●25日、まず昼は浜離宮朝日ホールで藤田真央ピアノ・リサイタル。11時30分開演で休憩あり90分のランチタイムコンサート。プログラムは前半にモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330、チャイコフスキーのドゥムカ、後半にショパンの即興曲第1番~第3番と幻想即興曲、スクリャービンのピアノ・ソナタ第2番「幻想ソナタ」。モーツァルトを敬愛したチャイコフスキー、ショパンに心酔したスクリャービンという各セットからなる構成で、ランチタイムコンサートとはいえ聴きごたえのあるプログラム。みずみずしく、キレのあるピアノを堪能。特に最初のモーツァルトと最後のスクリャービンが印象に残った。モーツァルトは予想以上に情感豊かでしっとりした味わい。耽美な第2楽章から軽やかな第3楽章へと飛翔するコントラストの鮮やかさ。スクリャービン作品から浮かぶのは、まだオカルトに傾倒する以前の才気走った若者の姿。ドビュッシーに先駆けた海と波、光と風の音楽。演奏後、それまでの硬い表情からは一転して、マイクを持ってにこやかトーク。昼の公演なので朝6時起きが大変な課題だったけどちゃんと起きれてよかったとか、自分で決めた今日のプログラムはすばらしいと自画自賛するなど、真央節全開で客席の心をぐっとつかんだ。アンコールはリストの「愛の夢」第3番。
●夜は紀尾井ホールで河村尚子のベートーヴェン ピアノ・ソナタ・プロジェクト Vol.3。今回はソナタ第26番「告別」、第27番、第29番「ハンマークラヴィーア」。シリーズ前回に続いて、充実のひととき。強靭なダイナミズム、構築美とパッション、決して予定調和に留まらない音楽の生々しさ。「ハンマークラヴィーア」はその巨大さや複雑さに圧倒されるんだけど、その向こうにある種の慈しみみたいなものも感じる。使用ピアノは奏者の希望によりベーゼンドルファー280VC。アンコールはないかなと思いきや、「告別」の第3楽章をもう一度。シリーズ次回での「再会」を期して、ということか。
●さて、明日からは暦の上では10連休になってしまう。というか、紙の手帳では4月30日から5月2日までは平日ということになっているのだが(印刷時にはまだ決まってなかったから)、5月1日が天皇の即位の日で祝日に設定されたことで、まさかの10連休が現実に。そして、休みが増えればうれしい人と、休みが増えると苦労も増える人とでぜんぜん話がかみ合わないのが大型連休。
●というわけで、連休中は年末年始と同様に当欄も不定期更新モードで。休む人も働く人も、よいゴールデンウィークを。
2019年4月アーカイブ
藤田真央ピアノ・リサイタル、河村尚子のベートーヴェン ピアノ・ソナタ・プロジェクト Vol.3
「旅する作曲家たち」(コリンヌ・シュネデール著/アルテスパブリッシング)
●今年もラ・フォル・ジュルネの日仏共通オフィシャルブックが刊行された。「旅する作曲家たち」(コリンヌ・シュネデール著/西久美子訳/アルテスパブリッシング)。これは毎回、音楽祭のテーマに応じてフランスの音楽学者が書き下ろしている本で、「音楽祭の聴きどころを紹介する実用ガイドブック」ではない。ルネ・マルタンの掲げるテーマを音楽史的な観点から敷衍して、聴衆の好奇心を刺激してくれる一冊。旅から生まれた音楽がどれほど多様性に富んでいるか、そして旅がどれだけ作曲家のインスピレーションを刺激してきたかがよくわかる。登場する曲や作曲家のなかにはまったく(あるいはほとんど)知らいないものも少なくなく、ためになる。あと、フランス人視点なので、北アフリカ方面への手厚さが特徴として出ている。そのあたりは、今回の音楽祭のプログラムにも反映されている。
●で、特におもしろいと思ったのは、19世紀欧州における旅の交通手段について。よく曲目解説でだれがどこに旅をして曲を書いたっていう話は見かけるけど、その旅がどういう手段を用いてどれだけ時間をかけた旅なのかはあまり書かれないもの。ローマ賞を受賞したフランスの作曲家が、ローマに行くまでにどれくらいかけているのか。グノーは1839年12月5日にパリを出発して、翌年1月17日にメディチ荘に到着している。交通手段は馬車だ。大変な苦労である。ところが後年、グノーはこの長旅をとてもすばらしい体験だったと述懐し、それに対して今どきの若者は機関車で高速移動させられてかわいそうに、みたいにぼやくんである。なんというか、今も昔も年長者のボヤキは変わっていない。かと思えば、ヴィヴァルディはヴェネツィアの街を一度も徒歩で移動したことがなく、つねに四輪馬車かゴンドラで移動してたのだとか。今で言えばすぐそこに買い物に行くにもハイヤーを頼む、みたいな感じ?
