●「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼル監督と主演のライアン・ゴズリングがふたたびタッグを組んだというのに、周囲ではぜんぜん話題になっていない映画「ファースト・マン」。先日公開されたと思ったら、あっという間に上映映画館の数が減ってきているので慌てて見た。
●「ファースト・マン」とは、人類初の月に立った宇宙飛行士ニール・アームストロングのこと。ニールが宇宙飛行士に志願し、月に到達するまでが実話をもとに描かれる。というか、かなり細かいところまで実話っぽい。月着陸船イーグルが月に向かって降下する最中に、エラーコード1202みたいなのが2度も出て、そのたびにヒューストンから問題ないのでそのまま続行するように指示を受ける場面があったけど、あれも実話通りなんだとか(計算機の実行オーバーフローだったらしい)。映画は基本的にニール視点で描かれている。話が進むにつれて、だんだん寡黙で何を考えているかわからない人間になっていく描写が秀逸。この種の映画にありがちな「苦労が実って栄光を手に入れる」という定型に押し込まれておらず、ずっと暗めのトーンで進むところにリアリティがある。
●アポロ計画に対する冷淡な世論も描かれていて、なんと、カート・ヴォネガットがテレビ番組らしきものに出てきて「月なんかに税金をつぎ込むより、ニューヨークを人に住めるところにしよう」なんてことをしゃべっている。これは当時の本物の映像なんだろう。なんの役に立つかわからない宇宙開発より、目の前の貧困をどうにしかしろといった声も上がる。過去の勝利とみなされている話を負の面の含めてありのままに描き直したら暗いトーンの話になったという映画でもあって、あんまり評判にならないのもまあわかる。傑作。
2019年2月アーカイブ
映画「ファースト・マン」(デイミアン・チャゼル監督)
Windows Updateのエラーでドツボにハマる
●先週末、Windows 10でドツボにハマって大ピンチになったので、事の顛末を記しておきたい。だれかの役に立つかもしれないし、また同じ罠に陥るかもしれないので。あるとき、Windowsストアでストアアプリがアップデートできていないことに気づいた。ダウンロードさせてもエラーになる。次にWindows Updateが失敗を繰り返すようになった。更新ファイルのダウンロードは問題なく終わり、一通り更新して順調に再起動がかかるのだが、「更新プログラムを構成できませんでした」のメッセージが出て、元の構成に戻ってしまう。何度やっても同じ結果に。これは困った。エラーコードが0x800f0922と表示されるのだが、それだけの情報では原因が特定できない。ちなみにWindows 10のバージョンは1803(April 2018 Update)。
●当初は検索すればすぐに対応策が見つかるはずと高を括っていた。Windows Updateのエラーはよくある話。一般的な対処としては「Windows 10でWindows Updateに失敗する場合の対処方法」(@IT)や「Windows 10 - Windows Update に失敗する場合の対処法」(Microsoftコミュニティ)が有効なはず。たぶん、多くの場合はこれで大丈夫なんじゃないか。ところが、今回はどの対処法も功を奏しなかった。ほかにもあれこれ調べて試したがどれも症状が変わらず。うーん、現状でPCは問題なく使えているわけだが、このままWindows Updateが失敗し続けるのは大問題。こういうときは復元ポイントを用いてWindowsを少し前の状態に戻すという手もあるのだが、最近なにかをインストールしたという記憶もないので、少々戻したところでまた同じ事態を繰り返す可能性が高いだろう。さて、どうするか。
●購入時のリカバリーディスクを用いれば完全に初期化することができるが、そこから延々と環境を再構築するのはかなり面倒だ。そこで思いついたのがWindows 10を上書きインストールするという手。プログラムもデータもそのままで、MicrosoftのサイトからWindows 10を再インストールする。これなら比較的手がかからない。で、データのバックアップを取ったうえでやってみたのだが、これが大誤算。時間をかけて再インストールして、再起動してログイン画面もちゃんと出て、さあいよいよスタートしますよという段階で、画面が真っ暗に。は? 待っても待っても画面は暗いまま。再起動しても同じこと。Ctrl+Alt+Delでタスクマネージャーを呼び出すことはできるのだが、エクスプローラーが固まっていてそれ以上はなにもできない。画面が真っ暗なのは不適当なディスプレイ・ドライバがインストールされてしまったからだろうかなどと考えるも、この状態になってしまったらドライバのインストールもなにもできない。はっ、やってしまった。起動しなくなった。泣きたい。
●いよいよリカバリーディスクで完全に初期化かと思ったが、その前にひとつ思い出した。そういえば、以前、Windowsの標準機能を使ってシステムイメージのバックアップを取っていたのだった。これは「バックアップと復元(Windows 7)」というわかりづらいネーミングの機能で、OSもデータも含めてドライブまるごとそのまんまで外付けハードディスク等にバックアップが取れるという便利なもの。今後Windows 10では非推奨の機能になると聞いて最近は使うのを止めていたが、1年以上前に一度バックアップを取ったはず。そこから復元すれば、ゼロからスタートするよりずっと楽なのでは。
●で、方針は決まった。復元だ。ただしWindowsが動いていないのだから、その復元をどうやって行うかという問題がある。一昔前ならこういうときは電源投入時にF8キーを連打するなどしてWindowsをセーフモードで起動すればよかったのだが、近年のPCはそう簡単にセーフモードで起動できないようになっている。購入時に付いてきたリカバリーディスクから起動すれば「Windows回復環境」のような修復メニューにたどりつけるはずと思ってやってみると、これは完全初期化しかしてくれない独自仕様の代物だった……。なるほど、こういうときのためにシステム修復ディスクとかUSB回復ドライブを作っておくべきだったのか。で、どうしたかというと、Windowsは2度続けて起動に失敗すると自動的に「Windows回復環境」が立ち上がるということを知って、電源投入→Windowsが起動しかける瞬間に電源ブチッ!という荒っぽいことを2回続けて、無事に「Windows回復環境」にたどり着けた。
