March 11, 2019

国立音楽大学音楽研究所「模索から浸透へ:花開くアメリカ音楽」 アンタイル、グローフェ、「オズの魔法使い」他

●10日は国立音楽大学講堂大ホールで、20世紀前半アメリカ音楽研究部門コンサート「模索から浸透へ:花開くアメリカ音楽」。工藤俊幸指揮クニタチ・フィルハーモニカーの演奏で、前半にアンタイルの「ジャズ・シンフォニー」(1955年改訂版)、スティルの「アフロ=アメリカン・シンフォニー」第1楽章、グローフェの「ミシシッピ組曲」、後半はアーレン/ストサートのミュージカル「オズの魔法使い」。大学主催の公演なので堅いタイトルが付いているが、内容はいたって楽しく開放的な気分にあふれたもの。未就学児も入場可で入退場自由、未就学児には後半の「オズの魔法使い」からの来場をおすすめするという大変すばらしい方式。前後半でがらりとムードが変わる、一粒で二度おいしいプログラム。
●前半は一曲目のアンタイル「ジャズ・シンフォニー」が断然おもしろい。当初はポール・ホワイトマンの「現代アメリカ音楽の実験」コンサートの第2回のために書いたが、採用されなかったという曲。このホワイトマンのコンサート企画は、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を世に出したことで知られている。第1回でのガーシュウィンの成功を受けて、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったのかもしれないが、ティン・パン・アリー育ちのガーシュウィンと欧州帰りのアンタイルという出自の違いがそのまま曲に現れているといった感。キャッチーなメロディがこれでもかというくらいに注ぎこまれたガーシュウィン作品と違って、アンタイルのほうはヤンチャで野心的で理知的というか。ジャズ+シンフォニーではあるけど、「春の祭典」風味も。
●後半のミュージカル「オズの魔法使い」は、オーケストラをステージ上に乗せた演奏会形式ながら、演技も衣装もダンスもしっかりと入ったもの。セリフ部分は日本語歌唱、歌は英語歌唱。ステージ上にスクリーンを置いてわかりやすいイラストを映写する。歌とダンスは学生、プロの演出と振付、ナレーションが入り、聴きごたえも見ごたえも十分。オーケストラは要所に教授や講師陣、主体は学生と若いフリー奏者たち。ドロシーやかかし、ブリキ男など主要キャストは、ミュージカル・コース履修生のダブル・キャストになっていて第1幕と第2幕で交代するのだが、その交代の様子をしっかり演出に組み込んで客席にも明快に伝えるなど、とてもスマート。あと、ミュージカルでは当然のことかもしれないんだけど、カーテンコールもショーの一部といった感じで、このあたりはオペラにはない文化。
●「オズの魔法使い」って、決してわかりやすい話でもないと思うんだけど、どうしてこんなにアメリカでポピュラリティを獲得しているのか、というのがかねてよりの疑問。ドロシーが旅の途中で、かかし、ブリキ男、ライオンと順に出会って仲間にする。桃太郎が犬、猿、キジをお供にするのとよく似ている。ドロシーがカンザスでおじさんとおばさんと住んでいて、お父さんとお母さんについての言及がないというのも昔話の定型という感じで、桃太郎もおじいさんとおばあさんと住んでいる。そういえば「スター・ウォーズ」の第1作(エピソード4/新たなる希望)でも、ルーク・スカイウォーカーはおじさんとおばさんと住んでいて、旅の途中でR2-D2やC-3POをお供にするのであった。最初に「スター・ウォーズ」を見たとき、アメリカ人たちはみんな「オズの魔法使い」を連想していたのだろうか。日本人が「桃太郎」を連想したように(ってのはウソ)。「オズの魔法使い」って、「おウチがいちばんだねっ!」っていうテーマはいいんだけど、プロットがすんなり飲み込めないような気がする。
●このミュージカルの名曲といえば「虹の彼方に」(オーバー・ザ・レインボウ)。自分は初めてこのミュージカルを通して見て気づいたんだけど、この曲が第1幕で歌われるときは「虹の向こう側=見知らぬ国」への憧れとして歌われるのに対して、第2幕のオズの国で歌われるときは「虹の向こう側=生まれ故郷のカンザス」への思いが込められるっていうことなんすよね。

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