●抱腹絶倒なのはベルリオーズのロシア旅行。ロシアまでは汽車で行けたが、その後は橇(そり)に4日間ひたすら乗り続けたというのだ。ベルリオーズは言う。フランス人たちは橇といったら雪の上をすいすいと走る乗り物だと思っているが、現実はとてもそんなものじゃない。荒れた道をガツンゴツンと激しく揺さぶられながら轟音とともに進むのであり、夜なんて一瞬も居眠りしてはいけない。おまけに凍死しそうなくらい寒いわ、揺れで橇酔いするわでもう大変だ……なんていう調子なのだが、自慢げに武勇伝を語るベルリオーズの姿が想像できて、なんともおかしい。
マリノスとポステコグルーの聖杯探し
●第6節で浦和相手に快勝したマリノスだが、その後は勝利から見放されている。第7節は名古屋相手に1対1の引分け、第8節は札幌相手に0対3で完敗。この間、ルヴァン・カップもあったが長崎相手に引分け。ポステコグルー監督のもと、超攻撃的な戦術を採用するマリノスだが、名古屋と札幌のようなポゼッション志向の相手に苦戦しているのが気になるところ。気がついたら順位は9位にまで落ちていて、得失点差はぴったりゼロ。つまり、あんなに尖がった戦術で派手な戦い方を続けてきた結果、戦績はリーグ全体のちょうど真ん中、平凡そのものだ。こういうのをなんといえばいいんだろう。大山鳴動して鼠一匹? ともあれ、リーグ戦はまだまだこれからだ。
●理屈の上では、現代サッカーはハイリスクな戦い方をしたほうが得だ。仮に得点を増やそうとすれば同じだけ失点も増えるとすると、1点を争うゲームよりは、2点、3点、極端に言えば10点を争うゲームのほうが有利のはず。なぜなら引分けなら勝点1しかもらえない。だったら、ドンパチ点を奪い合って、勝つか負けるかのどちらかに結果が偏るような戦いをすれば、勝点は3または0になる。つまり、もし引分けがなければ、一試合につき勝点の期待値は1.5だ。1点を争うゲームより、10点を争うゲーム(なんなら100点を争うゲーム)のほうが引分けになりにくい。だから、本質的にはポステコグルーのように「勝つか負けるか」の戦術を採ったほうが、チームの実力が同じでも勝ち点は増える。10試合して10引分けなら勝点10だが、5勝5敗なら勝点15だ。同じ「中くらい」の戦力のチームでも、戦い方次第でこんなに勝点が違ってくる……。
●が、ほとんどのサッカー・ファンは上記の話はおかしいと感じるのではないだろうか。現実にはどのリーグでも、強いチームというのはたいていディフェンスがしっかりしているチームであって、ボカスカ点を取り合っているチームは一時的に強くても最終的には勝てない。それがサッカーの常識。事実、昨季のポステコグルー監督はリーグ全体で中くらいの戦力で超攻撃的に戦った結果、降格争いに巻きこまれたではないか。なぜそうなるのか。
●たぶん、それはカウンターアタックの優位性が関係している。1点多く得点するリスクを取ると、1点ではなく1.1点とか1.2点くらい多く失点するリスクが高まるんじゃないだろうか。10点取ろうとする監督はいないが、0対0で試合を進めてあわよくばカウンターで1点を狙う監督はたくさんいる。つまるところ戦術とは、この攻守の非対称性にどう挑むか、という話なのかもしれない。戦術家の仕事は、1点多く得点するリスクを取って、0.9点だけ多く失点する戦術を見つけるという一種の聖杯探しなのだろうか。
寄生虫ダイエットとマリア・カラス
●つい先日、「寄生虫でダイエット効果 世界初証明」というニュースがあったが、この見出しを目にした人の多くがマリア・カラスを連想したにちがいない。群馬大と国立感染症研究所の研究グループが、体内に特定の寄生虫がいると体重が増加を抑えられることをマウスを使った実験で明らかにしたという。はたしてこの寄生虫が人間にも有効なのかとか、健康に害はないのかとか、このニュース自体もいろんな関心を呼ぶとは思うが、それはさておき、マリア・カラスだ。通説では、体重100kgを超える巨体歌手だったマリア・カラスは、体内でサナダムシを飼って、一年間で55kgにまで減量したということになっている。昔、この話を聞いて最初に感じたのは、そんなことができるのかという驚愕と、だったら他の歌手たちもこぞって寄生虫ダイエット法を実践しそうなものだがどうなんだろうという漠然とした疑問だった。
●古い本だが、カラスの元夫であるメネギーニが書いた「わが妻マリア・カラス」下巻(音楽之友社)では、「鯨から蝶へ」と題した一章を割いて、カラスのダイエットについて記している。メネギーニによれば、1951年12月にカラスがスカラ座から初めて呼ばれたときは95kgの体重だった。それが3年後のシーズン・オープニングでは、そこから30kg体重を落としていたという。このダイエットはセンセーションを巻き起こし、女性たちからダイエットの秘訣を教えてほしいという手紙が殺到し、ダイエット法を独占契約したい企業は天文学的な契約料を提示してきたとか。で、メネギーニはサナダムシ・ダイエットをあっさりと否定している。
ある者に至っては、彼女がスイスの有名な医者のもとに行き、この医者がさなだ虫を身体の中に入れる事を勧めたなどとも言った。そしてマリアは、シャンペンの中にこの「痩せ薬」の寄生虫を入れて飲み込んだというのであった。全くこれは馬鹿気た、そして信じられないような話である。
だよね。そして、同じ章で別の形でサナダムシの話が出てくるのだ。あるとき、カラスはトイレでサナダムシを排出してパニックになってメネギーニを呼び、それから医者に診てもらって、薬でサナダムシを駆除した。すると、その直後からどんどんと体重が減り始めた。それまでずっと肥満に悩み、炭水化物を減らして肉と生肉、野菜中心の食事をしてもなんの効果がなかったカラスが、これを機に奇跡的に痩せ始めた。カラスとメネギーニは寄生虫を駆除したから痩せたという結論に達した。