●ここから、バックアップしてあった古いシステムイメージを復元した。14か月前のデータが残っていた。かなり古いがないよりはマシ。ドキドキしながら復元してみると……おお! ちゃんとWindowsが起動する! 14か月前の状態のマシンにタイムスリップ。さて、これでWindowsが使えるようになったので一安心だが、そもそもWindows Updateが本日分まで無事に通るかどうかは別問題。一歩ずつUpdateを進め、なんども再起動し……と繰り返している内に、長い時間をかけてようやく最新のWindows Updateまで完遂することができた。Windowsストアアプリも無事アップデイトされている。これでOS側は復帰した。この段階でユーザーデータをバックアップから本体にコピーして最新のものに入れ替える。クラウド上にあるデータは勝手に戻ってきてくれるのでありがたい。主要なアプリケーションもアップデイトしておく。長い戦いの末に、ようやくPCがヘルシーな状態で帰ってきた。
●というのが、週末の騒動だった。もっとも復帰はできたものの、本来の不調の原因はわかっていないので、今後また同様のエラーが出る可能性もある。そこで、なにも問題が起きていない現在の状態にいつでも戻せるように、改めて丸ごとバックアップを取っておくことに。で、これが今回の教訓なのだが、すべきことはふたつ。まず、「バックアップと復元(Windows 7)」という変な名前の機能を使って、ドライブまるごとシステムイメージを取っておく(半年に一回くらいやっておけばいいだろうか)。もうひとつはOSが起動しなくても「Windows回復環境」を簡単に起動できるようにシステム修復ディスクまたはUSB回復ドライブを作っておく。以上。日常的なバックアップはデータをクラウド上に置くことで勝手にできているのだが、システム側のトラブル対策をまじめに考えていなかったのが反省点。
ゾンビとわたし その38:村上春樹の「ゾンビ」
●話題のNHKドラマ「ゾンビが来たから人生見つめ直した件」は、最初の一回を見始めてすぐに、どうもこれは問題意識の方向性が違うゾンビであるなと気づいて、以来、見ていない。アポカリプス的なゾンビ観と、人間ドラマを描く媒介としてのゾンビ観の違いとでもいうべきか。
●で、たまたまネットで調べ物をしていて今頃知ったのだが、村上春樹に「ゾンビ」という短篇があったんである。「TVピープル」(文春文庫)に収載。著者が欧州に長期滞在中だった1990年の刊行ということで、今から20年ほど前に書かれた先駆的作品。といっても、文体の違いを別とすれば、テイストも長さも星新一のショートショートみたいな感じで、肩の力の抜けた小噺といったところ。気が利いている。パンデミックの恐怖よりも、人を食べるという性質をもってゾンビとしているあたりに時代が現われていて、ゾンビ考現学的な視点からも興味深い。
●で、この「ゾンビ」って書き下ろしなんすよ。なぜかといえば、せっかく書いたのに雑誌の編集者から掲載を断られたため、いきなり本で発表することになったのだとか。村上春樹の原稿をボツにする編集者がいた時代に驚くべきなのか、それともたとえ村上春樹でもダメだってくらいゾンビへの関心が薄かったのか。
Jリーグ開幕戦2019。ガンバ大阪vsマリノス、いったい昨季となにが違うんだ編
●週末にJリーグが開幕。今季から1試合あたりの外国人枠が5人に拡大された(アジア枠は撤廃、タイやカタールを外国扱いしない提携国枠は健在)。登録選手の外国人枠は撤廃に。いろんな可能性が考えられるが、Jリーグの発展にはひとまず吉と見た。
●さて、マリノスはアウェイで宮本恒靖監督率いるガンバ大阪と対戦。名監督への道を歩みつつあるツネ様。一方、マリノスは今季も戦術モンスター、ポステコグルー監督が指揮を執り、昨季の狂乱のアタッキング・フットボールが継続されることになった。最強の得点力と最弱の守備力を武器にして戦うと残留争いに巻き込まれることはすでに証明されているわけだが、さて、キャンプ中に監督はどんなバージョンアップをチームに施してくれたのか、それが最大の注目点。主力を何人も引き抜かれた以上、戦術面での洗練は欠かせない。まあ、この戦術に洗練がありうるという仮定での話だが……。
●で、キックオフだ。開始1分に早くも驚愕の事件が起きた。センターバックのチアゴ・マルチンスがそれほど厳しいプレスがあったわけでもないのにキーパーへの不用意なバックパス、これをガンバ大阪のファンウィジョに難なくさらわれて、小野瀬のシュートで失点。いきなり最初の攻撃でガンバ先制。これって昨季に山のように見た自滅パターンじゃないの!! なぜそこで見えてないのにキーパーにバックパスをするのか、チアゴ・マルチンス。それは監督にボールをつなげと言われているから。飯倉呆然(たぶん)。昨季もずーっとこんな試合をやってきた。また一年やるのか、これを、本気で?
●そしてそのわずか2分後だ。今度はマリノスが左サイドのクロスからゴール前でこぼれたボールを仲川がすばやく押し込んで同点ゴール。開始わずか3分で1対1になった。ああ、ポステコグルー監督の高笑いが聞こえてきそう。前半34分、マリノスが右サイドでワンタッチ、ツータッチで華麗にボールをつないで天野がゴールラインぎりぎりを中央へ突破、ここから入れたクロスは跳ね返されるが、三好が拾って左足で豪快なミドルを叩き込んで美しい2点目。これは崩しもスペクタクルならシュートもスペクタクル。マリノス逆転。さらに前半38分、仲川とのコンビから新外国人のエジガル・ジュニオの技巧的なシュートで3点目をゲット。前半で1対3になった。後半は守る時間帯もやや増え、終盤に藤春に1点を返されて、結局ガンバ2対3マリノスという派手な打ち合いに。シュート24本を打って勝ち切った。あいかわらずラインは高く、サイドバックが内に絞って攻めるというスタイルは変わらず。勝ったのは嬉しいが、昨季の大騒動がくりかえされるだけのビューティフル・ドリーマーな展開の予感。
●開幕戦なのでメンバーを。かなり変わった。GK:飯倉-DF:広瀬陸斗、チアゴ・マルチンス、畠中槙之輔、高野遼-MF:喜田、三好康児、天野純-FW:仲川(→大津祐樹)、エジガル・ジュニオ(→李忠成)、マルコス・ジュニオール(→遠藤渓太)。控えに昨季のレギュラーメンバーだったドゥシャン、松原健、扇原も。札幌からやってきた三好康児のボールさばきがとても美しい。畠中はドゥシャンをベンチに追いやって先発の座をつかんだ。前線へのフィード能力を買われているのか。高野遼は甲府へのローンを経て成長して帰ってきた選手。広瀬陸斗は徳島から移籍してきた新戦力で、お父さんはかつての浦和の名選手、広瀬治。松原健とポジションが重なっているが、開幕スタメンとは。攻撃力はありそう。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団のストラヴィンスキー
