本山雅的ななにか。そういう意味で、今ここに求められるのはイニエスタやフェルナンド・トーレスではなく、反町康治なのかなとも思う。
●翌日は小澤征爾音楽塾オーケストラによるOMFオペラ、プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」(まつもと市民芸術館)。通常ならダブルビルになる演目だが、「ジャンニ・スキッキ」一本のみということで、休憩なしで1時間のみの短いプログラム。喜劇的作品だし、題材もわかりやすいので、オペラ入門編としてもぴったり。デイヴィッド・ニース演出で、デリック・イノウエ指揮小澤征爾音楽塾オーケストラ。ジャンニ・スキッキにロベルト・ディ・カンディア、ラウレッタにアナ・クリスティ、リヌッチオにフランチェスコ・デムーロ他。舞台も衣裳も明るくて洗練されていて、とてもシャレている。オーケストラのサウンドもみずみずしく、毒気のないコメディを堪能。プッチーニはこれを「三部作」の一作として書いたので、企画趣旨からしてしょうがないのだが、もしこれが独立した3幕もののオペラだったらと思わずにはいられない。この題材はプッチーニにとっての「ファルスタッフ」になれたかもしれないのに。3幕ものだったら、ジャンニ・スキッキの邪悪さの根源と、ラウレッタとリヌッチョ側にある若者の純粋な愛情の裏に隠された打算や欲望、みたいなところが描かれていたにちがいない。
●ところで、この「ジャンニ・スキッキ」の開演前に、とても気の利いた楽器紹介があった。オーケストラのパートごとに順々に登場して、その楽器に応じた曲を演奏し、ナレーションが入る。たとえばファゴットだったら「笑点」のテーマを演奏しながら入って来て笑いをとったり、チューバだったらダースベイダーの「帝国のマーチ」だったりとか、抜群に楽しい。最後はヴァイオリンが「カルメン」前奏曲を演奏して、途中からオーケストラ全員が参加して華やかに終わる。ピットに全員がそろったところで、「では、今からピットを下げまーす」とナレーションが入って、ガーッとピットが沈んでいく(このときプレーヤーたちが客席に向かって手を振ってくれるのがうれしい。一気に客席が温かい気分になる)。オペラの上演なのに、オーケストラの楽器紹介をこんなにスマートにできるとは。この場面だけでも松本まで来たかいがあったというもの。