●まあ、メネギーニが書いていることをどこまで信用できるのかという疑問も大いにあるが、少なくとも彼は寄生虫ダイエットを否定していたわけだ。そして、このエピソードについてなにより印象深いのは、メネギーニが本まで書いて否定しているのに、「カラスは寄生虫でダイエットした」という話がここまで世界中に広まり定着したということ。これはいったん広まったウワサ話の強度を示しているのか、それともメネギーニの言うことなんてだれも耳を貸さないということなんだろうか。
山田和樹指揮N響の平尾貴四男、矢代秋雄、シェーンベルク
●20日はNHKホールで山田和樹指揮NHK交響楽団。2016年1月定期以来となる山田和樹とN響の待望の共演。プログラムは前半が平尾貴四男の交響詩曲「砧」と矢代秋雄のピアノ協奏曲(河村尚子)というN響ゆかりの両作品で、後半がシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」。自国の音楽なんだけど、近くて遠い日本人作曲家の古典。砧という道具自体がすでにエキゾチックであり、由来となった能楽作品もわからない一方で、聴くと冒頭からストラヴィンスキー「火の鳥」が連想されて、どこかなじみ深さも感じるという、ねじれた距離感。矢代秋雄のピアノ協奏曲では、バルトークやメシアンからのエコーを頼りに作品に近づく道を探る倒錯。河村尚子による確信に満ちた気迫のソロに圧倒される。やっぱり名演の蓄積が名曲を作るものなんだと思う。ソリスト・アンコールに矢代秋雄(岡田博美編)の「夢の舟」。
●後半はシェーンベルクが後期ロマン派スタイルの作風で書いた交響詩「ペレアスとメリザンド」。今年、首都圏は「グレの歌」を3団体が演奏するという「グレグレグレの歌」祭りが自然発生的に開催中なのだが、先日の新国立劇場のツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」に続いて、さらにここで交響詩「ペレアスとメリザンド」という強力な番外編が加わって、後期ロマン派の嵐がさらに勢いを増している。平成の終わりに再現される後期ロマン派の断末魔。いったいなにがあったのか、東京。その答えはたぶん、偶然のいたずら。もっとも、この日の演奏からはむせかえるような濃厚なロマンティシズムよりは、4楽章制の交響曲を思わせるような端整な音のドラマを堪能。
●「ペレアスとメリザンド」はよっぽど作曲家のインスピレーションを刺激する題材だったようで、この交響詩以外にも、フォーレの劇付随音楽、ドビュッシーのオペラ、シベリウスの劇付随音楽があって、しかもそれぞれが名作として演奏され続けているのがすごい。ドビュッシーの決定的な傑作がなければ、シェーンベルクだってオペラかオラトリオを書きたかったにちがいない。というか、結局は「グレの歌」を書いているわけで、大きく言えば題材としては「トリスタンとイゾルデ」「ペレアスとメリザンド」「グレの歌」は似たような骨子を持っているともいえる。ワーグナー、すごっ。あ、でも「グレの歌」はゾンビものなんだった。
アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルのモーツァルト&チャイコフスキー
●18日はサントリーホールでアンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル。プログラムは前半にウォルトンの戴冠式行進曲「王冠」とモーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」(小山実稚恵)、後半にチャイコフスキーの交響曲第4番。前半は戴冠つながりプログラムということで、令和への改元にちなんでいる模様。ウォルトンの「王冠」はめったに聴く機会がないけれど、威厳にあふれた行進曲でなかなかの名作。モーツァルトの「戴冠式」では精彩に富んだソロと流麗なオーケストラのコンビネーションを堪能。小山実稚恵さんがこの曲を弾くのが初めてというのが驚き。第1楽章のカデンツァはどなたのなんでしょう。アンコールにラフマニノフの前奏曲ト長調Op.32-5。
●後半、チャイコフスキーの交響曲第4番は語り口豊かでドラマティック。前回このコンビで聴いた「シェエラザード」に引き続いての好演。熱くても、ていねい。俊敏。それにしてもこの曲の終楽章のお祭り感と来たら。この祝祭性も戴冠つながりということなんだろうか。場内大喝采で、カーテンコールを繰り返した後、バッティストーニがメモを持って登場。日本語で改元についてのお祝いみたいなことを言ってくれた後、まさかのアンコールでエルガー「威風堂々」第1番から。
●もうすっかり改元したような気分になっている。遡って4月1日から令和だったことにするってわけにはいかないのか。あるいは平成と令和が共存していることにする、とか。
新国立劇場 ツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」&プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」
●17日は新国立劇場でツェムリンスキー「フィレンツェの悲劇」&プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」のダブルビル。沼尻竜典指揮東京フィル、粟國淳演出。ともにフィレンツェを舞台とした作品であり、1910年代後半に初演された同時期の作品でもある。悲劇と喜劇の組合せの妙。といっても、「フィレンツェの悲劇」は実のところ喜劇的な作品であり、そう考えると「ジャンニ・スキッキ」のほうが本質的には悲劇なんじゃないかな、と観る人に思わせるところがある。なお、この組合せは2005年に二期会が新国立劇場で上演しているので、比較的近いところに先例あり。
●音楽的にはどちらも聴きごたえがあるが、より全体を楽しめたのは「フィレンツェの悲劇」。ツェムリンスキーの後期ロマン派スタイルの豊麗な音楽を耳にすると、今年の「グレグレグレの歌」シリーズの番外編かと錯覚する。そして、この話は最高に可笑しい! 不倫現場に鉢合わせた夫が間男を殺すところまではノーマルだが、それを見た妻が「あんたってそんなに強かったのね」と夫に惚れ直してラブラブな雰囲気で元の鞘に収まるというクレイジーな結末。爆笑。これは暗黒のラブコメと呼びたい。オチもさることながら、冒頭の修羅場のやり取りからして、台詞になんとも言えないイジワルな味わいがある。グイード・バルディにヴゼヴォロド・グリヴノフ、シモーネにセルゲイ・レイフェルクス(開幕前に不調とアナウンスあり)、ビアンカに齊藤純子。