●21日はサントリーホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団のオール・ストラヴィンスキー・プログラム。前半に幻想曲「花火」「幻想的スケルツォ」「ロシア風スケルツォ」「葬送の歌」、後半に「春の祭典」。マイクが立っていて録音が入っていた模様。前半は小曲が並列的に配置されていて、初期作品が中心なのだが、「ロシア風スケルツォ」のみ後年のアメリカ時代の作品。「幻想的スケルツォ」と「ロシア風スケルツォ」というスケルツォつながりの選曲なのか。「幻想的スケルツォ」のほうはメンデルスゾーン的な妖精たちの飛翔を描いたようなスケルツォ。「ロシア風スケルツォ」はもともとポール・ホワイトマンのジャズ・バンド用に書かれたロシア民謡由来の曲で、すっとぼけた能天気さが吉。「使用前/使用後」くらいの隔たりがある両スケルツォ。「ロシア風スケルツォ」はテーマパークとかお店のセールの呼び込みの音楽とかにも使えると思う。いつか著作権が切れたら「呼び込み君」の音楽にぜひ。「葬送の歌」についてはサロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団で演奏されたときや、初演時のニュースでもここで触れているけど、新発見の初期作品がこんなに盛んに演奏される例も珍しいのでは。
●「春の祭典」、冒頭のファゴット・ソロを思いきり歌わせるというのは、すっかり最近の流行になった感。第1部のおしまいの高速テンポによる「大地の踊り」はスリリング。直線的にクライマックスに向かう快感。第2部に入ると一段と熱気と推進力を増して、ソリッドな鋼のストラヴィンスキーに。全体に速めのテンポで、コーナーギリギリを攻めるかのような疾走感がある。
●弦楽器の配置が、いつもの対向配置と違って、従来型の音域順に並ぶストコフスキ配置(チェロは外側)。N響首席指揮者就任時にパーヴォは「一部のレパートリーでは対向配置だとうまくいかないので、その時は従来型の配置にする」と語っていたのだが、ストラヴィンスキーがそれに該当する模様。どうしてなんでしょね。
新国立劇場「紫苑物語」、ひとまず
●20日は新国立劇場で西村朗作曲「紫苑物語」。17日の世界初演に続く2回目の公演。西村朗作曲、笈田ヨシ演出、佐々木幹郎台本(原作は石川淳)、芸術監督の大野和士が東京都交響楽団を指揮。日本のオペラ界の力を結集して生み出した新作がついに上演されるとあって、注目度は高い。この後、23日と24日とまだ公演が続く。歌手陣は宗頼に髙田智宏、平太に松平敬(この役のみダブルキャストで、初日は大沼徹)、うつろ姫に清水華澄、千草に臼木あい、藤内に村上敏明、弓麻呂に河野克典、父に小山陽二郎。全2幕でそれぞれ約1時間。すべてにおいて入念に準備された舞台といった感で、見ごたえがあった。
●まだ公演中なので、ネタばらしにならない範囲で感じたことをいくつか。まずは管弦楽のくらくらとするような豊麗さ、色彩感、語法の多彩さ。ピットから聞こえてくる音の濃密さは普段の公演ではまず聴けないもの。歌手陣と合唱の難度は人外魔境の域といった感で、とりわけ第2幕の後半からしか出番がないのに平太役は超越的な歌唱に挑んで強烈な印象を残す。重唱の場面に重きが置かれ、特に2幕の四重唱は山場となる。全般に、伝統的な調性音楽じゃないけど、聴きやすい。ひたすら苛烈な音響が続くと付いていけないが、まるっきり伝統的書法に留まられても困るという、未知の新作オペラに対する不安を払拭してくれる。
●原作との関係、台本についてはいろんな見方があると思う。古典でもそうだが、やはりオペラと原作は別もの。オペラである以上、テキストの分量は原作よりはるかに減るのは必至。だから大胆になにかを削ったり省略したりすることになる。説明的な要素をどこまで入れて、どこまで削るかがオペラ台本の難しいところなんだろう。さらに、オペラならではの独自要素も付加される。特に第2幕後半から独自性が目立ってきて、これは映画「2001年宇宙の旅」でいうところの「スターチャイルド」パートだなーと思った(なんだそれは)。石川淳がクラーク、オペラがキューブリック。原作とは「文体」に相当するものがぜんぜん違うわけだから、石川淳というよりは伝奇ファンタジーみたいなテイストか。漂う昭和感。「とうとうたらり」「あっぱれ」「行(ぎょう)」などオペラ独自の言葉の使い方は効果的で、音楽と合わさって音としてのおもしろさを生み出す。
●うつろ姫の設定が、原作の醜女から美女に変更されているのはどうしてなんだろう。あと、平太は終盤にやっと出てくるだけで、宗頼との出会いという伏線がない。結果的に、三段階にわたって自己の分身を乗り越えるといったテーマ性は薄れて、うつろ姫/千草の側の重みが大きくなっている。もし原作を読んでいなかったら、ずいぶん違った受け止め方になったことはまちがいない。
●NHKによるテレビ収録あり。
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追記:日本語字幕の下に英語字幕もあった。
まもなくJリーグ開幕、マリノスの行方は?
●さて、早くもこの週末、Jリーグが開幕する。まだこんなに寒いのに。とても屋外のスタンドになど座っていられないので、またDAZNを全面的に頼りにしたいわけだが、そんなことより、次々と主力が去って行ってしまったマリノスはどうなるのか、という目下の問題がある。昨季、ポステコグルー監督による狂乱の戦術により旋風を巻き起こした結果、残留争いにまで巻き込まれてしまったマリノスだが、なななんと、監督は続投するんである。はたして大量得点と超大量失点を重ねるエキサイティング自滅フットボールが続くのか。波瀾万丈の昨季を振り返ってみれば、結局のところ、個の力で大きく相手を上回っていない限り、極端なポゼッション・サッカーは成立しないという割と当然の結論に至った気がするのだが。
●で、その「個の力」が困ったことになっている。「J1移籍情報」を見れば、マリノスの苦境は一目瞭然。昨季の最大のストロング・ポイントだった左サイドバックの山中亮輔は浦和に去った。エースストライカーのウーゴ・ヴィエイラもいなくなった。ウーゴ以外では唯一頼れるストライカーだった伊藤翔は鹿島に移った。オリヴィエ・ブマルもユン・イルロクも移籍した。久保建英は予想通りFC東京に帰った。そして、中町公祐はいったいなにを思ったのか、アフリカのザンビアでプレイするらしい。海外組にまさかのアフリカ組誕生。レジェンド中澤佑二は引退した。
●そんなわけで、ポステコグルー監督は一からチームを作るようなもの。新戦力というと左サイドバックのタイ代表ティーラトン、トップにベテラン李忠成、中盤に札幌から三好康児、そしてブラジル人フォワードをふたり、エジガル・ジュニオとマルコス・ジュニオール。ニッポン代表クラスの選手の獲得が噂されていたが、どうやら失敗したのか。問題はふたりのブラジル人で、これまでマリノスは南米から有力選手を次々と獲得しては、みんないつの間にかピッチから消えていくという謎展開があまりに多かった。このふたりがそろってチームにフィットしないかぎり、戦力ダウンは避けられない。ちなみにマルコス・ジュニオールのゴール・セレブレーションはかめはめ波のポーズなんだとか。どうやらマリノスの浮沈はブラジル人のかめはめ波がどれだけ見られるのかにかかっているようだ。頼んだぞ、ポステコグルー監督(そこなのかっ!)
