April 9, 2021

新国立劇場 ストラヴィンスキー「夜鳴きうぐいす」&チャイコフスキー「イオランタ」

●8日は新国立劇場でストラヴィンスキー「夜鳴きうぐいす」&チャイコフスキー「イオランタ」。新制作。ロシア・オペラの2本立てを観る貴重な機会で、本当にありがたい。前者の原作はアンデルセンの童話、後者はヘンリク・ヘルツの「ルネ王の娘」で、ともにデンマークの同時代の作家が書いた作品なので、裏デンマーク・プロでもある。ヤニス・コッコスの演出、高関健指揮東京フィル。「夜鳴きうぐいす」の題名役、三宅理恵がこの日の一番人気か。まさしくうぐいすのさえずりを思わせる声の清らかさと輝かしさ。「イオランタ」は題名役が大隅智佳子、ルネ王に妻屋秀和、ヴォデモンに内山信吾。
●演出面でも音楽面でもストラヴィンスキー「夜鳴きうぐいす」のほうがおもしろいのだが(上記映像のカラフルでポップでキッチュな舞台を見ればワクワクするはず)、作品としてより語りたくなる要素が多いのは断然チャイコフスキー「イオランタ」。物語の入り口が並外れて力強い。ルネ王の娘イオランタは盲目に生まれたが、王は本人がそう悟らないように、外界から隔絶された環境で娘を育て、従者たちにイオランタが決して「視覚」について知ることがないように配慮させる。イオランタは目とは涙を流すための器官だと理解しており、世界を匂いや音や手触りで認識している。王は娘を愛するあまり、娘が不幸な境遇に生まれたことを察知させたくないのだ。この胸が苦しくなるような設定。なんという物語だろう。観る人は、王の愛の形は大きな過ちであり、その先に悲劇を予感するはず。
●しかし、この物語はハッピーエンドに着地するのだ。名医が「イオランタは自ら見ることを切望しない限り、治癒しない」と診断する。イオランタに求愛する騎士があらわれ、騎士はイオランタに光について教えてしまう。騎士は王から死刑を宣告されるが、イオランタは騎士を救いたい一心で治療を受けて、目が見えるようになる。物語のはじまりは予感に満ちているのに、その後はかなり平坦かつ直線的な話で、現代的価値観からすると結末に形だけでも医学的説明を付けてほしくなる。しかしそこを音楽の力で問答無用で解決してしまうのがチャイコフスキー。幕切れの音楽はほとんど交響曲第5番終楽章のコーダ並みの潔さで、高らかな賛歌で終わる。思い切ったな、チャイコフスキー。そんなパワフルさ。
●で、イオランタが光を取り戻すというストーリーは、大きく解釈すれば啓蒙の精神ということになるが、小さく見れば、娘が親もとから巣立つという話でもある。鳥籠で保護されているような娘が、他者に出会ったことから、大きな世界へと羽ばたいてゆく。つまり「くるみ割り人形」と同じようなテーマを扱っている。実際、「イオランタ」は「くるみ割り人形」とオペラ&バレエの2本立てで上演されるために書かれた作品なので、もともと「巣立ち」という共通性のあるテーマが選ばれていたわけだ。ただ、音楽の作り方はまったく違っていて、「くるみ割り人形」が場面場面ごとに完結したキャッチーな名曲の宝庫であるのに対して、「イオランタ」はドラマがなるべく途切れず一貫した流れを生み出すように書かれていて、なんというか、「高尚」だ。
●新国立劇場のサイトにある「アンデルセンとヘルツ、『即興詩人』と『イオランタ』について」に書かれているように(必読)、「夜鳴きうぐいす」の原作者アンデルセンと「イオランタ」の原作者ヘルツは旅先のナポリで出会って、一緒にイタリアを旅行している。そして旅先で盲目のロマの少女に会う。で、ふたりとも盲目の少女が光を取り戻すというストーリーを自作に取り入れていて、アンデルセンは1835年に「即興詩人」、ヘルツは1845年に「ルネ王の娘」を書いた。「即興詩人」には森鷗外以来いくつか日本語訳があるが、「ルネ王の娘」にはない。しばしばチャイコフスキーの「イオランタ」が誤ってアンデルセン原作と記述されるのは、そういった背景があってのことなのだろう。

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