●「ジャンニ・スキッキ」は登場人物の服装が20世紀風なのだが、舞台装置が特徴的で、巨大な本や目覚し時計、天秤、メガネなどが置かれている(知のシンボルみたいなものが目立っていてなんだか意味ありげ)。つまり、登場人物はみんな人差し指大ほどのコビトあるいは妖精という設定だ。なぜ、登場人物がコビトなのか。それは最後まで見てもワタシにはわからなかった。この仕掛けがもしかして「フィレンツェの悲劇」とどこかでつながるのかなと思いきや、そうではないっぽい。ジャンニ・スキッキにカルロス・アルバレス、ラウレッタに砂川涼子、リヌッチョに村上敏明他。有名な「私のお父さん」の場面以外はひたすらジャンニ・スキッキ役の活躍のためにあるオペラ。
●この演出に限ったことではなく、「ジャンニ・スキッキ」というオペラはドタバタ喜劇の後に暗い未来が待っていることを示唆する作品だと思う。主人公が地獄に落ちることはもちろんのこと、現世においても遠からず全員が例の「手首」の刑に処されてフィレンツェを追放されるにちがいない。純粋に強欲から出た罪なので、情状酌量の余地はまったくない。無罪なのはラウレッタだけ。そのとき、ラウレッタは父と恋人に付いていくのだろうか。あるいはフィレンツェに残るのだろうか。
METライブビューイング ドニゼッティ「連隊の娘」
●15日は東劇のMETライブビューイングでドニゼッティ「連隊の娘」。他愛のないラブコメを本当に笑える作品にするためには、最高度の歌唱と真に遊び心にあふれた演出が必要なことを雄弁に語った舞台だった。
●演出はロラン・ペリー。あちこちに付いているおかしな振り付けがナンセンス風味でかなり楽しい。この演出はだいぶ前にやはりMETライブビューイングで見た。前回はマリーにナタリー・デセイ、トニオにファン・ディエゴ・フローレスというコンビだったが、今回はマリーをプレティ(プリティ)・イェンデ、トニオをハヴィエル・カマレナという新世代のスターが歌う。このふたりが驚異的。プレティ・イェンデは歌も演技も文句なしにすばらしい稀有なヒロイン。南アフリカ出身。鍛えられた体格を生かした役作りで、なるほど軍隊で育てられた娘という役柄に説得力がある。歌の技術だけでも十分にすごいのに、コメディをきちんと演じられる歌手は真に貴重。カマレナはハイCを連発してほとんどアスリート的な爽快さ。場内喝采が止まずに、METでは異例のアンコールがあった。もっとも進行役から事前に「アンコールがあるかも」とアナウンスがあったので、予定調和的な熱狂とも感じてしまうのだが。声に張りがあってパワフル。ただ演技のほうはコメディ向きかいうとどうだろうか。他にシュルピスにマウリツィオ・ムラーロ、ベルケンフィールド公爵夫人にステファニー・ブライズ、指揮はエンリケ・マッツォーラ。
●男たちばかりの軍隊で赤ん坊を拾い、みんながパパとなって、その子を連隊の娘として育てる。そんなすっとぼけたおっさんたちの都合のよいファンタジー。軍隊生活を陽気に賛美する19世紀にしか成立しないコメディでもあり、正直なところいろいろとモヤモヤする作品なのだが、まあ戦国時代の大河ドラマだって似たようなもの。コメディなんだから素直に笑うべきなんだろう。メトの観客席はこれまでこのライブビューイングで見たなかで最高の興奮度。
東京・春・音楽祭 シェーンベルク「グレの歌」
●今年は偶然にもシェーンベルクの大作「グレの歌」が一年に3回も演奏される「グレグレグレの歌」イヤー。先陣を切ったカンブルラン&読響に続く第2弾は、東京・春・音楽祭の最終日を飾った大野和士指揮東京都交響楽団の「グレの歌」。会場は東京文化会館。ヴァルデマール王にクリスティアン・フォイクト、トーヴェにエレーナ・パンクラトヴァ、農夫に甲斐栄次郎、山鳩に藤村実穂子、道化師クラウスにアレクサンドル・クラヴェッツ、語り手にフランツ・グルントヘーバー(!)。合唱は東京オペラシンガーズ。
●やはり異様なほどの巨大編成から生み出される音響は強烈。一か月前のカンブルラン&読響が極彩色の「グレ」だとしたら、今回は苛烈で凶暴な「グレ」。カオス度はさらに強まっていて、混濁した響きの洪水に溺れる感覚に浸る。
●作品は熟れきった後期ロマン派のウルトラ「トリスタンとイゾルデ」として始まる。進化形ワーグナーであり、先祖には「タンホイザー」や「ラインの黄金」「ジークフリート」「マイスタージンガー」「パルジファル」らの姿も。作品全体に筆致のばらつきが感じられる作品で、第1部はなかなか作品に入り込めないのだが、「山鳩の歌」以降かぜん精彩を放つ。フォイクトがなかなか調子が出ず、一方で藤村実穂子の山鳩があまりに見事というせいもあったか。第1部でも厳しかったので、第2部序盤のオーケストラが激烈に咆哮する場面となればもはや王の歌はまるで聞こえない。でもここはだれが歌っても大音響にかなうはずもなく、神に異議申立てをする人間の王の非力さを表現した場面だと理解。その後の亡きトーヴェへの愛を語る場面は聞こえるように書かれているわけだし。道化師クラウスのクラヴェッツは千鳥足であらわれて、酔っぱらいを演じながら歌う芸達者ぶり。ウィスキーの小瓶を取り出して飲むなど、ひとりだけ演技を入れていて、まるでオペラのよう。道化役ならこれもありか。
●死んだはずのヴァルデマールが家来たちと狩をしながらさまよってるというのは、前回も書いたようにゾンビっぽい。で、それでヴァルデマールはどうなるのかというのが、なんだかよくわからないうちに救済されたっぽくて、「見よ、太陽を」で問答無用で盛り上がって終わる。終わりよければすべて良し、なのか。これって原詩はどうなってるのかなと思うじゃないすか。で、前回、facebookページのほうで原詩の訳があると教えていただいたのがこちらの「グアアの歌」。でもやっぱりなにがどうなってるのかよくわからなくて、むしろ道化師が言う「ウナギというのは奇妙な鳥だ」というのが、なんのギャグなんだか比喩なんだか、わからなくてソワソワする。ウナギイヌなら聞いたことあるけど、ウナギドリなんて聞いたことがないぞ。