最強のマーマレードを求めて
●検索でたまたま見つけて震撼したのが「マーマレード・リサーチ」。しばらく更新が止まっているブログだが、約70種類ものマーマレードを食べ比べて、それぞれに「苦味」「酸味」「甘さ」を評価して、ランク付けをしている。なんというマーマレードへの情熱。これだ、ワタシが読みたかったのは! まるで名曲名盤ガイドのような網羅性と評点主義への熱狂。その根底にあるのは「苦みがなければマーマレードではない」という一般的な国産市販品への批評性である。同時に「甘さとの協調も必要」とするバランス感覚にも好感が持てる。
●で、このランキング上位のものを試してみようと思ったわけだが、トップ15位以内でその辺のフツーのスーパーで見かけるような商品は、ST.DALFOURしかない。かといって日常使いのマーマレードのためにデパ地下を探すのもリアリズムを欠く。そこで、成城石井(←コンサートホールの近くによくあるイメージ)やカルディに置いてあるもの、あるいはamazon等で容易に購入できるものを試そうということで、この数か月ほどをかけて、TIPTREE、MACKAYS、HEROビターオレンジを使ってみた。
●現状、TIPTREEが自分内1位だ。しかし最初に口にしたときは「こんなマーマレードがあったのか!」と感動するんだけど、日々使っているとあっという間になにも感じなくなる。このあたりで紙パックの国産マーマレードにいったん回帰して、ランキング上位商品と交互に消費するのが最適解なのかも。
「紫苑物語」(石川淳著/新潮文庫 Kindle版)
●新国立劇場では西村朗作曲の新作「紫苑物語」が初演されたところである。後日足を運ぶのだが、先に予習も兼ねて、原作の「紫苑物語」(石川淳著/新潮文庫 Kindle版)を読んだ。もちろん、どんな場合でもオペラと原作は別物というのが大前提だが、情報量の多い舞台を予想して読んでおくことに。以下、すべて原作の話。
●主人公は国の守、宗頼。歌の家に生まれ、生まれながらの和歌の才に恵まれるが、やがて歌を捨て、叔父の弓麻呂を師として弓に生きる。宗頼はまず「知の矢」を習得する。しかし宗頼が放った矢はことごとく獲物を仕留めるが、射ると同時に獲物が消えてしまう。次に宗頼は「殺の矢」に開眼する。弓麻呂の導きにより、人を射ることを覚える。ついには「魔の矢」を身につけ、敵対する者を次々と殺め、さらには無辜の者まで手にかけるようになる。死骸の後には紫苑を植えよという。悪霊を背負うまでになった宗頼は、人の立ち入らない岩山で、岩肌に仏像を彫る平太なる者に出会う。ただ仏像を彫るだけの平太に、宗頼は自分自身の影を見て、宿敵とみなす。宗頼は仏像に立ち向かい、矢を射る……。
●といった一種の神話的な雰囲気をまとった自分探しの物語。主人公は「知の矢」「殺の矢」「魔の矢」と三段階にわたって弓術を究めることで、同時に三段階にわたって自己の分身を乗り越える。まずは父を越え、次に叔父を倒し、最後に平太と対決する。弓麻呂は主人公にフォースのダークサイドを教えるダースベイダーのようなもの。ならば平太はジェダイである。宗頼と平太の対決は、アナキン・スカイウォーカーvsオビ=ワン・ケノビか。ただ、剣ではなく、ここでの武器は弓矢だ。最後のエンディングは、炎のモチーフが少し「ワルキューレ」を連想させる。
●最後のシーンは、魔と仏、善と悪の対消滅と読むか、必定の合一と読むか。
ラ・フォル・ジュルネTOKYO2019記者会見
●15日、東京国際フォーラムのホールEで、ラ・フォル・ジュルネTOKYO2019記者会見が開催された。今年も5月3日~5日にかけて東京国際フォーラムを中心にラ・フォル・ジュルネが開催される。主催は昨年と同様、ラ・フォル・ジュルネTOKYO2019運営委員会(KAJIMOTO、東京国際フォーラム、三菱地所)。写真は今年のアンバサダー、別所哲也さんとルネ・マルタン。別所さんは今年のナントの音楽祭を訪れたほか、朗読で東京の公演にも出演する。
●まず、今回のテーマは「ボヤージュ ─ 旅から生まれた音楽(ものがたり)」。音楽に「ものがたり」とルビを打っている。異国の地に新たなインスピレーションを求めた作曲家たちの旅の軌跡を反映したプログラムが用意された。旅する作曲家は数多い。モーツァルトを筆頭に、リスト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、サン=サーンス、タンスマン、ジャン=ルイ・フロレンツ(20世紀フランスの作曲家)が例に挙げられた。昨年は「亡命者」がテーマだったんだけど、今回は「旅」。異国の地を訪れるという意味では関連性のあるテーマだが、強いられるのか、自ら進んで求めるのか、という対照性がある。すでに3日間のプログラムが発表されているが、今回も多彩なアイディアが盛り込まれているようだ。
●今年の新しい話題をいくつか。まず、ホールB7にサイドビュー席が設置される。このホール、今までフラットで舞台が遠い感じの配置だったんだけど、今回はアーティストを囲む形の配置にするそうで、改善が見込めそう。あと、「0歳からのコンサート」3日間に加えて、「キッズのためのオーケストラ・コンサート」も開催される。これまでも名目上、「0歳から」以外の公演も昼なら3歳から入場できたのだが、実際にはとても小さい子供が歓迎されるような雰囲気ではなかった。このキッズ・コンサートはきっと人気を呼ぶはず。
●それと、「フォル盆」が開催される。これはLFJオリジナル盆踊り。山田うんの振付、ブラック・ボトム・ブラス・バンドの演奏で、お盆じゃないけど盆踊り。事前ワークショップに参加した子供たちが「フォル盆キッズバンド」としてともに演奏する。会場はホールE。クラシック音楽モチーフの盆踊りなんだとか。「ダンシング・ヒーロー」を超える新時代の盆踊り名曲の誕生を期待したい。
●参加型企画としては「みんなで宝島」も。シエナ・ウインド・オーケストラの公演で、最後に演奏する「宝島」に客席から参加できる。楽器持参でどうぞ。
