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August 24, 2021

フォークナー「響きと怒り」(平石貴樹、新納卓也訳/岩波文庫)

●夏休み読書感想文……というわけではないのだが、夏になると普段は手にしないガッツリした古典を読みたくなる。というわけで、ずっと手が出なかったフォークナー「響きと怒り」(平石貴樹、新納卓也訳/岩波文庫)を読む。これまで「サンクチュアリ」「アブサロム、アブサロム!」「八月の光」と読んできたが、どうしても「響きと怒り」は読みづらいという先入観から敬遠していた。いや、実際、読みづらいのだが、しかしこの岩波文庫版の親切さと来たら! 詳細な訳注のみならず、各章の主要出来事年表、各章の場面転換表、コンプソン家の見取り図などが付いており、すこぶるありがたい。ていうか、これがなかったらわからないことだらけだったはず。最初、クェンティンっていう主要登場人物のひとりが男性だと思っていたら、途中で女性みたいな記述が出てきて混乱したのだが、訳注を見たら「この作品にはキャディの兄とキャディの娘のふたりのクェンティンが登場する」って書いてあって、これは男性にも女性にも使われる名前なのかよっ!と頭をのけぞらせたのであった(生まれる前から男の子であれ女の子であれ、この名前を付けようと決めていたという話だと後からわかる)。
●1920年代の一時期に焦点を当てながら、アメリカ南部の名家の没落が3人の兄弟の視点から描かれる。最初の第1章では、重い知的障害を持ったベンジーの意識の流れが綴られており、現実の出来事がわかりづらく、ひんぱんに記憶が過去に遡ったり戻ってきたりする(訳注等に助けてもらえるのだが)。第2章になるとインテリの兄のクェンティンの視点に変わって、一気に物事がすっきり見通せると思いきや、この兄がやたらと観念的な悲観主義者で、だんだん現実を語っているのか妄想を語っているのか怪しくなってくる。第1章、第2章ともに共感困難な人物が出てきて鬱展開が続くと思ったら、第3章に真の鬱が待っている。この章の主人公である弟ジェイソンは唯一わかりやすい凡人なのだが、その邪な人物像が読んでいて辛すぎる。最後の第4章は三人称の視点から描かれ、黒人召使のある種の気高さに救われ、宗教的高揚感に圧倒されるも、もはや一家の崩壊は避けられない。つまり、ずっと鬱々としながら読んでいた。南部の抑圧的な空気と出口のない閉塞感、血筋という呪い、身分制度のなかで居場所を定められる黒人たち。暗鬱な土臭さが横溢する物語世界の一方で、叙述のスタイルは緻密に組み立てられたパズルのようで、両者のコントラストが圧倒的な力強さをもたらしている。第1章の前日が第3章、翌日が第4章、そして第2章は18年も昔の日付になっている。第4章まで読んだ後で、もう一度第1章を読み直したくなる。
●「響きと怒り」という題はシェイクスピアの「マクベス」に由来するのだそう。なんとなく文字面からプロテスト・ソング的ななにかを連想していたが、ぜんぜん違っていて、マクベスの「白痴のしゃべることなど、わめきたてる響きと怒りはすさまじいが、なんにも意味はありゃしない」というセリフを引いてきている。つまり、ベンジーのことを指している。シェイクスピアに由来する表現は本文中にも出てきて、第3章でジェイソンはこんなことを言う。

俺は一人前の男なんだし、我慢だってできるんだ、面倒を見てるのは自分の血を分けた肉親なんだし、俺がつきあう女に無礼な口をきく男がいたら、どうせ妬んで言ってることは目の色を見りゃあわかるのさ

訳注で知ったのだが、これは「ヴェニスの商人」が出典で、嫉妬する者は緑色の目をしているのだという。
●「緑色の目」は「オセロ」でも言及される。イアーゴはオセロに向かって、「嫉妬にご用心なさいませ。嫉妬とは緑色の目をした怪物であり、人の心を弄んで餌食にするのです」と警告する。さて、ヴェルディのオペラ「オテロ」には緑色の目をした怪物は登場するのだろうかと思ったが、記憶にない。ともあれ、これは17世紀から伝わるライフハックとして活用できそうだ。嫉妬心は目の色にあらわれる。