ヤクブ・フルシャ指揮N響のシュトラウス、ベルリオーズ、ヤナーチェク
●13日はNHKホールでヤクブ・フルシャ指揮N響。以前、都響で活躍したフルシャがN響にデビュー。この間にフルシャはバンベルク交響楽団首席指揮者に就任し、ベルリン・フィル定期にもデビューするなど破竹の勢い。で、プログラムはシュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」、ベルリオーズの叙情的情景「クレオパトラの死」、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」という3曲。曲の長さからいって、てっきりシュトラウスの後に休憩が入るものだと思っていたら、そうではなく、ベルリオーズの後だった。前半のほうがずっと長いというアンバランスな時間配分なのだが、これはヤナーチェクへの集中度を高めてほしいという意図なんだろうか。ゲストコンサートマスターにライナー・キュッヒル、東京・春・音楽祭の「さまよえるオランダ人」に続いて。
●冒頭があまりに有名なシュトラウスにしても、バンダが大活躍するヤナーチェクにしても、スペクタクルに富んだ作品ではあるのだが、フルシャのアプローチは外見上の華々しさに頼らずに作品に内在するドラマをそのまま伝えるといったスタイル。予想以上に「ツァラトゥストラはかく語りき」が充実。音楽の流れが自然で、起承転結がしっかりと描かれている感。ヴェロニク・ジャンスが歌う「クレオパトラの死」はあたかもオペラの終場のよう。ベルリオーズ・ワールド全開の作品で、クレオパトラが毒蛇に自身を噛ませて死に向かうという情景が描かれている。空想的に体験する、毒蛇に噛まれる感。あ、もう毒回ってます、回ってきた、もうダメ……みたいなホラーなエンディング。「シンフォニエッタ」は最後列にずらりと並んだバンダが壮観。土の香りと革新性の幸福な融合。
●N響は今月の定期公演から休憩が20分間になった。歓迎。例の男性限定の長蛇の列に焦って並ばなくてもよくなった。
●NHKホールが放送センター改修工事にともなって2021年3月から2022年6月まで休館することが発表されている。N響サイトの発表によると「放送センターの建替工事の影響で休館に先立って2020年9月から別の会場で実施する公演もある」のだとか。まだ先の話ではあるが、かなり長い休館になる。代替会場は調整中。
イゴール・レヴィットのゴルトベルク変奏曲
●11日は東京・春・音楽祭でイゴール・レヴィットのピアノ(東京文化会館小ホール)。曲はバッハのゴルトベルク変奏曲のみ。欧州では大評判のレヴィットをようやく聴けた。タブレットPCを持って白シャツですらっと登場する今風の姿とはうらはらに、ピアノに向き合う姿勢は古風な芸術家然とした様子。没入度の高い音楽で、ずしりとした手ごたえを残してくれた。おおむね筆圧の強い音楽でダイナミック、視覚的にも音楽的にもゼスチャーの大きな演奏なんだけれど、耽美でもロマンティックでもなく、気迫のこもった男前のバッハ。自由度高めで、エモーショナル、辛口。第1変奏だったか、バンバンと足を踏み鳴らす場面があって、その後、ときたま片手が空くたびに、手のしぐさで曲想を雄弁に表現するようなこともたびたび(この曲でそんなことをするとたちまちグールドの亡霊がよみがえるのだが、演奏スタイルはぜんぜん違う)。最後は放心したように鍵盤から手をおろす。少し芝居がかっているくらいなんだけど、ものすごく引き込まれるバッハであることはたしか。あちこちに意匠を凝らした演奏で、一か所特にカッコいいなと思ったのは第16変奏の冒頭、分散和音を重々しく奏でて、まるで鐘を打ち鳴らすかのよう。
●リピートありだったので約80分ほどかかったが、極端に感じるテンポ設定はなく、まったく長さは感じず。この曲ではしばしばそうなるけれど、いくぶん儀式に参加したような気分も。終演後はCD購入者向けのサイン会あり。ぜひ近くで顔を拝みたくなって、ご本人が登場するまでじっと待ってしまった。
●譜面台にタブレットPCを置いているのに、譜めくりはいた。いや、譜めくりじゃなくて譜タッチというべきか。画面タッチのためにひとりが専念するというIT革命時代のぜいたくソリューション。フットスイッチ(最近は割と見かける)じゃダメなんだろうか。
電子書籍は所有できない、今のところ
●最近気になったニュースは「Microsoft Store、電子書籍から撤退。購入書籍は全額返金」。これを読むまでMicrosoftが電子書籍を販売していたことも知らなかったが(日本ではサービスしてなかったのかも)、撤退したから全額返金するという対応に軽く驚く。というのも、これまでの電子書籍撤退事例からすると(このページが参考になる)、「すでにダウンロードした本はそのまま読めるけど、その端末の寿命が来たらもうおしまい」という悲惨なパターンが多かったようなので。せいぜいポイントで返金しますとか。
●電子書籍ってあまりに便利すぎてすでに不可欠だと感じているんだけれど(紙の本は検索できないのが痛恨)、一方で事業者がサービスを終了したらライブラリがぜんぶ消える可能性をうっすら意識せざるを得ない。紙の本は「購入」だけど、電子書籍は本質的に「期限のない貸与」みたいなもの。そう考えると、電子書籍は「もっともサービスを止めそうにないところ」からしか購入する気になれず、今のところはKindle一択。
●これってなんとかならないんだろうか。たとえばある事業者から購入した電子書籍が、そのサービスがなくなった場合は別の事業者のサービスで読めるようになる、みたいな救済措置がほしい。
ジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団