●あと、昨年は池袋地区での開催があったんだけど、今回はなし。去年は2か所で開催するのもいいんじゃないかと思ってやってみたんだけど、やってみたら演奏家のエネルギーだとかスタッフだとか熱気だとかが分散されてうまくいかなかった、みたいなお話。あと、西口公園の工事がすでに始まっているので、去年と同じこともできない。
●気の早い話だが、ルネ・マルタンは来年のナントのテーマも教えてくれた。生誕250年なのでベートーヴェン、ただし独創的な形にするという。もっとも、東京がどうなるかは未定。
テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナのチャイコフスキー
●13日はサントリーホールでテオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナ。東京ではオール・チャイコフスキーで3プログラム3公演がすべて異なるホールで開催されたが、ウワサのコンビが待望の初来日とあって全公演チケット完売。ようやく最終日に一公演だけ聴けた。驚きに満ちた演奏会。
●プログラムからして意表をついている。チャイコフスキーとはいっても、前半に組曲第3番ト長調、後半に幻想序曲「ロメオとジュリエット」、幻想曲「フランチェスコ・ダ・リミニ」という3曲(後半は当初の予定から曲順を入れ替え)。ムジカエテルナはどうやらチェロ以外は立奏のよう。管楽器は椅子があるので休みの間に座ることもできるが、弦楽器は椅子すらない。バロック・アンサンブルならどうということもないわけだが、シンフォニーオーケストラでみんな立っている光景は壮観。クルレンツィスは長身痩躯、棒を持たずにしなやかな身のこなし。ムジカエテルナはスーパーオーケストラではないかもしれないが、ひとつの解釈を実現するという点で鍛え抜かれている。通常のオーケストラでは不可能なくらい、たっぷりとリハーサルを重ねてきたといった様子。意外性のあるダイナミクスやテンポ設定など、次々となにかイベントが起き続ける。この日、18時30分の開場を迎えても、ロビー開場のみで客席に入れなかったのだが、直前まで練習をしていたのだろうか。
●前半の組曲第3番。これは渋すぎる選曲だとは思ったが、最後の長い変奏曲で独奏ヴァイオリンが大活躍する。コンサートマスターが生き生きとソロを披露して、最後は盛り上がって終了。そしてこの日最大のサプライズが訪れる。前半なのに、なぜかアンコールが始まった。曲はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第3楽章。勢いよくドカンッ!と始まったが、ソリストはどこに?……そう!コンサートマスターがそのままソロを弾いたんである! な、なんじゃこりゃーっ! 別日のプログラムではコパチンスカヤがこの曲のソリストを務めていたのだが、まさかのコンサートマスターのサプライズ抜擢。客席のどよめきを喜んでいるかのような、ノリノリのソロ。協奏曲なのにみんなが名前を知らない人が弾いているという、まさかの事態が出来(後でアンコールの掲示でアイレン・プリッチンという人だと知る)。もちろん、曲が終わったら場内は大喝采。これは伝説だ。一回限りの伝説的反則技。しかもコンサートマスター氏、さらにソリスト・アンコールまで弾いてくれた。イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の第1楽章(オブセッション)。コンサートマスターによる華麗なる「アンコールのアンコール」。どんな演奏会だ、これ。
●後半のダブル幻想曲、どちらも精力的な演奏で、並の演奏にはない張りつめたテンションがあったけど、よりおもしろみを感じたのは「フランチェスコ・ダ・リミニ」のほう。熱風を浴びるかのよう。後半が始まった時点で20時40分くらいになっていたので、さすがにこれ以上のアンコールはなく、終演は21時半くらい。客席の反応は熱狂的だったけど、遅くなったこともあってか終わるやいなや席を立つ人もちらほら。アクの強い音楽ではある。
●前日に行われた来日記念トークセッションで(ネット中継があった)、クルレンツィスは「みんなといっしょに修道院で朝日とともに練習を始めたい、そしてわれわれの音楽を聴いてほしい人だけに聴いてもらいたい」みたいなことを語っていたっけ。「メインストリームと別の世界を切り開いていきたい」とも。指揮者とオーケストラの関係という点でも、このコンビはどれだけ持続可能で、どこに行く着くのだろうか。解釈の徹底と演奏の一回性の均衡点みたいなことについても、つい思いを巡らせる。
アシモフの「鋼鉄都市」
●うんと昔に紙の本で読んだ本を、つい電子書籍で買い直してしまうというケースがある。Kindleでセールになっていたので、アイザック・アシモフの古典的SFミステリ「鋼鉄都市」(福島正実訳/早川書房)を購入して、「どんな話だっけ?」と思って最初の1ページを読み始めたらもう止まらない。最後まで読んで、ミステリとしての核心の部分も忘れていたことに気づく。まあ、30年以上も前に読んだきりなので、忘れていてもしょうがないし、どこかにあるはずの紙の本も再読できる状態ではないはず。
●で、再読してこれはまぎれもなく傑作だと思うと同時に、古き良き時代のSF小説を読んで感じる居心地の悪さからも逃れられない。なにしろ、アシモフほどの知性をもってしても予測できなかったのが、インターネット、そしてネットワーク化された社会におけるモバイルコンピューティング。恒星間宇宙船が実現するほど高度なテクノロジーが発達しているのに、だれもネットワークにつながっていない。「鋼鉄都市」で描かれる未来の地球では、人口増加問題に対処すべく、人々は「シティ」と呼ばれる千万人規模の超巨大集合住宅で配給制度のもとで暮らし、だれもが野外に出るという習慣を失って久しい。人口密度が極限まで高く、効率化のために食事をするときはみんな食堂に集まって食べる。人口爆発が社会問題として描かれているのも時代を感じさせる。ただ、それでも慧眼だなと思うのは、各個人の住居でライブラリを持つのではなく、集団向けの大規模ライブラリをみんなで共有するという設定になっているところ。
