September 26, 2018

ローマ歌劇場の「マノン・レスコー」

ローマ歌劇場2018来日公演●22日は東京文化会館でローマ歌劇場のプッチーニ「マノン・レスコー」。キアラ・ムーティの演出で、題名役を初来日のクリスティーネ・オポライスが歌うのが大きな話題。デ・グリューはグレゴリー・クンデ、レスコーはアレッサンドロ・ルオンゴ、指揮はドナート・レンツェッティ。オポライスは美貌のマノンにぴったり。クンデは若いデ・グリューには見えないが、張りのある声で客席からの反応は一番人気。演出については後述。
●オペラのなかにはプロットにはまるで魅力を感じないけど、テーマ性と音楽ゆえに好きになってしまう作品というのがいくつかあって、「マノン・レスコー」はそのひとつ。度を越したダメ男と崖っぷち女が破滅するべくして破滅するという、救いのない台本なのだが、登場人物のキャラクター描写には現代に通じる鋭さがある。最大の魅力はプッチーニのシンフォニックなスコア。
●マノンはデ・グリューの一途な愛に心を動かされるものの、性根のところはぜいたく大好きな享楽的な女子なので、若く貧しい学生のデ・グリューを捨てて、金持ち老人の愛人になる。しかし、やっぱりデ・グリューの愛を選び(というか醜い老人に辟易して?)、アメリカに売春婦として売り飛ばされて、最後はデ・グリューともども砂漠で野垂れ死ぬ。これは「愛かお金か」という話じゃないんすよ。そうじゃなくて、愛でもお金でも充たされないのがマノン。じゃあなんなら満足できるのかといえば、それは崖っぷちに立つこと。にっちもさっちもいかなくなったときだけ、急に生き生きとする女。こういう進んで崖っぷちに近づいてしまう若い女性って、現代においてもリアルな存在なんじゃないかな。
●じゃあデ・グリューは何者かといえば、引き返せない男。崖っぷち女の危険性はわかっているはずなのに、そしてなんどもマノンに愛想をつかしてさよならするチャンスがあったのに、破滅に向かう。蟻地獄にわざわざ飛び込む働き蟻。本質的にモテない男なんだけど、口だけは一丁前で、ようやく行動するチャンスが巡ってきたときに、加減というものがわからず、よせばいいのに砂漠までついていってしまう。感心するのはレスコー兄。この人は兄妹だけあってマノンと同じく享楽的な性格の持ち主なのだが、違うのは自分を火の粉の振りかからないポジションに置きながら祭りをプロデュースする能力に長けているところ。こういう要領のいい人って、たしかにいる。うらやましい。
●で、キアラ・ムーティの演出なのだが、一点を除いてオーソドックスな演出だった。決定的に普通と違うのは第1幕からずっと常に背景が砂漠であること。幕ごとに舞台は変わるんだけど、戸外には終幕を先取りして砂漠が広がっている。第2幕なんて、マノンが囲われているぜいたくこのうえない金持ち老人の屋敷の一部屋があるのに、窓から見える外はもう砂漠なんすよ。これをどう解釈するか。ひとつの解答としては、演出家は「第1幕からすでにマノンは砂漠をさまよっているようなもの」と言っている。マノンは修道院に向かっている時点から詰んでいるのだ。平たく言うと「お前はもう死んでいる」。ただ、これだとわざわざパリに砂漠を作るという飛び道具を使っている割にパンチに欠ける。だから、もうひとつの答えも考慮したくなる。これは第1幕から舞台はすでにニューオーリンズの砂漠なんすよ。現実のマノンは最初から最後までずっと砂漠にいる。で、そのなかにあるパリの屋敷とかはぜんぶ砂漠の遭難者が見た幻影。マノンはもともと売春宿にいて、砂漠に逃げ出したんだけど、渇きと飢えと暑さで意識が朦朧として、死の直前に「もしもあたしの過去がこうだったら……」という妄想に浸っている。で、終幕、マノンがいったん意識を失って、はっと気が付くところで話全体が現実に戻っている。そういうフィリップ・K・ディックの小説に出てきそうなマノンが描かれていた、と考えたい。

このブログ記事について

ショップ