●9日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団。いつも東響で聴いているノットを来日オーケストラで聴けるとは! そして、ノットはほかのオーケストラを指揮してもやっぱりノットだった。プログラムからして刺激的。曲目が固定化しがちな来日公演だが、ノットは東響を指揮するときと同様に自由な発想でプログラムを組んでくれた。ドビュッシーの「遊戯」とピアノと管弦楽のための幻想曲(独奏はジャン=フレデリック・ヌーブルジェ)、ストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」、デュカスの「魔法使いの弟子」。メイン・プログラムは、最後の曲と見るなら「魔法使いの弟子」、これをあらかじめ組み込まれたアンコールと見るなら「3楽章の交響曲」。いずにせよこれらを一夜の演奏会の柱に置いて来日するオーケストラなどまずありそうもない。一曲目の「遊戯」が予告するように、プログラム全体を貫くのは一種の遊戯性、遊び心といったところか。
●スイス・ロマンド管弦楽団、久しぶりに聴いたけど、メンバーはアジア系も少なくなく、多国籍化が進んでいる様子。しかしサウンドのキャラクターは、ノットが語っているように「フランスの美学をもつオーケストラ」。前半のドビュッシーは柔らかくて澄んだ音色に聴き惚れる。ドビュッシーの幻想曲はとらえどころのない曲だなあと感じるんだけど、第2楽章の繊細な響きの移ろいは絶妙。ヌーブルジェ、アンコールはドビュッシーかと思いきや、ショパン。24の前奏曲から第8番嬰へ短調と第17番変イ長調を続けて(間に拍手が入らなかった)。
●ストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」はこの日の白眉。オーケストラを巧みにドライブして本番ならではのスリリングな音楽を作っていく様子は東響での指揮ぶりと同様。そしてこんなに次から次へと魅力的な楽想を繰り出してくるストラヴィンスキーの天才性に改めて感嘆。ファミリーコンサートなどでよく取り上げられるデュカス「魔法使いの弟子」が、これほど壮麗かつ鮮烈に聞こえることもまずないわけで、まるでこの曲を初めて聴いた気分。続けて聴くと、どこかストラヴィンスキーと一脈通じるような気も。なお、弦楽器の配置は東響と同様の対向配置。
●演奏が終わってカーテンコールを繰り返す間に、ホルン奏者が退出するのが目に入った。えっと、舞台裏でホルンが演奏するようなアンコール曲ってあったっけ?……と思ったら、あったのだ。ノットがお礼を一言述べてからアンコール曲を案内。リゲティのルーマニア協奏曲より第4楽章。ノリノリ。エネスコのルーマニア狂詩曲のモダン・バージョン。痛快。
J1リーグ第6節 浦和vsマリノス 鼻高々のポステコグルー
●好きなのか、嫌いなのか。それすらも一言であらわせない、ポステコグルー監督の原理主義的アタッキング・フットボール。ひとつ自信を持って言えるのは、この刺激に慣れてしまったら、マリノスが伝統的に得意としてきた堅守のサッカーに戻れないということ。まるで麻薬のようなハイライン、ハイプレス、偽サイドバック、ポゼッション主義のサッカーが今季も続いている。
●で、第6節は金曜日にアウェイの浦和戦。DAZNで観戦。マリノスは前節に引分けで終わった鳥栖戦のメンバーをそのまま使ってきた。GK:朴一圭、DF:松原、チアゴ・マルチンス、畠中、広瀬陸斗-MF:喜田、三好、天野(→扇原)-FW:仲川、マルコス・ジュニオール-エジガル・ジュニオ(→遠藤渓太)。前節同様、マリノスのボールがよくつながり、序盤からゲームを支配、前半7分、あっさりと先制。右サイドで仲川が出したパスを浦和の山中(昨季までマリノスのキー・プレーヤーだった山中だ)が弾くと、これがゴール前に流れた。すると浦和のキーパー西川とマウリシオがお見合いするような形になって、ファーにいたマルコス・ジュニオールの目の前に。難なく決めて1点。
●前半途中でエジガル・ジュニオがおそらく筋肉系のトラブルで遠藤渓太と交代。後半16分、その遠藤の好守備から追加点。ゴール前の波状攻撃に西川がナイスセーブを連発して、もうチャンスは消えたと思ったところで、遠藤が相手からボールを奪い、これをマルコス・ジュニオールが狙いすまして左足でゴール。利き足は右のはずだが、左足で2ゴール。後半25分にはマルコス・ジュニオールのパスから広瀬がフリーでシュート、これを決めて初ゴール。かつてお父さんが活躍した浦和相手の初ゴールは感慨深かったのでは。3ゴールを奪って完勝。相手に質の高いチャンスを作らせず、無失点で終えたのは大きい。選手の連動性が高く、ボールを受けるために前方にスプリントする回数も多かった。守護神飯倉をベンチに追いやった朴は2試合連続先発。走行距離6.8キロはかつての飯倉の「走るキーパー」をほうふつとさせる。
●マリノスはなぜか伝統的に浦和と相性がいい。チーム力で明らかに相手が上回っている時期でも善戦する傾向がある。これまではその理由を、おおむねポゼッションを重視して攻撃的なサッカーを目指す浦和に対して、堅守で耐えながら数少ないセットプレイやカウンターのチャンスに賭けるマリノスの戦い方は「ハマりやすい」のかなと推測していたのだが、ぜんぜんそういうことじゃないのかも。試合終了後、ポステコグルー監督はやってることは前の試合とまったく同じで結果が違っただけみたいなことを得意げに語っていた。まあ、その通りなのだが、なぜかムッとする。
東京・春・音楽祭 ワーグナー・シリーズvol.10 「さまよえるオランダ人」
●5日は東京文化会館で、東京・春・音楽祭のワーグナー「さまよえるオランダ人」演奏会形式。キャストが強力。オランダ人にブリン・ターフェル、ゼンタにリカルダ・メルベート、ダーラントにイェンス=エリック・オースボー(アイン・アンガーの代役)、エリックにペーター・ザイフェルト、マリーにアウラ・ ツワロフスカ、舵手にコスミン・イフリム。オーケストラはダーヴィト・アフカム指揮NHK交響楽団。コンサートマスターにライナー・キュッヒル。「さまよえるオランダ人」は休憩を入れるのか入れないのかが気になるところだが、第1幕の後に30分の休憩を入れ、第2幕と第3幕は続けて上演するという安心仕様。休憩歓迎。