おのおのの家に持つ貧弱なフィルム図書のコレクションと、厖大な規模の総合ライブラリのコレクションとを比較してみるがいい。一軒一軒独立したヴィデオ設備と、現在の集団のヴィデオシステムとの経済的技術的な差違を。
ここで述べられるライブラリは物理ライブラリだと思うが、もしインターネットが予測できていれば、これはNetflixとかKindleみたいなものに近かったはず。SpotifyとかApple Musicとかも含めて。
●逆に当時の予測に現実がまったく追いついていないのは、宇宙開発とロボット工学。人類は別の惑星への植民どころか、久しく月にも立っていない。ロボット工学の3原則も生み出されそうにない。AIによる車の自動運転はまもなく実現しそうだが、ヒト型ロボットが運転席に座って車を運転するという形では決して実現しそうにない。取材音源の自動文字起こしもまもなく実現しそうだが、ヒト型ロボットがイヤホンで録音を聴きながらキーボードをカタカタ打つという形では決して実現しそうにない。くくく。
●でも、外形としてはいろいろ古びていても、ロボットや宇宙移民に対する憎悪や差別感情の描かれ方は今の排外主義にも通じている。記憶にあったよりずっとユダヤ色の強い小説で(初読のときはわからなかった)、主人公の刑事とコンビを組むロボットのダニールは、旧約聖書のダニエルに由来するようだ。ウォルトン作曲の「ベルシャザールの饗宴」なんかにも出てくる場面で、饗宴中に突然人の手の指が現れて壁に「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」と書いたので、王がバビロン中の知者たちを集めるがだれも読めなかったところ、ユダの捕虜ダニエルひとりがこれを読み解いて、国の終焉を警告したという話があった。ダニエルは謎解き役の相棒にふさわしいということなのか。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団のシュトラウス&ロット
●9日はNHKホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響。プログラムはリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調(アリョーナ・バーエワ)とハンス・ロットの交響曲第1番ホ長調。どちらもめったに聴けない曲だが、受けた印象は対照的。シュトラウス作品は作曲時17歳とは思えない完成度。定型から出発して、どんどん自由度を増し、独創性を身につけていったという感。特に第1楽章は堂々たるもの。一方、ロット作品はすこぶる粗削りで、いくら先進的でもこの段階では先を行く大巨匠たちにダメ出しされるのももっともだとは思う。ここを通過点として、改稿を経て偉大な名曲へと至ったかもしれない途中過程を聴くという「もしも……」のおもしろさと、それでも舞台上に乗せる以上は完結した音のドラマを築くのだというヤルヴィ&N響によるリアリズムが渾然一体となって、あまり例のないタイプの感動が生まれていたと思う。そして、こういうめったに演奏されない曲を演奏したとき、パーヴォ&N響コンビは頼もしい。ゲスト・コンサートマスターに白井圭さん、またも。
●特に第3楽章は知らずに聴けばマーラーのパクリだと思ってしまうわけだが、こちらは1880年の完成で、マーラーの側が強く影響を受けている。影響というか、オマージュなのか。マーラーによれば、自分とロットは「同じ木の2つの果実」。ところが、こうして長大な作品をライブで聴き通すと、マーラーよりもむしろブルックナー風の恍惚とした高揚感のほうを強く感じる。ブルックナーがロットに偉大な交響曲作家の未来を予見したのも無理はない。しかし25年の生涯はあまりに短すぎた。
●シュトラウスでソロを務めたバーエワは昨年、ナントのラ・フォル・ジュルネでコルンゴルトのヴァイオリン・ソナタとヴァイオリン協奏曲を弾いていた(ソナタのほうだけ聴いた)。今回のシュトラウスのヴァイオリン協奏曲でもそのときと同様、珍しい作品であっても、あたかも自分のために書かれた曲であるかのように、エモーショナルで集中度の高い演奏を聴かせる。アンコールのイザイも鮮やか。出身はカザフスタンのアルマトイなんだとか。つまり、サッカー地理学的には同じアジアの仲間だ。アルマトイといったらもう、フランス・ワールドカップ予選でカザフスタン戦に引き分けて加茂監督が解任されて岡田武史コーチが後を継いだあの日を反射的に思い出すしかない。
●奇妙なことに、この日、川瀬賢太郎指揮神奈川フィルもハンス・ロットの交響曲第1番を演奏した。場所は横浜みなとみらいホール。時間帯が違うので、先に神奈川フィルを聴いてから後でN響を聴くというハシゴも可能だった。一日に2回、別のオーケストラでハンス・ロットの交響曲を聴けるなんてことが、いったい世界のどこで起きるだろうか。さらに、今年は9月にはヴァイグレ指揮読響もこの曲を演奏することになっている(プフィッツナーのチェロ協奏曲イ短調との組合せ)。幻の交響曲どころか人気作になろうかという勢い。
「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(沼野雄司著/春秋社)
