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October 28, 2019

アガサ・クリスティ「春にして君を離れ」

●少し前にAERA dotの連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」で、アガサ・クリスティの「春にして君を離れ」(ハヤカワ文庫)に触れられていた。これをきっかけに本がどっと売れたらしい。自分もつられて読んでしまったわけだが……なにこれ! おもしろい。ミステリではなく、まったくの普通小説。同じオリエント急行を舞台とした小説でも、殺人事件のほうとは違って、今日的な話なんである。
●主人公は裕福な女性で、理想の家庭を築きあげたことに満足している。娘の見舞いでバクダッドを訪れ、イギリスに帰る途中で友人にばったり出会ったことをきっかけに、身の回りの人々についてあれこれと思いを巡らせる。文体は三人称だが、ほとんどの場面が主人公視点で書かれている。夫、子供たち、友人について、ああいうところがよくない、考えが足りないと、ずいぶん手厳しい。みんな困った人たちばかり、でも自分はしっかり者。おかげで万事うまくいっている。だから、みんなから尊敬され、愛されている……。
●が、読み進めるうちに、どうやら主人公の現実解釈はひどく歪んだものではないかという疑いがわいてくる。つまり、一種の叙述トリックみたいな手法なんである。ひょっとして、この人はなんでも自分に都合よく解釈しているばかりで、むしろ周囲の人たちのほうこそ、思いやりがあり、賢いのではないか……。あー、いるいる、こういう人。
●クリスティの人間観察は鋭く、辛辣であるがゆえに痛快だ。でも、この話、最後はどうやって着地させるんだろう。このままだと最後は嫌なオバサンの話で終わってしまうのでは。しかし、クリスティが用意した結末は「これしかない」という納得のゆくもの。最後まで読むと、また一段と感心する。人を嘲笑うだけの話になっていないし、主人公に共感すら覚える。秀逸。