●「さまよえるオランダ人」、後のワーグナー作品に比べるとプロットにどうしても弱さを感じてしまうのだが、今回は歌手陣の声の力ですべてを解決してしまったという感。ターフェル、メルベート、ザイフェルトの三人の競演は迫力満点。ターフェルのオランダ人、声が澄明で重苦しくならないのが吉。このオランダ人は意外と快適にさまよっていて、7年に1度の上陸イベントを楽しみにしているのかも。ザイフェルトは東フィル「フィデリオ」のときと同様、声量が豊かで存在感抜群。舞台上演だったらエリックのような未熟な若者役にザイフェルトはないと思うが、演奏会形式ならありうる。オースボーは急な代役にもかかわらず達者で、どこからどう見てもダーラント。ときどきオーケストラからキュッヒルの音が浮かび上がって聞こえてくる。アフカムは慎重。オーケストラは後半からぐっと調子が上がった。
●財産を持った初対面の男から「娘を嫁にくれ」と言われて、父はその場で承諾し、帰宅したら娘にすぐに男と結婚するようにと伝え、娘は喜ぶ。なんだそりゃ。そんなむちゃくちゃな話なのに、最後には身震いするような感動が訪れるというワーグナー・マジック。客席は沸きに沸いた。
●途中でザイフェルトのメガネがポーンと吹っ飛ぶアクシデントがあったけど、即座にメルベートがナイスキャッチ。華麗なファインプレイを目撃した。
●このシリーズ、スクリーンに映し出された映像がいつもさんざんな言われようなのだが、今回はこれまででいちばんよかったと思う。CGは進化してきているといっても、世間もギュンギュンと進化しているので、その点で目を見張るものはないにせよ、ドラマを味わう手助けとしてきちんと機能している。これがないと閉じた雰囲気の演奏会形式になってしまうので、自分は楽しみにしているし、まだまだ進化するはず。
桜は満開、ソメイヨシノ、コマツオトメ、ヨウコウ
●東京の桜は満開に。どこに行っても桜の花が咲き誇っている。よく知られているようにソメイヨシノはすべてクローンなので、どの個体も気候条件が同じなら同じように咲く。桜による季節感は人為的にもたらされたものであると思うと感慨深い。人口交配技術が生み出したポエジー。どれも遺伝子的には同一個体の種が繁殖している状況は、動物にたとえるとかなり不気味のような気もする。ソメイヨシノ同士では自然交配はできないんだとか。つまりヒトがいなくなればソメイヨシノもいずれは消える。
●ソメイヨシノの花の色は、白である。でもサクラ色というともっとピンクっぽい、淡い紅色を指すと思う。桜といえば圧倒的にソメイヨシノなのに、どうしてそうなったのか。ソメイヨシノが全国津々浦々に広がるよりも前に、「サクラ色」という概念が誕生したのだろうか? 実際、ソメイヨシノ以外の桜はピンクっぽい花が好まれていると思う。
●たとえば、このコマツオトメ。上野公園の入り口にある。東京・春・音楽祭の季節になると、ミュージアムコンサートなどのついでに立ち寄って眺めることができる。ソメイヨシノよりもだいぶ早く咲く。
●もっとピンクっぽいのはこちらのヨウコウ(陽光)。六本木のテレビ朝日前にある毛利庭園で咲いているもの。かなり派手。桜といっても、ソメイヨシノとはずいぶん雰囲気が違ってて、学校の入学式なんかには似合わないタイプ。
J1リーグ第5節 マリノスvsサガン鳥栖、そしてコパ・アメリカのニッポン代表は?
●先週末のマリノスvsサガン鳥栖は0対0のドロー。内容的には決して悪くなく、ポステコグルー監督の狙い通りに65%のボール支配率で、決定機の山を築いたが、20本シュートを打ってスコアはゼロ。勝点3を獲るべき試合だった。ポステコグルー監督はついにキーパーの飯倉をベンチに置き、J3の琉球から獲得した朴一圭を起用。でも、やっぱり飯倉と同じように足でパスをつなごうとしてピンチを招いていたような気が。先発は右サイドバックに松原健が復帰して今季初先発。一方、左サイドバックは本来右の広瀬陸斗。高野遼はケガ、ティーラトンはタイ代表の試合があったためかベンチ。
●ところで、6月のコパ・アメリカ(南米選手権)に参加するニッポン代表のメンバーをどうするかという問題があって、一部報道では大学生の起用もあるんじゃないかという話まで出ていた。欧州組は所属クラブが出してくれない(シーズンオフなので選手を休ませたい)、Jリーグはシーズン中だから選手を出せない。つまりシーズンオフでもシーズン中でも出せない。笑。招待参加だから公式戦扱いにはならないということらしい。話の落としどころとしては、Jリーグは各クラブ1名まで選手を出す、みたいなルールを定めるか。欧州組でも出場機会を失っている選手は呼べそうな気もする。きっと柴崎岳は大丈夫。レスターを退団するっぽい岡崎慎司の復帰もあるかも。あと、ニュルンベルクの久保裕也とか、ポルティモネンセの権田修一はどうなのか。Aリーグが終わっているとすると、ひょっとして本田圭佑の復帰とか? ベルギーのシント=トロイデンは日本企業の傘下にあるので、所属選手を出してくれないものか。冨安健洋、鎌田大地、遠藤航、代表歴がなくてもよければ関根貴大、木下康介もいる。それから、ロシアに行った西村拓真は呼べないのだろうか……。とか、やっていると、寄せ鍋ジャパンというかごった煮ジャパンみたいなチームができそう。奇跡の三浦カズのカムバックとか(さすがにない)。
「緋色の研究」新訳版 シャーロック・ホームズ