●「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(沼野雄司著/春秋社)を読んでいる。日本語初のヴァレーズの本格評伝。500ページ級の大部な本で、ようやく第5章まで読み進めたところだが、これがめっぽうおもしろい。そもそもヴァレーズ、曲は聴いたことがあっても、どんな人物なのか、どんな人生を歩んできたのか、ぜんぜん知らなかったわけだが、こんなにも型破りな人だったとは。そして、会う人会う人がことごとくヴァレーズに支援の手を差し伸べてくれるという不思議に驚かずにはいられない。リヒャルト・シュトラウス、ホフマンスタール、ロマン・ロラン、ドビュッシー、ストコフスキ……。みんなヴァレーズを助けようとしてくれる。よほど人間的な魅力があったのか。
●この本は、資料的な価値が高いだけじゃなくて、「おもしろく読める」のがすばらしい。評伝とはこうあってほしいもの。序章でかの有名なストラヴィンスキー「春の祭典」初演のシャンゼリゼ劇場でのスキャンダルに触れて、それから41年後、同じ場所でヴァレーズの「砂漠」がヤジと嘲笑にさらされたことが述べられる。しかもヴァレーズは「春の祭典」初演にも立ち会っていたのだとか。一冊の本の書き出しとして、これほど魅力的なエピソードもない。
●そして、これは大事なことだが、読んでいるとヴァレーズの音楽を聴きたくなる。ヴァレーズの曲、正直なところ自分は年齢を重ねるにしたがって作品に向き合うエネルギーが不足してきているかもしれないんだけど(先日、ノット&東響の「アメリカ」を聴いてそう思った)、でもやっぱり聴きたくなるんである。Naxos Music Libraryにアクセスして検索してみよう。アルカナ、あるかな~。
Windows 7向けMedia Playerのメタデータサービスが終わる
●小さなニュースだが、音楽ファンにとって気になったのが「Windows 7向けMedia Playerのメタデータサービスが終了」という記事。Windows 7で音楽CDをドライブに入れても、該当ディスクのトラック情報やジャケット写真を取得できなくなってしまった。Windows 7、もう使っちゃいないけど、かといって大昔のOSという感じでもない。このニュースで感じることはふたつ。
●まず、いくら旧バージョンのOSに満足していても、エコシステムが終焉を迎えると使い続けることは難しくなる。ガラケーなんかもそうだった。どんどん各種サービスが撤退してしまう。かつて賑わっていた街から次第にお店がなくなっていく感じ。
●もうひとつは、そもそもメタデータ供給サービスがいつまで続くのかという漠然とした疑問。今後、CDをリッピングする人はどんどん減っていくだろうから(というか、もうかなり減ってる?)、このサービスを維持し続ける理由がどこかでなくなるんじゃないだろうか。もしメタデータが供給されなくなったら、リッピングなんてとてもじゃないがやってられないわけで、それって定期連絡船が途絶えた離島みたいな心細さがあるなと思った。
「かぜの科学」(ジェニファー・アッカーマン著/早川書房)
●風邪が猛烈に流行している(含むインフルエンザ)。先日、仕事上の必要に迫られて(本当に)「かぜの科学 もっとも身近な病の生態」(ジェニファー・アッカーマン著/早川書房)を読んだのだが、これは大変おもしろく、ためになる一冊だった。先に結論的なことを言っておくと、人間は風邪をひかずに済ますことはできないし、風邪を治療してくれる薬もないし、民間療法はどれもことごとくエビデンスを欠いている。そりゃそうだ。もし風邪を防ぐ本当に有効な方法があったら、全世界に爆発的に広まっているはずであり、医療業界は血眼になって商品化を急いでいる。本書によれば風邪には200種類以上の異なるウイルスが関与しており、最大派閥はその40%を占めるライノウイルス群に属する。風邪の流行パターンはだいたい毎年、決まっている。
例年のように、感染病流行は9月の一連のライノウイルス感染に始まり、やがて10月と11月のパラインフルエンザウイルスの蔓延に至る。冬期には呼吸器系シンチウムウイルス、ヒトメタニューモウイルス、インフルエンザ、コロナウイルスが活発に活動する。そしてライノウイルスが戻ってきて、3月と4月に小さな感染の波を起こしてサイクルが一巡する。夏期はエンテロウイルスの独壇場だ。
読んでいるだけでも熱が出てきそうだが、これほどパターン化されるくらい、すっかりヒトはウイルスと共存している。しかし、その割にはワタシらは風邪についてあまりよく知らないし、そもそもわかっていないことも多い。本書のなかで印象的だったことをいくつかメモしておこう。
●まず、寒さと風邪には関係がない。多くの研究が寒いと風邪をひくという迷信を否定している。で、風邪が秋から冬にかけて流行する理由について、人々が屋内で過ごすことが多くなるので、ウイルスが人から人へと簡単に移りやすくなる等の説明があるのだが、本当だろうか。湿度や学校の夏休みなども理由のひとつに挙げられている。だが、この部分は著者が地域による気候条件の違いや学校制度の違いを忘れているようで、あまり説得力はない。ともあれ、寒いから風邪をひくのではないという実験結果はたくさんあるようだ。
●一方、300人の学生ボランティアを風邪に感染させた研究によると、疲労と風邪も関係がないという。これもずいぶん意外。しかし、睡眠不足ははっきりと風邪のひきやすさと関係がある。さらに慢性的なストレスも大いに関係がある。あと、これは直感に反するのだが、社会的ネットワークが広い人のほうが風邪をひきにくいのだとか。一見、人と接触しないほうが風邪の心配がなさそうだが、ある研究によると、対人関係が1~3種類しかない人は、6種以上の人と比べて風邪をひく回数が4倍以上になるのだという。
●ひとつ、クラシック音楽ファンにも関係のありそうなエピソードが紹介されている。カーネギーホールのコンサートで、常連の年配の婦人の近くで、女性が咳をし始めた。婦人はすぐにハンドバッグからヴィックスを取り出して、咳き込む女性に渡した。女性は感謝してこれを飲み込み、咳は収まった。コンサートが終わった後で年配の婦人は自分のまちがいに気がついた。あれはヴィックスではなく、花屋からもらった切り花を長持ちさせる錠剤だ!
