●7日はミューザ川崎でジョナサン・ノット&東京交響楽団の「フィガロの結婚」初日。ひとことで言えば、モーツァルトにしてもここまで天才性を全開にさせた作品はほかにないと改めて感じ入る上演だった。コンサート形式とはいえ、完全に演技が入り、小編成のオーケストラが乗る同じ舞台スペースを駆使して、ほとんど舞台上演と変わらないストーリー再現度あり。演出監修にアラステア・ミルズ(バルトロ/アントニオ役でもある)。ノットは今回もレチタティーヴォでハンマーフリューゲルを弾く。オーケストラはホルン、トランペット、ティンパニがバロック・スタイル。東響はやはりモーツァルトを弾くとうまい。テンポは全体にきびきびとして速く、ときには意図してアンサンブルの安定を拒むかのよう。この作品にはしばしば陶酔的な瞬間が訪れるが、そこで立ち止まって音楽の美しさに耽るよりも、音楽を前に進めることと、場面場面の性格を伝えることを優先したようなテンポやダイナミクスの設定を感じる。
●歌手陣は大変に充実している。フィガロにマルクス・ヴェルバ、スザンナにリディア・トイシャー、アルマヴィーヴァ伯爵にアシュリー・リッチズ、伯爵夫人にミア・パーション、ケルビーノにジュルジータ・アダモナイト、マルチェリーナにジェニファー・ラーモア、バルバリーナにローラ・インコ、バジリオ/ドン・クルツィオにアンジェロ・ポラック。みんな歌えて演技もできて、脇役も含めてカッコよくておしゃれ。自分のなかではモーツァルトのオペラとは基本的にカッコいい歌手が歌うものになっており(レポレッロやパパゲーノであっても)、そうでないと違和感を覚えるようになりつつある。かつてのスター、ジェニファー・ラーモアがスザンナにババア呼ばわれりされるマルチェリーナ役で登場するのが感慨深い。
●年増女が若い男と結婚しようと企んだが、その男は実の息子だった。そんなふざけた話に、なぜこんなに胸がいっぱいになるのか。毎回思うのだが、このオペラの台本は第1幕までは完璧で、領主の初夜権なる設定を巧みに生かして「これからどうなるのか?」とぐいぐいと話を引っ張るが、途中から策略と言い訳の連続になると、話がグダグダになって「は? なんだそのヘンな作戦。もう勝手にやってろ」とどうでもよくなる。それなのに、泣ける! モーツァルトの音楽はもちろん場面場面の情景に添ったものだとは思う。思うんだけど……ときどき作曲家は物語に倦んで、音楽が話を置いてきぼりにして高みに昇ってしまうかのように感じる。モーツァルトは台本の枠に収まりきらない音楽を書いている。
●台本はグダグダだけど、テーマは鋭い。途中のセリフに「女はみんなこうしたもの」と出てくるが、この話が描いているのは「男はみんなこうしたもの」。アルマヴィーヴァ伯爵は明日のフィガロ。なにせ伯爵の前日譚は「セビリアの理髪師」だ。そして伯爵という権力者の傲慢さ、愚かしさは容赦なく描かれる。よくこれで上演許可が下りたもの。「コジ・ファン・トゥッテ」もそうだけど、形式上はハッピーエンドであっても、本質的にはなにも幸福な着地点にたどり着いていない。今回、第4幕でカットされることの多いマルチェリーナのアリア「牡山羊と牝山羊は」とバジリオのロバの皮のアリアも歌われた。なくてもストーリー進行に支障はないが、どちらもテキスト上はとても大切なことを歌っている。世のたいていの人は、フィガロの奇抜な策略ともアルマヴィーヴァの権力とも無縁だが、バジリオの処世術には覚えがあるはず。
●終演後の客席は大喝采。オーケストラが退出しても拍手が止まず、歌手陣とともにノットが登場して、スタンディングオベーションに。舞台上にも客席にも興奮と熱気が渦巻いて、なんともいえない雰囲気になった。
December 10, 2018