●先日の「シャーロック・ホームズの冒険」に続いて、そのままシャーロック・ホームズ・シリーズを新訳で読んでいる。もともとはアンソニー・ホロヴィッツが書いた続編「シャーロック・ホームズ 絹の家」に感心したことがきっかけなのだが、コナン・ドイルの原典を読んでみると、これが物語として古びていないことに驚かされるばかり。19世紀末に書かれた話を、21世紀の日本語訳で読んで違和感がない。もちろん、それは翻訳がいいからでもある。そして、19世紀末のロンドンになにがあって、なにがなかったのかがわかる。移動手段は短距離なら馬車、長距離なら鉄道。馬車はほとんどタクシーの感覚。急ぎの要件は電報で伝えるのが一般的。他人を訪ねるときは、まず電報で何時に行くと伝えてから出向く。人を使う「メッセンジャー」を利用する場合もある。これはバイク便感覚か。ピストルはある。コカインもアヘンもある。ホームズはコカインの愛用者だ。そしてホームズはヴァイオリンを弾く。楽器はストラディヴァリウス。当時の価格はどれくらいだったのだろう。
●さて、新訳にもずいぶんたくさんの種類が出ているのだが、角川文庫の駒月雅子/石田文子訳と光文社文庫の日暮雅通訳の両方から気の向くままに選んで読み進めている。どちらも訳はなめらか。角川文庫は表紙のイラストも魅力。今風で、デザインも良好。光文社文庫は訳者の注釈が秀逸で、多くを学べる。Kindleで読むと本文と訳注の往復が苦にならないのが紙にはない利点。惜しいのは表紙デザインでKindle Paperwhiteのサムネイルだと題名が読みづらい。
●長篇「緋色の研究」を読んで特にそう思ったが、コナン・ドイルってトリックだとかミステリーの仕掛けのおもしろさ以上に、冒険譚の語り口が抜群にうまい。同じ事件を前半はホームズとワトソンの物語として、後半は犯人側の物語として書いているのだが、後半のほうが生き生きとしている。この「緋色の研究」にはホームズとワトソンが初めて対面する場面が出てくるのだが、その部分を2種類の訳で比べてみよう。
「初めまして」ホームズは誠意のこもった口調で言い、外見に似合わぬ強い力で私の手を握りしめた。「アフガニスタンに行っていましたね」
「えっ、どうしてそれを?」私は唖然とした。
「たいしたことじゃありません」ホームズはくすくす笑いながら言った。「それよりもヘモグロビンだ。この発見がいかに重大かは説明するまでもないでしょう?」
「初めまして」ホームズは温かくわたしの手を握ったが、思いがけない力の強さだった。「あなた、アフガニスタンに行っていましたね?」
「えっ、どうしてそれが?」わたしはぎょっとした。
「いや、なんでもありません」ホームズはひとりでくすくす笑っている。「それより、大事なのはヘモグロビンの問題です。この発見がとても重要なことはもちろんおわかりですよね?」
●大事なシーンだと思って選んでみたけど、どちらもホームズは「くすくす笑って」いた。
ユベール・スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢
●28日はサントリーホールでユベール・スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢。モーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲とピアノ協奏曲第9番「ジュノム」(リーズ・ドゥ・ラ・サール)、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」というウィーン古典派プログラム。東響の音楽監督時代にたくさん古典派プログラムを聴かせてくれたスダーンだけど、現在はOEKの首席客演指揮者を務めていて、このコンビを聴くのは2回目。最初の「皇帝ティートの慈悲」序曲がいちばんピリオド・スタイルを感じさせる演奏だった。バロック・ティンパニ使用。モーツァルトは久々に聴くドゥ・ラ・サール。意欲的なソロだが、もう少し控えめな残響で間近で聴きたいモーツァルト。アンコールにドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。ベートーヴェンは弦楽器たぶん8型、コントラバス3。室内オーケストラにとってサントリーホールは広大な空間だが、サイズよりも機敏さ、小気味よさを重んじるあたりがこのアンサンブルの矜持。それでいて音楽の骨格は重厚で、OEKとスダーンの間の化学反応は良好。集中度の高い緊迫した音のドラマが生まれていた。冴え冴えとしたフルートのソロ。終楽章でクラリネット2本に思い切りベルアップさせていたのは効果的。スポンサー筋が多めの客席だが、客席の反応も上々では。
●OEK、最初は岩城宏之さんのオーケストラ、次は井上道義さんのオーケストラだったけど、今はマルク・ミンコフスキが芸術監督で、スダーンが首席客演指揮者、川瀬賢太郎が常任客演指揮者、田中祐子が指揮者と、いろんな人で役割分担している感。媒体側は首席客演指揮者と常任客演指揮者を混同しないように注意しなくては。
新元号は「㋿」
●さて、今日はいよいよ平成に続く新元号が発表されるそうなのだが、よりによって4月1日、エイプリルフールと重なってしまった。すでに新元号がらみのネタはさんざん目にしているところに、さらにジョークが続くのであろうか。もう新元号が「タピオカ」であっても「ヴィオラ」であっても驚かない。これまでと違って、事前に改元が予定されていたことと、SNSが発達したことで、すでにあらゆる候補は出尽くしている。どんな元号であっても、「ほら、ずばり予想的中したよっ!」っいう人が出てくるのは必至。ワタシが目にしたなかでは、「常用漢字2文字の全組み合わせ約228万通りをすべて記載したテキストファイルを作成した」という人がいて、これはかなりの確度で新元号を含んでいると思う。
●ポストモダン時代にふさわしい元号があるとすると「メタ元号」か。たとえば、新元号は「改元」。改元元年、改元二年、改元三年……とか。明治、大正、昭和、平成、改元。ほら、違和感ないし。
●ひとつだけ新元号について先に決定しているのは、ユニコードの U+32FF に合字の新元号が入るということ。合字というのは㍾、㍽、㍼、㍻という、半角カタカナ並のアクロバティックな文字だ。なので、とりえずここで見出しに新元号は「㋿」(U+32FF) と入れておくと、今日のところは豆腐になっているだろうが、いずれはちゃんと新元号に置き換わるはず。
㍾ → ㍽ → ㍼ → ㍻ → ㋿ (新元号NOW!)