キット・アームストロング ピアノ・リサイタル
●4日は浜離宮朝日ホールでキット・アームストロングのピアノ・リサイタル。今まで機会を逸していたけど、ようやくこの人の実演を聴くことができた。1992年、ロサンジェルス生まれ。プロフィールを見ると、カーティス音楽院とロンドンの王立音楽院で学び、ブレンデルに師事、そのかたわらカリフォルニア州立大で物理学、ペンシルヴェニア大学で化学と数学、インペリアル・カレッジ・ロンドンで数学を学び、パリ第6大学で数学の修士号を得たという。なんだかもう、人生の密度が凡人と違いすぎる。実年齢も十分若いが、アジア系童顔で気取らない髪型のせいもあってか年齢以上に若く見える。
●プログラムはとても意欲的。前半にクープランのクラヴサン曲集第2巻第8組曲からパッサカリア ロ短調、バッハのトリオ・ソナタ第3番ニ短調BWV527、フォーレの9つの前奏曲 Op.103、後半にバードの「ウォルシンガム」「セリンジャーのラウンド」「鐘」、リストのバッハの動機による変奏曲S180。パッサカリア様音楽でサンドイッチされた変奏たっぷりプログラム。クープラン、バッハ、バードのバロック曲はモダン・ピアノの表現力を前提とした演奏スタイルで、ペダルもフル活用、ダイナミクスの幅もしっかりとる。たとえばクープランではクライマックスに向けて息の長い長大なクレッシェンドで頂点を築き、その後は弱音主体で鎮静するといったように。バードは「セリンジャーのラウンド」でうんとはじけて痛快。逆にロマン派の曲ではやや抑制的。フォーレの前奏曲集でまるまる9曲というのはかなり渋い。白眉は最後のリストで、身振りの大きさに頼らない、思索的なモノローグの音楽。音色のコントロールも巧緻。アンコールを弾く前にピアノのG#の音が歪んでいたことについてひとこと釈明があって、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻から前奏曲ハ長調。ハーモニーの海をたゆたうような流麗なソフトフォーカスのバッハ。続くアンコールでは、なんと調律師とともに登場し、その場で音を直して、バッハのコラール「主なる神よ、われを憐れみたまえ」BWV 721。終演後のサイン会は長蛇の列だった模様。
ニッポンvsカタール@アジア・カップ2019UAE大会決勝
●ぐあああ。ま、負けてしまった! しかも内容的にも完敗。最強の敵イランに完勝したことで、次はカタールと聞いてどこかこれは勝ってしかるべき決勝戦(そんなものはないのに)だと思ってしまった自分がいる。なにせ今までアジア・カップは決勝戦に4回出場して、4回とも優勝しているので。ところが、決勝で姿を見せたカタールは、かつてのカタールではない。準決勝のカタール対UAE戦でもそうだったが、スペイン人のフェリックス・サンチェス監督のもと、すっかりと欧州化されたモダンなエリート集団になっていた。次のワールドカップのホスト国として、スポーツエリート養成施設のもとで長期的な選手の育成に力を入れる。前線へのプレス、組織的な守備、確かなテクニックによるボール回し、効率的なカウンターアタック。なにせここまで失点ゼロ。ニッポンのトップ大迫のポストプレイを封じ込めた。そしてディフェンスラインから中盤への連携のところでボールを狩ろうとするプレスは迫力があった。
●ニッポンは故障した遠藤に変えて塩谷を先発させた。GK:権田:DF:酒井宏樹、冨安、吉田、長友-MF:塩谷(→伊東)、柴崎-堂安、南野(→乾)、原口(→武藤)-FW:大迫。序盤はイラン戦と同様、横に回さず前にボールを運ぼうという意識が高かった。決して悪い立ち上がりではなかったのだが、前半12分、カタールのエース、アルモエズ・アリが信じられないようなゴールを決める。ゴール前で吉田を背負いながら、ボールをワントラップしてからバイシクルシュート、これがきれいにゴール右隅に決まった。このアルモエズ・アリ、まだ若いようだけど遠からず欧州の有名クラブに行くのでは。伝説的なゴールを決められてしまうという屈辱。これだけならまだ挽回可能だったが、前半27分、ハティムが吉田をかわして左足でミドルシュート、これが外から巻くような軌道を描いてゴール左隅に入ってしまう。これも目を疑うようなスーパーシュート。前半で2点差がついてしまい、その後は一気にカタールにとってコントロールしやすい状況になった。ニッポンに攻めさせて、鋭いカウンターで3点目を狙う。
●ニッポンは2点を失ったことでチームバランスも悪くなってしまう。センターバックから中盤の底やサイドバックにボールを出した後、もう少し前の選手がもらう動きをしてくれないと。堂安にキレがない。ラインも間延びしがちで、もっと後ろから押し上げてほしいと感じることもたびたび。ひとつ厳しかったのは主審が相性の悪いイルマトフで、少し激しいチャージをするとことごとく笛を吹かれてしまう。これはストレス。後半24分、ようやく大迫のポストから飛び出した南野がふわりと浮かせたボールでキーパーを交わして見事なゴール。しかし後半38分、ゴール前の守備で吉田にハンドがありPKの判定(VARで確認)。これを決められて万事休す。1対3。せめてカタールに無失点で優勝させなかったのだけが救い(小さい……)。森保監督は選手を信頼しているといえばその通りなんだけど、交代が遅く、大胆な方策を好まない様子。やられるがままにやられたという感は残る。それと、これはワールドカップの決勝でもたびたび見られる現象だけど、休みが一日多いニッポンのほうが、どこか体が重そうにも見えた。
●カタールは初優勝。どう見ても今大会はカタールの大躍進によって記憶されるべき大会であり、アルモエズ・アリの大会であり、また彼らの計画的な育成システムが実を結んだという大会であった。加えるなら、準決勝までの4チーム中3チームが中東のチームだったという、中東の復権。これはUAE開催だったということも大いにあるのだが、これまでの中東に対する「個の能力は高いんだけれど、協会の一貫した強化方針や育成などオーガニゼーションの面で遅れている」といったイメージが、すっかり過去のものになった。このあたりは次のワールドカップ予選で、ふたたび痛感することになるのだろう。
リッカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団のヴェルディ「レクエイム」
●31日は東京文化会館でリッカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団。プログラムはヴェルディ「レクエイム」のみ。ムーティ&シカゴの十八番みたいな演目であり、一方で主役は東京オペラシンガースでもある。パワフルで輝かしいオーケストラのサウンドと精緻でドラマティックな合唱の共演に改めて作品の真価に触れた思い。シカゴ交響楽団のブラスセクションは余裕を感じさせる安定感。ムーティの音楽はかつてほどではないにしてもキレがあり、加えて重々しさが目立ってきた。独唱陣はソプラノにヴィットリア・イェオ、メゾ・ソプラノにダニエラ・バルチェッローナ、テノールにフランチェスコ・メーリ、バスにディミトリ・ベロセルスキー。メーリの第一声の力強さにすでに感嘆。
●この曲、レクイエムではあるけど、オペラ的とはよく言われるところ。自分もこれは台本のないオペラだと思って聴いている。典礼的ではなく劇場音楽風に感じるのは、そこで扱っているのが悲しみだったり怒りだったり感謝だったりといった普遍的な人間感情であって、特定の宗教の枠に留まるものではないから、なんだろう。根源的な人間感情を扱ったドラマはどんな文脈においても有効で、時代も地域も超越した長いリーチを持ちうる。ヴェルディのオペラがまさにそう。ヴェルディって台本の選択に秀でていて、決して古びることのない人間ドラマを扱ったものが多いじゃないすか。シェイクスピアに対する共感の深さにしてもそうだけど、アルプスの反対側でワーグナーが超越的で観念的なテーマに挑んでいたのとは対照的。生き方を見ても、とても実際的で地に足が付いた人なんだろうなと思う。そういう意味ではヴェルディの「レクイエム」は、ベートーヴェン「第九」なんかと同じで、神さま出てくるけどみんなウェルカムだよっ!って招かれてる感じがある。
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●ONTOMOにロームミュージックファンデーションの取材記事を寄稿。同財団から支援を受けて留学した現在大活躍中のヴィオラ奏者、田原綾子さんにお話をうかがった。