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October 2, 2019

新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」

新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」●1日は新国立劇場でチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」新制作(劇場表記は「エウゲニ・オネーギン」)。シーズン開幕公演であり、大野和士芸術監督が力を入れるロシア・オペラ・シリーズ第1弾となる公演。演出はモスクワ・ヘリコン・オペラの芸術監督ドミトリー・ベルトマンで、新国立劇場初登場。指揮はウクライナ出身のアンドリー・ユルケヴィチで、こちらも初登場。タチヤーナにエフゲニア・ムラーヴェワ、オネーギンにワシリー・ラデューク、レンスキーにパーヴェル・コルガーティン、オリガに鳥木弥生、グレーミン公爵にアレクセイ・ティホミーロフ。ピットに入るのは東京フィル。文化庁芸術祭オープニング公演。秋篠宮夫妻がご臨席。
●音楽面は充実。第1幕、ムラーヴェワのみずみずしい歌唱は純朴なタチヤーナにぴったり。貴婦人然とした第3幕との対照も見事。コルガーティンのレンスキーは甘美な声でイケメン度高し。脇役ながらティホミーロフのグレーミン公爵がすごく利いている。声量豊かで、格調高い。ユルケヴィチ指揮のオーケストラは、抒情性という点で出色。煽らず、熱くも甘くもないのだが、ていねいで、しなやかで清潔感のあるサウンドを引き出していた。有名なポロネーズの場面で、快速テンポでサクサク粘らず進めるのにも好感。厚塗りではない、素顔のチャイコフスキー。
●演出のベルトマンにとって9回目となる「エフゲニー・オネーギン」は、「スタニスラフスキーの偉大なプロダクションを主軸として発展させた」というもので、名作に正面から取り組んだ演出。大胆な読み替えや衝撃的な解釈などで目を引くものではなく、演劇的な視点から登場人物の心理を丹念に描写した舞台ということになるのだろうか。とはいえ、いろんな点で演技の過剰さは感じるかな。第3幕、タチヤーナが脱ぎ捨てた赤いドレスに、オネーギンが顔をうずめてクンクンしている変態感とか、少し笑いそうになったのだが、みんな平気だったんだろうか。目を引いたのはオリガの人物像。かなりトリッキーで、片時もじっとしていられない不思議女子。どうしてこんなめんどくさそうなガキにイケメンのレンスキーがぞっこんなのか謎、と言いたいところだが、世の中は往々にしてそういうものかも。全般に演技の真摯さはギャグと交換可能であり、一方で明示的なユーモアは笑えない。舞台には絵画的な美しさあり。ちなみに休憩は1回で、第2幕の第1場の後に入る。
●名作オペラに登場する惨めな男ナンバーワンがオネーギン。ぶっちぎりでナンバーワン。しかもレンスキーもけっこう情けない男で、ささいなことで嫉妬して命を落とす。ともになに不自由なくぬくぬくと育った男が、愚かさによって罰を受けるという話が「エフゲニー・オネーギン」。大抵のオペラと違ってヒロインは賢く、男はバカばかり。そこにこのオペラの真実味があるんだろう。で、演出家の意図とは違うかもしれないのだが「オペラは見たままに理解する」キャンペーン絶賛開催中の自分としては、オネーギンとレンスキーの力関係についても思い至るところがあった。このプロダクションに関していえば(原作上の設定は差し置いて)、どう見てもレンスキーのほうがモテそう。オネーギンは財産はあっても、レンスキーより野暮ったくて、オッサン感のある若者。口ではニヒルを気どっているが、実はホントはぜんぜんモテない男で、レンスキーに嫉妬していたから決闘で引き金をひくことができたんじゃないだろうか。せっかく世間知らずのタチヤーナにラブレターをもらったのに、大人の男を気どってカッコをつけてしまったばかりに、神様がくれたワンチャンスを逃すことに。外国を旅していたとか言って公爵家にあらわれたけど、本当は自宅に引きこもっていたのでは……と妄想をたくましくしてみる。
●演出のベルトマンはインタビューで、タチヤーナのモデルはチャイコフスキーの結婚相手だったアントニーナ・ミリューコヴァだと断言している。当時チャイコフスキーはウラジーミル・シロフスキーという若い金持ちと付き合っていたが、シロフスキーとの関係を清算しようと思って、アントニーナと結婚を決めた(よく知られているようにこの結婚は短期間で破綻する)、しかしチャイコフスキーとシロフスキーの別れ話はもつれて大げんかになり、シロフスキーは当てつけでチャイコフスキーよりも先に女性と結婚してしまったという。チャイコフスキーがなぜ女性と結婚してしまったのか、資料によっていろんなふうに記述されてはいるが、結局のところ、彼の心の中までは想像でしか語れない。人間、手紙にだって、いつでも本心をさらけ出すものではないし、そもそも本心というものはひとつではないだろうから。