November 11, 2020

ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルのプロコフィエフ&チャイコフスキー

●ニッポン代表がオーストリアで合宿をしている今、オーストリアからはウィーン・フィルが来日している。ニッポン代表の選手たちは全員が欧州在住だが、ウィーン・フィルは正真正銘の来日公演。先日の「ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン 2020」オンライン記者会見でも述べられていたように、メンバーは来日前から継続的になんどもPCR検査を受け、チャーター機で来日し、バスや新幹線の車両を貸し切って移動、日本入国後もホテルと会場を往復するのみで、外食もしないし人とも会わないという「一種の隔離状態」を全員が受け入れている。ウイルス禍以降、ずっとオーケストラの来日は不可能だったわけだが、日墺両政府のバックアップを受けてウルトラCでの来日が叶った。ウィーン・フィルはウィーン・フィルにしかできないことを行っている。
●で、今回はゲルギエフが指揮ということで、ロシア音楽がプログラムの柱。プロコフィエフ&チャイコフスキー・プロを聴いた。プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの4曲、同じくプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番(デニス・マツーエフ)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。ステージ上にはウイルス禍以前と同様にぎっしり楽員たちが並ぶ。マスクを着用して入場し、演奏時は外す。コンサートマスターはシュトイデ、その隣にダナイローヴァ。ゲルギエフの指揮棒はお団子用の竹串みたいなもの。こうして本来の姿のウィーン・フィルを日本で聴いていることに、タイムスリップしたかのような錯覚すら感じる。豊麗で絢爛たるウィーン・フィルの響きは健在。
●驚いたのはマツーエフ。曲がプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番ということで、強靭な打鍵で暴れまくるのかと思いきや、パワー一辺倒ではぜんぜんなく、むしろ軽快なほど。結果として、作品の荒々しさや執拗さに向こうにある、清冽なリリシズムが伝わってくる。それにしても、この曲をこんなに軽々と弾いてしまうとは。
●ゲルギエフとウィーン・フィルの「悲愴」は以前にも聴いた。プログラムノートで確かめたら2004年。けっこう昔だから記憶などまったくあてにならないが、凄絶な名演だったという印象が残っている。が、今回の「悲愴」は別の味わい。喜びや悲しみの感情表現の幅を極大にするようなアプローチではなく、エネルギーはあっても咆哮せず、一瞬一瞬の美に浸るかのよう。第1楽章のおしまいに、これほど明白なノスタルジーを感じたことがあるだろうか。第2楽章以降は楽章間で棒を下ろさず、一瞬の間で次の楽章へと進み、一貫性のあるストーリーを作り出す。第3楽章の音量的なクライマックスにあってもゲルギエフの上半身は脱力して煽らず。行進曲よりもスケルツォの性格を強く感じる。あくまでクライマックスは終楽章で、ゲルギエフの身体は大きくしなり、音楽の流れは伸縮自在。悲劇的な結末を受け入れるのではなく、運命に抗い、もがきながら、これを制圧するといった物語性を読みとる。現在の特殊な状況下ゆえか、感じられるのは慈しみ、そして運命の超克。沈黙と喝采の後、まさかのアンコールへ。「悲愴」の後に演奏できる曲があるとは。曲はチャイコフスキーの「眠りの森の美女」より「パノラマ」。遅いテンポで淡々と演奏され、舞踊性はきわめて希薄、寂寞としてどこか現実離れした儚い音楽として響く。退出時、楽員たちはふたたびマスクを着用。現実が帰ってきた。拍手は鳴りやまず、ゲルギエフのソロ・カーテンコールとスタンディングオベーション。

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